白いエプロンの工作員――娘の知らない、母の極秘任務 第5話 『母とは呼ばない』 ――目覚めた工作員と、真実を尋ねなかった娘
杉本恵が事故に遭ってから、三日が過ぎた。
手術は終わっていた。
だが、それは助かったという意味ではなかった。
集中治療室のベッドに横たわる恵の身体には、幾本もの管がつながれている。呼吸を補助する機械の音と、心拍を刻む電子音だけが、彼女がまだこの世界にいることを伝えていた。
医師は同じ説明を繰り返した。
「状態は依然として予断を許しません」
意識が戻るかどうかは分からない。
戻ったとしても、後遺症が残る可能性がある。
容体が急変することも考えられる。
白石陽菜は、黙って話を聞いていた。
泣きもせず、質問もせず、ただ両手で白いリボンを握っている。
事故現場へ落ちた、あの白いリボンだった。
美紀が丁寧に汚れを落としてくれたが、以前のような純白には戻らなかった。端には小さな傷が残り、薄い灰色の染みが消えずに残っている。
陽菜は医師へ一つだけ尋ねた。
「私の声は、恵さんに聞こえていますか?」
「可能性はあります。話しかけてあげてください」
「では、ここにいます」
それだけ言うと、陽菜は恵のそばから離れなくなった。
◇
白石陽菜が大学の講義を休むことは、ほとんどなかった。
体調が悪い日でも、出席できないと分かれば、自分で担当教員へ連絡を入れる。ノートは友人に借り、課題は期限までに必ず提出する。
戦隊ヒロインのイベントと講義が重なった時には、移動時間を分単位で組み立てて、両方へ顔を出そうとするほど生真面目だった。
その陽菜が、大学へ行かない。
ヒロ室から入ったイベント出演の依頼にも応じない。
安岡真帆が予定をすべて取り消し、大学側へ事情を説明していた。
「陽菜さんは事故の衝撃が大きく、しばらく静養が必要です」
それは嘘ではない。
だが陽菜自身は静養するどころか、ほとんど眠ろうともしなかった。
恵のベッド脇に座り、手を握り続けている。
無二の親友である看護学生・松本美紀も病院へ駆けつけた。
美紀は普段から、持病を抱える陽菜の体調を誰より気にかけている。イベント会場では休憩時間を確認し、水分を取ったか尋ね、陽菜が「大丈夫」と言っても簡単には信じない。
その美紀が陽菜を見るなり、厳しい顔をした。
「最後に眠ったのはいつ?」
「覚えていません」
「食事は?」
「いりません」
「いらないじゃないでしょう」
美紀は陽菜の前へ、飲み物と小さなおにぎりを置く。
「あなたまで倒れたら、恵さんが目を覚ました時に何て説明するの?」
「私は大丈夫です」
「あなたの“大丈夫”は信用できないの」
「でも、恵さんが目を覚ました時に、私がいなかったら困ります」
「食べる間くらい、綾乃さんか真帆さんに代わってもらえばいいでしょう」
陽菜は頑なに首を振る。
「私がいないと駄目なんです」
その声には、普段の天真爛漫さがなかった。
何かを失うことを恐れる、幼い少女のようだった。
美紀はそれ以上、離れるようには言わなかった。
代わりに椅子をベッドのすぐ近くへ寄せ、陽菜の手へ飲み物を握らせる。
「ここで飲んで。恵さんの手を離さなくても飲めるから」
陽菜はしばらく黙っていたが、ようやく一口飲んだ。
「美紀さんは厳しいですね」
「あなたが言うことを聞かないからです」
「恵さんと同じことを言います」
「なら、今日は二人分言う」
陽菜の口元に、ごく小さな笑みが浮かんだ。
事故以来、初めて見せた笑顔だった。
だが、それもすぐ消える。
陽菜の黒髪には、白いリボンが結ばれていない。
綾乃も真帆も、美紀も、代わりに結ぼうとはしなかった。
誰もが知っていた。
それは恵だけの役目だった。
◇
夜。
病院の照明が落とされ、廊下の話し声も少なくなる。
陽菜は恵の手を握りながら、静かに語りかけていた。
