『白いエプロンの工作員――娘の知らない、母の極秘任務』 第3話 『国家は娘を消せと命じた』 ――白桃パフェの向こうで、四人は祖国を敵に回す
ジェネラス・リンクが流した情報は、まだ完全な真実ではなかった。
白石陽菜の実父が誰なのか。
実母が今、どこで何をしているのか。
二十年前、誰が出生記録を書き換え、誰が白石家への養子縁組を成立させたのか。
敵が手にしているのは、断片だけだった。
だが断片だからこそ、政府内部の人間は恐れた。
完全な証拠が表へ出てからでは遅い。
白石陽菜の出生が公になれば、歴代政権が封印してきた秘密作戦、外交上の裏取引、情報機関同士の不正な協力関係まで、一本の糸でつながってしまう。
ジェネラス・リンクの狙いは、真実を自ら暴露することだけではない。
国家に恐怖を植えつけ、国家自身の手で陽菜を排除させることだった。
◇
波田巌蔵が呼び出されたのは、霞が関の官庁街から少し離れた、表札のない灰色の建物だった。
正面玄関には警備員が二人。
受付には組織名がない。
渡された入館証にも、ただ数字が印字されているだけだった。
案内された地下の会議室には窓がなかった。
机の上には資料も筆記具もない。
議事録を残さない会議。
出席者の名前すら、どこにも記録されない。
波田の向かいに座る三人の男は、自分たちの組織を「政府」とは呼ばなかった。
彼らが使った言葉は、ただ一つだった。
当局。
中央に座る男が、感情のない声で告げた。
「白石陽菜に関する情報漏洩の可能性が高まっています」
「そんなことは分かってる」
波田は腕を組んだ。
「怪文書が出回り、大学にも侵入された。だからオイラを呼んだんだろ」
「それだけではありません」
男は続ける。
「国外の非公認組織が、旧政府資料保管庫から流出した記録へ接触した形跡があります」
「ジェネラス・リンクか」
「組織名を断定する段階にはありません」
「名前なんざどうでもいい。陽菜を狙ってる連中がいる。それをどう止めるかを話せ」
当局側の三人は、誰も表情を変えない。
波田は嫌な予感を覚えた。
彼らは陽菜を守る方法について話すために、自分を呼んだのではない。
中央の男が言う。
「情報拡散が不可避と判断された場合、対象の無力化を行います」
波田の眉が動く。
「無力化とは何だ」
「言葉どおりです」
「だから、具体的に言え」
沈黙。
その沈黙だけで、意味は十分だった。
事故。
病死。
失踪。
あるいは、何らかの事件へ巻き込まれた形にする。
社会から白石陽菜という存在を消し、出生の証拠そのものを失わせる。
波田は机へ拳を叩きつけた。
「そんなこと、オイラが許さん!」
鈍い音が会議室へ響く。
しかし、男たちは瞬き一つしなかった。
「波田さん。あなたの許可を必要とする案件ではありません」
「十八の娘だぞ」
波田は立ち上がる。
「本人は何も知らねえ。自分が誰の子かも、どうして白石家へ来たのかも、何が国家機密なのかも知らねえんだぞ!」
「知識の有無は問題ではありません」
「何だと」
「存在そのものが証拠です」
波田は男へ詰め寄ろうとした。
だが、両脇の警備担当者がわずかに動く。
ここで暴れても何も変わらない。
一人を殴れば、別の者が命令を引き継ぐ。
相手は官僚個人ではない。
顔のない国家権力そのものだった。
「白石陽菜の実父が誰であるか、公になった場合の影響は予測不能です」
男は淡々と続けた。
「実母の過去についても同様です。二十年前の作戦記録が発掘されれば、複数の国との関係に重大な影響が生じます」
「だから、陽菜を殺すのか」
「国家を守るための措置です」
波田は男を睨んだ。
「国家ってのはな、国民を守るためにあるんじゃねえのか」
「一人の国民と国家全体を同列には扱えません」
「その一人を切り捨てて守った国家に、何の意味がある」
