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ヒロインズ・リンク 〜戦隊ヒロインプロジェクト〜  作者: スパイク


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白いエプロンの工作員――娘の知らない、母の極秘任務  第1話 『白いリボンに触れるな』 ――差出人不明、宛名は娘

白石家の朝は、白いリボンから始まる。


相模原の閑静な住宅地に建つ白石邸。その二階、東向きの窓から朝日が差し込む鏡台の前に、白石陽菜は背筋を伸ばして座っていた。


艶やかな黒髪は高い位置で一つにまとめられ、まだ飾りのないポニーテールが細い背中へ流れている。


陽菜は鏡越しに、後ろへ立つ杉本恵を見上げた。


「恵さん、今日もお願いします」


「かしこまりました」


恵は白いエプロンのポケットから、細長いリボンを取り出した。


混じり気のない白。


光沢は控えめで、清楚な陽菜の雰囲気によく似合う。


戦隊ヒロインとして舞台へ立つ時も、大学へ通う時も、陽菜は必ずこの白いリボンを結んでいた。


いつしか世間では、陽菜のことをこう呼ぶようになった。


白いリボンの妖精。


本人もその呼び名を気に入っている。


ただし、このリボンには一つだけ絶対の決まりがあった。


結んでよいのは、杉本恵だけ。


かつては陽菜の養母である白石夫人が結んでいた。


幼い陽菜を鏡台の前へ座らせ、髪をとかし、最後に白いリボンを結ぶ。それが白石家の朝の習慣だった。


夫人が亡くなった後、その役目を恵が引き継いだ。


以来、陽菜はどれほど親しい相手であっても、白いリボンだけは触らせなかった。


以前、イベント会場で若い衣装スタッフが善意からリボンの位置を直そうとした時、陽菜は珍しく声を荒らげた。


「触らないでください!」


普段は誰に対しても明るく、礼儀正しく、滅多に怒らない陽菜である。


その陽菜が、目に涙を浮かべて本気で怒ったため、現場は一瞬で凍りついた。


後から陽菜は何度も謝った。


しかし、それでもリボンを他人へ触らせることだけは許さなかった。


陽菜自身にも、その理由をうまく説明できない。


白石夫人が結んでくれた記憶。


その役目を受け継いだ恵の指先。


毎朝、自分が大切にされていると実感できる時間。


それらすべてが、白いリボンへ結びついていた。


恵は陽菜の髪へそっと触れる。


黒髪は指の間を滑るように流れた。


娘の髪。


娘の温もり。


母親とは名乗れない。


抱きしめることも、母として叱ることも許されない。


それでも、この数分間だけは、自分の手で娘を送り出す準備ができる。


恵にとって、一日の中で最も満たされる時間だった。


リボンを左右同じ長さに整え、最後に形を確認する。


「白いリボンの妖精の出来上がりでございます」


「今日も上手にできていますか?」


「大変よくお似合いでございます」


陽菜は鏡の中の自分を見て、満足そうに笑った。


「やっぱり、恵さんに結んでもらわないと駄目ですね」


「ご自分でも結べるように、少し練習なさってはいかがでしょう」


「嫌です」


即答だった。


恵が少し目を丸くする。


陽菜は鏡越しに真剣な顔をした。


「このリボンは、恵さんに結んでもらうものです」


「いつまでも私がお手伝いできるとは限りませんよ」


「できます」


「陽菜さま」


「ずっとお願いします」


あまりに無邪気で、あまりに真っ直ぐな言葉だった。


恵は一瞬、返事ができなかった。


二十年前。


娘を白石家へ託す時、自分は母親としての未来をすべて失ったと思った。


だが陽菜は、何も知らないまま、自分へ「ずっと」と言う。


それが嬉しく、同時に苦しかった。


「……承知いたしました」


恵は、いつもの穏やかな笑顔を作る。


「では明日も、白いリボンの妖精をお作りいたします」


陽菜は嬉しそうに立ち上がった。


「お願いします」


その時、玄関の呼び鈴が鳴った。


白石家の日常へ、最初の異物が届いた。


     ◇


郵便受けに入っていたのは、差出人のない白い封筒だった。


宛名は手書きではない。


新聞や雑誌の見出しから切り取った文字を、一つずつ貼り合わせて作られている。


白石陽菜様


古い映画に出てくる脅迫状のようだった。


恵は封筒を持った瞬間、その重さを確かめた。


薄い。


中身は一枚。


