後継者は名を継がない ――東洋のマタハリが遺した罪と、京女が選ぶ自分の名前
西園寺綾乃は、他人の秘密を暴くことには慣れていた。
海外へ渡れば、名家の令嬢として慈善晩餐会に出席し、翌日には織物研究を名目に国境沿いの町へ入る。
ホテルのラウンジで紅茶を飲みながら、向かいに座る大使館員の嘘を見抜く。
骨董市では、絹織物の値段を交渉するふりをして暗号表を受け取る。
港町の古い食堂では、店主から魚料理を勧められるついでに、二十年前に失踪した工作員の名前を聞き出す。
新鋭敏腕エージェントとして経験を積む中で、綾乃は政府機関にもヒロ室にも属さない、独自の情報ルートを築き始めていた。
元外交官。
引退した情報員。
裏社会から足を洗った運び屋。
国際金融の不正を追っている記者。
国家には忠誠を誓わないが、自分なりの正義や利害によって情報を渡してくる者たち。
彼らが綾乃へ教えたのは、公式記録には残らない歴史だった。
その中に、何度も現れる一人の女がいた。
名前は毎回違う。
国籍も違う。
年齢すら一致しない。
だが、どの記録にも同じ特徴が記されている。
小柄。
色白。
幼く見える顔立ち。
複数の言語を完璧に操り、相手の警戒心を解くことに長けた女。
世界の情報機関と闇社会が、畏怖を込めて呼んだ名。
――東洋のマタハリ。
その正体が、白石家の家政婦・杉本恵であることを、綾乃はすでに知っていた。
そして恵が、人気戦隊ヒロイン・白石陽菜の実母であることも。
だが調べれば調べるほど、綾乃が白石家で見てきた穏やかな家政婦の姿とは、あまりにも異なる過去が浮かび上がってきた。
◇
最初の資料は、地中海沿岸の小国で受け取った。
古びたホテルの一室。
カーテンは閉ざされ、テーブルには、長年誰にも開かれなかった革製の書類鞄が置かれていた。
情報を持ち込んだのは、現地情報機関の元分析官である。
「彼女は日本政府の工作員だと思われていた」
老人は英語で言った。
「実際には?」
綾乃が尋ねる。
「誰の工作員だったのか、最後まで誰にも分からなかった」
鞄の中には、複数の送金記録があった。
日本政府系の秘密口座。
欧州の情報機関。
武器取引を仲介する企業。
石油利権を握る財閥。
そして、国際犯罪組織の資金洗浄に利用されていた銀行。
異なる組織から、同じ時期に、同じ女の偽名へ巨額の金が支払われている。
通常の諜報員なら、一つの国家や組織から報酬を受け取る。
二つの勢力から受け取れば、二重スパイと呼ばれる。
だが東洋のマタハリは、多い時には四つの陣営から同時に金を受け取っていた。
「どの組織へ忠誠を誓うてたんどす?」
綾乃の問いに、老人は首を横へ振った。
「忠誠という言葉を、彼女が信じていたとは思えない」
別の記録では、大手企業が競合他社の技術情報を得るため、東洋のマタハリを雇っていた。
彼女は依頼どおり技術情報を持ち帰った。
しかし同時に、依頼主が不正な取引を行っていた証拠を競合他社へ渡している。
競合他社からも報酬を受け取った後、その企業が外国政府へ行っていた違法献金の証拠を第三国の捜査機関へ流した。
結果、最初の企業も競合他社も壊滅した。
二社の株価は暴落。
幹部は逮捕。
依頼主は会社も財産も失った。
東洋のマタハリだけが、三つの組織から金を受け取って姿を消した。
「クライアントまで嵌めはったんどすか」
「彼女に依頼した時点で、自分も標的になる可能性を考えるべきだった」
老人は冷たく答えた。
武器商人から依頼を受け、取引相手へ潜入した作戦もあった。
彼女は取引相手の情報を武器商人へ渡す。
同時に武器商人の顧客名簿を敵対組織へ売る。
さらに両者が会合する日時を、現地政府へ密告した。
会合場所は包囲され、双方の幹部が拘束された。
彼女は、その混乱に乗じて隠し口座の資金まで消していた。
「正義のために悪人を潰した、いう見方もできますなぁ」