誰も答えない。
波田は踵を返した。
扉へ向かったところで、背後から声が飛ぶ。
「二十年前も同じ判断をされたはずです」
波田は足を止めた。
「母親から娘を引き離し、出生記録を封印した。その結果、二人とも生存した」
波田は振り返らずに答えた。
「生き残ることと、生きることは違うんだよ」
会議室を出た波田は、人気のない廊下で胸ポケットを探った。
胃薬の小さなケースを取り出す。
一錠。
少し考える。
もう一錠。
口へ入れかけて、用法を思い出した。
一日二錠。
午前中にすでに一錠飲んでいた。
波田は二錠目だけを飲み、残りをケースへ戻す。
「国家権力より、説明書の方が融通利かねえな」
声に出してみたが、笑えなかった。
◇
数日後、波田は白石家を訪れた。
白石源三郎は定期検査で病院へ出かけている。
陽菜も大学。
応接室には波田と杉本恵の二人だけだった。
白いエプロン姿の恵が、静かに紅茶を淹れる。
湯の音。
茶葉の香り。
陶器が触れ合うかすかな音。
表面上は、客をもてなす家政婦と、旧知の客人の穏やかな時間だった。
だが二人にとっては、二十年前の関係が戻る瞬間でもあった。
上司と部下。
政府高官と工作員。
命令を出す者と、実行する者。
波田は競馬新聞を持っていたが、開きもしなかった。
恵がカップを置く。
「本日は、随分とお顔色が優れませんね」
「お前に言われたくねえ」
「私は健康でございます」
「二十年ぶりに世界中へ怪しい紅茶を注文してる家政婦が、健康そのものに見えるか」
「最近は通信販売が便利になりましたので」
波田は睨んだ。
恵は笑顔を崩さない。
短い沈黙の後、波田は低い声で言った。
「当局が動いた」
恵の指先が、ティーポットの取っ手へ触れたまま止まる。
「どの程度でございましょう」
「最悪だ」
「具体的には?」
波田は恵を見る。
「秘密が漏れるくらいなら、陽菜を消す」
応接室の空気が一変した。
恵の表情は動かない。
だがカップを置く動作が、ほんの一瞬だけ遅れた。
「どなたが、その判断を?」
「聞くな」
「指揮系統は?」
「聞くなと言っている」
「実働を担当する部署は?」
「恵」
波田の声が強くなる。
「殺しに行く相手の住所を聞く顔で質問するな」
「私は白石家の家政婦でございます」
「家政婦は政府の実働部署を三段階で確認しねえ」
「一般的な危機管理でございます」
「お前の一般は、二十年前から一般じゃねえ」
恵は一度、目を伏せた。
それから静かに尋ねる。
「陽菜さまは、いつから処分対象なのでしょう」
波田は答えられない。
出生の瞬間から、陽菜は国家にとって危険な存在だった。
当時の秘密協定に、最悪の場合の排除条項が含まれていた可能性もある。
波田自身、すべてを知らされていたわけではない。
「二十年ぶりに命令する」
波田は言った。
恵が顔を上げる。
一瞬だけ、二人は完全に昔の上司と部下へ戻った。
「勝手に動くな」
恵は波田を見つめた。
「二十年前の最後のご命令は、娘を手放せというものでございました」
波田の顔が歪む。
「生かすためだった」
「今回は、陽菜さまが殺される可能性を承知で、動くなと?」
「お前が動けば、連中は確信する。東洋のマタ・ハリが生きていて、白石陽菜を守っているとな」
「すでに、かなりのところまで知られております」
「だからこそだ」
「では、何もせず待てと?」
「オイラが何とかする」
「どのように?」
波田は答えられない。
正式な権限はない。
実働部隊もない。
当局へ正面から逆らえば、自分自身が拘束される。
二十年前の機密を知る人間として、陽菜より先に処理される可能性さえあった。
恵は、その沈黙だけですべてを理解した。
「旦那さまには?」
「まだ話すな。源三郎の体に負担をかける」
「承知しております」
「陽菜にも絶対に気づかせるな」
