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ヒロインズ・リンク 〜戦隊ヒロインプロジェクト〜  作者: スパイク


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二十年ぶりの一撃 ――「偶然」で済ませるには、あまりにも鮮やかだった

白石家の応接室で、西園寺綾乃は杉本恵の過去を示す資料をテーブルへ並べた。


複数の情報機関から同時に金銭を受け取った記録。


依頼主を欺き、敵対する組織へ情報を流した証拠。


救った協力者と、切り捨てられた仲間。


そして、「東洋のマタハリ」という名の女が関わったとされる、幾つもの不可解な失踪事件。


それらを一つずつ示されても、恵は顔色一つ変えなかった。


「大変物騒なお話でございますね」


「こちらの偽名にも、覚えはあらしまへん?」


「ございません」


「この送金記録は?」


「金融には疎うございますので」


「この暗号文は?」


「外国語でございましょうか」


かつて世界中の情報機関を欺いた女は、現在もなお完璧だった。


強く否定しない。


怒らない。


余計な説明もしない。


すべてを、自分とは関係のない遠い国の出来事として上品に受け流す。


だが綾乃は、恵のほんの小さな動揺を見逃さなかった。


ジェネラス・リンクが綾乃自身を狙っていると告げた時、恵の視線が一瞬だけ綾乃の手元へ落ちた。


怪我の有無。


隠された追跡装置。


武器を携帯しているか。


それらを確認する元工作員の目だった。


さらに、綾乃が「東洋のマタハリ」という名を継ぐつもりはないと告げた時、恵は半呼吸だけ安堵した。


綾乃は席を立ち、応接室の扉の前で振り返った。


「いつかじっくり話すことができる日を、楽しみにしています」


柔らかな京言葉。


だが、その瞳は鋭かった。


いつか必ず、本人の口から真実を聞く。


逃げ続けることは許さない。


そんな意思を込めた言葉だった。


恵は優雅に頭を下げた。


「その折には、よい茶葉をご用意いたします」


最後まで何一つ認めない。


だが完全な拒絶でもない。


綾乃は、はんなりと笑った。


「楽しみにしてますえ」


杉本恵に見送られ、綾乃は白石家を後にした。


門が閉まる直前まで、恵は穏やかな家政婦の顔をしていた。


だが綾乃の姿が見えなくなると、その表情から温度が消えた。


屋敷の斜め向かいに停車する黒い車。


運転席の男は新聞を広げているが、十分以上ページをめくっていない。


電柱の近くに立つ別の男は、綾乃が門を出た瞬間に端末へ触れた。


さらに少し離れた交差点には、先ほどまで存在しなかった工事車両が停まっている。


監視にしては、あまりに分かりやすい。


恵はすぐに理解した。


敵は尾行を隠そうとしていない。


綾乃に気づかせ、決められた方向へ誘導しようとしている。


これは監視ではない。


襲撃だった。


恵は屋敷へ戻り、何事もなかったようにエプロンを外した。


「少し買い物へ行ってまいります」


別の使用人へそう告げ、細身の黒い傘を手に取る。


窓の外には、雲一つない青空が広がっていた。


     ◇


綾乃もまた、白石家を出てすぐに尾行へ気づいていた。


ショーウインドーへ映る男。


二度角を曲がっても、一定の距離を保つ黒い車。


視線が合っても慌てて逸らそうとしない別の人物。


ジェネラス・リンクだ。


バッグの中には、杉本恵の過去を示す資料がある。


それだけではない。


敵にとって綾乃は、「東洋のマタハリ」の後継者候補でありながら、その称号を拒絶した女だった。


利用できないなら、消す。


ジェネラス・リンクらしい単純な結論だった。


綾乃は駅へ向かわず、住宅街の奥へ進む。


狙われているのが自分なら、敵を白石家から遠ざけなければならない。


陽菜へ危険が及ぶことだけは避けたかった。


新鋭とはいえ、綾乃はすでに複数の海外任務を経験している。


尾行をまく方法も、相手の人数を見極める技術も持っていた。


だが敵は、そんな綾乃の性格まで読んでいた。


白石家から離れる。


人の少ない場所へ進む。


