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ヒロインズ・リンク 〜戦隊ヒロインプロジェクト〜  作者: スパイク


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白いエプロンの工作員――娘の知らない、母の極秘任務  第2話 『二十年前の回線』 ――紅茶は、二つの諜報網を焦がす

白石家の台所には、朝から紅茶の箱が積み上がっていた。


英国産。


インド産。


スリランカ産。


中国産。


さらに産地名すら聞き慣れない、小さな海外商社から届いたものまである。


白石陽菜は、食卓の端に並べられた箱を眺め、感心したように声を上げた。


「恵さん、紅茶屋さんを始めるんですか?」


白いエプロン姿の杉本恵は、何事もなかったようにポットへ湯を注いでいる。


「少々、飲み比べをしてみようかと思いまして」


「少々にしては多くありませんか?」


「送料を考えますと、まとめて注文した方がお得でございましたので」


「恵さん、意外と通販でまとめ買いする人なんですね」


「家計を預かる者として、無駄は避けなければなりません」


恵の返答は完璧だった。


だが、陽菜には知る由もない。


箱の数。


茶葉の産地。


注文した量。


発送予定日。


備考欄に書かれた「砂糖不要」「古い茶葉希望」「前回と同じ場所へ」という文言。


そのすべてが、二十年前に使われていた暗号だった。


恵は紅茶を買っているのではない。


世界中へ散った、かつての協力者たちへ呼びかけている。


二十年前、情報機関、犯罪組織、武器商人、国際企業を同時に欺いた伝説の工作員。


東洋のマタ・ハリ。


その女が、娘の朝食を用意しながら、静かに情報網を再起動していた。


「今日はどれを飲むんですか?」


陽菜が楽しそうに箱を手に取る。


「こちらは、少々渋みが強いかと存じます」


「では砂糖を三つ入れます」


「茶葉の個性が消えてしまいます」


「苦い個性なら消していいと思います」


国家の暗部を示す警戒信号は、陽菜によって角砂糖を三つ投入されることになった。


恵は止めなかった。


それもまた、守るべき平和な日常の一部だった。


     ◇


白石家へ怪文書が届き始めてから、恵は二十年間封印していた旧式端末を起動した。


だが、かつて築いた情報網の大半は、すでに崩壊していた。


画面へ表示されるのは、無情な文字ばかりである。


死亡。


収監。


消息不明。


回線廃止。


身元記録消失。


一部の協力者については、名前すら残っていなかった。


それは、皮肉にも恵自身が望んだ結果だった。


東洋のマタ・ハリの手口は、あまりにも鮮やかだった。


協力者同士を会わせない。


通信は一度きり。


報酬は複数の仲介人を通す。


任務が終われば、記録も口座も連絡経路も完全に消す。


一人が捕まっても、ほかの者へたどり着けない。


依頼主でさえ、彼女が誰と接触し、何を動かしていたのか把握できない。


その完璧さが、二十年後の恵自身を苦しめていた。


「我ながら、少々片づけすぎましたね」


深夜の物置で、恵は旧式端末を見つめながら呟いた。


現在の自分へ過去の自分が嫌がらせをしているようなものだった。


だが、完全にすべてが消えていたわけではない。


僅かに三本、応答する可能性のある回線が残っていた。


一つは、北欧の港町にある小さな紅茶輸入会社。


経営者は、かつて外交貨物に紛れ込ませた記録媒体を運んだ元密輸人だった。


二つ目は、東南アジアの修道院。


そこには公式には二十五年前に死亡した元暗号技師が潜伏している可能性がある。


三つ目は、所在地不明。


中東で恵と敵対しながら、最後には彼女の逃走を助けた女性情報員。


味方だったのか。


敵だったのか。


当時から、恵にも分からない。


恵は三本の回線へ、紅茶の注文を装って通信を送った。


ダージリン・ファーストフラッシュを二箱。

古い茶葉の在庫を確認。

砂糖は不要。

配送先は以前と同じ場所へ。


読み替えれば、意味はこうなる。


協力者二名の生存を確認せよ。

二十年前の記録を探せ。

金銭要求には応じない。

旧連絡地点から返信せよ。


送信を終えた恵は、何事もなかったように端末を閉じた。


翌朝には、陽菜の白いリボンを結ばなければならない。


     ◇


陽菜はいつものように、鏡台の前へ座っていた。


艶やかな黒髪を高い位置でまとめ、白いリボンを恵へ渡す。