封の糊は市販品。


指紋を残さないよう手袋が使われている。


消印は都内の大規模集配局。


投函場所を特定しづらくするため、あえて郵便物の多い局を選んでいる。


陽菜はすでに大学へ向かった。


白石源三郎は書斎にいる。


使用人たちは朝の片づけをしている。


誰も恵を見ていない。


恵は封筒を開いた。


中の紙にも、新聞の見出しが切り貼りされている。


使用されている活字は、全国紙、経済紙、地方紙、スポーツ紙とばらばらだった。


文章は短い。


人気ヒロインの出生は偽装された

本当の母親は死んでいない


恵の表情は変わらない。


ただ、紙を持つ指にわずかに力が入った。


本当の母親は死んでいない。


その通りだった。


今、怪文書を読んでいる。


恵は文面をもう一度確認する。


具体的な名前はない。


父親への言及もない。


出生地も書かれていない。


送り主はすべてを知っているわけではない。


断片だけを持っている。


あるいは、こちらの反応を試している。


恵は静かに呟いた。


「質の悪いいたずらでございますね」


誰に聞かせるでもない言葉だった。


怪文書を捨てず、自室にある鍵付きの引き出しへしまう。


家政婦としては無視する。


元諜報員としては、証拠を保存する。


二十年間、恵はその二つの顔を交わらせないよう生きてきた。


だが、境界線はすでに破られ始めていた。


     ◇


三日後。


二通目が届いた。


封筒には、前回より大きな文字が使われていた。


国民的人気者 白石陽菜へ


中身はさらに踏み込んでいた。


白石家の娘ではない

養子縁組は異例の速さ

誰が手続きを急がせたのか


恵は文面を見つめた。


陽菜が白石家へ迎えられた時期。


養子縁組の異例の早さ。


そこまでは調べられている。


しかし、誰がどのように手続きを進めたのかは分かっていない。


波田巌蔵の名も、白石源三郎の関与も書かれていない。


敵はまだ、秘密の周囲を歩いているだけだ。


三通目は、その二日後だった。


父親の名が出れば政界崩壊

母親の正体が出れば世界が揺れる

偽りの戦隊ヒロイン


紙の下部には、赤い見出し文字だけで一文が作られていた。


真実を隠す者には代償を払わせる


恵は三通を並べた。


文面は、届くたびに核心へ近づいている。


だが、それ以上に気になる点があった。


一通目の文字の切り方は粗い。


二通目と三通目は、新聞活字の縁が精密に切り取られている。


鋏ではなく、小型の裁断器具を使っている。


糊の種類も一通目だけ異なる。


複数の人間が作っている。


または、一通目だけ素人の犯行を装った。


組織的な活動だった。


恵は白石源三郎にも報告しなかった。


波田へも連絡しない。


綾乃にも知らせない。


相手の目的が、白石家の反応を調べることだと分かっていたからである。


源三郎へ相談すれば、源三郎が秘密を知る人物だと教えることになる。


波田へ連絡すれば、国家機関とのつながりを示す。


綾乃が動けば、若いエージェントまで巻き込む。


恵は何もなかったように過ごした。


朝食を作る。


陽菜の大学の時間割を確認する。


イベント用衣装へアイロンをかける。


毎朝、白いリボンを結ぶ。


だが夜になれば、怪文書を並べ、紙質、活字、糊、切断面、折り方を調べた。


陽菜が眠る白石家の一室で、親切な家政婦は、誰にも知られない捜査を始めていた。


     ◇


怪文書は、ついに白石家の外へ出た。


陽菜が通っているのは、横浜の高台に広がる歴史ある女子大学だった。


赤煉瓦を思わせる格調高い校舎。


緑に囲まれた礼拝堂。


手入れの行き届いた庭園。


長い歴史を持ち、礼儀、教養、国際感覚を重んじる名門校である。


学生たちは派手さより品の良さを大切にし、廊下を歩けば、陽菜のような清楚なお嬢様が驚くほど多い。


白いブラウス。


淡い色のカーディガン。


丁寧な言葉遣い。


学食でさえ、トレーを運ぶ姿がどことなく優雅だった。


ただし、全員が完璧な令嬢というわけではない。


礼拝堂から出てきた直後に、限定スイーツを求めて全力で走る学生もいる。


図書館では静かにしているが、閉館時刻になると提出期限前の学生が一斉に絶望する。


そして戦隊ヒロインとして有名な陽菜も、周囲から特別扱いされすぎることなく、一人の学生として過ごしていた。


その大学の掲示板に、最初の怪文書が貼られた。