一人で処理しようとする。


それ自体が、敵の罠だった。


遊歩道へ入ると、前方を工事車両が塞いだ。


後方には、尾行していた男。


植え込みの陰から、さらに二人が姿を現す。


三方向を塞がれる。


「ずいぶん大がかりなお見送りどすなぁ」


綾乃は足を止めた。


一人の男が、感情のない声で告げる。


「東洋のマタハリの後継者に、拒否する権利はない」


「勝手に指名して、断ったら殺すんどすか」


綾乃は、はんなりと微笑む。


「えらい身勝手な採用担当どすなぁ」


「資料を渡せ」


「お断りします」


「ならば、ここで消えろ」


「そちらも、お断りどす」


最初の男が動く。


綾乃は半歩下がり、伸びてきた腕をかわす。


手首を取り、体勢を崩させる。


二人目が横から迫る。


綾乃は相手の肩の動きを見て攻撃の方向を読み、低く身を沈めた。


新鋭敏腕エージェントの名は飾りではない。


動きに迷いはなく、相手の力を正面から受けない。


しかしジェネラス・リンク側も、綾乃の戦い方を事前に研究していた。


二人が正面から注意を引く。


その間に、三人目が死角へ回る。


綾乃は二人目をかわした直後、背後から近づく気配へ気づいた。


振り返る。


男の手には、光を反射する刃物が握られていた。


間に合わない。


そう判断した瞬間、黒い影が綾乃の前へ割って入った。


鈍い音。


白いブラウスの肩口が裂け、赤い血がにじむ。


「恵さん!」


綾乃の声が響いた。


そこに立っていたのは、先ほど白石家の玄関で自分を見送った杉本恵だった。


     ◇


杉本恵がエージェントの世界から退いて、二十年近い歳月が過ぎている。


今の生活は、白石家の家事と陽菜の世話が中心だった。


朝食を作る。


衣類を整える。


薬を確認する。


帰宅時間に合わせて風呂を用意する。


かつてのように危険な現場へ入ることなど、長い間なかったはずである。


だが、体に刻まれた技術は色褪せていなかった。


恵は傷ついた肩を気にすることなく、刃物を持つ男の手首を取る。


相手の力へ逆らわず、その勢いを利用して腕の向きを変える。


男の指から刃物が落ちる。


続けて足を払う。


倒れかけた相手を盾にするように位置を変え、次の男の動線を塞ぐ。


黒い傘が短く振られる。


先端が二人目の腕を正確に打ち、攻撃を止める。


派手な回し蹴りも、大きな掛け声もない。


力比べもしない。


相手の重心、呼吸、視線。


すべてを一瞬で読み、最小限の動きで無力化していく。


綾乃は、思わずその動きへ目を奪われた。


陽菜の髪を整えていた指。


ティーカップを静かに置いていた手。


クッキーを作る時、小麦粉を正確に量っていた同じ手が、工作員の関節を取り、武器を落とさせている。


二十年の空白を感じさせない。


むしろ、長い時間を経たことで余分な動きがさらに削ぎ落とされていた。


それは技術というより、匠の技だった。


一人が恵の負傷した側へ回ろうとする。


綾乃が即座に位置を変え、恵の死角を補う。


恵が一人の視線を引きつける。


綾乃がその隙に退路を確保する。


二人は一度も打ち合わせていない。


それでも、まるで何度も同じ任務へ入ったことがあるように動きが噛み合った。


新旧二人のエージェント。


ジェネラス・リンクは二人を分断するつもりだった。


だが結果的には、初めて同じ側で戦わせてしまった。


最後の一人が遊歩道の奥へ逃げる。


綾乃は反射的に追おうとした。


「追ってはなりません」


恵が静かに言った。


声は穏やか。


しかし有無を言わせない。


「けど、あの男を逃がしたら――」


「逃げる姿を見せ、追わせることも作戦の一つでございます」


その直後、男が逃げた先から別の車のエンジン音が聞こえた。


もし綾乃が追っていれば、さらに別の襲撃班へ挟まれていただろう。


綾乃は足を止めた。


敵は倒れた仲間を車へ押し込み、撤退する。


静けさを取り戻した遊歩道には、折れた黒い傘と、恵の血が数滴残されていた。


     ◇


綾乃はすぐに恵の肩へ手を伸ばした。


「傷を見せておくれやす」


「かすり傷でございます」