「それも、承知しております」
波田は立ち上がった。
「頼むから、今度だけは命令を聞け」
恵は深く頭を下げる。
「善処いたします」
波田は足を止めた。
「お前が“善処する”と言った時は、絶対に従わねえ時だ」
「長いお付き合いでございますね」
「笑い事じゃねえ」
「笑ってはおりません」
「その顔で言うな」
二十年ぶりの上司と部下の会話は、命令不服従の確認だけで終わった。
◇
波田はその足で、新橋ヒロ室へ向かった。
地下会議室に呼ばれた安岡真帆は、波田の顔を見るなり眉をひそめた。
「顧問、胃薬の匂いがします」
「匂いで分かるものなのか」
「最近、飲みすぎです」
「当局と話してみろ。水みたいに飲みたくなるぞ」
真帆は冗談を返さなかった。
波田が軽口を使う時は、深刻な話を持ってきた時だと知っている。
「当局は、秘密が漏れるなら陽菜を消す」
波田は、前置きなく告げた。
真帆の顔から血の気が引く。
「消す、とは?」
「聞き返すな。お前なら分かる」
真帆は両手を机の上で組んだ。
陽菜の笑顔が浮かぶ。
イベントの台本へ何度も目を通す姿。
困っている子どもへ真っ先に駆け寄る姿。
元総理に「可愛らしいねぇ」と言われ、数日間ずっと機嫌がよかった姿。
その少女を、国家が都合の悪い証拠として排除しようとしている。
「陽菜さんは、何も知りません」
「当局にとっては関係ねえ」
「国民を守るための国家が、国民を殺すのですか」
「連中は、国民一人と国全体を天秤にかけてる」
「間違っています」
「分かってる」
真帆は黙り込んだ。
政府へ逆らえば、政治家としての将来は終わる。
官僚や政界との人脈を失う。
危険人物として監視され、立候補さえ難しくなるかもしれない。
長い年月をかけて築いてきたキャリアが、一度の選択で崩れる。
それでも、答えは決まっていた。
「私は陽菜さんを守ります」
波田が真帆を見る。
「お前の経歴も将来も、全部吹き飛ぶぞ」
「構いません」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
真帆の声が僅かに震えた。
「私は政治家になりたいと思っています。制度を変えたい。いつか自分の責任で政策を決めたい」
真帆は唇を結ぶ。
「ですが、陽菜さん一人を守れずに、何を変えるというのですか」
波田は何も言えなかった。
「国家に背いた人間として政治生命を失うなら、それまでです」
「陽菜には知られねえぞ」
「結構です」
「感謝もされねえ」
「それで構いません」
真帆は静かに答える。
「何も知らず、普通に笑っていてくれれば、それで十分です」
◇
真帆は西園寺綾乃にも事実を伝えた。
通信機器をすべて外へ出し、会議室の扉を施錠する。
普段の綾乃は感情を表へ出さない。
危険な相手へも柔らかく微笑み、京言葉の奥に本心を隠す。
しかし真帆が、
「当局は必要であれば、陽菜さん本人を排除します」
と告げた瞬間、綾乃の笑みが消えた。
「排除?」
「白石陽菜という存在を消す、という意味です」
綾乃の右手が震えた。
恐怖ではない。
怒りだった。
机の上の紙コップが、指先へ触れて小さな音を立てる。
「国いうんは、何のためにあるんどす?」
真帆は答えない。
「十八の女の子を守るためやのうて、その子を殺して秘密を守るためにあるんどすか?」
「綾乃さん」
「陽菜はんは、何も知りまへん」
「分かっています」
「毎朝、白いリボンを結んでもろて、大学へ行って、新しいパフェの発売日を楽しみにしてるだけの子どす」
綾乃は立ち上がった。
「そないな子を、存在そのものが証拠や言うて消す?」
その声に、いつもの柔らかさはない。
「誰が命令したんどす」
「まだ特定できません」
「特定します」
「感情だけで動かないでください」
綾乃は真帆を見た。
「これは感情やおへん」