清純派ヒロインに出生疑惑


次は図書館の返却本に挟まれていた。


死んだはずの母は生きている


学生ラウンジには、陽菜の写真とともに、より扇情的な文面が置かれた。


白石陽菜 本当の父は元首相経験者か

戦隊ヒロイン最大のスキャンダル

国家が隠した十八歳


最後には、大きな赤い活字でこう書かれていた。


お前の人生は全部作り物だ


大学側はすぐ回収を始めた。


だが、女子学生たちの反応は予想外だった。


「これ、何の宣伝かしら」


「戦隊ヒロインの新しい謎解きイベント?」


「新聞を一文字ずつ切ったの? 大変そう」


「パソコンで作れば早いのに」


「犯人、かなり几帳面ね」


サスペンス色の強い怪文書は、名門女子大学の学生たちによって、手作業の労力を評価されていた。


陽菜本人も、一枚を手に取り、首を傾げた。


「変なの〜」


友人が心配そうに尋ねる。


「陽菜、大丈夫?」


「何がですか?」


「何がって、これよ。気持ち悪くない?」


陽菜は怪文書を読む。


「私の本当のお母さんは生きていて、怖い工作員なんですって」


「怖くないの?」


「私のお母さんは交通事故で亡くなったって聞いていますから」


「でも、元総理が父親かもしれないって」


「それはさすがに無理があります」


陽菜は笑った。


「元総理に、この前初めてお会いしたばかりですよ」


「初めてかどうかは関係ないんじゃない?」


「そうなんですか?」


陽菜は少し考えた。


だが深刻に受け止める様子はない。


「それより、これを何枚作ったんでしょう。新聞を切るだけで一日終わりそうです」


友人は呆れた。


「陽菜って、変なところを心配するのね」


「だって大変そうじゃないですか」


「犯人を労わらなくていいのよ」


何も知らない陽菜は、怪文書を一枚だけ鞄へ入れた。


恵へ見せようと思ったのである。


     ◇


その日の夕方。


陽菜はいつもどおり明るい声で帰宅した。


「ただいま帰りました」


台所では、恵が夕食の準備をしていた。


「お帰りなさいませ、陽菜さま」


陽菜は大学の鞄を置き、中から折り畳んだ紙を取り出した。


「恵さん、大学で変なのが配られていたんです」


恵は包丁を動かしたまま尋ねる。


「変なもの、でございますか?」


「はい。これです」


紙が広げられる。


赤と黒の新聞活字。


陽菜の写真。


扇情的な見出し。


死んだはずの母は生きている


恵の包丁が止まった。


「私のお母さん、実はものすごく怖い人なんですって」


陽菜は明るく笑う。


「それに本当のお父さんは、元総理大臣かもしれないそうです」


「……さようでございますか」


「変なの〜」


陽菜は楽しそうだった。


恵はゆっくりと怪文書を受け取る。


その下部に、小さな数字が記されている。


陽菜が出生直後、医療施設で付けられていた管理番号。


すべてではない。


だが最初の数桁が一致していた。


その番号を知る者は、ごく限られている。


波田巌蔵。


白石源三郎。


杉本恵。


そして二十年前、国家の極秘計画へ関わった一部の人間。


恵の指が、わずかに震えた。


紙の端が小さく揺れる。


「恵さん?」


陽菜が不思議そうに見る。


恵は即座に紙を持ち直した。


「失礼いたしました」


「どうしたんですか?」


「陽菜さまは人気者でございますから、妬んでいる方がいらっしゃるのでしょう」


恵は穏やかに言った。


「悪質ないたずらでございます」


「やっぱりそうですよね」


陽菜は簡単に納得した。


恵の声がわずかに低くなったことも。


手元の包丁がいつもより一センチほどずれて置かれていることも。


白いエプロンのポケットへ入れた左手が、強く握られていることも。


何一つ気づかない。


陽菜は悪意に対して鈍感だった。


人を疑うより、信じる方が先に来る。


その天真爛漫さこそ、多くの人が陽菜を愛する理由である。


同時に、恵を最も苦しめるものでもあった。


「大学のどちらで見つかったのでございますか?」


「学生ラウンジです」


「最初に見つけた方は?」


「同じ学科のお友達です」


「何時頃でしょう」


「二時間目の後です」


「ほかには何枚ほど?」


陽菜が首を傾げる。


「恵さん、どうしたんですか?」


恵は、いつもの笑顔へ戻った。


