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ヒロインズ・リンク 〜戦隊ヒロインプロジェクト〜  作者: スパイク


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1070/1204

『白いエプロンの工作員――娘の知らない、母の極秘任務』 最終話 『朝食は、いつもどおりに』 ――国家を欺いた母は、娘のリボンを結ぶ

杉本恵が病室で意識を取り戻した夜、四人の反撃が始まった。


事故の傷は深かった。


恵はまだ自力で起き上がれず、呼吸をするだけでも胸に痛みが走る。医師からは絶対安静を命じられ、長時間の会話さえ禁じられていた。


それでも彼女の目からは、すでに患者の弱さが消え始めていた。


ベッドの上へ旧式の小型端末を置き、波田巌蔵、安岡真帆、西園寺綾乃を暗号回線へ呼び出す。


画面には、それぞれ異なる場所にいる三人の顔が映った。


波田は、かつて勤務していた政府施設の近く。


真帆は新橋ヒロ室の会議室。


綾乃は病院近くのホテルの一室。


恵は静かに告げた。


「陽菜さまの出生記録を、消してはなりません」


波田が眉をひそめる。


「残しておけば、また誰かが掘り返すぞ」


「消せば、そこに消さなければならない真実が存在したと証明することになります」


綾乃が先に意味を理解した。


「本物を、偽物の中へ埋めてしまわはるんどすなぁ」


恵は頷いた。


一つの秘密は、隠すほど価値を持つ。


だが百の異なる答えが同時に存在すれば、どれが真実なのか誰にも判断できなくなる。


陽菜の出生地。


出産を担当した医師。


実父。


実母。


出生時の管理番号。


すべてが異なる偽資料を、別々の経路から流す。


ある記録では、陽菜は海外在住の日本人夫婦の娘。


別の記録では、白石家の遠縁。


さらに別の記録では、すでに死亡した女性外交官の子ども。


実父候補には政治家、実業家、外国人研究者、元外交官の名を混ぜる。


ジェネラス・リンクが入手した本物に近い資料さえ、数ある偽物の一つに見せかける。


「秘密は、一つだから高値がつきます」


恵は酸素を整えながら、穏やかに続ける。


「皆さまへ好きな答えを選んでいただきましょう」


波田が顔をしかめた。


「相変わらず、性格の悪い作戦を考えるな」


「お褒めにあずかり、光栄でございます」


「褒めてねえよ」


病床の家政婦は、再び世界を欺こうとしていた。


ただし今度は、国家のためでも、報酬のためでもない。


娘の朝を守るためだった。


     ◇


西園寺綾乃は、ジェネラス・リンクの情報網を封じる役目を引き受けた。


恵が築いた古い情報網。


元密輸業者。


偽造屋。


引退した工作員。


裏社会の仲介人。


綾乃が築いた新しい情報網。


独立系記者。


元外交官。


内部告発者。


金融犯罪調査員。


本来なら互いを信用しない二つの勢力が、初めて同じ目的のために動いた。


綾乃はジェネラス・リンクが買い集めていた資料へ、恵が用意した偽情報を紛れ込ませる。


同時に、組織の資金洗浄口座、協力企業、海外拠点、当局内部の連絡役を特定した。


最後に、組織の幹部へ一通の警告を送る。


白石陽菜に関する情報を公開、売却、利用した場合、貴組織の資金経路と協力者名簿を同時に公開する。


ほどなく返信が届いた。


これは脅迫か。


綾乃は迷わず返した。


ご挨拶どす。


ジェネラス・リンク内部では混乱が始まった。


自分たちが入手した資料のどれが本物なのか分からない。


そもそもすべてが、当局による攪乱情報ではないか。


陽菜を巡る資料を買い取ろうとしていた情報市場の客も、次々と手を引いた。


「偽物が多すぎる」


「危険に見合う価値がない」


「白石陽菜の情報へ触れると、逆にこちらが特定される」


高値で売れるはずだった秘密は、一夜で紙屑へ変わった。


綾乃は通信を閉じる。


「人の人生へ、勝手に値段つけはるさかいどす」


声は穏やかだった。