「では何ですか」
「優先順位の確認どす」
綾乃は静かに言った。
「国家機密より、陽菜はんの命を先に守ります」
真帆も頷く。
「私もです」
二人の立場は違う。
真帆は制度の中から守ろうとする。
綾乃は制度の外から守ろうとする。
だが結論だけは同じだった。
◇
その週末。
陽菜、恵、綾乃の三人は、大学近くのカフェを訪れた。
目的は、期間限定の新作スイーツ。
白桃とアールグレイのプリンパフェ。
少なくとも陽菜の目的は、それだけだった。
恵と綾乃にとっては、旧情報網と新情報網の停戦交渉である。
三人は窓際の席へ案内された。
陽菜はメニューを両手で持ち、目を輝かせている。
「見てください。白桃が五切れも載っています」
恵は窓の外に停まった黒い車を確認する。
綾乃は壁の鏡へ映る、背後の男性客の手元を見ていた。
陽菜だけがパフェの写真を見ている。
「上には白いリボンの形をしたチョコも載っています」
「ようできてますなぁ」
綾乃は、男が同じページを十分以上読み続けている雑誌へ目を向けながら答える。
恵は運ばれてきた水のグラスを手に取り、底面に何も仕掛けられていないことを確認する。
陽菜が二人を見る。
「お二人とも、入口ばかり見ていますね」
「人の出入りが多いお店どすなぁと思うて」
「繁盛している証拠でございます」
「ダイエット中ですか?」
「違います」
二人は同時に答えた。
やがてパフェが運ばれてくる。
陽菜がすぐスプーンを持つ。
綾乃が止めた。
「陽菜はん、写真は撮らんでよろしいの?」
陽菜の顔が固まる。
「危ないところでした」
国家の工作員より先に、パフェの撮影忘れを察知した綾乃。
陽菜は正面、斜め上、白桃のアップ、リボン型チョコのアップと、何枚も撮影を始める。
その間に恵が小声で言う。
「古い茶葉と新しい茶葉は、別々に保管した方がよろしいかと存じます」
旧情報網と新情報網を、安易に統合すべきではないという意味だった。
綾乃が返す。
「別々に置いといたら、互いに同じ相手を敵やと思うて潰し合いますえ」
「香りが合わなければ、全体が台無しになります」
「一度混ぜてみんことには分かりまへん」
陽菜が顔を上げた。
「紅茶の話ですか?」
二人は同時に答える。
「はい」
陽菜はパフェを一口食べた。
「でも、このパフェは白桃と紅茶が一緒だからおいしいんですよ」
恵と綾乃が黙る。
「違う味でも、ちゃんと組み合わせればおいしくなるんじゃないですか?」
本人は完全にスイーツの話をしている。
だが、その一言が二つの情報網の問題に対する答えになっていた。
綾乃が微笑む。
「陽菜はんが、混ぜた方がええ言うてはりますえ」
「陽菜さまはパフェのお話をしておられます」
「せやけど、正論どす」
恵は白桃を一切れ口へ運んだ。
「情報の照合に限って、協力いたしましょう」
「互いの協力者へ勝手に手ぇ出さんこと」
「そちらも、旧回線へ無断で侵入なさらないこと」
「交渉成立どすなぁ」
世界規模の諜報協定が、白桃パフェの横で成立した。
陽菜は何も知らず、白いリボン型のチョコを最後まで残している。
「これは最後に食べます」
「大切なものは、最後に取っておく方どすか?」
「白いリボンには、誰にも先に触らせません」
陽菜は明るく言った。
恵の目が、ほんの僅かに揺れる。
綾乃も黙った。
陽菜は気づかず、白桃を食べ続ける。
◇
パフェを食べ終えた陽菜は、二人を交互に見た。
「最近、お二人は仲がいいですね」
「そう見えますか?」
「はい。紅茶のお話ばかりしていますから」
綾乃が笑う。
「好みは、あまり合うてまへんけどなぁ」
「喧嘩するほど仲がいいって言いますよ」
恵と綾乃は顔を見合わせる。
互いの情報網が通信妨害を行ったことを、陽菜は紅茶の好みを巡る小さな喧嘩だと思っている。
陽菜はさらに続けた。