「今日もお願いします」


「かしこまりました」


恵は陽菜のポニーテールへリボンを回し、丁寧に結んでいく。


この時間だけは、工作員でも家政婦でもない。


娘の髪へ触れる、一人の母親でいられる。


もっとも、陽菜はそれを知らない。


「白いリボンの妖精の出来上がりでございます」


「ありがとうございます」


陽菜は鏡の中の自分を見て、満足そうに笑った。


だが、その日は立ち上がらなかった。


「恵さん」


「はい」


「私が白石家へ来る前のこと、何か知っていますか?」


恵の指が一瞬だけ止まる。


すぐに、リボンの形を整える動きへ戻った。


「さあ。私は陽菜さまがお生まれになった後、このお屋敷へ参った者でございますから、詳しいことは……」


嘘ではない。


杉本恵という名の家政婦が白石家へ来たのは、陽菜が生まれた後だった。


陽菜を産んだのは、別の名と別の顔を持っていた女である。


恵は、真実の中へ嘘を隠した。


「そうですよね」


陽菜はあっさり納得した。


そして鏡越しに恵を見つめ、屈託なく笑う。


「でも最近、恵さんが本当のお母様だったらいいのになって思うんですよ」


リボンの端が、恵の指から滑った。


国家元首から追及されても。


敵国の銃口を向けられても。


自分を雇った組織から裏切り者と呼ばれても。


顔色一つ変えなかった女が、娘の一言で完全に動きを止めた。


「恵さん?」


「……なぜ、そのように思われるのでしょう」


恵は、ようやく声を出した。


「だって、小さい頃からずっと一緒ですから」


陽菜は明るく答える。


「熱を出した時も、戦隊ヒロインの最初のイベントで失敗して泣いた時も、大学に合格した時も、恵さんが一番近くにいてくれました」


「それは、私の務めでございます」


「務めだけじゃないと思います」


陽菜は鏡の中の恵へ微笑みかけた。


「恵さんが本当のお母様なら、いろいろ納得するんです」


恵は、陽菜の肩を抱きしめたい衝動を必死に抑えた。


本当のことを話したい。


毎朝リボンを結ぶのは、家政婦の務めだからではない。


母親として娘へ触れられる、唯一許された時間だからだと伝えたい。


だが、できない。


「陽菜さまには、立派なお父さまとお母さまがおられます」


「分かっています」


「私は白石家の家政婦でございます」


「それでも、そう思うくらいはいいでしょう?」


何の悪意もない問いだった。


だからこそ残酷だった。


恵は傾いたリボンを直しながら、静かに答えた。


「……もちろんでございます」


陽菜は満足そうに頷く。


恵の指が僅かに震えていることには、気づかなかった。


     ◇


ところが、陽菜の質問はそれで終わらなかった。


「そういえば、恵さんって、ご自分のことをあまり話しませんよね?」


「そうでございましょうか」


「ご家族のこととか、子どもの頃のこととか」


「特に面白い話はございませんので」


「昔、外国で生活していたことがあるんですよね?」


恵の目が、一瞬だけ鋭くなる。


「どなたからお聞きになりました?」


「前に外国のお料理を作った時、恵さんが自分で言っていました」


「……さようでございましたか」


恵は自分の過去の発言を素早く思い返す。


陽菜の前では、海外生活について必要以上に話さないようにしてきた。


だが、何年も共に暮らしていれば、完全に隠し通すことは難しい。


「ええ。若い頃、外国に長くいたことがございますよ」


「どこの国ですか?」


「いろいろでございます」


「何をしていたんですか?」


「勉強や仕事を少々」


「どんな仕事?」


「人さまのお手伝いをする仕事でございます」


嘘ではない。


恵の手伝いによって、政権を失った政治家もいる。


会社を失った実業家もいる。


命を救われた情報員もいれば、人生を壊された依頼主もいる。


陽菜は目を輝かせた。


「外国語も話せるんですか?」


「日常会話程度でございます」


実際には、複数の言語を方言や階級差まで使い分ける。


「今度、教えてください」


「機会がございましたら」


「昔の写真も見たいです」


今度こそ、恵の表情が硬くなった。


昔の杉本恵の写真は存在しない。


存在するのは、東洋のマタ・ハリと呼ばれた別の顔の女。


そしてその若い姿は、現在の陽菜と驚くほどよく似ている。


「昔の写真は、ほとんど残っておりません」


「一枚も?」


「引っ越しの際に失ってしまいました」