「今日も、リボンを結びませんでした」
返事はない。
「美紀さんが、髪だけでもまとめようかと言ってくれました」
陽菜は膝の上へ白いリボンを広げる。
「綾乃さんも、きれいに結べるそうです。京都の方ですから、きっと上品な結び方なんでしょうね」
電子音だけが一定の間隔で響く。
「でも、断りました」
陽菜は、眠る恵の顔を見つめる。
「これは恵さんに結んでもらうものですから」
子どもの頃。
鏡台の前へ座り、養母に白いリボンを結んでもらった朝。
養母が亡くなった後、その役目を黙って引き継いでくれた恵。
失敗して泣いた朝も。
体調が悪く、不安だった朝も。
大学の入学式の日も。
初めて大きな戦隊ヒロインのステージへ立った日も。
恵はいつも後ろに立ち、黒髪を整え、白いリボンを結んでくれた。
最後には必ず、同じ言葉を口にした。
「白いリボンの妖精の出来上がりでございます」
その言葉を聞けば、一日を始められた。
陽菜は恵の冷たい指を、両手で包み込む。
「ずっとお願いしたでしょう?」
声が震える。
「いつまで寝ているんですか」
恵は動かない。
「私、大学を休んでいるんですよ」
陽菜は、泣かないように笑おうとした。
「真面目な私が四日も講義を休むなんて、大変なことなんです」
それでも返事はない。
「イベントも全部お休みしました。真帆さんが代わりに謝ってくださっています」
目から涙がこぼれ、恵の手の甲へ落ちる。
「ですから、早く起きてください」
陽菜は恵の手へ額を寄せる。
「白いリボンの妖精の出来上がりって、また言ってください」
窓の外には、夜明け前の薄い空が広がっていた。
白いリボンを結ばないまま迎える朝が、また一つ近づいていた。
◇
事故から四日目。
主治医は波田巌蔵を別室へ呼び出した。
机の上には、恵の検査画像と診療記録が並べられている。
「杉本さんについて、確認したいことがあります」
「何だ」
「この方は、本当に家政婦なのですか?」
波田は一瞬だけ黙った。
「家政婦だ」
「それ以前の職歴は?」
「昔はいろいろあったんだろう」
「いろいろ、という範囲ではありません」
医師は画像の一部を示す。
「衝突直前、この方は頭部を守り、身体をひねっています。衝撃を正面から受けず、斜めへ逃がそうとしている」
「偶然じゃないのか」
「考えてできる動きではありません。長期間、繰り返し訓練を受けた人間の反応です」
恵の身体には、複数の古傷も残っていた。
銃創と思われる痕。
刃物による傷。
何度も骨折した跡。
通常の家政婦の生活では説明できないものばかりだった。
「普通の方であれば、事故現場で亡くなっていた可能性が高いです」
波田は腕を組む。
「家政婦も体力勝負だからな」
「走行中の車へ対応する訓練を受けるのですか?」
「最近の家政婦業界は厳しいんだよ」
医師は無言で波田を見た。
「何だ、その目は」
「白石家の採用試験を見てみたいと思いまして」
「やめとけ。オイラも受からん」
医師は納得していない。
波田も、納得させるつもりはなかった。
東洋のマタ・ハリ。
世界中の情報機関を欺き、何度も死線を越えた女。
毒を盛られたこともある。
銃撃を受けたこともある。
爆発に巻き込まれたこともある。
それでも、そのたびに生還した。
今回も、身体へ染みついた訓練と、常人離れした精神力が恵を死の淵へ踏みとどまらせている。
医師は最後に言った。
「ここから先は、本人の生命力に懸けるしかありません」
波田は集中治療室の方角を見る。
「こいつは、諦めが悪い」
低く呟く。
「二十年前から、ずっとな」
◇
その日の深夜。
陽菜は恵の手を握りながら、白いリボンの話を続けていた。
「今日、自分で一度だけ結んでみたんです」
陽菜は少しだけ笑う。
「左右が全然そろいませんでした」
返事はない。