「恵さんが綾乃さんのお母さんでも、年齢的にはおかしくないですよね」
綾乃が紅茶をむせた。
「陽菜はん」
「ごめんなさい。女性に年齢の話をしてはいけませんでした」
「そこやおへん」
恵は、辛うじて平静を保っている。
陽菜は首を傾げた。
「でも、恵さんが私のお母様だったら、綾乃さんはお姉さんみたいになりますね」
二人は完全に黙った。
何も知らない陽菜は、時折、驚くほど正確に真実の中心を踏み抜く。
「どうしたんですか?」
恵は水を一口飲む。
「白桃が少々、喉へ詰まりました」
「大丈夫ですか?」
「問題ございません」
綾乃は窓の外を見ながら、小さく呟く。
「敵より手強いどすなぁ」
「何がですか?」
「白桃どす」
◇
一方、新橋ヒロ室では、波田と真帆が陽菜を守る方針を巡って対立していた。
波田は、陽菜の活動を縮小し、安全な場所へ留めるべきだと主張する。
「表へ出すな。狙われる機会を減らせ」
真帆は反対する。
「隠せば、当局が処理しやすくなります」
「だからって、陽菜を人前へ出し続けるのか」
「全国規模の青少年育成キャンペーンへ起用します」
「正気か」
「知名度を上げます。誰もが顔を知る存在にすれば、事故や失踪へ見せかけることが難しくなります」
「陽菜を盾にする気か!」
波田が怒鳴る。
真帆も引かなかった。
「顧問が、これまでしてきたことと同じです」
波田は黙った。
陽菜を人気ヒロインとして表舞台へ出す。
衆目の中へ置き、簡単には消せない存在にする。
それは、もともと波田が選んだ方法だった。
「私は陽菜さんを政治的に利用しています」
真帆は苦しそうに認める。
「守るためとはいえ、本人へ知らせず活動を増やそうとしている」
「なら、やめろ」
「やめれば、当局にとって処理しやすい存在になります」
正解はない。
隠しても危険。
表へ出しても危険。
波田は机の上の競馬新聞を広げた。
上下が逆だった。
真帆が言う。
「顧問。新聞が逆です」
「今日は逆目が来る気がする」
「競馬の話ではありません」
「オイラだって少しくらい現実逃避したいんだよ」
真帆はため息をつき、波田の前へ胃薬を置く。
「飲みすぎないでください」
「もう今日の分は飲んだ」
「では、これは明日用です」
「国家より管理が厳しいな」
◇
その頃、白石家と陽菜の大学周辺には、見慣れない人物が現れ始めていた。
白石家の前を、毎日同じ時刻に通る宅配業者。
工事予定がないのに電柱を調べている作業員。
大学の門近くで、長時間スマートフォンを見続ける男。
構内の植栽を整えるふりをしながら、陽菜の移動を記録する女性。
彼らはジェネラス・リンクの工作員ではない。
当局のエージェントだった。
目的は保護ではない。
秘密が漏れたと判断された瞬間、確実に動けるよう監視している。
ある日、陽菜は大学前に立つ男へ親切に声をかけた。
「何かお探しですか?」
男は一瞬、返答に詰まる。
「いえ、別に」
「受付は反対側ですよ」
「大丈夫です」
「キャンパスマップをお持ちしましょうか?」
「結構です」
「遠慮なさらなくても」
監視対象本人から道案内を受けかけ、当局のエージェントは予定より早くその場を離れた。
陽菜は友人へ言う。
「最近、道に迷う方が多いですね」
友人は男の背中を見る。
「昨日も同じ人がいなかった?」
「よほど方向感覚がないんですね」
陽菜は最後まで疑わなかった。
◇
数日後の夜。
新橋ヒロ室の地下にある、普段は倉庫として使われている小部屋へ、波田、真帆、綾乃、恵の四人が集まった。
陽菜には知らせていない。
白石源三郎にも、まだ伏せている。
真帆が会議室として使えるよう机を整え、盗聴確認を済ませていた。
机の中央には、コンビニで買った白桃プリンが四つ並んでいる。
真帆が、長時間の会議になることを見越して用意したものだった。