だが、その目に慈悲はなかった。


     ◇


安岡真帆は、政治と世論を使って当局の手足を縛った。


陽菜を狙った事故の全容を公表すれば、出生の秘密へ世間の関心が向く。


そこで真帆は、事故周辺の不自然な事実だけを慎重に広めた。


存在しない信号点検。


配送車のブレーキへ残された細工。


事故前後だけ途切れた監視カメラ。


病院へ現れた所属不明の警察関係者。


人気戦隊ヒロインを狙った組織的犯行の疑い。


誰が関与したかは断定しない。


だが、再び陽菜や恵へ何か起きれば、国会と報道が一斉に動く状態を作る。


真帆は、かつて私設秘書として仕えた与党重鎮・榊原征一郎へ電話をかけた。


電話がつながるなり、榊原の怒鳴り声が響く。


「真帆! お前はまた厄介なものを持ってきたな!」


真帆は受話器を少し耳から離す。


「先生は、厄介な時ほど頼りになる政治家だと存じております」


「褒めても何も出んぞ!」


「では、関係省庁への照会と国会質問の準備をお願いいたします」


「最初からそれが目的だろう!」


榊原の怒声はさらに大きくなる。


だが真帆は落ち着いていた。


長年秘書を務めた経験から、榊原は本当に怒った時ほど声が小さくなると知っている。


これだけ怒鳴っているなら、まだ協力する気がある。


「先生」


真帆は声を低くした。


「陽菜さんは何も知りません」


電話の向こうが静かになる。


「何も知らない十八歳の女性が、国家の都合で命を奪われるような国を、先生は守りたいのですか」


長い沈黙。


やがて榊原が低い声で答えた。


「資料を送れ。名前は出すな」


「ありがとうございます」


「礼はいらん。次はもう少し楽な面倒を持ってこい」


「努力いたします」


電話を切った真帆は、小さく息を吐く。


守る保証のない返事だった。


榊原の周囲が動き、事故の安全管理を巡る国会質問の噂が霞が関へ流れた。


当局が母娘へ再び手を出せば、政治的な火種が一気に燃え上がる。


真帆は政治の論理を使い、政治の暗部を封じ込めようとしていた。


     ◇


そして波田巌蔵は、当局との最後の交渉へ向かった。


表札のない灰色の建物。


窓のない地下会議室。


かつて陽菜の消去方針を告げられた、あの場所だった。


今回は、ただ怒鳴り込んだのではない。


机の上には、真帆が集めた事故周辺の資料。


綾乃が確保した実働員の名簿。


恵が保持していた二十年前の非公式作戦記録。


榊原が準備している国会質問の概要。


当局が隠してきた失敗と不正を、波田は静かに並べた。


幹部の一人が言う。


「脅迫のつもりですか」


「交渉だよ」


「白石陽菜は、依然として国家安全保障上の危険要因です」


波田は机へ身を乗り出す。


「危険を作ったのは陽菜じゃねえ。二十年前のオイラたちだ」


「感情論で判断すべき問題ではありません」


「何も知らねえ娘を車で轢くのが、冷静な国家判断か!」


「当局は事故へ関与していません」


「その台詞、あと何回言えば本当になると思ってやがる!」


波田が机を叩く。


会議は、開始から数分で怒鳴り合いになった。


「あなた方は当局の活動を妨害した」


「殺人未遂を止めたことを妨害と呼ぶな!」


「国家機密を人質に取っている」


「陽菜を人質に取ったのは、そっちだろうが!」


「白石陽菜の出生が公になれば、外交問題が生じる」


「公にならねえように、こっちが全部片づけた!」


波田は、かつて政府中枢で培った経験のすべてを使った。


相手が恐れる情報。


譲歩できる条件。


絶対に譲れない一線。


本当のことを言う場所。


嘘をつくべき場所。


陽菜へ再び手を出せば、事故工作の資料が政治家へ渡る。


恵を拘束すれば、当局とジェネラス・リンクを結ぶ接触記録が海外へ流れる。


白石家を監視すれば、榊原が国会で動く。


当局にとって損失の最も少ない選択肢は、母娘から手を引くことだけだった。


何時間もの応酬の末、当局は条件を受け入れた。


白石陽菜への監視、接触、事情聴取を終了する。