「恵さんなら、目をつぶっていても上手に結べるのに」
陽菜はリボンを恵の手のそばへ置いた。
「明日の朝も、その次の朝も、ずっと結んでください」
その時だった。
恵の指先が、ほんの僅かに動いた。
陽菜は息を止める。
自分が握ったから動いたのかもしれない。
目の錯覚かもしれない。
「恵さん?」
もう一度、指が動く。
モニターの数字が変化する。
陽菜は立ち上がり、ナースコールへ手を伸ばした。
「先生、恵さんが――」
恵の瞼がゆっくりと開いた。
視線は定まっていない。
呼吸も苦しそうだった。
それでも、彷徨っていた瞳が、やがて陽菜の顔を見つける。
「……陽菜、さま」
掠れた声。
陽菜は一瞬、何も言えなかった。
そして、堰を切ったように涙があふれ出す。
「遅いです」
恵の目元が、僅かに緩む。
「申し訳……ございません」
「私、ずっと待っていたんですよ」
「お待たせ……いたしました」
医師と看護師が駆け込んでくる。
陽菜は邪魔にならないよう手を離そうとした。
だが恵の指が、弱々しく陽菜の手をつかんだ。
「ここにいます」
陽菜はその手を握り返す。
「どこにも行きません」
◇
恵の意識回復を、医師は奇跡と評した。
すぐに危険を脱したわけではない。
身体を起こすこともできない。
会話を続ければ、すぐ疲労する。
長期間の治療とリハビリが必要になる。
それでも、生存そのものが危ぶまれていた状態から、恵は戻ってきた。
主治医は恵本人へ尋ねる。
「事故の瞬間を覚えていますか?」
「よく……覚えておりません」
恵は弱い声で答える。
嘘だった。
配送車の速度。
信号の異常。
陽菜の身体を押した感触。
衝撃を受ける直前に取った防御姿勢。
すべて覚えている。
「衝突前に特殊な防御動作を取っています。何か訓練を受けた経験は?」
「家事は……体力を使いますので」
波田とほぼ同じ答えだった。
主治医は額へ手を当てた。
「白石家の家政婦は、どのような業務をしているのですか」
陽菜は真剣な顔で考える。
「お料理、お掃除、お洗濯、それから私のリボンを結ぶことです」
「その中のどれで受け身を身につけたのでしょう」
「お掃除でしょうか」
陽菜は本気だった。
恵は目を閉じ、聞こえなかったことにした。
◇
恵が意識を取り戻した翌日。
波田は病院の非常階段へ、真帆と綾乃を呼び出した。
「当局が動いている」
真帆の表情が険しくなる。
「恵さんの身元確認ですか」
「それだけじゃねえ」
波田は階下へ視線を向ける。
「一階ロビーに二人。駐車場に三人。警察関係者を装っているが、所属記録がない」
綾乃の声が低くなる。
「恵はんを連れ出すおつもりどすか?」
「できるならな。事情聴取で済まなければ、病院内で口を封じる可能性もある」
真帆はすぐに答えた。
「病院側との窓口は、すべて私が引き受けます」
「お前の名前が記録へ残るぞ」
「すでに十分残っています」
「政治家になる道が、本当に閉ざされるかもしれねえ」
真帆は一瞬だけ黙った。
それでも目を逸らさない。
「陽菜さんと恵さんを守れずに政治家になっても、意味はありません」
綾乃も言う。
「病院の外は、うちが見ます」
「手荒な真似はするな」
「善処します」
波田が顔をしかめる。
「その言い方は、恵だけで十分だ」
「ええ先生がおりますさかい」
三人は別々の方向へ歩き出す。
陽菜には何も知らせない。
母娘を守るため、当局より先に動く。
◇
真帆は、病院へ到着しているすべての照会書類を確認した。
警察からの事情聴取。
行政機関を名乗る身元照会。
保険調査を装った面会要求。
書類上は、それぞれ別の目的を持っている。
しかし最終的な送付先は、すべて同じ政府系部署へつながっていた。
真帆は病院の事務責任者へ告げる。
「杉本恵さんに関する外部照会は、すべて私を通してください」
