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ヒロインズ・リンク 〜戦隊ヒロインプロジェクト〜  作者: スパイク


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1068/1203

白いエプロンの工作員――娘の知らない、母の極秘任務  第4話 『白いリボンを守れ』 ――母は、事故に見せかけた殺意へ身を投げた

白石陽菜が宇宙人である――。


その噂がネット上に現れたのは、白石家へ最初の怪文書が届いてから二週間ほど後のことだった。


最初の投稿は、匿名掲示板へ書き込まれた短い文章だった。


白石陽菜の白いリボンは、地球外生命体との通信装置である。


根拠はなかった。


添えられていた写真は、陽菜が戦隊ヒロインのイベントステージで子どもたちに手を振っている、ごく普通の一枚だった。


ところが投稿者は、陽菜の白いリボンから空へ向かって赤い線を引き、その先に丸い光を描き加えていた。


この光は母船からの応答信号である。

専門家なら一目で分かる。


誰が専門家なのかは書かれていなかった。


数時間後には、別の説が現れた。


白石陽菜は月面基地で製造された人工生命体。

実年齢は百二十七歳。

女子大学への通学は地球文化を調査するため。


さらに別の投稿者は、陽菜がカフェで新作パフェを撮影している写真を持ち出した。


スプーンの角度に注目。

北北西三十二度を示している。

これは宇宙母船への帰還要請である。


その直後、誰かが冷静に書き込んだ。


テーブルが少し斜めになっているだけでは?