陽菜は残念そうに肩を落とした。


だが、すぐ笑顔へ戻る。


「では、これからたくさん撮ればいいですね」


「これから、でございますか?」


「はい。私と恵さんで」


陽菜は、未来を疑っていなかった。


「大学の卒業式も、戦隊ヒロインの記念イベントも、一緒に撮りましょう」


恵は何も答えられなかった。


過去の写真は見せられない。


だが娘は、未来の写真を一緒に残そうと言っている。


「嫌ですか?」


「いいえ」


恵は穏やかに微笑んだ。


「楽しみにしております」


この言葉だけは、偽りではなかった。


     ◇


恵が再起動した通信は、西園寺綾乃が海外任務を通じて築いた独自の情報網にも引っかかった。


北欧の紅茶輸入会社が、二十年前の暗号形式で不審な発注を受けた。


その会社とつながりのある人物から、綾乃の協力者へ情報が回る。


綾乃は通信記録を見た瞬間、発信者が誰かを察した。


「恵はん、ほんまに動き出さはったんやなぁ」


だが、問題があった。


恵の旧情報網と、綾乃が新たに築いた情報網は、非常に相性が悪かった。


恵の協力者には、元密輸人、偽造屋、旧情報機関の工作員、裏社会の仲介人が多い。


必要なら敵とも取引し、依頼主さえ欺く古い世界の人間たち。


一方、綾乃の協力者は、元外交官、独立系記者、内部告発者、国際金融犯罪の調査員など、比較的新しい価値観を持つ者が中心だった。


恵の協力者から見れば、綾乃側は正義を語りすぎる青臭い連中。


綾乃の協力者から見れば、恵側は金と裏切りで動く信用不能の旧世代。


しかも、北欧の紅茶輸入会社を経営する元密輸人と、綾乃側の女性調査記者には、過去に因縁があった。


記者が密輸ルートを暴き、会社を一度潰しかけたのである。


通信を再開した途端、両方の情報網が互いを敵と判断した。


恵の協力者は綾乃側の通信を妨害。


綾乃側は、紅茶会社の口座を不正資金の経路として追跡。


その結果、怪文書の調査より先に、味方同士で情報戦が始まってしまった。


     ◇


数日後。


綾乃は戦隊ヒロインの打ち合わせを名目に、白石家を訪れた。


陽菜は大学の図書館へ出かけており、応接室には恵と綾乃だけがいる。


恵は何事もなかったように紅茶を淹れた。


「本日は、少々渋みの強い茶葉でございます」


「最近は、渋い話ばかりどすさかい」


綾乃はカップへ口をつけず、恵を見る。


「北欧からお取り寄せどすか?」


「ええ。古くからあるお店だそうでございます」


「評判は、あまりよろしゅうないみたいどすなぁ」


「お味の好みは、人それぞれでございますから」


「密輸の前歴も、好みの問題どすか?」


恵はカップを置く。


音は立たない。


「物騒なお話でございますね」


「恵はんのご注文先が、うちの協力者の口座を探ったそうどす」


「紅茶店が、そのようなことを?」


「ずいぶん器用な紅茶屋さんどすなぁ」


恵は穏やかな笑みを崩さない。


「西園寺さまのお知り合いも、その店の取引記録を調べておられたようでございます」


「不審な金の流れがあれば、調べるんは当然どす」


「他人の店へ無断で入り込むことも?」


「恵はんのお仲間が、先に通信へ触れはったんどすえ」


「私には、何のことか分かりません」


「ほな、紅茶のお話にしときまひょか」


「それがよろしいかと存じます」


柔らかな言葉を交わしながら、二人の間では刃物のような緊張が走っていた。


新旧二人のエージェント。


陽菜を守るという目的は同じ。


だが、使う情報網も、協力者の性質も、倫理観も違う。


綾乃は恵へ告げる。


「昔のご協力者が、今も恵はんの味方とは限りまへんえ」


「西園寺さまの新しいご友人も、すべて信頼できるとは限りません」


「うちは確認してから手を組んでます」


「若い方は、ご自分で確認したことを信じすぎる傾向がございます」


「昔の人は、誰も信じへんことを賢さやと思い込みすぎどす」


恵の眉が、ごく僅かに動いた。


綾乃も笑みを崩さない。


「うちの協力者へ手ぇ出さんよう、そちらへ伝えておくれやす」


「私には、伝える相手がおりません」


「紅茶屋さんへ苦情を入れるだけどす」


「では、西園寺さまも記者の方へ、他人の倉庫へ無断で入らないようお伝えくださいませ」


綾乃は目を細めた。


恵は、綾乃側の協力者が誰なのか、すでに特定している。


一方の綾乃も、恵の北欧ルートの正体をつかんでいる。


対立は五分五分だった。


そこへ、玄関から陽菜の明るい声が響いた。


「ただいま帰りました!」


