ヒロ九クエスト第70話 梨乃、なぜか那覇にいた ――公設市場裏通り、沖縄料理屋でヒロ九決起集会
那覇港に上陸したヒロ九一行は、熊本ナンバーのヒロ九ラッピングバスで那覇市内へ入った。
長いフェリー旅を終えたばかりのヒロインたちは、さすがに少し疲れていた。
だが、沖縄の空気は違う。
湿った風。
夜の街に漂う南国の匂い。
港から市街地へ向かう道の先に、これから始まる沖縄遠征の気配があった。
ただし、その中でもヒロ九ラッピングバスは遠慮なく目立っていた。
派手な車体。
熊本ナンバー。
昭和の観光バスのような存在感。
そして、エンジンをかけるたびに少しだけ上がる黒煙。
西里香澄は、もはや条件反射のように胸を張る。
「国の排ガス基準は一応クリアしとりますばい!」
有村ひなた副支配人が即座に言う。
「沖縄でも“一応”を言うのですね」
金城伊織は窓の外を見ながら笑った。
「那覇でも目立つさー。このバス、絶対すぐ覚えられるわけ」
一行はまず、那覇市内のホテルへチェックインした。
荷物を置き、長い船旅の疲れを軽く整えたあと、夜の国際通り方面へ向かう。
目的地は、公設市場の裏通りにある小さな沖縄料理屋だった。
そこは、ひなたが百貨店勤務時代に世話になった元上司の男性が営む店である。
大きな観光店ではない。
創作沖縄料理居酒屋と食堂の中間のような、肩の力を抜いて入れる店だった。
木のカウンター。
手書きのメニュー。
壁に飾られた沖縄の古い写真。
泡盛の瓶。
観光客もふらっと入れるが、地元の人も自然に座っている。
店主の理想は、内地の人とうちなーの人が気軽に話せる場所を作ることだった。
店主は福岡県出身。
もともとは百貨店勤務で、ひなたの上司だった人物である。
沖縄出身の奥さんと結婚し、いつか飲食店を開きたいという夢を持つようになった。脱サラ後、複数の飲食店で修行し、那覇で独立した。
この日はワンオペに近く、店主はかなり忙しそうに動き回っていた。
それでも接客は丁寧で、声は明るい。元デパートマンらしいきめ細かさと、九州男児らしい大らかさが同居している。
ヒロ九の面々が店へ入ると、店主はぱっと顔を上げた。
「おお、ひなた! 久しぶりやねえ! 相変わらず飲みよるとか? ……って、えっ、もう飲んどうと!? 仕方なかねえ!」
博多弁の明るい声が店に響く。
ひなたは少し姿勢を正した。
「ご無沙汰しております。今回は職務上、沖縄遠征の決起集会です」
店主は笑う。
「職務上って顔しながら、もう泡盛の棚ば見よるやん。変わらんねえ」
伊織が横から言う。
「ひなたさん、那覇でも飲む気満々さー」
古賀菜々子支配人は頭を抱えた。
「鹿児島からずっと飲みっぱなしたい……」
その時だった。
奥の席から、のんびりした声がした。
「みんな遅いだら〜。うち、ずーっと待っとっただで〜」
全員が固まった。
山根梨乃だった。
第59話で「沖縄にはパスポートが必要」と勘違いし、鳥取で証明写真を撮り直していたはずの梨乃が、なぜか那覇の沖縄料理屋で、ゴーヤチャンプルーを食べていた。
梨乃は口いっぱいにゴーヤを頬張りながら、尻尾を振る大型犬のようににこにこ手を振る。
「やっと来ただで〜。うち、ちゃんと待っとっただが〜」
江波のどかが目を細める。
「いや、遅いのはこっちじゃなくて、説明じゃろ」
南部沙羅も呆れた顔で言う。
「あなた、どうやって那覇まで来たの?」
梨乃は首をかしげた。
「飛行機乗ったら着いたで?」
ひなたが真顔で言う。
「最短ルートです」
菜々子は深く息を吐いた。
叱っても、たぶん効果はない。
梨乃は、怒られていることを理解する前に、相手が自分に話しかけてくれたことを喜ぶタイプである。
大型犬でいうなら、まさに頭の弱いラブラドールレトリバーだった。
「梨乃ちゃん、一人で那覇まで来られて良かったたい」
菜々子は方針を切り替えた。
梨乃の顔がぱっと明るくなる。
「えへへ、褒められただで! うち、ちゃんと来れただで!」
のどかが小声で言う。
「褒めるしか制御方法がないんじゃね」
水無瀬澪が眠そうに呟く。
