白いエプロンの工作員――娘の知らない、母の極秘任務 第4話 『白いリボンを守れ』 ――母は、事故に見せかけた殺意へ身を投げた
白石陽菜が宇宙人である――。
その噂がネット上に現れたのは、白石家へ最初の怪文書が届いてから二週間ほど後のことだった。
最初の投稿は、匿名掲示板へ書き込まれた短い文章だった。
白石陽菜の白いリボンは、地球外生命体との通信装置である。
根拠はなかった。
添えられていた写真は、陽菜が戦隊ヒロインのイベントステージで子どもたちに手を振っている、ごく普通の一枚だった。
ところが投稿者は、陽菜の白いリボンから空へ向かって赤い線を引き、その先に丸い光を描き加えていた。
この光は母船からの応答信号である。
専門家なら一目で分かる。
誰が専門家なのかは書かれていなかった。
数時間後には、別の説が現れた。
白石陽菜は月面基地で製造された人工生命体。
実年齢は百二十七歳。
女子大学への通学は地球文化を調査するため。
さらに別の投稿者は、陽菜がカフェで新作パフェを撮影している写真を持ち出した。
スプーンの角度に注目。
北北西三十二度を示している。
これは宇宙母船への帰還要請である。
その直後、誰かが冷静に書き込んだ。
テーブルが少し斜めになっているだけでは?
しかし、その指摘はほとんど相手にされなかった。
噂は日に日に増えていった。
白桃を五切れ食べると作戦開始の合図。
白いリボンを外すと戦闘力が三分の一になる。
黒髪のポニーテールは宇宙電波を集める補助アンテナ。
大学の礼拝堂地下には陽菜専用の発進基地がある。
戦隊ヒロインのイベントは、子どもたちを宇宙防衛軍へ勧誘するための説明会。
白石家の庭には小型宇宙船が埋められている。
杉本恵は地球人に化けた宇宙船の整備士。
西園寺綾乃は京都支部の宇宙外交官。
安岡真帆は国会へ潜入した銀河連邦の政策担当者。
波田巌蔵は宇宙競馬の予想屋。
最後の一つだけ、本人が見たら別の意味で怒りそうだった。
陽菜が通う横浜の高台にある名門女子大学でも、噂はすぐ話題になった。
歴史ある礼拝堂。
緑に囲まれた校舎。
上品な言葉遣いと清楚な服装を好む学生が多く、陽菜のような「絵に描いたようなお嬢様」が珍しくない大学である。
その清楚なお嬢様たちが、昼休みの学生ラウンジで、スマートフォンを囲んで笑っていた。
「陽菜、百二十七歳だったのね」
友人の一人が言った。
陽菜は画面を覗き込み、目を丸くする。
「変なの〜。百二十七歳なのに、一年生の必修科目で苦労しているんですか、私」
「宇宙人にも単位は必要なのよ」
「月面基地の大学では認定されなかったんでしょうね」
「それは困ります」
陽菜は本気で困った顔をした。
別の友人が、陽菜のポニーテールに結ばれた白いリボンへ目を向ける。
「これが通信装置なの?」
冗談半分で手を伸ばしかけた瞬間、陽菜の表情が変わった。
「触らないでください」
友人の手が止まる。
陽菜は普段、ほとんど怒らない。
誰に対しても明るく、礼儀正しく、少しくらいからかわれても笑って流す。
だが白いリボンだけは別だった。
「ごめんなさい」
友人はすぐ手を引いた。
陽菜も、自分の声が強くなったことに気づく。
「こちらこそ、ごめんなさい。でも、このリボンだけは駄目なんです」
「恵さんに結んでもらったものだから?」
「はい」
陽菜は白いリボンへそっと触れた。
「これは毎朝、恵さんが結んでくださるものですから」
宇宙人説は笑い飛ばせても、白いリボンだけは笑い話にできなかった。
◇
その日の夕方。
陽菜はネット上の投稿を、夕食の支度をしている杉本恵にも見せた。
「恵さん、白石家の庭に宇宙船が埋まっているらしいですよ」
恵は鍋の火加減を調整しながら、陽菜のスマートフォンを見る。
「それは存じませんでした」
「毎日お庭を見ている恵さんも知らなかったんですか?」
「随分と深く埋められているのでしょう」
「発掘してみます?」
「まず旦那さまへ許可をいただかなければなりませんね」
陽菜は楽しそうに笑った。
次の投稿を見せる。
「私のリボンは、宇宙との通信アンテナなんですって」
「昨日、洗濯してしまいました」
「壊れていませんか?」
「宇宙用でございましたら、防水加工が施されているかと存じます」
「なるほど」
陽菜は真剣に頷く。
「あと、恵さんは宇宙船の整備士だそうです」
「包丁や掃除機の修理程度でしたら、多少は承りますが」
「宇宙船も直せそうです」
「工具がございません」
「ホームセンターに売っていますかね?」
「難しいかと存じます」
恵の受け答えが予想以上に自然なので、陽菜はますます笑った。