杉本恵と過去の工作員を結びつける調査を停止する。


白石家、大学、ヒロ室周辺の実働員を撤収する。


陽菜の出生に関する資料を、信頼性の低い攪乱情報として扱う。


今後、当局は二人へ直接関与しない。


正式な文書は残らない。


しかし、複数の省庁と政治家が経緯を把握している。


簡単には覆せない口約束だった。


波田は最後に念を押す。


「陽菜にも恵にも、二度と近づくな」


当局の幹部は無表情のまま答えた。


「あなた方も、二十年前の記録を封印することです」


「そっちが約束を守る限りはな」


交渉は成立した。


だが勝利ではなかった。


当局は最後に、一枚の書類を波田の前へ差し出した。


そこには、具体的な要求は記されていない。


今後、政府がヒロ室へ求める協力について、波田が拒みにくい立場となったことだけが、遠回しな文言で示されていた。


陽菜と恵の安全を得る代わりに、波田は当局へ借りを作った。


いつ返済を求められるのか。


何を要求されるのか。


誰も知らない。


ヒロ室の活動へ干渉されるかもしれない。


危険な任務を押しつけられるかもしれない。


別の誰かを守るため、何かを切り捨てるよう迫られる可能性もある。


波田は書類を見つめた。


危機を解決したのではない。


未来のどこかへ、別の闇を先送りしただけなのかもしれない。


それでも署名した。


今日、母娘が生きられるなら。


その代償は、自分が引き受けるつもりだった。


     ◇


新橋ヒロ室へ戻った波田は、会議室の椅子へ深く沈み込んだ。


真帆が向かい側に座る。


「手を引かせた」


真帆の表情が僅かに緩む。


「本当ですか」


「監視も事情聴取も終わりだ。恵の身分も、白石家の家政婦として保証される」


「お疲れさまでした」


波田は競馬新聞を机へ置いた。


今日は一度も開いていない。


「オイラ、もうじき喜寿なんだぜ」


「存じています」


「この年になって、国家の暗部と何時間も喧々諤々でやり合うとは思わなかったよ」


波田は肩を落とす。


「今回が一番きつかった。もう勘弁してよ」


真帆は上品に微笑んだ。


「まだまだできそうですね」


「勘弁してくれと言った直後に、次を期待するな」


真帆は笑みを崩さない。


波田の顔が、再び重くなる。


「ただし、当局にはでかい借りを作っちまった」


「……そうですか」


「これからヒロ室へ圧力がかかる。面倒な協力を要求されるかもしれねえ。堪忍してくれ」


波田は真帆へ頭を下げた。


「それと榊原センセにも、相当迷惑をかけた。お前のキャリアにも影響するかもしれん。本当にすまん」


真帆は、あっさり答えた。


「恵さんと陽菜さんの親子を守ることができたのなら、それで結構です」


「簡単に言うな。お前、永田町へ戻れなくなるかもしれねえぞ」


「仲間一人を守れないような人間が、国民のことを考えられますか」


波田は真帆を見つめた。


それから、力なく苦笑する。


「いやあ……お前さんみたいなのが、今の永田町には一番必要なんだがな」


「では、いつか必要とされるよう努力いたします」


「榊原センセ、かなり怒ってたぞ」


「先生のことなら、お任せください」


真帆は書類をそろえながら言う。


「私が何とかしておきますよ」


「どうする気だ」


「好物の羊羹を持って謝罪に伺います」


「羊羹でどうにかなるのか?」


「怒鳴っているうちは大丈夫です。本当に怒った時の先生は、声が小さくなりますから」


元敏腕私設秘書だけに、与党重鎮の扱いには慣れていた。


波田は胃薬のケースを開ける。


真帆が即座に止める。


「先ほど飲みましたよね」


「国家と喧嘩した日くらい、特例を認めろ」


「用法用量に国家事情は考慮されません」


当局より真帆の方が厳しかった。


     ◇


その翌朝。


ネット上の陽菜に関する奇怪な投稿が、突然止まった。


白いリボンが宇宙通信装置だという説。


陽菜の実年齢百二十七歳説。


月面基地出身説。


大学の礼拝堂地下に秘密基地があるという話。