「ラブラドール方式」
沙羅が頷く。
「しっくり来るわね」
その梨乃は、すぐに初めて見る宇佐美千鶴に気づいた。
「あれ? 初めましての人、いるだで」
千鶴は少し緊張しながら立ち上がる。
「宇佐美千鶴です。沖縄遠征限定で参加することになりました。よろしくお願いします」
千鶴は二十二歳。
梨乃より年上で、看護を学ぶしっかり者の補強選手である。
本来なら、梨乃の方が少し遠慮してもよさそうな場面だった。
しかし、梨乃に遠慮という概念はほとんどなかった。
梨乃は警戒心ゼロで千鶴へ近づく。
まるで初対面の人にも全力で尻尾を振るラブラドールレトリバーである。
「千鶴ちゃんだら? うち梨乃だで。よろしくねえ。千鶴ちゃん、きれいな人だなあ。ゴーヤ食べる?」
千鶴は思わず笑った。
「ありがとうございます。でも、それ梨乃さんのお皿ですよね?」
梨乃はきょとんとする。
「分けたら仲良しだで」
千鶴は少し感心したように言う。
「梨乃さん、すごく人懐っこいですね」
沙羅が肩をすくめる。
「そこだけは本当に才能なのよ」
澪が眠そうに付け加える。
「初対面突破力」
のどかが笑う。
「警戒心ゼロじゃね」
梨乃はもう完全に千鶴に懐いていた。
千鶴の隣に座ろうとし、メニューを見せ、ゴーヤを分けようとし、さらに言う。
「千鶴ちゃん、補強選手ってなに? 強そうだで。うちも補強できるだか?」
ひなたがほろ酔いのまま言った。
「梨乃さんは補強というより、予測不能要素です」
菜々子が慌てる。
「ひなたちゃん、それは言わんでよか!」
梨乃は意味が分かっていない。
「うち、予測不能だで? なんか強そうだなあ」
沙羅が小声で言う。
「本当に意味が分かってないわね」
澪が頷く。
「褒め言葉として受信した」
テーブルには、沖縄料理が次々と並んだ。
ゴーヤチャンプルー、ラフテー、海ぶどう、もずく天ぷら、島豆腐、ソーキそば、島らっきょう、ジーマーミ豆腐。
香澄が感激する。
「沖縄料理、よか香りですばい!」
伊織は少し誇らしげに言う。
「みんな、これが沖縄の夜さー。食べて、話して、ゆっくり馴染むわけ」
菜々子が乾杯の音頭を取る。
「鹿児島から海を渡って、ついに沖縄に来たたい。ここからが本番。みんな、体調に気をつけて、楽しく、しっかりやっていこうね」
全員で乾杯した。
ひなたと伊織は、当然のように泡盛へ手を伸ばす。
菜々子が睨む。
「ひなたちゃん、伊織ちゃん」
伊織は笑顔で答える。
「泡盛は沖縄文化の勉強さー」
ひなたも真顔で続ける。
「現地文化理解の一環です」
千鶴がすかさず水を置いた。
「文化理解にも水分補給は必要です」
しかし二人は泡盛を水代わりに飲む。
ひなたは頬を赤くしながら理屈っぽくなり、伊織は何杯飲んでもまったく変わらない。
沙羅が呆れる。
「伊織、本当に酔わないわね」
澪が眠そうに言う。
「ヒロ九七不思議、継続」
千鶴は看護学生として伊織を観察するが、結論が出ない。
「体質なんでしょうか……」
伊織は平然と泡盛を置き、沖縄での注意事項を話し始めた。
酔っているはずなのに、話は非常に理知的で分かりやすい。
「まず、沖縄は時間の流れがゆっくりに感じることがあるけど、イベント運営では集合時間を守るさー。そこは“うちなータイム”に甘えたらダメ」
全員が梨乃を見る。
梨乃はゴーヤを食べながら首をかしげる。
「うち、見られとる?」
伊織は続ける。
「次に、市場やお店ではちゃんと挨拶。写真を撮る時は一言聞く。地元の文化を“珍しいもの”として消費するんじゃなくて、敬意を持って触れること。これは本当に大事さー」
千鶴が頷く。
「地域振興にも通じますね」
香澄も真面目な顔になる。
「地元の人に失礼のなかようにせんといかんですばい」
伊織はさらに説明する。
「あと、暑さと湿気。水分補給、帽子、休憩。沖縄は楽しいけど、テンションだけで動くと体調を崩すわけ。特にヒロ九は、気づいたら誰かが走ってるから注意さー」
菜々子が小声で言う。
「だいたい全員たい」
凪も頷いた。
「運営上、非常に有益な注意事項です」