二人は同時に、穏やかな表情へ戻る。


陽菜が応接室へ入ってくる。


「綾乃さん、いらしていたんですか?」


「お邪魔してますえ」


「何のお話をしていたんです?」


「紅茶どす」


「紅茶で、そんなに怖い顔になるんですか?」


綾乃と恵が一瞬、互いを見る。


「渋みが強かったんどす」


「少々、抽出時間が長かったようでございます」


陽菜は納得したように頷いた。


「だから砂糖を入れればいいんですよ」


二つの国際情報網の対立は、陽菜の角砂糖理論によって一度中断された。


     ◇


一方、陽菜も自分の出生について独自に調査を始めていた。


もっとも、調査能力は極めて低かった。


大学の図書館で、白石家に関する過去の新聞記事を検索する。


「白石家 養女」


「白石陽菜 出生」


「交通事故 両親」


いくつかの記事は出てくる。


だが、どれも戦隊ヒロインとしての陽菜の活動や、白石家の慈善事業について書かれたものばかりだった。


出生に関する詳しい記録は出ない。


陽菜は画面の前で腕を組む。


「おかしいですね」


友人が隣から覗き込む。


「何を調べているの?」


「私の両親の事故です」


「急にどうしたの?」


「怪文書に、私の出生が偽装されているって書かれていたので」


友人は心配そうに陽菜を見る。


「信じているの?」


「信じてはいません。でも、自分のことをあまり知らないのも変かなと思って」


陽菜は再び検索欄へ入力する。


ところが画面の隅に、大学近くのカフェの広告が表示された。


期間限定・白桃と紅茶のプリンパフェ


陽菜の指が止まる。


「白桃……」


「陽菜?」


「紅茶のプリン……」


「調査は?」


「限定は今週までらしいです」


五分後、陽菜と友人は図書館を出ていた。


出生の秘密は二十年隠されてきたが、新作スイーツは今週で販売終了だった。


優先順位としては、陽菜の中で後者が勝った。


カフェでパフェを食べながら、友人が尋ねる。


「調べなくていいの?」


「食べ終わってからにします」


「さっきから写真ばかり撮っているけど」


「溶ける前に記録を残しています」


出生記録より先に、パフェの記録が保存された。


結局、その日の陽菜が得た情報は、


白石家の養女になった時期は幼少期

公式発表では両親は交通事故死

白桃と紅茶のプリンパフェは非常においしい


の三点だけだった。


そのうち最も詳しく説明できるのは、三つ目だった。


     ◇


帰宅した陽菜は、恵へ調査結果を報告する。


「恵さん、今日、自分のことを調べてきました」


恵の手が、ポットの取っ手で止まる。


「何をお調べになったのでございますか?」


「昔の新聞記事です」


「何か分かりましたか?」


「ほとんど何も」


恵は内心で安堵する。


だが、陽菜は続けた。


「私の両親の事故、詳しい記事が全然ないんです」


安堵はすぐ消えた。


「個人の事故であれば、新聞へ詳しく載らないこともございます」


「そうですよね」


陽菜はあっさり頷く。


「それより、大学の近くに新しいパフェが出たんですよ」


話題が一瞬で変わった。


「白桃と紅茶のプリンで、上に小さい白いリボンみたいなチョコが載っているんです」


「それは、ようございましたね」


「今度、恵さんも一緒に行きましょう」


「私が、でございますか?」


「はい。綾乃さんも誘って」


恵は少し困った表情を見せる。


北欧の密輸人と独立系記者を巡って、つい先ほど綾乃と静かな諜報戦を繰り広げたばかりである。


一緒にパフェを食べる空気ではない。


「西園寺さまは、お忙しいのではないでしょうか」


「さっき聞いたら、行くって言っていました」


「もうお聞きになったのですか?」


「はい」


陽菜の行動だけは、情報機関より速かった。


「恵さんも来てくださいね」


「……承知いたしました」


東洋のマタ・ハリと令和の新鋭エージェントは、翌週、白桃パフェを挟んで再び対峙することになった。


     ◇


その夜。


恵の旧式端末へ、北欧ルートから返信が入る。


古い茶葉は一箱だけ残っている。

ただし倉庫は、別の商人が使用中。

若い検査官が倉庫を調べている。

出荷を続けるなら、検査官を排除する必要がある。


「若い検査官」とは、綾乃の協力者である女性記者を指していた。


恵はすぐ返信を打つ。


排除を許可しない。

若い検査官への接触も禁止。

倉庫の使用者だけを確認せよ。