綾乃が言う。
老人は薄く笑った。
「ならば、なぜ彼女は金を取った?」
綾乃は答えなかった。
東洋のマタハリが受け取った金の一部は、現在の価値に換算すれば莫大な額になる。
しかし、金の行方は分からない。
恵が自分のために隠したのか。
協力者を国外へ逃がすために使ったのか。
国家から見捨てられた工作員の家族へ渡したのか。
それとも、今もどこかの口座に眠っているのか。
記録は、答えだけを巧妙に欠いていた。
◇
次の情報は、東欧の首都にある古い劇場で得た。
綾乃は伝統衣装の保存調査を名目に、舞台裏の倉庫へ入った。
案内役は、かつて東洋のマタハリに協力した男の娘だった。
彼女は、父親が死ぬ前に残した録音を綾乃へ聞かせた。
音声の中で、男は東洋のマタハリを称賛しながら、同時に恐れていた。
彼女は命を救ってくれた。
国外へ逃がす手配もした。
しかし、その代わりに男の持っていた情報をすべて奪い、彼が所属していた組織を壊滅させた。
男は生き延びた。
だが仲間たちは捕らえられた。
自分一人を救うために、ほかの者たちが売られたのではないか。
その疑念を、男は死ぬまで消せなかった。
録音の最後には、こう残されていた。
あの女に助けられた者は、感謝するべきなのか、恐れるべきなのか分からなくなる。
綾乃は音声を止めた。
白石家で陽菜へ紅茶を淹れる恵の姿が、脳裏へ浮かぶ。
陽菜の衣装を整える手。
体調を気遣う声。
焼きたてのクッキーを前に、四枚目へ手を伸ばす陽菜を静かに止める姿。
その同じ女が、かつて人間と組織を盤上の駒のように動かしていた。
一方を救いながら、もう一方を売る。
悪人を潰しながら、依頼主まで破滅させる。
国家から金を受け取りながら、敵対国とも取引する。
どれが任務で、どれが私欲だったのか。
綾乃には判別できなかった。
「えらいお母さまを持ちはりましたなぁ、陽菜はん」
小さく呟く。
その声は、劇場の暗闇へ消えた。
◇
調査を続ける綾乃自身にも、ジェネラス・リンクの影が迫っていた。
最初は、ホテルの部屋に置いた鞄の位置が数センチ変わっているだけだった。
次は、使っていないはずの充電器に新しい傷がついていた。
空港では、同じ男が搭乗口を変えても一定の距離を保ってついてきた。
京都へ戻ると、大学の講義中に見知らぬ番号から写真が送られてきた。
陽菜と綾乃がイベント会場で話している写真。
白石家へ入る杉本恵。
そして、大学構内を一人で歩く綾乃自身。
最後の写真には、短い文章が添えられていた。
東洋のマタハリの後継者へ。
次に失うのは、名前か、仲間か。
綾乃は画面を閉じた。
隣の席では、何も知らない学生が講義ノートを取っている。
教壇では教授が国際文化論を説明していた。
窓の外には、いつもと変わらない大学の景色が広がっている。
その平凡な日常へ、裏社会の手が伸び始めていた。
直後、美月からメッセージが届く。
〈海外行ってたんやろ? お土産何?〉
綾乃は返信しなかった。
十秒後。
〈チョコ?〉
さらに十秒後。
〈クッキーでもええで〉
もう一通。
〈既読つかへん。まさか、よう分からん高級織物だけちゃうやろな〉
綾乃は思わず額へ手を当てた。
国家の暗部と国際犯罪組織から狙われている最中に、美月が心配しているのは土産の種類だった。
〈今、講義中どす〉
そう返すと、すぐに返信が来た。
〈うちも〉
綾乃は画面を見つめた。
〈講義を聞きなはれ〉
〈綾乃もや〉
もっともな返事だった。
綾乃は端末を伏せ、わずかに笑った。
緊張は消えない。
だが、美月のどうでもよい連絡が、自分がまだ日常の側に立っていることを思い出させてくれる。
しかし、その日常へ敵が触れようとしている。
ジェネラス・リンクは、綾乃だけを狙っているのではない。
陽菜と杉本恵の行動も監視していた。
白石家周辺では、通信記録を探る不審な電波が確認される。