「恵さん、こういうお話に結構付き合ってくださるんですね」
「陽菜さまが楽しそうでございますので」
「でも、反論した方がいいでしょうか。私、宇宙人ではありませんって」
「こういったものは、相手になさらないのが一番でございますよ」
「反論しない方がいいんですか?」
「反応すれば、書き込んだ方を喜ばせるだけでございます」
「では、パフェの写真が暗号ではないことも説明しなくていいですか?」
「説明なさらなくても、ほとんどの方はご理解なさっております」
「よかったです」
陽菜は安堵したように息をつく。
「でも今度から、スプーンの角度には気をつけます」
「お気になさらないでください」
陽菜は笑いながら台所を出ていった。
足音が遠ざかる。
二階の自室へ戻ったことを確認した瞬間、恵の顔から笑みが消えた。
スマートフォンを取り出し、陽菜へ見せられた投稿を再確認する。
作成されたばかりの匿名アカウント。
同時刻に投稿された似通った文章。
国内の複数地域から発信されたように見せかけながら、途中で同一の中継サーバーを通っている通信。
真実に近い内容と、誰が見ても荒唐無稽な内容が、意図的に同じ場所へ投げ込まれている。
噂を消すためではない。
噂を増やすためだ。
白石陽菜の実父は、かつての総理大臣かもしれない。
実母は、東洋のマタ・ハリと呼ばれた工作員かもしれない。
その真実を、宇宙人説や百二十七歳説と同じ箱へ放り込む。
今後、本物の情報が出ても、世間に笑わせる。
「ああ、宇宙人説と同じ類いだ」と思わせる。
嘘で真実を否定するのではない。
大量の嘘で、真実の価値そのものを失わせる。
当局が得意とする攪乱工作だった。
恵は西園寺綾乃へ暗号通信を送る。
真実を消すのではなく、笑い話へ変えようとしております。
ほどなく返信が届く。
趣味の悪いことしはりますなぁ。
せやけど宇宙競馬の予想屋だけは、少し見てみたいどす。
恵は一瞬だけ画面を見つめた。
波田巌蔵の名誉のため、その部分には返答しなかった。
◇
陽菜の生活は、表面上何も変わらなかった。
午前中は大学の講義。
午後は戦隊ヒロインのイベント。
帰宅後は課題と、カフェの新作情報の確認。
その日は、青少年育成を目的とした地域イベントへ出演した。
白いリボンを揺らしながらステージへ現れると、会場の子どもたちから大きな歓声が上がる。
「白いリボンの妖精だ!」
「陽菜お姉ちゃん!」
陽菜は笑顔で手を振った。
舞台袖には、ヒロ室フロントの安岡真帆と、西園寺綾乃が立っている。
綾乃は出演者として。
真帆は運営責任者として。
二人とも、客席より周辺の出入口を警戒していた。
イベントの途中、一人の幼い女の子が緊張して泣き出した。
陽菜はすぐ、その子の前へしゃがむ。
「大丈夫ですよ」
優しく手を差し出す。
「私と一緒にやってみましょう」
女の子は涙を拭い、陽菜の手を握った。
二人で簡単な決めポーズを取る。
会場から拍手が起きた。
陽菜は女の子へ笑いかける。
打算も演技もない、屈託のない笑顔だった。
舞台袖で見ていた真帆が、無意識に手を握りしめる。
「この笑顔を、失わせるわけにはいきません」
綾乃も陽菜から目を離さずに答える。
「当局でも、何でも。触れさせまへん」
自分たちの将来を失っても。
国家から敵と見なされても。
何も知らず笑っている陽菜だけは守る。
二人は同じ覚悟を、言葉に出さず共有した。
◇
その日から、恵、綾乃、真帆は秘密裏に二十四時間体制の監視を始めた。
恵は白石家と通学経路。
綾乃は大学とイベント会場。
真帆はヒロ室の予定管理と当局内部の動き。
三人は暗号化された通信で、陽菜の行動を常に共有する。
ただし、本人には絶対に知らせない。
陽菜へ恐怖を与えないため。
出生の秘密へさらに近づかせないため。
そして、当局側へ警戒していることを悟らせないためだった。
ところが陽菜の行動は、計画どおりには進まない。
真帆が安全上の理由から、
「今日は駅の西口を利用してください」
と指示を出す。
陽菜は素直に西口へ向かう。
そこまではよかった。
しかし綾乃が経路変更を自然に思わせるため、
「西口に新しい焼き菓子屋さんがありますえ」
と余計な情報を付け加えた。
その結果、陽菜は店へ立ち寄った。
真帆から緊急通信が入る。
陽菜さんが予定外の店舗へ入りました。
綾乃が返信する。
うちが教えました。
なぜ具体的な店名まで伝えたのですか。
西口へ行く理由が必要どしたさかい。
現在、陽菜さんはフィナンシェを六種類比較しています。
しばらくかかりそうどすなぁ。
警備計画が十五分遅れています。
お土産は要ります?