しかし、その指摘はほとんど相手にされなかった。


噂は日に日に増えていった。


白桃を五切れ食べると作戦開始の合図。


白いリボンを外すと戦闘力が三分の一になる。


黒髪のポニーテールは宇宙電波を集める補助アンテナ。


大学の礼拝堂地下には陽菜専用の発進基地がある。


戦隊ヒロインのイベントは、子どもたちを宇宙防衛軍へ勧誘するための説明会。


白石家の庭には小型宇宙船が埋められている。


杉本恵は地球人に化けた宇宙船の整備士。


西園寺綾乃は京都支部の宇宙外交官。


安岡真帆は国会へ潜入した銀河連邦の政策担当者。


波田巌蔵は宇宙競馬の予想屋。


最後の一つだけ、本人が見たら別の意味で怒りそうだった。


陽菜が通う横浜の高台にある名門女子大学でも、噂はすぐ話題になった。


歴史ある礼拝堂。


緑に囲まれた校舎。


上品な言葉遣いと清楚な服装を好む学生が多く、陽菜のような「絵に描いたようなお嬢様」が珍しくない大学である。


その清楚なお嬢様たちが、昼休みの学生ラウンジで、スマートフォンを囲んで笑っていた。


「陽菜、百二十七歳だったのね」


友人の一人が言った。


陽菜は画面を覗き込み、目を丸くする。


「変なの〜。百二十七歳なのに、一年生の必修科目で苦労しているんですか、私」


「宇宙人にも単位は必要なのよ」


「月面基地の大学では認定されなかったんでしょうね」


「それは困ります」


陽菜は本気で困った顔をした。


別の友人が、陽菜のポニーテールに結ばれた白いリボンへ目を向ける。


「これが通信装置なの?」


冗談半分で手を伸ばしかけた瞬間、陽菜の表情が変わった。


「触らないでください」


友人の手が止まる。


陽菜は普段、ほとんど怒らない。


誰に対しても明るく、礼儀正しく、少しくらいからかわれても笑って流す。


だが白いリボンだけは別だった。


「ごめんなさい」


友人はすぐ手を引いた。


陽菜も、自分の声が強くなったことに気づく。


「こちらこそ、ごめんなさい。でも、このリボンだけは駄目なんです」


「恵さんに結んでもらったものだから?」


「はい」


陽菜は白いリボンへそっと触れた。


「これは毎朝、恵さんが結んでくださるものですから」


宇宙人説は笑い飛ばせても、白いリボンだけは笑い話にできなかった。


     ◇


その日の夕方。


陽菜はネット上の投稿を、夕食の支度をしている杉本恵にも見せた。


「恵さん、白石家の庭に宇宙船が埋まっているらしいですよ」


恵は鍋の火加減を調整しながら、陽菜のスマートフォンを見る。


「それは存じませんでした」


「毎日お庭を見ている恵さんも知らなかったんですか?」


「随分と深く埋められているのでしょう」


「発掘してみます?」


「まず旦那さまへ許可をいただかなければなりませんね」


陽菜は楽しそうに笑った。


次の投稿を見せる。


「私のリボンは、宇宙との通信アンテナなんですって」


「昨日、洗濯してしまいました」


「壊れていませんか?」


「宇宙用でございましたら、防水加工が施されているかと存じます」


「なるほど」


陽菜は真剣に頷く。


「あと、恵さんは宇宙船の整備士だそうです」


「包丁や掃除機の修理程度でしたら、多少は承りますが」


「宇宙船も直せそうです」


「工具がございません」


「ホームセンターに売っていますかね?」


「難しいかと存じます」


恵の受け答えが予想以上に自然なので、陽菜はますます笑った。


「恵さん、こういうお話に結構付き合ってくださるんですね」


「陽菜さまが楽しそうでございますので」


「でも、反論した方がいいでしょうか。私、宇宙人ではありませんって」


「こういったものは、相手になさらないのが一番でございますよ」


「反論しない方がいいんですか?」


「反応すれば、書き込んだ方を喜ばせるだけでございます」


「では、パフェの写真が暗号ではないことも説明しなくていいですか?」


「説明なさらなくても、ほとんどの方はご理解なさっております」


「よかったです」


陽菜は安堵したように息をつく。


「でも今度から、スプーンの角度には気をつけます」


