ヒロ九クエスト 第59話 黒煙バス、海を渡る ――ヒロ九沖縄遠征、一名だけ出発できません
鹿児島遠征から戻って、まだ数日しか経っていなかった。
熊本市の山中にあるヒロ九拠点では、古賀菜々子支配人と有村ひなた副支配人が、ようやく鹿児島遠征の領収書を整理し終えようとしていた。
高速道路料金。
燃料代。
宿泊費。
会場使用料。
なぜか三枚もある白熊のレシート。
菜々子は最後の一枚を持ち上げ、首を傾げた。
「この白熊、誰が三日続けて食べたとやろ?」
ひなたは明細を確認する。
「初日は香澄さん、二日目は菜々子支配人、三日目はお二人です」
「私も食べとったね」
「はい。しかも一番大きいサイズです」
菜々子が静かに領収書を置いた、その時だった。
那覇市出身の金城伊織から連絡が入る。
画面の向こうで、伊織はいつになく真剣な顔をしていた。
『鹿児島まで行ったんだから、今度は絶対に沖縄遠征を実現してほしいさー。那覇だけじゃなくて、中部も北部も、みんなに見てほしい場所がいっぱいあるわけ』
菜々子とひなたは顔を見合わせた。
鹿児島遠征の精算が、たった今終わろうとしている。
しかし伊織は続ける。
『私の地元で、ヒロ九のイベントやりたいさー。地元のみんなにも見せたいし、案内したいところもいっぱいあるよ』
菜々子は少し考えて、笑った。
「よし。精算が終わったら、すぐ準備ば始めようか」
ひなたは眼鏡を押し上げる。
「精算を終えてからです。まず、この白熊の処理を確定させます」
夢の沖縄遠征は、白熊三杯分の経費処理から始まった。
◇
ヒロ九の拠点は、かつて熊本産業交通の路線バス営業所だった建物である。
山間路線の廃止とともに使われなくなり、事務室や休憩室は残っていたものの、ヒロ九が最初に使い始めた頃は、かなり厳しい状態だった。
雨が降れば天井から水が落ちる。
窓枠から風が入る。
ネット会議を始めれば、菜々子の顔だけが五分に一度固まる。
その惨状を見かねたのが、器用な愛知県人・山田真央だった。
真央は工具箱を抱えて現れると、尾張弁でベラベラしゃべりながら修理を始めた。
「こんなん放っといたら、次の台風で屋根ごと持ってかれるがね。ほら、そこ押さえとってちょう。違う違う、そっちだがや」
菜々子が慌てて脚立を支える。
「真央さん、そこ危なくなかですか?」
「危ないで直しとるんだがね。あとネットも遅すぎるわ。これじゃ会議しとるのか、静止画鑑賞会しとるのか分からんがや」
屋根を補修し、窓枠を塞ぎ、配線を整理し、中継器まで調整。
真央が帰る頃には、雨漏りは止まり、床も沈まず、ネット会議中に誰も石像にならなくなっていた。
菜々子は改修後の天井を見上げて言った。
「雨の日にバケツば置かんでよかとですね」
ひなたは答えた。
「本来、事務所はそういうものです」
現在の拠点は、以前と比べれば「割とマシ」になっていた。
その会議室に沖縄本島の地図を広げ、菜々子、ひなた、熊本産業交通の人気バスガイド・西里香澄の三人が準備を始める。
香澄は観光資料を壁へ貼りながら、楽しそうに言った。
「沖縄なら案内しがいがありますばい。那覇、首里、中部、北部まで回ったら、何日あっても足りんですたい」
菜々子も付箋を地図へ貼る。
「イベント会場も何か所か欲しかね。伊織ちゃんの地元紹介も入れたいし」
ひなたは二人が貼った付箋を無言で並べ直す。
「移動時間を無視しないでください。沖縄本島は細長いですが、瞬間移動はできません」
三人の様子は、戦隊ヒロイン組織の幹部会議というより、完全に文化祭実行委員だった。
そこへ、佐世保市の川原つばさと、大分市の首藤凪も加わった。
つばさは現地事業者との電話交渉を引き受ける。
「恐れ入ります。大型車両の受け入れについて、担当の方へおつなぎいただけますでしょうか」
一度目の電話では別部署へ回され、二度目は本社へ回され、三度目は再び現地へ戻された。
菜々子が心配する。
「つばさちゃん、もう怒ってよかばい」
つばさは穏やかに微笑む。
「佐世保のコールセンターでは、四回目の転送からが本番やったとです」
香澄が感心する。
「強かですねえ」
「慣れは怖かですよ」
一方、凪は安全面を片端から確認する。
フェリー内での車両固定。
港での誘導。
運転手の勤務時間。
非常口周辺の荷物。
消火器。
整備先。
そして、例のラッピングバスの排気状態。
凪は資料から顔を上げた。
「沖縄へ持っていく車両は、現地で借りた方が安全管理はしやすいです」
菜々子が頷く。
「やっぱり、きれいな観光バスば借りた方がよかよね」
ひなたは見積書を読み上げた。
数日分のチャーター料。
乗務員費。
回送費。
荷物の別送費。
話が進むにつれ、菜々子と香澄の顔から笑顔が消えていく。
「……高かね」
「かなり高かですばい」
そこで自前のヒロ九ラッピングバスを熊本から鹿児島港まで走らせ、フェリーで那覇へ運ぶ費用を計算する。
結果は明白だった。
「自前のバスを輸送する方が安いです」
ひなたが結論を告げた。
全員が窓の外を見る。
敷地の隅では、派手なヒロ九ラッピングバスがエンジンを始動したところだった。
重いディーゼル音。
車体の震動。
そしてマフラーから、元気よく噴き出す黒煙。
菜々子が呟く。