「かすり傷で、そないに血は出まへん」


「西園寺さまにお怪我は?」


「うちは大丈夫どす」


「でしたら、問題ございません」


恵は自分の傷より先に、綾乃の腕、首元、背中を確認する。


怪我だけではない。


追跡装置。


衣服へ付着した不審物。


敵に何かを持たされていないか。


その視線は、どう見ても家政婦のものではなかった。


綾乃は恵を見つめ、はんなりと笑う。


「恵はん、やっぱりただのお人やおへんなぁ」


初めて「恵さん」ではなく、「恵はん」と呼んだ。


親しみ。


敬意。


そして、同じ裏の世界を知る者としての呼びかけ。


恵の眉が、ごくわずかに動いた。


しかし次の瞬間には、いつもの家政婦の顔へ戻っていた。


「たまたま買い物へ出ましたところ、西園寺さまのお姿をお見かけしただけでございます」


綾乃は周囲を見回した。


白石家から商店街とは反対方向。


近くに店はない。


買い物籠も持っていない。


手元にあるのは、戦闘で真っ二つになった黒い傘だけだ。


「ずいぶん遠回りのお買い物どすなぁ」


「少し歩きたい気分でございました」


「晴れた日に傘まで持って?」


「日差しが強うございましたので」


「黒い雨傘に見えますけど」


「物を大切にする性分でございます」


「さようどすか」


「はい」


世界中の情報機関を欺いた女は、二十年近く家政婦をしても、しらを切る技術だけは完璧だった。


綾乃はそれ以上追及しない。


恵が異変を察し、自分の後をつけていたことは分かっている。


だが恵は、正体を認める代わりに「偶然」という言葉で綾乃を守ろうとしていた。


     ◇


恵は傷口をハンカチで押さえながら、静かに言う。


「老婆心ながら、一つ申し上げてもよろしいでしょうか」


綾乃は少し首を傾げた。


「恵はんが老婆やなんて言うたら、陽菜はんが怒りますえ」


「年齢についてのお話ではございません」


「冗談どす」


恵は冗談へ付き合わなかった。


「尾行へ気づいた時、相手の目的を最後まで確かめようとなさらないことです」


「敵を白石家から離したかったんどす」


「その判断は間違いではございません」


恵は綾乃をまっすぐ見る。


「ですが、ご自分だけを危険へ置く必要はございません」


「誰かを巻き込むよりは、ましどす」


「それは、守る者の考え方ではございません」


恵の声が、少しだけ低くなる。


「消耗品の考え方です」


綾乃の笑みが消えた。


国家に使われ、顔も名前も戸籍も失った女。


自分を消耗品として扱い続けた末に、娘へ母親と名乗ることさえできなくなった女。


その恵が、綾乃へ同じ道を歩くなと伝えていた。


「ご自分を道具として扱ってはなりません」


「……はい」


「勝つことだけをお考えにならないことです。逃げることも、助けを求めることも、任務の一部でございます」


「元敏腕エージェントとしての助言どすか?」


「長く家政婦をしておりますと、危険な場所から離れる知恵も身につくものでございます」


「どれだけ物騒なご家庭で働いてはったんどす?」


恵は華麗に聞き流す。


「もう一つ、老婆心ながら」


「まだありますの?」


「相手の手だけをご覧にならないことです」


「武器を確認するためどす」


「武器を持つ前に、肩と腰が動きます」


恵は実際に綾乃の肩へ手を添え、立つ位置を少し変える。


「視線がこちらへ向いていても、腰が別の方向を向いていれば、次に動く先はそちらです」


「なるほど」


「足元もご覧ください。逃げる者は、走り出す前に爪先が出口へ向きます」


「恵はん」


「何でございましょう」


「さらりと教えてはりますけど、それは家政婦の一般常識やあらしまへんえ」


「大勢のお客さまをお迎えしておりますと、人の動きを見る機会も増えるものでございます」


また、しらを切る。


しかし恵は、確実に綾乃へ技術を伝えようとしていた。


東洋のマタハリの後継者と目される若いエージェント。


自分と似た才能を持ちながら、自分と同じ運命は拒絶した女。


恵は綾乃を放っておけない。


後継者にはしたくない。


だが、才能ある若者が敵に潰されることも望んでいない。