「お気になさらないでください」


陽菜は笑いながら台所を出ていった。


足音が遠ざかる。


二階の自室へ戻ったことを確認した瞬間、恵の顔から笑みが消えた。


スマートフォンを取り出し、陽菜へ見せられた投稿を再確認する。


作成されたばかりの匿名アカウント。


同時刻に投稿された似通った文章。


国内の複数地域から発信されたように見せかけながら、途中で同一の中継サーバーを通っている通信。


真実に近い内容と、誰が見ても荒唐無稽な内容が、意図的に同じ場所へ投げ込まれている。


噂を消すためではない。


噂を増やすためだ。


白石陽菜の実父は、かつての総理大臣かもしれない。


実母は、東洋のマタ・ハリと呼ばれた工作員かもしれない。


その真実を、宇宙人説や百二十七歳説と同じ箱へ放り込む。


今後、本物の情報が出ても、世間に笑わせる。


「ああ、宇宙人説と同じ類いだ」と思わせる。


嘘で真実を否定するのではない。


大量の嘘で、真実の価値そのものを失わせる。


当局が得意とする攪乱工作だった。


恵は西園寺綾乃へ暗号通信を送る。


真実を消すのではなく、笑い話へ変えようとしております。


ほどなく返信が届く。


趣味の悪いことしはりますなぁ。

せやけど宇宙競馬の予想屋だけは、少し見てみたいどす。


恵は一瞬だけ画面を見つめた。


波田巌蔵の名誉のため、その部分には返答しなかった。


     ◇


陽菜の生活は、表面上何も変わらなかった。


午前中は大学の講義。


午後は戦隊ヒロインのイベント。


帰宅後は課題と、カフェの新作情報の確認。


その日は、青少年育成を目的とした地域イベントへ出演した。


白いリボンを揺らしながらステージへ現れると、会場の子どもたちから大きな歓声が上がる。


「白いリボンの妖精だ!」


「陽菜お姉ちゃん!」


陽菜は笑顔で手を振った。


舞台袖には、ヒロ室フロントの安岡真帆と、西園寺綾乃が立っている。


綾乃は出演者として。


真帆は運営責任者として。


二人とも、客席より周辺の出入口を警戒していた。


イベントの途中、一人の幼い女の子が緊張して泣き出した。


陽菜はすぐ、その子の前へしゃがむ。


「大丈夫ですよ」


優しく手を差し出す。


「私と一緒にやってみましょう」


女の子は涙を拭い、陽菜の手を握った。


二人で簡単な決めポーズを取る。


会場から拍手が起きた。


陽菜は女の子へ笑いかける。


打算も演技もない、屈託のない笑顔だった。


舞台袖で見ていた真帆が、無意識に手を握りしめる。


「この笑顔を、失わせるわけにはいきません」


綾乃も陽菜から目を離さずに答える。


「当局でも、何でも。触れさせまへん」


自分たちの将来を失っても。


国家から敵と見なされても。


何も知らず笑っている陽菜だけは守る。


二人は同じ覚悟を、言葉に出さず共有した。


     ◇


その日から、恵、綾乃、真帆は秘密裏に二十四時間体制の監視を始めた。


恵は白石家と通学経路。


綾乃は大学とイベント会場。


真帆はヒロ室の予定管理と当局内部の動き。


三人は暗号化された通信で、陽菜の行動を常に共有する。


ただし、本人には絶対に知らせない。


陽菜へ恐怖を与えないため。


出生の秘密へさらに近づかせないため。


そして、当局側へ警戒していることを悟らせないためだった。


ところが陽菜の行動は、計画どおりには進まない。


真帆が安全上の理由から、


「今日は駅の西口を利用してください」


と指示を出す。


陽菜は素直に西口へ向かう。


そこまではよかった。


しかし綾乃が経路変更を自然に思わせるため、


「西口に新しい焼き菓子屋さんがありますえ」


と余計な情報を付け加えた。


その結果、陽菜は店へ立ち寄った。


真帆から緊急通信が入る。


陽菜さんが予定外の店舗へ入りました。


綾乃が返信する。


うちが教えました。


なぜ具体的な店名まで伝えたのですか。


西口へ行く理由が必要どしたさかい。


現在、陽菜さんはフィナンシェを六種類比較しています。


しばらくかかりそうどすなぁ。


警備計画が十五分遅れています。


お土産は要ります?