真帆からの返信は、しばらく来なかった。
同じ頃。
白石家で夕食の支度をしていた恵のもとへ、陽菜から連絡が届く。
帰りが少し遅くなります。
フィナンシェを選んでいます。
恵は一度、目を閉じた。
国家規模の監視網を警戒する三人を、焼き菓子が足止めしている。
承知いたしました。
道中、お気をつけくださいませ。
そう返信する。
三人が守りたいのは、まさにこの平和だった。
フィナンシェの味で迷い、パフェの写真を撮り、ネットの宇宙人説を笑う日常。
それを守るためなら、どれほど非効率でも構わなかった。
◇
その夜。
恵はネット上の新たな投稿を見つけた。
白いリボンの妖精は、近いうちに空へ帰る。
地上の乗り物には気をつけろ。
宇宙人説を続ける悪趣味な冗談。
普通の人間なら、そう判断しただろう。
だが恵は、「地上の乗り物」という表現を知っていた。
二十年前、当局の非公式作戦で、交通事故を利用した排除を示す隠語として使われていた。
投稿時刻にも規則性がある。
陽菜が翌朝通る交差点の信号切り替え時刻。
投稿に添付された画像の数字は、配送会社の車両番号と一致している。
さらに陽菜の通学路では、早朝に信号設備の点検が行われる予定になっていた。
恵は外部回線を使い、配送車の予定経路を調べる。
通常とは異なる道。
通常とは異なる時刻。
そして、陽菜が横断歩道を渡る時刻と重なっている。
偶然が多すぎた。
恵は綾乃と真帆へ警告する。
明朝、通学経路に異常あり。
陽菜さまの経路変更を要請いたします。
真帆は車を手配しようとする。
しかし陽菜は、午前最初の講義で発表を担当していた。
「道路が混んだら遅刻してしまいます。いつもの電車で行きます」
強く止めれば、理由を問われる。
講義を急に中止させれば、大学側にも不審がられる。
真帆は大学周辺の警備を増やす。
綾乃は駅前で待機する。
恵は、自分で陽菜の後を追うことを決める。
距離を取り、気づかれないように。
二十年前、複数の情報機関の監視を抜けた技術を、娘の通学を見守るために使う。
◇
翌朝。
陽菜はいつものように鏡台の前へ座った。
艶やかな黒髪を高い位置で一つにまとめ、白いリボンを恵へ渡す。
「今日もお願いします」
「かしこまりました」
恵はポニーテールへリボンを回し、丁寧に結ぶ。
いつもと同じ朝。
いつもと同じ手順。
しかし、その日の恵は、陽菜の髪の温もりを指先へ刻みつけるように、ゆっくりと形を整えた。
これが最後になるかもしれない。
そんな予感が、胸の奥にあった。
だが表情には出さない。
「白いリボンの妖精の出来上がりでございます」
陽菜は鏡の中の自分を見て笑った。
「今日も完璧ですね」
「大変よくお似合いでございます」
陽菜は立ち上がる。
「帰りに、白いリボンのモンブランを買ってきてもいいですか?」
「売り切れていなければ、どうぞ」
「恵さんの分も買ってきますね」
一瞬、恵の胸が詰まった。
「楽しみにしております」
「いってきます」
「いってらっしゃいませ、陽菜さま」
玄関の扉が閉まる。
恵は窓から、白いリボンが遠ざかるのを見送った。
数分後。
白いエプロンを外し、目立たないコートを羽織って白石家を出る。
陽菜から一定の距離を取り、後を追う。
◇
陽菜は駅へ向かいながら、大学の友人と電話で話していた。
「今朝も新しい噂が出ていましたよ」
電話の向こうで友人が笑う。
『今度は何?』
「私、月に一度、月面基地へ帰っているそうです」
『講義を休んだ日は、宇宙出張だったのね』
「風邪だったんですけどね」
『宇宙風邪かもしれないわよ』
「それは普通の薬で治りますかね?」
陽菜は楽しそうに笑った。
その後方で、恵は周囲を観察している。
同じ速度で走る作業車。
交差点付近に立つ男。