白石家の庭に宇宙船が埋まっているという噂。


波田が宇宙競馬の予想屋だという、本人にとって最も不本意な書き込みまで消えていた。


代わりに並び始めたのは、陽菜と恵を気遣う言葉だった。


陽菜さん、焦らず戻ってきてください。


また白いリボンの笑顔を見たいです。


恵さんの回復を祈っています。


二人が元気になるまで待っています。


病室で画面を見ていた陽菜が言う。


「私、宇宙人ではなくなったみたいです」


隣にいた綾乃が答える。


「地球へ正式に帰化しはったんと違います?」


「いつ手続きをしたんでしょう」


「真帆はんが、知らん間に済ませはったんかもしれまへんなぁ」


陽菜は小さく笑った。


事故前と同じ、屈託のない笑顔。


その笑顔を見て、綾乃は静かに息を吐いた。


守るべきものが、ようやく戻り始めていた。


     ◇


杉本恵の回復は、医師の予想を大きく上回った。


事故から二週間で、自力で身体を起こせるようになった。


三週間目には、支えを使えば短い距離を歩けるまでになった。


一か月後。


ついに退院が許可された。


主治医は最後まで納得していなかった。


「医学的に説明不能というわけではありません。しかし、それにしても回復が早すぎます」


波田が答える。


「昔から諦めが悪いんだ」


「精神力だけで、ここまで回復しますか」


「白石家の家政婦は体力勝負だからな」


「もう、その説明は結構です」


医師にも限界があった。


白石家へ戻った恵は、玄関を入るなり白いエプロンを身につけようとした。


陽菜がすぐに止める。


「何をしているんですか?」


「長く留守にいたしましたので、家の中を確認しようかと」


「まだ家事をしてはいけません」


「軽い掃除だけでございます」


「駄目です」


「では、紅茶を淹れる程度で」


「駄目です」


「朝食の下ごしらえだけでも」


「全部駄目です」


陽菜は恵から白いエプロンを取り上げた。


かつて世界各国の情報機関から秘密を守り抜いた女が、実の娘には装備を簡単に没収される。


「陽菜さま。私は白石家の家政婦でございます」


「今は白石家の患者です」


「そのような身分はございません」


「今日から作りました」


「旦那さまの許可は?」


「あとでいただきます」


恵は反論できなかった。


退院後しばらくの間、杉本恵は「家事をしてはいけない家政婦」として白石家で暮らすことになった。


     ◇


陽菜は、もう自分の出生を調べようとは思わなかった。


目の前の家政婦が、自分を産んだ母親であること。


かつて闇社会で東洋のマタ・ハリと呼ばれたこと。


ほとんど理解していた。


確かな証拠はない。


本人から告白されたわけでもない。


だが、怪文書。


恵の過去。


波田との関係。


外国の協力者。


事故の瞬間に見せた動き。


そして、自分を見る時の恵の目。


すべてをつなげれば、答えは一つだった。


病院で綾乃から言われた言葉も、心に残っている。


「世の中には、知らん方が幸せなものもありますえ」


陽菜は、知らないふりをすることにした。


「お母様」と呼べば、恵が守り続けた二十年間を壊すかもしれない。


問いただせば、恵にまた嘘をつかせるかもしれない。


ならば調べない。


確かめない。


これまでどおり、


「恵さん」


と呼ぶ。


それで十分だった。


     ◇


退院から数日後。


白石家へ、穏やかな朝が戻った。


窓から柔らかな光が差し込む。


焼きたてのパン。


紅茶の香り。


食卓に並ぶ、いつもどおりの朝食。


陽菜は鏡台の前へ座り、白いリボンを恵へ渡した。


「今日もお願いします」


「かしこまりました」


恵は陽菜の艶やかな黒髪をまとめ、ポニーテールを作る。


まだ手の力は完全には戻っていない。


以前より時間がかかる。


陽菜は急かさない。


鏡越しに、恵の姿を見つめている。


なぜ自分を手放したのか。


どのような気持ちで家政婦としてそばにいたのか。