真帆からの返信は、しばらく来なかった。


同じ頃。


白石家で夕食の支度をしていた恵のもとへ、陽菜から連絡が届く。


帰りが少し遅くなります。

フィナンシェを選んでいます。


恵は一度、目を閉じた。


国家規模の監視網を警戒する三人を、焼き菓子が足止めしている。


承知いたしました。

道中、お気をつけくださいませ。


そう返信する。


三人が守りたいのは、まさにこの平和だった。


フィナンシェの味で迷い、パフェの写真を撮り、ネットの宇宙人説を笑う日常。


それを守るためなら、どれほど非効率でも構わなかった。


     ◇


その夜。


恵はネット上の新たな投稿を見つけた。


白いリボンの妖精は、近いうちに空へ帰る。

地上の乗り物には気をつけろ。


宇宙人説を続ける悪趣味な冗談。


普通の人間なら、そう判断しただろう。


だが恵は、「地上の乗り物」という表現を知っていた。


二十年前、当局の非公式作戦で、交通事故を利用した排除を示す隠語として使われていた。


投稿時刻にも規則性がある。


陽菜が翌朝通る交差点の信号切り替え時刻。


投稿に添付された画像の数字は、配送会社の車両番号と一致している。


さらに陽菜の通学路では、早朝に信号設備の点検が行われる予定になっていた。


恵は外部回線を使い、配送車の予定経路を調べる。


通常とは異なる道。


通常とは異なる時刻。


そして、陽菜が横断歩道を渡る時刻と重なっている。


偶然が多すぎた。


恵は綾乃と真帆へ警告する。


明朝、通学経路に異常あり。

陽菜さまの経路変更を要請いたします。


真帆は車を手配しようとする。


しかし陽菜は、午前最初の講義で発表を担当していた。


「道路が混んだら遅刻してしまいます。いつもの電車で行きます」


強く止めれば、理由を問われる。


講義を急に中止させれば、大学側にも不審がられる。


真帆は大学周辺の警備を増やす。


綾乃は駅前で待機する。


恵は、自分で陽菜の後を追うことを決める。


距離を取り、気づかれないように。


二十年前、複数の情報機関の監視を抜けた技術を、娘の通学を見守るために使う。


     ◇


翌朝。


陽菜はいつものように鏡台の前へ座った。


艶やかな黒髪を高い位置で一つにまとめ、白いリボンを恵へ渡す。


「今日もお願いします」


「かしこまりました」


恵はポニーテールへリボンを回し、丁寧に結ぶ。


いつもと同じ朝。


いつもと同じ手順。


しかし、その日の恵は、陽菜の髪の温もりを指先へ刻みつけるように、ゆっくりと形を整えた。


これが最後になるかもしれない。


そんな予感が、胸の奥にあった。


だが表情には出さない。


「白いリボンの妖精の出来上がりでございます」


陽菜は鏡の中の自分を見て笑った。


「今日も完璧ですね」


「大変よくお似合いでございます」


陽菜は立ち上がる。


「帰りに、白いリボンのモンブランを買ってきてもいいですか?」


「売り切れていなければ、どうぞ」


「恵さんの分も買ってきますね」


一瞬、恵の胸が詰まった。


「楽しみにしております」


「いってきます」


「いってらっしゃいませ、陽菜さま」


玄関の扉が閉まる。


恵は窓から、白いリボンが遠ざかるのを見送った。


数分後。


白いエプロンを外し、目立たないコートを羽織って白石家を出る。


陽菜から一定の距離を取り、後を追う。


     ◇


陽菜は駅へ向かいながら、大学の友人と電話で話していた。


「今朝も新しい噂が出ていましたよ」


電話の向こうで友人が笑う。


『今度は何?』


「私、月に一度、月面基地へ帰っているそうです」


『講義を休んだ日は、宇宙出張だったのね』


「風邪だったんですけどね」


『宇宙風邪かもしれないわよ』


「それは普通の薬で治りますかね?」


陽菜は楽しそうに笑った。


その後方で、恵は周囲を観察している。


同じ速度で走る作業車。


交差点付近に立つ男。


信号制御箱の前にいる作業員。


通常より速い配送車。


一つ一つは、不自然ではない。


だが同時に存在すると、景色が変わる。


陽菜が横断歩道の前へ着く。


歩行者用信号が赤から青へ変わる。


周囲の人々が歩き始める。


陽菜も一歩を踏み出した。


その瞬間、恵は気づいた。


車両側の信号も青のままだ。


信号設備へ細工されている。


右側から配送車が近づいてくる。


運転手は前方の歩行者に気づき、慌ててブレーキを踏んでいる。


だが車は減速しない。


ブレーキ系統にも細工されている。


歩行者信号は青。


車両信号も青。


運転手は通常どおり走っていただけ。


陽菜も通常どおり横断歩道を渡っただけ。


事故が起きれば、信号設備の故障と車両整備不良が重なった、不幸な偶然として処理できる。


誰も殺人を命じていない。


誰も陽菜を狙ったとは認めない。


複数の偶然へ偽装された、当局の殺意。


「陽菜さま!」


恵が叫んだ。


陽菜が振り返る。


白いリボンが、朝の風に揺れる。


迫る配送車。


驚いた陽菜の顔。


恵は走った。


考える時間はなかった。


娘と車の間へ、自分の身体を差し入れる。


陽菜の肩を抱くように押し、歩道側へ突き飛ばす。


陽菜は地面へ倒れ込んだ。


手のひらと膝を擦る。


だが車の進路からは外れた。


次の瞬間。


激しい衝突音が交差点へ響いた。