信号制御箱の前にいる作業員。
通常より速い配送車。
一つ一つは、不自然ではない。
だが同時に存在すると、景色が変わる。
陽菜が横断歩道の前へ着く。
歩行者用信号が赤から青へ変わる。
周囲の人々が歩き始める。
陽菜も一歩を踏み出した。
その瞬間、恵は気づいた。
車両側の信号も青のままだ。
信号設備へ細工されている。
右側から配送車が近づいてくる。
運転手は前方の歩行者に気づき、慌ててブレーキを踏んでいる。
だが車は減速しない。
ブレーキ系統にも細工されている。
歩行者信号は青。
車両信号も青。
運転手は通常どおり走っていただけ。
陽菜も通常どおり横断歩道を渡っただけ。
事故が起きれば、信号設備の故障と車両整備不良が重なった、不幸な偶然として処理できる。
誰も殺人を命じていない。
誰も陽菜を狙ったとは認めない。
複数の偶然へ偽装された、当局の殺意。
「陽菜さま!」
恵が叫んだ。
陽菜が振り返る。
白いリボンが、朝の風に揺れる。
迫る配送車。
驚いた陽菜の顔。
恵は走った。
考える時間はなかった。
娘と車の間へ、自分の身体を差し入れる。
陽菜の肩を抱くように押し、歩道側へ突き飛ばす。
陽菜は地面へ倒れ込んだ。
手のひらと膝を擦る。
だが車の進路からは外れた。
次の瞬間。
激しい衝突音が交差点へ響いた。
◇
衝撃を受ける直前。
恵の身体は、意識より先に動いていた。
顎を引く。
身体をひねる。
腕で頭部を守る。
衝撃を一点へ受けず、斜めへ逃がす。
二十年前、繰り返し叩き込まれた防御動作。
長い年月を経ても、身体だけは忘れていなかった。
だが、車の力はあまりにも大きかった。
恵の身体が宙へ浮く。
数メートル先へ叩きつけられる。
白いリボンが陽菜の髪からほどけ、二人の間へ舞い落ちた。
配送車がようやく停止する。
悲鳴。
クラクション。
駆け寄る人々。
陽菜は地面へ倒れたまま、何が起きたのか理解できなかった。
自分の身体に痛みはある。
だが大きな怪我はない。
「恵さん……?」
顔を上げる。
数メートル先に、恵が倒れていた。
動かない。
「恵さん?」
陽菜は震える足で立ち上がった。
駆け寄る。
「恵さん!」
返事はない。
恵の顔は青白い。
呼吸は浅く、血の気が失われている。
陽菜は恵のそばへ膝をつき、その手を握った。
「恵さん。起きてください」
周囲では誰かが救急車を呼んでいる。
配送車の運転手が、ブレーキが利かなかったと叫んでいる。
だが陽菜には、ほとんど聞こえない。
「私です。陽菜です」
恵の瞼が、ほんの僅かに開いた。
最初に探したのは、陽菜の顔だった。
次に、陽菜の手足へ視線を動かす。
「陽菜さま……お怪我は……」
消え入りそうな声。
「私は大丈夫です」
陽菜は泣きながら答えた。
「私は大丈夫ですから。恵さんが……」
恵の口元が、ごく僅かに緩む。
「それは……ようございました」
「どうして私を庇ったんですか」
恵は答えられない。
母親だから。
娘を守るのに、理由など必要ないから。
二十年間、一度も口にできなかった答えが、喉の奥にあった。
恵の視線が、道路へ落ちた白いリボンへ向かう。
陽菜は気づき、リボンを拾い上げた。
白かった布には、道路の汚れがついている。
陽菜はそれを胸へ抱えた。
「恵さん。明日の朝はどうするんですか」
恵の瞼が閉じかける。
「ご自分で……結ぶ練習を……」
「嫌です」
陽菜は激しく首を振った。
「絶対に嫌です」
涙が恵の手へ落ちる。
「恵さんが結んでください。明日も、明後日も、その次も。ずっと恵さんが結んでください」
恵の指先が、陽菜の手の中で微かに動いた。
何かを言おうとした。
だが声にはならない。
そのまま意識を失った。
「恵さん!」
陽菜の叫びが交差点へ響いた。
◇
陽菜は、ほぼ無傷だった。