毎朝、何を思いながら白いリボンを結んでいたのか。


聞きたいことは幾つもあった。


だが何も尋ねなかった。


恵がここにいる。


その手が温かい。


自分の髪へ触れている。


それだけでよかった。


恵が、白いリボンの形を整える。


「白いリボンの妖精の出来上がりでございます」


陽菜は鏡の中の恵へ、屈託のない笑顔を向けた。


「ありがとうございます、恵さん」


お母様とは呼ばない。


娘とも呼ばれない。


それでも二人は、もう互いのことを知っていた。


陽菜が立ち上がる。


「今日は大学の後、久しぶりのイベントです」


「くれぐれも無理をなさらないように」


「美紀さんにも同じことを言われました」


「松本さまのお言葉は、よくお聞きになるべきでございます」


「恵さんと美紀さんが組むと、逃げ道がありませんね」


「逃げる必要がございますか?」


「ありませんけど」


陽菜は笑う。


その笑顔には、もう事故直後の暗い影はなかった。


白いリボンを揺らし、元気に玄関へ向かう。


「いってきます」


「いってらっしゃいませ、陽菜さま」


平和な朝。


いつもどおりの会話。


白石家に、失われかけた日常が戻っていた。


     ◇


陽菜が大学へ出かけた後。


恵は台所で食器を片づけていた。


白いエプロンのポケットから、微かな振動音が聞こえる。


二十年前に使用していた旧式の小型端末。


画面には、一件のメッセージが届いていた。


白い椿へ。

巣の安全は確認された。

だが、世界にはまだ眠れない鳥がいる。


送り主は、北欧にいる旧協力者だった。


恵は画面を見つめる。


東洋のマタ・ハリは二十年前に消えた。


今の自分は、白石家の家政婦。


娘のリボンを結び、朝食を作り、帰宅を待つだけの女。


そう返すつもりだった。


返信欄へ文字を入力する。


東洋のマタ・ハリは二十年前に死にました。

現在ここにいるのは、白石家の家政婦だけです。


送信ボタンへ指を置く。


その時、玄関の扉が開いた。


忘れ物をした陽菜が戻ってきた。


「恵さん、何をしているんですか?」


恵は端末を白いエプロンのポケットへ戻す。


「紅茶の注文を、少々」


以前の陽菜なら、何の疑いもなく信じただろう。


今は、その旧式端末が紅茶を注文するためのものではないと知っている。


それでも知らないふりをして、明るく笑った。


「今度は、あまりたくさん注文しないでくださいね」


「承知いたしました」


陽菜は忘れた教科書を手に取る。


玄関へ向かい、ふと振り返る。


「いってきます、恵さん」


「いってらっしゃいませ、陽菜さま」


扉が閉まる。


恵は再び端末を取り出した。


先ほど入力した文章を、すべて削除する。


しばらく考え、新しい文章を打ち込んだ。


巣へ近づく者がいれば、知らせてください。


送信。


恵は端末を白いエプロンの奥へしまう。


娘と白石家の日常を守るため。


それだけのために使うつもりだった。


だが一度目覚めた情報網は、すでに世界各地で動き始めている。


長く沈黙していた協力者たち。


消えたはずの回線。


二十年前の暗号名。


かつて恵を裏切った者。


恵に救われた者。


恵を恐れ続けてきた者。


そのすべてが、東洋のマタ・ハリの生存を知り始めていた。


白石家には、平和な日常が戻った。


陽菜の屈託のない笑顔も戻った。


母は娘の白いリボンを結び、朝食を用意し、帰宅を待つ。


何もかも、以前と同じに見えた。


ただ一つ違うのは、白いエプロンのポケットで、旧式端末が時折震えるようになったことだった。


東洋のマタ・ハリは、娘を守るために復活した。


それは、おそらく陽菜にとっては幸運だった。


だが世界にとっても同じなのかは、誰にも分からない。


最後の一文。


白石家には平和が戻った。

その平和を守るため、闇社会が最も恐れた女まで戻ってきてしまった。

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