     ◇


衝撃を受ける直前。


恵の身体は、意識より先に動いていた。


顎を引く。


身体をひねる。


腕で頭部を守る。


衝撃を一点へ受けず、斜めへ逃がす。


二十年前、繰り返し叩き込まれた防御動作。


長い年月を経ても、身体だけは忘れていなかった。


だが、車の力はあまりにも大きかった。


恵の身体が宙へ浮く。


数メートル先へ叩きつけられる。


白いリボンが陽菜の髪からほどけ、二人の間へ舞い落ちた。


配送車がようやく停止する。


悲鳴。


クラクション。


駆け寄る人々。


陽菜は地面へ倒れたまま、何が起きたのか理解できなかった。


自分の身体に痛みはある。


だが大きな怪我はない。


「恵さん……?」


顔を上げる。


数メートル先に、恵が倒れていた。


動かない。


「恵さん?」


陽菜は震える足で立ち上がった。


駆け寄る。


「恵さん!」


返事はない。


恵の顔は青白い。


呼吸は浅く、血の気が失われている。


陽菜は恵のそばへ膝をつき、その手を握った。


「恵さん。起きてください」


周囲では誰かが救急車を呼んでいる。


配送車の運転手が、ブレーキが利かなかったと叫んでいる。


だが陽菜には、ほとんど聞こえない。


「私です。陽菜です」


恵の瞼が、ほんの僅かに開いた。


最初に探したのは、陽菜の顔だった。


次に、陽菜の手足へ視線を動かす。


「陽菜さま……お怪我は……」


消え入りそうな声。


「私は大丈夫です」


陽菜は泣きながら答えた。


「私は大丈夫ですから。恵さんが……」


恵の口元が、ごく僅かに緩む。


「それは……ようございました」


「どうして私を庇ったんですか」


恵は答えられない。


母親だから。


娘を守るのに、理由など必要ないから。


二十年間、一度も口にできなかった答えが、喉の奥にあった。


恵の視線が、道路へ落ちた白いリボンへ向かう。


陽菜は気づき、リボンを拾い上げた。


白かった布には、道路の汚れがついている。


陽菜はそれを胸へ抱えた。


「恵さん。明日の朝はどうするんですか」


恵の瞼が閉じかける。


「ご自分で……結ぶ練習を……」


「嫌です」


陽菜は激しく首を振った。


「絶対に嫌です」


涙が恵の手へ落ちる。


「恵さんが結んでください。明日も、明後日も、その次も。ずっと恵さんが結んでください」


恵の指先が、陽菜の手の中で微かに動いた。


何かを言おうとした。


だが声にはならない。


そのまま意識を失った。


「恵さん!」


陽菜の叫びが交差点へ響いた。


     ◇


陽菜は、ほぼ無傷だった。


手のひらと膝に擦り傷があるだけ。


しかし救急車へ乗り込んでから、一言も話さなくなった。


汚れた白いリボンを両手で握りしめ、担架に横たわる恵を見つめている。


「ご家族ですか?」


救急隊員に尋ねられた。


陽菜は答えようとして、言葉に詰まった。


家族。


恵は白石家の家政婦である。


書類上は、それだけだ。


だが陽菜にとって、そんな言葉では足りなかった。


「一番……大切な人です」


ようやく答えた。


恵は意識を取り戻さない。


病院へ到着すると、そのまま緊急手術へ運ばれた。


医師は陽菜たちへ告げた。


「極めて危険な状態です」


手術室の扉が閉まる。


赤いランプが点灯する。


陽菜は廊下の椅子へ座った。


白いリボンを握ったまま、動かない。


西園寺綾乃と安岡真帆が駆けつける。


普段の陽菜なら、どれほど不安でも二人へ挨拶をしただろう。


だが顔を上げることすらできない。


「陽菜はん」


綾乃が隣へ座る。


陽菜はリボンを見たまま言った。


「恵さんが、私を押したんです」


声が震えている。


「私の代わりに、車に……」


言葉が途切れる。


真帆が陽菜の前へしゃがむ。


「陽菜さんの責任ではありません」


「でも、私があの道を通らなければ」


「違います」


「私がもっと早く家を出ていれば」


「陽菜さん」


「私がモンブランの話なんかしなければ……」


論理的なつながりはなかった。


ただ陽菜は、自分を責めずにはいられなかった。


朝、恵へモンブランを買ってくると言った。


恵は「楽しみにしております」と答えた。


その約束が、もう果たせないかもしれない。


「恵さんは、私のせいで……」


「違います」


真帆はもう一度、強く言った。


「悪いのは、事故を起こした者です」


事故。


その言葉を使いながら、真帆も綾乃も、偶然ではないと理解していた。


陽菜はようやく顔を上げる。


目は赤く腫れていた。


「恵さんは、どうして分かったんでしょう」


二人は黙った。


「車が来る前に、私の名前を呼びました」


陽菜は続ける。


「どうして、あそこにいたんですか?」


答えられない。


恵は偶然通りかかったのではない。


陽菜の危険を察知し、後をつけていた。


「恵さんは、私を見張っていたんですか?」


「心配で、様子を見に来たのかもしれません」


真帆が答える。


「どうして、そこまで……」


陽菜は白いリボンを握り直す。


「恵さんって、本当は何者なんですか?」


綾乃は、しばらく陽菜を見つめた。


そして静かに答える。


「陽菜はんを、誰より大切に思うてはる人どす」


「それだけですか?」