陽菜のイベントには、偽名を使った撮影スタッフが応募していた。
杉本恵の買い物経路を追う人物も現れる。
敵の狙いは明らかだった。
東洋のマタハリの過去を暴き、杉本恵を追い詰める。
陽菜を利用して恵を動かす。
そして綾乃を、「東洋のマタハリの後継者」として同じ闇へ引き込む。
◇
ジェネラス・リンクから、綾乃へ暗号通信が届いた。
顔も声も加工された人物が、画面越しに語りかける。
「調査は進んだようだな」
「おかげさまで。えらい物騒なお勉強になりました」
「彼女が被害者ではないと理解したか」
「被害者やったことと、悪いことをしたことは両立しますえ」
「それでも守るのか」
「誰を守るかは、うちが決めます」
「あなたは彼女と同じだ」
「どの辺りが?」
「複数の組織と関係を持ち、誰にも本心を見せず、仲間にさえ秘密を抱えている。すでに二代目の東洋のマタハリだ」
綾乃の表情から、笑みが消える。
「その呼び方は、やめていただけます?」
「称号だ。最も優れた女性工作員が継ぐ名だ」
「要りまへん」
「拒んでも、運命は変わらない」
綾乃は静かに微笑んだ。
「他人の人生を勝手に決めるんは、三流の占い師と悪い政治家だけで十分どす」
通信相手の声が低くなる。
「拒めば、白石陽菜と杉本恵にも危険が及ぶ」
「脅しどすか?」
「忠告だ」
「ほな、こちらからも忠告しときます」
綾乃は画面へ顔を近づけた。
「うちの大事な仲間へ手ぇ出したら、後悔する暇もないほど忙しゅうして差し上げますえ」
声は穏やかだった。
だが、その目には冷たい光が宿っていた。
通信が切れる。
直後、美月から再びメッセージが届いた。
〈土産、チョコで確定?〉
綾乃はしばらく画面を見つめ、深く息を吐いた。
〈八ツ橋にします〉
〈海外土産ちゃうやん!〉
張り詰めた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
◇
綾乃は杉本恵本人へ、調査で得た情報を突きつけることを決めた。
波田巌蔵にも安岡真帆にも、事前には詳しく知らせなかった。
二人へ報告すれば、国家機密を理由に止められる可能性がある。
それに、恵が過去について語るかどうかは、本人と向き合わなければ分からない。
数日後、綾乃は白石家を訪れた。
表向きの理由は、陽菜へ海外土産を届けるため。
陽菜は大学の講義へ出ており、白石家の主人も外出していた。
広い応接室には、綾乃と杉本恵だけが残る。
窓の外には、手入れの行き届いた庭が見える。
テーブルには白いクロス。
銀のティーポット。
焼きたての菓子。
恵は、いつもと変わらない家政婦の姿で紅茶を淹れていた。
「せっかくお越しいただきましたのに、陽菜さまがお留守で申し訳ございません」
「かましまへん。今日は恵さんとも、ゆっくりお話ししたいと思うてましたさかい」
「私とでございますか?」
「ええ」
恵は穏やかに微笑む。
「私でよろしければ」
綾乃はバッグから一冊の薄いファイルを取り出し、テーブルへ置いた。
「東洋のマタハリについて、少し調べさせてもらいました」
恵はファイルへ視線を落とす。
その時間は一秒にも満たなかった。
すぐに綾乃へ目を戻す。
「小説か映画のお話でございましょうか」
「現実のお話どす」
「私には、少々縁遠い世界のようでございます」
綾乃はファイルを開く。
最初のページには、複数の偽名と送金記録。
「日本政府から報酬を受け取りながら、同時期に敵対国の情報機関からも金銭を受け取っていた」
「物騒なお仕事でございますね」
「二重スパイどころやおへん。多い時には四つの勢力と取引してはったそうどす」
「大変お忙しい方だったのでしょう」
「そのお金、どこへ消えたんでしょうなぁ」
「金融には詳しくございませんので」
恵は紅茶を注ぐ。
流れは一定。
音も立てない。