「しかし、警察からの正式な照会もあります」
「署名が違います」
「違う?」
「この担当者は、三年前に異動しています」
真帆は書類を机へ置く。
「偽造です」
そのまま、かつて秘書を務めた大物政治家の事務所へ連絡を入れる。
直接助けを求めるのではない。
人気戦隊ヒロインを巻き込んだ事故について、国会質問を準備する動きがある――その噂だけを流す。
当局が最も恐れるのは、陽菜の事故へ公の関心が集まることだった。
もう一度動けば、事故の背後にあるものまで疑われる。
真帆は、政治を利用して政治の暗部を封じようとしていた。
電話を切ると、一人で呟く。
「私のキャリアが必要なら、持っていってください」
表情には迷いがなかった。
「でも、この二人には触れさせません」
◇
西園寺綾乃は、病院の駐車場に停まる黒い車へ近づいた。
運転席には、当局の監視員と思われる男が座っている。
窓が僅かに開いた。
「何か御用ですか」
「お見舞いどすか?」
「人を待っています」
「杉本恵はんを?」
男の表情が一瞬だけ変わる。
綾乃は薄く微笑む。
「病院へ入らはる前に、これだけお渡ししときます」
窓の隙間から、一枚の紙を差し入れる。
そこには、男の本名、所属、偽装身分、過去に関与した非公式作戦の番号が記されていた。
男の顔色が変わる。
「どこで、これを」
「うちにも、少しお友達がおりますのえ」
「これは脅迫か」
「ご挨拶どす」
綾乃は、いつもの柔らかな声で続ける。
「うちらの大切な人へ一歩でも近づかはったら、この紙の中身が海外の報道機関と複数の調査組織へ届きます」
男が綾乃を睨む。
「国家へ逆らうつもりか」
綾乃の笑みが消える。
「国家が陽菜はんと恵はんの命を狙うんやったら、こちらにも守る順番があります」
綾乃は一礼する。
「どうぞ、よろしゅうお考えおくれやす」
車を離れる綾乃の背中を、男は黙って見送るしかなかった。
柔らかな京言葉の奥には、引くことのない決意があった。
◇
波田は、かつて勤務していた政府機関へ足を運んだ。
正式な権限は、もうない。
それでも、古い廊下を歩けば頭を下げる職員がいる。
二十年前、波田に助けられた者。
波田の判断で失脚を免れた者。
国家の暗部を知りながら、まだ完全には人間性を失っていない者。
波田は一人の古参職員へ、当局の事情聴取決裁を差し出した。
「これを止めろ」
「私に、その権限はありません」
「なら、迷子にしろ」
「公文書ですよ」
「役所の書類は、よく迷子になるだろ」
「故意に迷子にすれば違法です」
波田は男を見る。
「世の中には、正しい違法と間違った合法がある」
「その発言は聞かなかったことにします」
「オイラも言った覚えはねえ」
波田は、事情聴取の決裁に二十年前の特別機密指定を重ねるよう指示する。
書類を開けば、別の機密へ接触する。
承認しようとすれば、複数省庁の許可が必要になる。
誰か一人が勝手に処理できない、巨大な書類の迷路。
当局の実働を、官僚機構そのもので止める。
「正面から国家権力には勝てねえ」
波田は自嘲気味に笑う。
「だから、役所の手続きで窒息させる」
古参職員が尋ねる。
「そこまでして守る価値があるのですか」
波田は即答した。
「価値で人の命を量るな」
その声には、二十年前の後悔が滲んでいた。
◇
病室では、陽菜がこれまでの出来事を一人でつなぎ合わせていた。
怪文書。
本当の母親は生きているという言葉。
恵の昔の写真が一枚もないこと。
外国で暮らしていた過去。
世界中から届く紅茶。
綾乃を救った時の鮮やかな動き。
波田と恵の、上司と部下のような会話。
そして事故の日。
恵は、危険が起きる前から陽菜の後を追っていた。
暴走車へ誰より早く気づき、自分の命を迷わず差し出した。
なぜ、そこまでできるのか。
答えは、もう一つしか思い浮かばなかった。