手のひらと膝に擦り傷があるだけ。
しかし救急車へ乗り込んでから、一言も話さなくなった。
汚れた白いリボンを両手で握りしめ、担架に横たわる恵を見つめている。
「ご家族ですか?」
救急隊員に尋ねられた。
陽菜は答えようとして、言葉に詰まった。
家族。
恵は白石家の家政婦である。
書類上は、それだけだ。
だが陽菜にとって、そんな言葉では足りなかった。
「一番……大切な人です」
ようやく答えた。
恵は意識を取り戻さない。
病院へ到着すると、そのまま緊急手術へ運ばれた。
医師は陽菜たちへ告げた。
「極めて危険な状態です」
手術室の扉が閉まる。
赤いランプが点灯する。
陽菜は廊下の椅子へ座った。
白いリボンを握ったまま、動かない。
西園寺綾乃と安岡真帆が駆けつける。
普段の陽菜なら、どれほど不安でも二人へ挨拶をしただろう。
だが顔を上げることすらできない。
「陽菜はん」
綾乃が隣へ座る。
陽菜はリボンを見たまま言った。
「恵さんが、私を押したんです」
声が震えている。
「私の代わりに、車に……」
言葉が途切れる。
真帆が陽菜の前へしゃがむ。
「陽菜さんの責任ではありません」
「でも、私があの道を通らなければ」
「違います」
「私がもっと早く家を出ていれば」
「陽菜さん」
「私がモンブランの話なんかしなければ……」
論理的なつながりはなかった。
ただ陽菜は、自分を責めずにはいられなかった。
朝、恵へモンブランを買ってくると言った。
恵は「楽しみにしております」と答えた。
その約束が、もう果たせないかもしれない。
「恵さんは、私のせいで……」
「違います」
真帆はもう一度、強く言った。
「悪いのは、事故を起こした者です」
事故。
その言葉を使いながら、真帆も綾乃も、偶然ではないと理解していた。
陽菜はようやく顔を上げる。
目は赤く腫れていた。
「恵さんは、どうして分かったんでしょう」
二人は黙った。
「車が来る前に、私の名前を呼びました」
陽菜は続ける。
「どうして、あそこにいたんですか?」
答えられない。
恵は偶然通りかかったのではない。
陽菜の危険を察知し、後をつけていた。
「恵さんは、私を見張っていたんですか?」
「心配で、様子を見に来たのかもしれません」
真帆が答える。
「どうして、そこまで……」
陽菜は白いリボンを握り直す。
「恵さんって、本当は何者なんですか?」
綾乃は、しばらく陽菜を見つめた。
そして静かに答える。
「陽菜はんを、誰より大切に思うてはる人どす」
「それだけですか?」
「今は、それだけで十分どす」
陽菜は納得していなかった。
だが問い続ける気力も残っていない。
「恵さんが目を覚ましたら、全部聞きます」
綾乃と真帆は目を合わせた。
目を覚ませば、陽菜の疑問は深まる。
目を覚まさなければ、恵が二十年間隠してきた真実は、本人の口から永遠に語られない。
◇
事故現場を調べた綾乃は、次々と不審な点を見つけた。
歩行者信号と車両信号が同時に青になっていた。
事故直前、信号設備の点検作業が行われている。
作業会社へ問い合わせると、その日の点検予定は存在しなかった。
配送車のブレーキホースには、不自然な傷がある。
周辺の監視カメラは、事故の前後十五分間だけ映像が途切れていた。
現場にいた作業員は、全員行方が分からない。
偶然ではない。
陽菜を消すために組み立てられた作戦だった。
真帆が当局内部の人脈へ問い合わせても、返ってくる答えは一つだけ。
当局は一切関知していない。
波田巌蔵は電話口で怒鳴った。
「陽菜に手を出すなと言ったはずだ!」
当局の幹部は冷静に答える。
「交通事故について、当局は関知しておりません」
「信号と車の両方へ細工した事故があるか!」
「証拠があるのであれば、警察へご提出ください」