波田がプリンを見る。
「何だ、これは」
「夜食です」
「なぜ白桃なんだ」
「新商品だったので」
綾乃が小さく笑う。
「今週は白桃に縁がありますなぁ」
恵だけが何も言わず、部屋の出入口を確認している。
波田は重い声で切り出した。
「ここから先、相手はジェネラス・リンクだけじゃねえ」
真帆が資料を開く。
「白石家周辺に二名、大学周辺に三名。当局の監視員と思われる人物を確認しています」
綾乃が続ける。
「ヒロ室の活動予定にも、不正な照会が入ってます」
恵は白いエプロンの上で両手を重ねた。
「監視経路を無力化いたします」
波田が睨む。
「派手にやるな」
「善処いたします」
「その言い方をやめろ」
真帆が波田へ向き直る。
「顧問。私たちが当局の監視を妨害すれば、国家への敵対行為と判断される可能性があります」
「分かってる」
「それでも続けますか?」
波田は黙った。
正式な権限はない。
背後に国家権力もない。
今の自分にあるのは、二十年前の後悔と、陽菜を守るという意思だけだった。
「オイラは、国家に正面からは逆らえねえ」
三人が波田を見る。
「部隊も権限もねえ。真正面からやり合えば潰される」
波田は白桃プリンを一つ取った。
「だから、正面からはやらねえ」
綾乃の口元へ、僅かな笑みが戻る。
「ようやく話が合いましたなぁ」
真帆もプリンを手に取る。
恵は迷わず言った。
「娘の命より重い国家機密など、私にはございません」
波田は恵を見る。
二十年前、国家の命令で母親から娘を引き離した男。
その男が今、国家を欺いて母娘を守ろうとしている。
「分かった」
波田は短く答えた。
「四人で陽菜を守る。ただし、本人には何も知らせるな」
「もちろんどす」
「承知しました」
「かしこまりました」
四人の極秘同盟が成立した。
綾乃が白桃プリンの蓋を開ける。
「溶ける前にいただきまひょ」
波田が顔をしかめる。
「オイラは甘いものが苦手なんだ」
真帆が冷静に返す。
「糖分は思考力を維持します」
「そういう問題じゃねえ」
恵がスプーンを差し出す。
「会議中に倒れられては困ります」
「オイラを心配してるのか、食えと脅してるのか、どっちだ」
「両方でございます」
波田は観念して一口食べる。
「……甘い」
「プリンですから」
国家を敵に回しかねない四人の同盟は、コンビニの白桃プリンを食べながら結成された。
◇
同じ頃。
陽菜は白石家の自室で、大学近くのカフェが発表した次の新作情報を見ていた。
「白いリボンのモンブラン……」
画面を見つめ、目を輝かせる。
自分の命を巡り、四人が国家へ背を向けたことなど知らない。
白石家の外では、一人の男が門を監視していた。
男は通信端末へ短い報告を送る。
対象H、行動確認。
周辺協力者に変化あり。
消去準備を継続する。
送信を終えた直後、門の向こうに人影が立った。
白いエプロン姿の杉本恵。
いつからそこにいたのか、男には分からない。
恵は門越しに、穏やかに微笑む。
「何か御用でございましょうか?」
男は答えず、その場を離れようとする。
恵は追わない。
歩幅。
利き手。
靴底に付着した泥。
通信端末をしまったポケット。
呼吸の乱れ。
二十年間眠っていた東洋のマタ・ハリの目が、男のすべてを記憶していく。
「随分と、不躾なお客さまでございますね」
二階の窓から、陽菜の明るい声が聞こえた。
「恵さん! 今度は白いリボンのモンブランですって!」
恵の表情が、一瞬で親切な家政婦のものへ戻る。
「ただいま参ります、陽菜さま」
門へ背を向け、屋敷へ戻る。
白いエプロンのポケットでは、二十年前の端末が震えている。
当局は、娘を消せと命じた。
母は、娘の夕食を用意しながら国家を欺くことを決めた。
そして陽菜だけは、次の新作スイーツを楽しみにしていた。