だから師とは名乗らないまま、「老婆心」という言葉を隠れ蓑にし、生き延びるための技術を渡そうとしていた。


恵は綾乃のバッグを見る。


「資料を守るために、命を危険へさらしてはなりません」


「この中には、恵はんの過去が入ってます」


「何のことでございましょう」


「そこは、やっぱり認めへんのどすなぁ」


「存じ上げないことは、認めようがございません」


恵は一度しらを切り、それから続ける。


「紙は失っても、記憶があれば作り直せます。ですが命は、作り直せません」


綾乃は黙って聞く。


「敵を倒す道を探すより先に、仲間のところへ帰る道を探してください」


「仲間のところへ?」


「西園寺さまには、帰る場所がおありでしょう」


陽菜。


美月。


戦隊ヒロインの仲間たち。


大学生活。


本名で自分を呼ぶ人々。


杉本恵が二十年前に失ったものを、綾乃はまだ持っている。


恵は、それを捨てるなと伝えていた。


綾乃は静かに頭を下げた。


「おおきに」


それだけだった。


命を救ってくれた礼。


技術を教えてくれたことへの感謝。


そして、自分を消耗品にはしないという約束。


恵は優雅に一礼する。


「何のことでございましょう」


最後まで、偶然通りかかった家政婦を演じ続けた。


     ◇


二人は白石家へ戻る。


ただし恵は、屋敷へ入る前に近くの商店へ立ち寄り、紅茶の茶葉を一箱買った。


本当に買い物へ出たように見せるためだった。


綾乃が感心する。


「そこまで準備しはりますか」


「手ぶらで戻れば、陽菜さまがご心配なさいます」


「襲撃者より、陽菜はんの質問の方が手強そうどすなぁ」


「時には」


白石家へ着くと、ちょうど大学から帰宅した陽菜が玄関へ出てきた。


「綾乃さん、まだいらしたんですか?」


「少し忘れ物をしまして」


「恵さん、その腕はどうしたんですか?」


陽菜は、恵の袖ににじんだ血へすぐ気づいた。


「買い物の途中で、木の枝へ引っかけてしまいました」


「木の枝で、こんな傷になるんですか?」


「大変元気な枝でございました」


綾乃は思わず恵を見る。


世界中の情報機関を欺いた伝説のエージェントにしては、植物へ責任を負わせる説明が少し雑だった。


陽菜は納得しない。


すぐに救急箱を持ってくる。


「座ってください。私が消毒します」


「大した傷ではございません」


「駄目です。紗絢先生も、傷を放っておいたらいけないと言っていました」


医療に一切妥協しない藤崎紗絢の名前を出され、恵は静かに椅子へ座る。


陽菜は心配そうな顔で傷を処置した。


「痛くありませんか?」


「大丈夫でございます」


「恵さんは、すぐ大丈夫と言うから信用できません」


その言葉に、綾乃の胸がわずかに痛む。


陽菜は何も知らない。


目の前の女性が実の母親であることも。


恵が二十年前まで世界を渡り歩く諜報員だったことも。


綾乃を守るために体を張ったことも知らない。


ただ、大切な家政婦が怪我をしたと思い、真剣に包帯を巻いている。


「ありがとうございます、陽菜さま」


「どういたしまして」


母と娘は、本当の関係を知らないまま、いつもの呼び方で会話する。


少なくとも、陽菜は何も知らない。


恵だけが、娘の手の温かさを母親として受け止めながら、家政婦の顔で微笑んでいた。


手当てを終えた陽菜は、今度は綾乃の服へついた泥に気づく。


「綾乃さんも転んだんですか?」


「少しだけどす」


「恵さんと同じ場所で?」


綾乃と恵が、ほぼ同時に答える。


「偶然どす」


「偶然でございます」


陽菜は二人を見比べた。


「最近、お二人とも“偶然”が多くありませんか?」


綾乃は、はんなりと笑う。


「世の中には、不思議なこともありますのえ」


「さようでございますね」


恵も穏やかに続ける。


二人の呼吸が妙に合っている。


陽菜はさらに疑わしそうな顔をした。


「それに、綾乃さん。さっきから恵さんのことを“恵はん”って呼んでいませんか?」


綾乃の笑顔が一瞬だけ止まる。


「京都では、親しみを込めてそう呼ぶこともありますのえ」


「いつからそんなに親しくなったんですか?」