恵が意識を取り戻した翌日の午後。
病室に二人きりになった時、陽菜は静かに尋ねた。
「どうして、あの場所にいたんですか?」
恵は枕の上で陽菜を見る。
「陽菜さまのことが心配で、後を追っておりました」
「危険があると知っていたんですか?」
「偶然でございます」
「偶然で、走ってくる車より早く動けるんですか?」
恵は答えなかった。
陽菜はその顔を、長い間見つめた。
以前なら、納得するまで尋ねたかもしれない。
だが今は、恵が答えられない理由まで分かる気がした。
「もういいです」
恵の瞳が揺れる。
「よろしいのでございますか?」
「はい」
陽菜は白いリボンを膝の上へ置いた。
「恵さんが何者でも、私を守ってくださったことは変わりませんから」
「陽菜さま……」
「私が生まれた時のことも、恵さんの昔のことも、話したくないなら話さなくていいです」
陽菜は恵の手を握る。
「でも、一つだけ約束してください」
「何でございましょう」
「もう、勝手にいなくならないでください」
恵はすぐに返事ができなかった。
陽菜の目には、怪文書を「変なの〜」と笑っていた頃とは違う光がある。
断片をつなぎ、自分なりの答えへたどり着いた目だった。
恵は悟る。
陽菜は、自分が実母であることを察している。
だが、「お母様」とは呼ばない。
陽菜が問いただせば、恵は否定しなければならない。
二十年間守ってきた秘密を、再び嘘で覆わなければならない。
陽菜は、それを望まなかった。
母親であるかどうかを言葉へするより、この人が自分のために命を懸けたという事実を大切にしようとしていた。
「承知いたしました」
恵は静かに答える。
「できる限り、陽菜さまのおそばにおります」
「できる限り、では駄目です」
陽菜は少しだけ頬を膨らませた。
「では、長くおそばにおります」
陽菜はようやく微笑んだ。
「約束ですよ、恵さん」
「はい」
母とは呼ばない。
娘とも呼ばない。
それでも二人の間には、呼び名を必要としない答えがあった。
◇
恵の回復は、医師の予想を超えて早かった。
歩くことはできない。
身体を起こすだけでも痛みが走る。
それでも意識が明瞭になると、恵はすぐに旧情報網へ指示を出そうとした。
陽菜が美紀に連れられ、短い休憩へ出た隙。
恵は枕元に隠されていた旧式端末を起動する。
北欧の協力者。
東南アジアの暗号技師。
政府内部の情報提供者。
次々と短い指令を入力する。
当局の監視経路を特定。
病院へ接近する者を照合。
二十年前の出生記録への接触者を追跡。
病室の扉が開いた。
綾乃が立っている。
「目ぇ覚ましたばかりで、もう世界中へご注文どすか?」
恵は端末を毛布の下へ隠そうとする。
「紅茶の在庫を確認しているだけでございます」
「病院食に紅茶はついてますえ」
「少々、茶葉の質にこだわりがございまして」
綾乃はベッド脇へ立ち、手を差し出す。
「端末、お預かりします」
「必要ございません」
「陽菜はんを呼びますえ」
恵の指が止まった。
世界各国の諜報機関から守り抜いた端末。
拷問にも追跡にも屈せず、決して手放さなかった情報端末。
それを恵は、無言で綾乃へ差し出した。
綾乃が僅かに目を見開く。
「随分と素直どすなぁ」
「陽菜さまに、余計なご心配をおかけするわけにはまいりません」
「世界で一番怖いんは、陽菜はんかもしれまへんなぁ」
「比較なさらないでくださいませ」
綾乃は端末を受け取る。
「指示は、うちが届けます。恵はんは今、生き延びるんがお仕事どす」
「頭部は負傷しておりません」
「そういう問題やおへん」
綾乃は、少しだけ身を屈める。
「老婆心ながら、また陽菜はんを泣かせたら、今度はうちも許しまへんえ」
かつて恵が綾乃へ伝えた言葉を、そのまま返した。
恵は僅かに目を細める。
「随分と成長なさいましたね」
「ええ先生がおりましたさかい」