ひなたも泡盛片手に真面目な顔で言う。
「伊織さんの説明は、現地理解と安全管理の両面で有用です」
沙羅が突っ込む。
「泡盛を持ちながら言うと、説得力が半分になるわ」
その時、店主が一人で忙しそうに動いているのが見えた。
料理を作り、注文を取り、飲み物を出し、会計までこなす。
元デパートマンらしく接客は丁寧だが、明らかに手が足りない。
それを見たひなたの目が変わった。
百貨店勤務時代のスイッチが入ったのである。
ひなたは勝手に立ち上がり、空いた皿を下げ始めた。
菜々子が驚く。
「ひなたちゃん?」
店主が笑う。
「おっ、昔の売場主任モードに戻ったねえ」
ひなたはきびきび動く。
「二名様ですか。こちらのお席へどうぞ。お荷物は壁側へ。お冷やをお持ちします」
沙羅が唖然とする。
「完全に働いてるわね」
つばさも感心する。
「接客の動きが自然ですね」
店主は博多弁で笑う。
「ひなた、やっぱ現場に立つと動きが違うねえ。助かるばい」
ひなたは真顔で返す。
「導線上、この席配置は少し詰まっています。ピーク時の回転を考えると、会計位置を少し変えた方がよいです」
店主はさらに笑った。
「来て早々、改善提案かい。昔と変わらんねえ」
伊織は泡盛を飲みながら言う。
「ひなた、沖縄来ても仕事してるさー」
千鶴はまた水を置く。
「働くなら、なおさら水飲んでください」
少し落ち着いた頃、店主は菜々子たちに話した。
「ひなたはね、昔からよう気がつく子やったとよ。売場の流れ、人の表情、困っとるお客さん、すぐ気づく。けど、気づきすぎて自分で抱え込むところもあったけんね」
ひなたは聞こえていないふりをして、皿を運んでいる。
だが、耳が少し赤い。
店主は続ける。
「今こうして、仲間と一緒に動いとるのを見ると、ちょっと安心するばい」
菜々子は笑った。
「今でも抱え込みがちたい。でも、周りが勝手に騒ぐけん、一人では抱えきれんようになっとるかも」
店主は大らかに笑う。
「そりゃよかことやね。みんな、沖縄でしっかり楽しんで、しっかり盛り上げてきんしゃい。うちなーも、ないちーも、笑って話せる場所を増やしてくれたら、それが一番たい」
伊織が静かに頷く。
「いい言葉さー」
千鶴も胸に響いたように言う。
「私も、期間限定ですけど、ちゃんと役に立ちたいです」
店主は笑った。
「期間限定でも、気持ちが本物なら十分ばい」
決起集会はにぎやかに進んだ。
梨乃は千鶴にすっかり懐き、年上の千鶴に向かって何度も「千鶴ちゃん、これ食べるだか?」と世話を焼こうとする。
実際には、ほとんど世話になっているのは梨乃の方だった。
千鶴が小皿を取ってあげると、梨乃は嬉しそうに笑う。
「千鶴ちゃん、やさしいだで。うち、千鶴ちゃん好きだで」
千鶴は少し照れながら笑った。
「ありがとうございます。私も梨乃さん、面白くて好きです」
沙羅が小声で言う。
「千鶴、順応が早いわね」
澪が眠そうに返す。
「看護学生は適応力が高い」
香澄は沖縄料理を熊本弁で絶賛し、のどかはラフテーに感動し、沙羅は海ぶどうの食感を真剣に分析する。
澪はソーキそばを食べながら、眠そうに幸せそうな顔をしている。
迫田ツインズは同じタイミングでゴーヤチャンプルーを口へ運び、店主に「すごかねえ」と驚かれる。
菜々子は全員を見回した。
鹿児島から海を渡り、ついに沖縄へ来た。
梨乃も、なぜか無事に合流した。
千鶴も、もうすっかり馴染んでいる。
ひなたは、元上司の店でなぜか半分働いている。
沖縄遠征は、始まる前から濃すぎた。
店主が最後に言う。
「ひなた、みんな、頑張りんしゃい。沖縄でいい仕事してきんしゃい」
ひなたは少し姿勢を正した。
「はい。必ず」
梨乃が横から元気に言う。
「うちも頑張るだで!」
全員が一瞬、不安そうな顔をする。
澪が眠そうに締めた。
「沖縄、始まる前から濃い」
公設市場裏通りの小さな店で、ヒロ九は沖縄遠征の夜を迎えた。
梨乃はなぜか先にいて、千鶴はもう馴染み、ひなたは元上司の店で働いていた。
明日から、いよいよ沖縄本番である。