「沖縄の青空に、あれを持っていくとね……」
凪は真顔で答えた。
「出発前に、もう一度排気系統を点検します」
香澄は少し考えて言う。
「青い空に黒い煙。色の対比ははっきりしとりますばい」
「広報的に前向きに捉えないでください」
ひなたが即座に止めた。
それでも熊本産業交通の協力会社や、沖縄の友好的な取引先へ何度も連絡した結果、那覇港での受け入れ、大型車両の駐車場所、緊急時の整備体制まで、何とか形になった。
難航していたはずの調整は、五人がワチャワチャ騒いでいるうちに、文化祭の準備のような楽しさで進んでいった。
◇
今回は、遠征の途中でメンバーを何度か入れ替えることになった。
本業がある者。
別のイベントへ出演する者。
後半から合流する者。
途中で帰らなければならない者。
ひなたは巨大な行程表を作り、メンバー名を書いた磁石を沖縄本島の地図へ並べる。
菜々子が尋ねた。
「この表、なくしたらどうすると?」
「支配人には渡しません」
「信用がなかね」
「実績に基づく判断です」
ところが出発前日、広島の江波のどかから緊急連絡が入った。
画面には、露骨に呆れた顔ののどかと、その隣で平謝りするのどか母が映っている。
のどか母は開口一番、どぎつい広島弁で頭を下げた。
「菜々子さん、ひなたさん、ほんまに堪忍してつかぁさい。うちが目ぇ離した隙に、梨乃がまた、とんでもないことしよったんよ」
菜々子が聞く。
「梨乃ちゃん、どうしたと?」
のどかが額を押さえた。
「沖縄へ行くんにパスポートが要る思うて、鳥取へ取りに帰りやがったんじゃ!」
会議室が静まり返った。
ひなたが冷静に言う。
「沖縄は国内です」
「分かっとるわ!」
のどかが怒鳴る。
「うちも母ちゃんも何遍も言うたんよ。じゃけどあいつ、“海を越えるなら外国みたいなもんじゃろう”言うて聞かんのんじゃ!」
画面の外から梨乃の声がした。
『念のため持っていた方が安心でしょう!』
のどか母が振り返って怒鳴る。
「安心する前に集合時間へ間に合わせんさいや! あんたは沖縄へ行くんか、旅券窓口へ就職するんか、どっちなんね!」
さらに梨乃は証明写真に「沖縄らしさ」を出そうと、小さなシーサーの髪飾りを付けて撮影し、当然のように撮り直しを命じられていた。
のどかは疲れ果てた声で言う。
「広島におる間は、うちと母ちゃんが保護者みたいに見張っとるんよ。鳥取へ戻った途端、これじゃ」
のどか母は再び頭を下げる。
「ほんま、すまんね。沖縄で梨乃にシーサー百個買わせるけぇ」
『百個は多すぎます!』
「黙りんさい!」
ひなたは行程表から山根梨乃の磁石を外し、「途中合流」の欄へ移した。
「欠席理由は本人都合とします」
菜々子も頷く。
「パスポート勘違いとは、後世に残さんでよかね」
◇
翌朝。
ヒロ九ラッピングバスの前へ、出発メンバーが集まった。
菜々子。
ひなた。
香澄。
つばさ。
凪。
迫田ツインズの澪香と澄香。
金城伊織。
南部沙羅。
水無瀬澪。
そして、梨乃を置いて一人で合流した江波のどか。
凪が出発前点検を終える。
「重大な安全上の問題はありません。ただし、登り坂では排気の状態を確認してください」
菜々子が尋ねる。
「安心してよかとね?」
「重大な安全上の問題は、です」
表現に含みがあった。
香澄が車内マイクを握る。
「皆さーん、これから鹿児島港まで向かいますばい。黒煙が見えても、今のところ車両は元気ですけん、慌てんでよかですよ」
ひなたがすぐ訂正する。
「黒煙を元気の証明にしないでください」
自称ハマのプリンセス・沙羅は、バスを見上げて鼻で笑った。
「相変わらずだね。このバス、本当に海を渡れるの?」
窓際の席へ座った水無瀬澪は、目を閉じながらエンジン音を聞く。
「このエンジン音、なんかクセになる」
「本気で言ってる?」
「ずっと聞いてると落ち着く」
「悟りじゃなくて、感覚が麻痺しただけでしょ」
伊織は嬉しそうに窓から顔を出す。
「沖縄のみんなに、このバスを見せるの楽しみさー」
沙羅が答える。
「先に煙を見せることになりそうだけどね」
全員の乗車を確認し、バスの扉が閉まる。
アクセルが踏み込まれた。
低く響くエンジン音。
古い車体を伝う振動。
そしてマフラーから、朝の熊本の山へ盛大な黒煙が上がる。
菜々子は、雨漏りしなくなった旧営業所を振り返った。
沖縄本島の地図。
大量の付箋。
文化祭のように進めた準備。
何度も書き直した行程表。
どうにかまとめた現地との交渉。
ようやく、遠征は始まった。
香澄が明るく車内放送を始める。
「それでは皆さーん、ヒロ九沖縄遠征、出発ですばい!」
ひなたが横から言う。
「まずは鹿児島港です」
「気持ちは、もう沖縄ですけん」
「フェリーへ乗れなければ鹿児島で終了です」
「出発早々、縁起でもなかこと言わんでください」
黒煙バスは熊本の山道を下り、鹿児島港へ向けて走り出した。
その先に何が待っているのか。
この時点では、まだ誰も知らない。
少なくとも一つだけ確かなのは、山根梨乃が沖縄へ行くのにパスポートは必要ないと、まだ完全には納得していなかったことである。
ヒロ九の沖縄遠征は動き始めた。
一人だけ鳥取に残し、一台だけ盛大に煙を上げながら。