綾乃は次の資料を出す。
「依頼を受けた企業から情報を盗んだ後、競合企業にも同じ情報を売り、最後は双方を捜査機関へ売った」
「もし本当なら、信用のできない方でございますね」
「クライアントを嵌めたことも、一度や二度やない」
「お仕事は、信頼が大切でございます」
「恵さんのお仕事も?」
「もちろんでございます。ご主人さまの信頼を失えば、家政婦は務まりません」
完璧な返答だった。
綾乃はさらに続ける。
「武器商人、犯罪組織、情報機関。全部から金を受け取り、最後は全員潰した作戦もある」
「映画でしたら、少々登場人物が多すぎますね」
「協力者を救う代わりに、その仲間を売ったことも」
「悲しいお話でございます」
「自分を信じた男を利用して、破滅させたことも」
「その方も、見る目がなかったのでしょう」
その答えだけ、わずかに冷たかった。
綾乃は目を細める。
恵は即座に穏やかな表情へ戻る。
「失礼いたしました。事情を知らずに申し上げることではございませんね」
「ほんまに、事情を知りまへんの?」
「はい」
「この偽名にも覚えは?」
「ございません」
「この口座は?」
「存じません」
「この暗号文は?」
「外国語でしょうか」
「英語より、よう知ってはる言葉やと思いますけど」
「私には読めません」
恵は、徹底的にしらを切った。
強く否定しない。
怒らない。
質問者を責めない。
すべてを、自分とは無関係な遠い世界の話として受け流す。
その姿勢があまりにも上品で、綾乃の方が無作法な客に見えてくるほどだった。
だが綾乃も、ただ資料を突きつけているだけではない。
言葉の選び方。
視線が動く方向。
紅茶を注ぐ速度。
カップを置く指の角度。
一つ一つを観察していた。
「東部国境作戦で、現地協力者を三人見捨てた」
綾乃が言う。
恵の表情は変わらない。
「そのうち一人は、十二歳の娘がおったそうどす」
変化なし。
「娘は後に、国外へ逃げ延びた」
恵の右手の親指が、ティーポットの取っ手を一度だけ撫でた。
ほんの小さな動き。
意識して見ていなければ気づかない。
綾乃はその仕草を記憶する。
次の資料。
「受け取った金の一部が、国外へ逃げた協力者の家族へ流れてました」
恵はティーポットを置く。
本来なら音を立てない女が、受け皿へごく小さな音を響かせた。
カチリ。
一瞬だけだった。
「そうでございますか」
声は平静。
だが、綾乃には十分だった。
恵は知っている。
送金のことも。
逃げ延びた娘のことも。
おそらく、金の行方も。
綾乃は追及を続ける。
「悪人を潰すためやったんどすか?」
「何のお話でしょう」
「それとも、お金のため?」
「私には分かりかねます」
「国家に命令された?」
「国家のお仕事に関わった経験はございません」
「自分の判断で、人を売ったことは?」
「私は食材を買う時でも、ご主人さまへ確認する立場でございます」
綾乃は思わず小さく笑った。
「そこまで家政婦を貫かはりますか」
「私は家政婦でございますから」
「陽菜はんのお母さまやのうて?」
空気が止まった。
庭から鳥の声が聞こえる。
恵の表情は動かなかった。
しかし、紅茶の横へ添えようとしていたスプーンの向きが、逆になった。
白石家では、恵は必ずスプーンの柄を客の利き手側へ向けて置く。
綾乃が右利きであることも知っている。
それを、この瞬間だけ左へ置いた。
綾乃は見逃さなかった。
「陽菜さまには、白石家のご主人と奥さまがおられます」
恵は静かに答える。
「私は、お世話をさせていただいているだけでございます」
「それだけ?」
「それ以上の何が必要でしょう」
「ご自分の娘を守るためなら、昔と同じことをしはりますか?」
「昔と申しましても、心当たりがございません」
「嘘をついても?」
「嘘は感心いたしませんね」
「敵を嵌めても?」
「私には敵などおりません」