「今は、それだけで十分どす」


陽菜は納得していなかった。


だが問い続ける気力も残っていない。


「恵さんが目を覚ましたら、全部聞きます」


綾乃と真帆は目を合わせた。


目を覚ませば、陽菜の疑問は深まる。


目を覚まさなければ、恵が二十年間隠してきた真実は、本人の口から永遠に語られない。


     ◇


事故現場を調べた綾乃は、次々と不審な点を見つけた。


歩行者信号と車両信号が同時に青になっていた。


事故直前、信号設備の点検作業が行われている。


作業会社へ問い合わせると、その日の点検予定は存在しなかった。


配送車のブレーキホースには、不自然な傷がある。


周辺の監視カメラは、事故の前後十五分間だけ映像が途切れていた。


現場にいた作業員は、全員行方が分からない。


偶然ではない。


陽菜を消すために組み立てられた作戦だった。


真帆が当局内部の人脈へ問い合わせても、返ってくる答えは一つだけ。


当局は一切関知していない。


波田巌蔵は電話口で怒鳴った。


「陽菜に手を出すなと言ったはずだ!」


当局の幹部は冷静に答える。


「交通事故について、当局は関知しておりません」


「信号と車の両方へ細工した事故があるか!」


「証拠があるのであれば、警察へご提出ください」


「出した瞬間、証拠ごと消すつもりだろうが」


「波田さん。感情的になっておられるようです」


「当たり前だ!」


波田は電話を握りしめる。


「オイラはこれまで、国家のために何人も切り捨ててきた」


電話の向こうは沈黙している。


「だが、陽菜だけは駄目だ」


「個人的感情で国家安全保障を損なわないでください」


「個人的感情で結構だ」


波田は低く言った。


「今度また手を出したら、オイラが知っている二十年分の機密を、全部ひっくり返してやる」


実際には切れないカードだった。


機密を公表すれば、陽菜の出生まで明るみに出る。


当局側も、それを知っている。


それでも波田には、虚勢を張ることしかできなかった。


電話を切り、胃薬のケースを開ける。


空だった。


「こういう時に限って切れてやがる」


いつもなら笑い話になる一言。


だが、その夜は誰も笑わなかった。


     ◇


恵の手術は長時間に及んだ。


手術室の中で、医師の一人が恵の身体に残された古い傷痕へ気づく。


銃創。


刃物による傷。


骨折の痕。


どれも通常の家政婦の生活では負わないものだった。


さらに衝突による損傷を確認した医師が、不可解そうに言う。


「この人、衝突直前に身体をひねっている」


「反射的にですか?」


「普通の反射じゃない」


頭部を守り、衝撃を斜めへ逃がし、致命傷を避けようとした痕跡。


特殊な訓練を受けた者だけが行える動き。


もしその動きがなければ、その場で命を落としていた可能性が高い。


だが、だからといって助かるとは限らない。


モニターの数値は安定しない。


医師たちの声が飛び交う。


手術室の外には、その音は届かない。


     ◇


深夜になっても、陽菜は椅子から動かなかった。


水も飲まない。


食事も取らない。


真帆が何度勧めても、首を振るだけだった。


「少し休みましょう」


「嫌です」


「陽菜さん」


「私がいない間に、恵さんが出てきたら困ります」


「私たちがいます」


「私がいなければ駄目です」


その言い方は、白いリボンを誰にも触らせない時と同じだった。


恵のそばにいる役目を、誰にも譲ろうとしない。


陽菜は汚れた白いリボンを、何度も丁寧に伸ばした。


だがうまく形が戻らない。


「恵さんなら、すぐきれいに直せるのに」


声が震える。


「私、まだ一人で結べないんです」


綾乃が隣で俯く。


陽菜はリボンへ話しかけるように続けた。


「明日の朝、どうしたらいいんでしょう」


返事はない。


「白いリボンの妖精の出来上がりって、まだ言ってもらっていないんです」


手術室のランプは消えない。


日付が変わる。


陽菜にとって、生まれて初めて、恵が白いリボンを結んでくれない朝が近づいていた。


     ◇


病院の外へ、一台の黒い車が停まる。


車内の男が、暗号化された端末へ報告を送る。


対象Hは生存。

杉本恵の容体は不明。

防御動作の痕跡あり。

東洋のマタ・ハリである可能性を再評価する。

必要なら病院内で処理する。


送信を終え、男は病院の入口を見る。


その頃、手術室の中では、恵の心拍が大きく乱れていた。


警告音が鳴る。


医師が指示を飛ばす。


陽菜には何も聞こえない。


ただ、両手の中にある白いリボンが、急に冷たくなったように感じた。


「恵さん……」


陽菜は顔を伏せる。


そして初めて、声を上げて泣いた。


母親だとは知らない。


東洋のマタ・ハリだったことも知らない。


それでも恵は、陽菜にとって誰よりも失いたくない人だった。


手術室のランプは、消えない。


恵が生きているのか。


もう二度と戻らないのか。


答えが示されないまま、夜だけが深くなっていく。


そして白石家の陽菜の部屋では、鏡台の前の椅子だけが空のまま朝を待っていた。


最後の一文。


その朝、白いリボンの妖精は、初めて白いリボンを結ばずに夜明けを迎えた。

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