「紅茶のお話で意気投合しまして」


「紅茶だけで?」


「紅茶は奥が深いんどす」


「そうでございます」


恵まで即座に加わる。


陽菜は二人を見比べ、最後には首を傾げた。


「大人って、よく分かりません」


何も知らない陽菜の一言に、二人は答えられなかった。


     ◇


その日の夕方、美月から綾乃へ電話が入った。


「綾乃、白石家行ってたんやろ?」


「そうどすけど」


「恵さんのクッキー、もろた?」


「今日はそれどころやあらしまへんでした」


「何があったん?」


綾乃は一瞬考える。


襲撃。


刃物。


杉本恵の鮮やかな護身術。


口にできるものは一つもない。


「元気な木の枝がありまして」


「何やそれ」


「うちにも、よう分かりまへん」


「クッキーは?」


「もろてまへん」


電話の向こうで、美月が心底残念そうな声を出す。


「何しに行ったん?」


「美月はんには一生説明できへん気がします」


「失礼やな。クッキーの種類くらい分かるわ」


「そこやおへん」


綾乃は思わず笑った。


数時間前には命を奪われかけた。


今もジェネラス・リンクは自分と陽菜、杉本恵を狙っている。


それでも美月の関心は、今日もクッキーだった。


その変わらなさが、綾乃にはありがたかった。


     ◇


同じ頃、ジェネラス・リンクの内部では襲撃失敗の報告が行われていた。


監視映像には、黒い傘を手に綾乃の前へ立つ杉本恵の姿が映っている。


襲撃者の一人が訴える。


「情報と違います。杉本恵は、ただの家政婦ではありません」


画面越しの幹部は、冷静に答えた。


「当然だ」


「では、なぜ事前に知らせなかったのです」


「確認が必要だった」


「何を?」


幹部は映像を停止する。


綾乃を守るように立つ杉本恵。


二十年近く現場を離れていたにもかかわらず、その動きには衰えがない。


「東洋のマタハリが、まだ戦えるのかどうかを」


画面が切り替わる。


今度は、恵の隣へ立つ綾乃が映る。


「だが、問題は古い女だけではない」


新旧二人のエージェントが、初めて同じ側で戦った。


しかも恵は綾乃を助けただけでなく、現場で技術まで伝え始めている。


ジェネラス・リンクは、二人の間に師弟関係が生まれることを恐れた。


ただし本人たちは、まだそれを認めていない。


     ◇


京都へ戻る途中、綾乃の端末へ杉本恵から短い連絡が届く。


〈本日は、お忘れ物のないようお気をつけくださいませ〉


表面上は、客へ送る家政婦の丁寧な連絡。


しかし綾乃には本当の意味が分かった。


――次は、ご自分の命を置き忘れないでください。


綾乃は短く返信する。


〈おおきに〉


余計な言葉は加えなかった。


恵は自分を師とは名乗らない。


東洋のマタハリだったとも認めない。


綾乃も弟子になるとは言わない。


それでも恵は、「老婆心ながら」と言い訳しながら、二十年の諜報活動と後悔の末に身につけた生存技術を綾乃へ渡し始めた。


綾乃を後継者にはしたくない。


自分と同じように、名前も仲間も人生も失わせたくない。


だが、その優れた才能が敵に潰されることも許せない。


杉本恵の矛盾した感情は、綾乃の前へ差し出された黒い傘に表れていた。


綾乃は東洋のマタハリの名を継がない。


だが、その女が失敗と後悔の果てに学んだ、


生きて仲間のもとへ帰る技術。


それだけは、確かに受け取った。


二十年ぶりの一撃は、襲撃者を倒しただけではない。


新旧二人のエージェントの間に、まだ名前のない信頼を生んだ。


そして陽菜だけは、そのすべてを知らない。


大切な家政婦が木の枝で怪我をし、綾乃が偶然同じ場所で転んだ。


ただそれだけだと信じていた。


その無邪気な日常を守るために、二人の女は今日も真実を隠す。


一人は、かつて世界を欺いた伝説の諜報員。


もう一人は、その名を拒んだ新鋭エージェント。


二人を結んだのは師弟の誓いではない。


綾乃が口にした、ただ一言だった。


「おおきに」

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