◇
数日後。
恵はまだベッドから立ち上がれなかった。
それでも右腕は、少しずつ動かせるようになっていた。
陽菜は白いリボンを持ち、病室へ入ってくる。
髪は下ろしたままだった。
「今日は、結んでいただけますか?」
恵は陽菜の髪を見る。
「まだ、きれいに結べないかもしれません」
「構いません」
「形が崩れる可能性がございます」
「それでも、恵さんにお願いしたいです」
陽菜は椅子をベッドへ近づけ、恵が無理なく手を伸ばせる場所へ座る。
恵は震える指で、陽菜の黒髪をまとめる。
以前のようには動かない。
何度もリボンが滑り落ちる。
結び目は左右で大きさが違う。
途中で腕が震え、恵の呼吸が乱れる。
陽菜は動かない。
急かさず、黙って待っている。
長い時間をかけ、ようやく白いリボンが結ばれた。
恵は申し訳なさそうに言う。
「少々、形が整いませんでした」
陽菜は小さな鏡を手に取る。
左右は揃っていない。
結び目も少し緩い。
以前の恵なら、決して納得しない仕上がりだった。
それでも陽菜は、満面の笑顔を見せた。
「いいえ」
白いリボンへ、そっと触れる。
「今までで一番きれいです」
恵の目に涙が浮かぶ。
陽菜は、気づかないふりをした。
恵はいつもの言葉を口にする。
「白いリボンの妖精の出来上がりでございます」
「ありがとうございます、恵さん」
お母様とは呼ばない。
娘とも呼ばない。
だが、その呼び方には以前とは違う温もりがあった。
◇
その夜。
病室の照明が落ちた後、綾乃が恵へ旧式端末を返した。
「五分だけどすえ」
「十分いただけませんか」
「ほな、三分にします」
「五分で結構でございます」
恵は端末を起動する。
波田、真帆、綾乃の回線が一つにつながった。
波田の声が聞こえる。
「事情聴取の決裁は止めた。だが、長くはもたねえ」
真帆が続ける。
「当局は別の名目で接触を試みるはずです。政治的圧力だけでは限界があります」
綾乃が病室の扉を確認する。
「ジェネラス・リンクも、まだ出生記録を追うてます」
恵は端末を見つめる。
患者の弱々しさが、その目から消えていく。
東洋のマタ・ハリの目だった。
「では、こちらから終わらせましょう」
波田が尋ねる。
「動けるのか?」
「歩くことはできません」
恵は穏やかに答える。
「ですが、世界を欺くのに足は必要ございません」
通信の向こうで、三人が黙る。
波田は国家権力の内部へ迷路を作った。
真帆は政治と世論を盾にした。
綾乃は情報を刃へ変え、当局の実働員を封じた。
そして恵は、病床から世界中の協力者を再び動かそうとしている。
四人の目的は、ただ一つ。
陽菜と、その何気ない日常を守ること。
恵は最初の指令を入力する。
その時、病室の外に陽菜が立っていた。
会話のすべては聞こえていない。
耳へ届いたのは、波田が口にした短い言葉だけだった。
「陽菜の出生記録」
陽菜は扉へ手をかける。
だが、開かなかった。
黒髪に結ばれた、少し歪んだ白いリボンへ触れる。
「やっぱり、そうなんですね」
誰にも聞こえない声で呟く。
それでも、答えを求めようとはしなかった。
恵が話せないのなら、聞かない。
自分を守るため、命を懸けて隠し続けてきた秘密なら、そのまま受け止める。
陽菜は静かに踵を返す。
その背後では、四人が最後の作戦へ向けて動き始めていた。
国家権力の内側から道を塞ぐ波田巌蔵。
政治と世論を操り、当局の手を縛る安岡真帆。
柔らかな京言葉と鋭い情報網で、実働員を退ける西園寺綾乃。
そして病床から世界へ命令を放つ、東洋のマタ・ハリ。
夜明け前の病院を、陽菜が一人で歩いていく。
その黒髪には、恵が震える手で結んだ白いリボンが揺れていた。
母とは呼ばなかった。
けれど陽菜は、その白いリボンを結んだ手が誰のものなのか、もう知っていた。