「陽菜さまに何かございましたら、大学へご相談しなければなりませんので」


「私は全然気にしていませんよ」


「ですが――」


「大丈夫です」


陽菜は恵の手へ、自分の手を重ねた。


「恵さんの方が、そんな顔をしないでください」


「私が、どのような顔を?」


「心配している顔です」


陽菜は笑う。


「私なら大丈夫ですよ」


自分が守るべき娘から、逆に慰められている。


恵は胸の奥が締めつけられるように感じた。


陽菜は何も知らない。


目の前の家政婦が、怪文書に書かれた「生きている母親」だとは知らない。


その母親が、かつて何人もの人生を壊した諜報員だったことも。


自分の出生が、世界の均衡を揺るがしかねない秘密であることも。


何も知らず、恵の手を握りながら笑っている。


恵は陽菜の手を見つめた。


朝、白いリボンを結ぶ時に感じた温もりと同じだった。


「ありがとうございます、陽菜さま」


「どういたしまして」


陽菜は満足そうに頷いた。


「今日の夕食は何ですか?」


危険な出生の秘密から、夕食へ話題が移るまで三秒だった。


恵は一瞬だけ目を閉じる。


「鶏肉の香草焼きでございます」


「やった」


陽菜は怪文書のことを、もう半分忘れていた。


     ◇


その夜。


恵は白石家の主人、白石源三郎の書斎を訪れた。


源三郎は高齢で、妻に先立たれてから体調を崩しがちだった。


かつては政財界へ強い影響力を持ち、戦隊ヒロインプロジェクトの創設にも関わった人物である。


波田巌蔵とは旧知の仲。


そして陽菜の出生の秘密を知る、数少ない一人だった。


書斎には古い本と、薬の匂いが混じっている。


恵は机へ四通の怪文書を並べた。


「陽菜さまの大学にまで出回っております」


源三郎は老眼鏡をかけ、一枚ずつ読む。


「この数字は、出生時の管理番号の一部でございます」


「そうか」


「旦那さま。波田さまへご連絡なさった方が――」


「放っておきなさい」


冷たい返事だった。


恵が顔を上げる。


「しかし、すでに大学へまで――」


「放っておけ」


源三郎の声が強くなる。


「騒げば、こちらが何を守っているのか、相手へ教えるだけだ」


「ですが、陽菜さまに危険が及ぶ可能性がございます」


「相手は答えを知らない」


源三郎は怪文書を机へ置く。


「だから、このような下らん紙を送りつけている」


「知っている者がいるからこそ、管理番号が――」


「知っているのは断片だけだ」


源三郎の言葉には確信があった。


恵はその目を見る。


「何か、心当たりがおありなのでしょうか」


「ない」


「旦那さま」


「知らんものは知らん」


源三郎は咳き込んだ。


激しい咳だった。


恵はすぐ水を差し出し、背中を支える。


「お休みになった方がよろしいかと」


「恵」


源三郎は息を整えながら呼んだ。


「お前も動くな」


恵の手が止まる。


「私は白石家の家政婦でございます」


「だから言っている」


「何のことでございましょう」


「昔の悪い癖を出すな」


二人の視線が交わる。


白石源三郎は知っている。


杉本恵が誰だったのか。


何ができる女なのか。


動き出せば、どれほど多くの者を巻き込むのか。


「放っておけ」


源三郎は繰り返す。


「それが、この家と陽菜を守る最善の方法だ」


恵は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


だが、その声には従う者の響きがなかった。


書斎を出た後、恵は扉の前で足を止める。


源三郎の体は、以前より明らかに弱っている。


妻を失い、病を抱えながら、陽菜を守り続けてきた。


これ以上、国家の暗部へ引き戻すわけにはいかない。


波田もまた、当局との板挟みになる。


綾乃を動かせば、再び命を狙われる。


ならば、自分で解決するしかない。


一方、恵が去った後。


源三郎は怪文書を裏返した。


新聞活字の隅に、小さな記号が印刷されている。


二十年前、特定の政府系機関が内部文書へ使っていた管理符号。


源三郎は低く呟いた。


「まだ生き残っていたか」


放っておけという言葉は、無関心ではない。


源三郎自身が、何かを待っていた。


     ◇


深夜。


白石家が静まり返った後、恵は物置へ入った。


陽菜が幼い頃に使っていた玩具。


白石夫人の衣類。


古い行事用品。