「味方を売っても?」
「私にそのような権限はございません」
「多額のお金を動かしても?」
「白石家の家計簿は、ご主人さまが管理されております」
どの問いにも、恵は一切の隙を見せない。
だがスプーンは、まだ左を向いたままだった。
◇
綾乃はファイルを閉じた。
「ジェネラス・リンクは、この資料を世間へ出そうとしてます」
「恐ろしい組織でございますね」
「恵さんの過去を暴き、陽菜はんにも危害を加えるつもりどす」
恵は何も答えない。
「うちのことも狙ってます」
その時だった。
恵の視線が、ほんのわずかに綾乃の手元へ落ちた。
怪我がないか。
追跡装置をつけられていないか。
武器を持っているか。
元諜報員が相手の安全を確認する時の目だった。
すぐに家政婦の穏やかな視線へ戻る。
「西園寺さまも、危険な場所へ行かれることがおありなのですね」
「織物のお勉強は、たまに危のうございますさかい」
「どうぞお気をつけくださいませ」
「それだけどすか?」
「ほかに何と申し上げればよいでしょう」
「東洋のマタハリの後継者やと言われました」
恵の指が止まる。
わずかに、半呼吸。
「それは、どのような意味なのでしょう」
「最も優秀な女性工作員が継ぐ称号やそうどす」
「光栄なお話なのでしょうか」
「うちは迷惑してます」
「でしたら、お断りになればよろしいかと」
「もう断りました」
「賢明なご判断でございます」
恵はカップへ視線を落とした。
声は穏やか。
しかし、綾乃にはその言葉の奥に、安堵が混じっているように聞こえた。
綾乃が東洋のマタハリを継がないことを、恵は喜んでいる。
そのことだけは、上品なしらを切り方でも隠し切れなかった。
「恵さんは、うちが後継者になるんを望んでへんのどすなぁ」
「私は、そのような事情を存じません」
「けど、今ちょっと安心しはりました」
「お茶が冷めずに済んで安心しただけでございます」
「さすがどすなぁ」
綾乃は感心したように笑う。
「何のことでございましょう」
「二十年近う家政婦をしてはるだけあって、お茶の心配まで完璧どす」
「お褒めいただき、光栄でございます」
また、かわされた。
だが今度は、綾乃も追わなかった。
杉本恵は話さない。
話せないのかもしれない。
告白すれば、自分の罪だけではなく、国家が隠してきた作戦、死んだ協力者、現在も生きている関係者、そして陽菜の出生までつながる。
一言の真実が、何百人もの人生を壊す可能性がある。
だから恵は沈黙を守る。
あるいは、本当に自分の罪から逃げているだけかもしれない。
今の綾乃には判断できなかった。
◇
綾乃は立ち上がり、ファイルをバッグへ戻した。
「今日は物騒なお話ばかりして、堪忍え」
「私には分からないことばかりでございましたが、大変勉強になりました」
「そうどすか」
「はい」
「ほな、最後に一つだけ」
綾乃は応接室の扉の前で立ち止まった。
振り返る。
杉本恵は、上品に両手を重ね、完璧な家政婦の姿で立っていた。
窓から差し込む午後の光が、その穏やかな横顔を照らしている。
世界中の情報機関を欺き、多くの人間を破滅させたかもしれない女。
同時に、実の娘へ母と名乗ることさえ許されず、二十年近くそばで守り続けてきた女。
そのどちらも、杉本恵なのだろう。
綾乃は、はんなりと微笑んだ。
だが、その瞳は新鋭エージェントのものだった。
「いつかじっくり話す事ができる日を、楽しみにしています」
柔らかな声。
しかし、それは社交辞令ではなかった。
逃がさないという宣言。
いつか必ず、杉本恵本人の言葉で真実を聞くという約束。
恵は一瞬だけ綾乃を見つめる。
そして、何事もなかったように優雅に頭を下げた。
「その際には、よい茶葉をご用意いたします」
綾乃の笑みが深くなる。
「楽しみにしてますえ」
二人の視線が交わる。
新旧の東洋のマタハリ。