送信。


数秒後、別の回線から警告が届く。


今度は、綾乃側の情報ルートを経由している。


北欧の旧協力者が独断行動。

信用度は低い。

二十年前の保管記録を第三者へ売却した可能性あり。


恵は目を細める。


自分の協力者が、すでに別組織へ情報を売っている。


そして綾乃側は、その動きを自分より早くつかんでいた。


二十年間の空白。


古い信頼。


変化した利害。


昔の回線を開けば、昔の忠誠まで戻るわけではない。


恵は、その現実を認めざるを得なかった。


端末に、新しい通信が入る。


送信者不明。


東洋のマタ・ハリ。

娘はすでに、自分の出生を調べ始めた。

あなたが敵を追う間に、娘は真実へ近づく。


添付されていたのは、大学の図書館で端末を操作する陽菜の写真だった。


続いて、カフェで白桃パフェを撮影する陽菜の写真。


敵は、陽菜の調査だけでなく、調査がスイーツによって中断されたことまで把握している。


恵は写真を見つめた。


緊迫した監視報告の中で、陽菜だけが非常に楽しそうだった。


それがかえって恐ろしい。


敵は、すでに娘の日常のすぐそばにいる。


     ◇


翌朝。


陽菜は鏡台の前へ座り、いつものように白いリボンを恵へ渡した。


「今日もお願いします」


「かしこまりました」


恵はポニーテールへリボンを結びながら、鏡に映る陽菜の顔を見る。


敵に監視されていることを、この子は知らない。


母親が自分を守るため、世界中の古い回線を開いていることも知らない。


陽菜は鏡越しに恵へ尋ねた。


「恵さん」


「はい」


「私のお母様も、こうやって髪を結んでくれたんでしょうか」


恵の指が止まる。


「……おそらく」


「私に似ていましたか?」


「さあ。私には分かりかねます」


「いつか、会えたらいいのに」


「亡くなられたと聞いております」


「はい。でも怪文書には、生きているって」


陽菜は冗談めかして笑う。


「本当に生きていたら、どんな人なんでしょうね」


恵は、リボンの左右を慎重に整える。


「きっと、陽菜さまの幸せだけを願っておられる方でしょう」


「そうですか?」


「はい」


「では、会えなくても安心ですね」


陽菜は明るく言った。


「私、今とても幸せですから」


恵は何も答えられなかった。


娘が幸せだと言う。


自分のそばで。


自分が母親だと知らないまま。


その幸せを守るために、真実を隠し続ける。


それが本当に正しいのか、恵には分からなくなり始めていた。


「できました」


「白いリボンの妖精ですか?」


「はい」


恵は微笑んだ。


「本日も、大変愛らしゅうございます」


陽菜が立ち上がり、部屋を出る。


扉の前で振り返る。


「恵さん」


「はい」


「今度のパフェ、絶対一緒に行きましょうね」


「承知いたしました」


陽菜が去る。


恵は旧式端末を取り出す。


同時に、綾乃から短い暗号通信が届いた。


古い茶葉は腐っている可能性あり。

新しい茶葉と混ぜる前に、選別が必要。


恵は意味を理解する。


旧情報網を単独では使うな。


綾乃の新しいルートと照合しろ。


互いの協力者が衝突すれば、敵に利用される。


恵はしばらく画面を見つめる。


そして返信する。


香りの強い茶葉は、混ぜ方を誤ると互いを殺します。


すぐに綾乃から返事が届く。


ほな、来週のパフェで配合を相談しまひょ。


恵は思わず、ほんの僅かに笑った。


国家の暗部へつながる二つの情報網の調整場所が、女子大学近くのカフェに決まった。


白桃パフェを食べる陽菜の隣で、新旧二人のエージェントが世界規模の諜報協定を結ぶことになる。


陽菜は何も知らない。


ただ、恵と綾乃が仲良くなったと思い、きっと喜ぶだろう。


恵は窓の外を見る。


白いリボンを揺らしながら、陽菜が大学へ向かっている。


母は世界中へ紅茶を注文する。


娘はカフェの新作スイーツを予約する。


二人はまったく違うものを追っているようで、実際には同じ場所へ近づいていた。


陽菜の出生という、二十年間封じられてきた真実へ。


そして恵は、敵よりも恐ろしい存在に気づき始めていた。


無邪気な娘の好奇心である。


どれほど巧妙な情報機関も、陽菜が何気なく口にする、


「どうして?」


という一言ほど、東洋のマタ・ハリを追い詰めることはできなかった。

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