「出した瞬間、証拠ごと消すつもりだろうが」
「波田さん。感情的になっておられるようです」
「当たり前だ!」
波田は電話を握りしめる。
「オイラはこれまで、国家のために何人も切り捨ててきた」
電話の向こうは沈黙している。
「だが、陽菜だけは駄目だ」
「個人的感情で国家安全保障を損なわないでください」
「個人的感情で結構だ」
波田は低く言った。
「今度また手を出したら、オイラが知っている二十年分の機密を、全部ひっくり返してやる」
実際には切れないカードだった。
機密を公表すれば、陽菜の出生まで明るみに出る。
当局側も、それを知っている。
それでも波田には、虚勢を張ることしかできなかった。
電話を切り、胃薬のケースを開ける。
空だった。
「こういう時に限って切れてやがる」
いつもなら笑い話になる一言。
だが、その夜は誰も笑わなかった。
◇
恵の手術は長時間に及んだ。
手術室の中で、医師の一人が恵の身体に残された古い傷痕へ気づく。
銃創。
刃物による傷。
骨折の痕。
どれも通常の家政婦の生活では負わないものだった。
さらに衝突による損傷を確認した医師が、不可解そうに言う。
「この人、衝突直前に身体をひねっている」
「反射的にですか?」
「普通の反射じゃない」
頭部を守り、衝撃を斜めへ逃がし、致命傷を避けようとした痕跡。
特殊な訓練を受けた者だけが行える動き。
もしその動きがなければ、その場で命を落としていた可能性が高い。
だが、だからといって助かるとは限らない。
モニターの数値は安定しない。
医師たちの声が飛び交う。
手術室の外には、その音は届かない。
◇
深夜になっても、陽菜は椅子から動かなかった。
水も飲まない。
食事も取らない。
真帆が何度勧めても、首を振るだけだった。
「少し休みましょう」
「嫌です」
「陽菜さん」
「私がいない間に、恵さんが出てきたら困ります」
「私たちがいます」
「私がいなければ駄目です」
その言い方は、白いリボンを誰にも触らせない時と同じだった。
恵のそばにいる役目を、誰にも譲ろうとしない。
陽菜は汚れた白いリボンを、何度も丁寧に伸ばした。
だがうまく形が戻らない。
「恵さんなら、すぐきれいに直せるのに」
声が震える。
「私、まだ一人で結べないんです」
綾乃が隣で俯く。
陽菜はリボンへ話しかけるように続けた。
「明日の朝、どうしたらいいんでしょう」
返事はない。
「白いリボンの妖精の出来上がりって、まだ言ってもらっていないんです」
手術室のランプは消えない。
日付が変わる。
陽菜にとって、生まれて初めて、恵が白いリボンを結んでくれない朝が近づいていた。
◇
病院の外へ、一台の黒い車が停まる。
車内の男が、暗号化された端末へ報告を送る。
対象Hは生存。
杉本恵の容体は不明。
防御動作の痕跡あり。
東洋のマタ・ハリである可能性を再評価する。
必要なら病院内で処理する。
送信を終え、男は病院の入口を見る。
その頃、手術室の中では、恵の心拍が大きく乱れていた。
警告音が鳴る。
医師が指示を飛ばす。
陽菜には何も聞こえない。
ただ、両手の中にある白いリボンが、急に冷たくなったように感じた。
「恵さん……」
陽菜は顔を伏せる。
そして初めて、声を上げて泣いた。
母親だとは知らない。
東洋のマタ・ハリだったことも知らない。
それでも恵は、陽菜にとって誰よりも失いたくない人だった。
手術室のランプは、消えない。
恵が生きているのか。
もう二度と戻らないのか。
答えが示されないまま、夜だけが深くなっていく。
そして白石家の陽菜の部屋では、鏡台の前の椅子だけが空のまま朝を待っていた。
最後の一文。
その朝、白いリボンの妖精は、初めて白いリボンを結ばずに夜明けを迎えた。