ただし綾乃は、その名を受け継がない。
杉本恵の技術から学ぶことはある。
彼女が犯した失敗も、背負った罪も忘れない。
だが、同じ名前を名乗り、同じ人生を歩むつもりはなかった。
綾乃は白石家を後にした。
◇
門が閉まる。
綾乃の姿が見えなくなった後も、恵は玄関に立っていた。
やがて応接室へ戻り、二人分のカップを片づける。
綾乃の前に置いたスプーンを見る。
柄は左を向いている。
恵はしばらくそれを見つめた。
完璧であるはずの自分が、動揺によって犯した小さな間違い。
そして、それを綾乃が見逃さなかったことも分かっていた。
「新鋭……でございますか」
恵は、ごく小さく呟いた。
その声には、警戒と安堵が混じっていた。
綾乃は自分の後継者にならない。
だからこそ、陽菜を任せられるのかもしれない。
恵はスプーンを正しい向きへ直す。
その直後、エプロンの内側から古い型の小型端末を取り出した。
画面には、短い暗号文が表示されている。
〈対象二、監視継続。接触者への排除許可を求む〉
対象二。
それが綾乃を指していることを、恵は理解していた。
恵の指が画面の上で止まる。
やがて返信を打つ。
〈許可しない。対象二への接触を中止せよ〉
送信。
数秒後、端末から記録を完全に消去する。
もし綾乃がこの場面を見ていれば、杉本恵が現在も独自の情報網を持ち、ジェネラス・リンクの内部へさえ手を伸ばしていると気づいただろう。
だが恵は、その事実も語らない。
語らないまま、家政婦の仕事へ戻る。
夕方には陽菜が帰宅する。
夕食を作り、薬を確認し、大学での出来事を聞く。
母親とは名乗れない。
それでも娘のいる日常を守る。
それが現在の杉本恵に残された、唯一の任務だった。
◇
一方、白石家を出た綾乃の端末へ、美月から着信が入る。
「綾乃、どこおるん?」
「相模原どす」
「白石家?」
「そうどすけど」
「陽菜おる?」
「大学どす」
「ほな恵さんのクッキーだけでも、もろてきて」
綾乃は歩きながら目を閉じた。
「美月はん」
「何?」
「うちは今、国際的な秘密と向き合うてきたところどす」
「クッキーの秘密?」
「違います」
「レシピ聞けた?」
「聞いてまへん」
電話の向こうで、美月が心底残念そうな声を出す。
「何しに行ったん?」
「説明しても分からへんと思います」
「失礼やな。クッキーの種類くらい分かるわ」
「そこやおへん」
綾乃は、思わず笑った。
杉本恵の過去。
ジェネラス・リンクの脅威。
陽菜へ迫る危険。
自分を後継者へ仕立てようとする敵。
何一つ解決していない。
それでも美月の声を聞けば、自分には帰る場所があると思える。
東洋のマタハリにはなかったもの。
本名で呼ぶ仲間。
大学生活。
華やかなステージ。
くだらない土産話。
綾乃は、それらを捨てない。
「美月はん」
「何?」
「帰りに八ツ橋買うて帰ります」
「やった! チョコ味な!」
「伝統を尊重しなはれ」
「海外で悪いもん食べたん? 頭固うなってるで」
通話を切った後、綾乃は夕暮れの空を見上げた。
ジェネラス・リンクは、綾乃を東洋のマタハリの後継者と呼ぶ。
だが綾乃は、誰かが用意した名前に自分の人生を明け渡さない。
技術は学ぶ。
秘密も背負う。
必要なら、杉本恵の罪とも向き合う。
それでも継がないものがある。
名。
運命。
そして、自分を失う生き方。
「後継者いうんは、前の人と同じ道を歩く人やおへん」
綾乃は静かに呟いた。
「同じ過ちを、繰り返さん人のことどす」
新鋭敏腕エージェント、西園寺綾乃。
彼女は東洋のマタハリの技術へ近づきながら、その称号からは一歩遠ざかった。
誰かの二代目ではない。
国家が選んだ道具でもない。
陽菜を守る方法も、敵と戦う方法も、自分の名前で選ぶ。
後継者は、名を継がない。
その決意こそが、伝説の女と新しい時代の京女を分ける、最初の一線だった。