その奥に、木製の箱が隠されている。


鍵穴には、二十年分の埃がたまっていた。


恵は首から下げていた小さな鍵を取り出す。


二十年間、一度も使わなかった鍵。


箱を開ける。


中には旧式の小型端末。


複数の偽造身分証。


外国紙幣。


暗号表。


色褪せた写真。


そして、折り畳まれた黒い衣服。


写真の女は、現在の杉本恵とは異なる顔をしている。


だが目だけは同じだった。


相手の嘘を見抜き、次の動きを読み、必要なら味方すら欺く目。


東洋のマタ・ハリ。


世界の情報機関から恐れられた女。


恵は旧式端末を手に取り、電源を押す。


何も起きない。


もう一度押す。


反応しない。


恵は無表情で端末を見つめた。


「二十年も眠っていれば、目覚めが悪いのも仕方ございませんね」


側面を軽く叩く。


まだ動かない。


もう一度、少し強く叩く。


画面が青白く明滅した。


世界各国の情報機関を欺いた伝説の女も、二十年前の電子機器には物理的な説得を試みるしかなかった。


「最初から素直になさればよろしいものを」


機械へ上品に説教する。


画面に古い連絡先が表示される。


死亡。


引退。


消息不明。


接続不能。


かつての情報網は、ほとんどが消えていた。


それでも一つだけ、生きている回線が残っている。


恵は二十年前の暗号を入力した。


白い椿は、まだ枯れていない。


送信。


一分。


二分。


三分。


返事はない。


恵は待ち続ける。


やがて、画面へ一行が浮かび上がった。


お帰りなさい、マタ・ハリ。


恵の表情から、白石家の家政婦としての柔らかさが消えた。


二十年近く封じてきた顔。


母親になるために捨てた顔。


だが、白いエプロンは脱がない。


杉本恵は家政婦を辞めない。


陽菜のそばを離れず、朝食を作り、白いリボンを結びながら、その裏で戦う。


恵は最初の指令を入力する。


白石陽菜に関する全記録を追跡。

怪文書の作成者を特定。

大学への侵入経路を確認。

娘への接触は、一切許可しない。


「陽菜さま」ではない。


ただ一度だけ、「娘」と打った。


送信を終える。


その瞬間、元祖・東洋のマタ・ハリは二十年の眠りから目を覚ました。


国家のためではない。


金のためでもない。


何も知らずに笑う、ただ一人の娘を守るためだった。


     ◇


翌朝。


陽菜はいつものように鏡台の前へ座った。


「恵さん、今日もお願いします」


「かしこまりました」


恵は白いリボンを取り出す。


艶やかな黒髪を一つにまとめ、丁寧に結ぶ。


陽菜は鏡越しに恵を見た。


「昨日は少し元気がなかったですよね」


「そのように見えましたか?」


「はい。でも今日は大丈夫そうです」


陽菜は明るく笑う。


「やっぱり、恵さんにリボンを結んでもらうと安心します」


恵はリボンの形を整えた。


「私も、この時間を大切にしております」


「本当ですか?」


「はい」


「では今日もお願いします」


「もう結び終わっておりますよ」


陽菜は鏡を確認する。


「本当だ」


恵は微笑んだ。


「白いリボンの妖精の出来上がりでございます」


陽菜は嬉しそうに立ち上がる。


白いエプロンのポケットで、旧式端末が小さく振動した。


最初の報告が届いたのだ。


陽菜は何も気づかない。


「いってきます」


「いってらっしゃいませ、陽菜さま」


陽菜が玄関を出る。


白いリボンが朝の光を受けて揺れる。


扉が閉まった瞬間、恵の目が変わった。


端末を取り出す。


画面には短い報告が表示されていた。


怪文書に使用された新聞は、二十年前に閉鎖された政府資料保管所から持ち出された可能性あり。


敵は恵の過去を知っている。


白石家の近くまで来ている。


そして、次は怪文書だけでは済まない。


恵は端末を閉じる。


台所へ戻り、陽菜が使ったカップを洗う。


外見は、いつもの親切な家政婦だった。


だが、その胸の内では、二十年前の工作員が完全に目を覚ましていた。


恵は、まだ温もりの残る白いリボンの予備を手に取る。


そして、静かに誓う。


――この白いリボンに、誰の手も触れさせない。


白石家の穏やかな朝は終わった。


娘の知らない、母の極秘任務が始まった。

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