父は壇上、母は舞台袖 ――知らない娘に、元総理は「可愛らしいねぇ」と笑った
東京都心の国際会議場で開催されることになったのは、青少年育成、防犯、国際協力を掲げた大規模な国民フォーラムだった。
正式名称は、
「次世代を守る国民フォーラム――地域社会と青少年育成の未来」
内閣関係者、与野党の国会議員、自治体首長、警察・消防幹部、教育関係者、大企業の代表が一堂に会する。
表向きは青少年の健全育成を考える社会貢献イベントだが、会場を見渡せば、どこを向いても政治家と秘書と報道陣ばかりである。
戦隊ヒロインプロジェクトも、地域防犯活動や子ども向けイベントへの功績を評価され、特別ゲストとして招待されていた。
登壇するのは、白石陽菜と西園寺綾乃。
二人の引率と政界関係者への対応を担当するのが、ヒロ室フロントの安岡真帆だった。
陽菜の付き添いとして、白石家の家政婦・杉本恵も同行する。
そして、この日の最高位の来賓として招かれている人物こそ、白石陽菜の実父だった。
戦後最長内閣を築き、国際舞台でも日本の存在感を高めた元総理大臣。
今なお「戦後最高の宰相」と呼ばれ、政界を引退した後も国内外に絶大な影響力を持つ人物である。
元総理本人は、白石陽菜が自分の娘であることを知らない。
陽菜もまた、偉大な元宰相を、自分とは何の関係もない歴史上の人物に近い存在だと思っていた。
実の母である杉本恵だけが、二十年近く封印してきた過去と、再び同じ会場で向き合うことになる。
◇
会場入りした陽菜は、いつになく緊張していた。
控室の鏡の前で原稿を持ち、同じ一文を何度も読み返している。
「綾乃さん」
「はい」
「『私たちは地域の皆さまと力を合わせ』と、『地域の皆さまと私たちは力を合わせ』なら、どちらの方が失礼ではないですか?」
「どちらも失礼やおへんえ」
「でも、元総理大臣の前で読むんですよ」
「元総理はんも、語順くらいで怒らはりまへん」
「本当に?」
陽菜は原稿を胸に抱え、小動物のように首を傾げた。
「握手は右手ですよね?」
「普通は右手どす」
「両手で握るのは馴れ馴れしいですか?」
「選挙運動みたいになりますなぁ」
「では右手だけにします」
「陽菜はん、握手の練習までしてはったん?」
「昨日、恵さんに三回付き合ってもらいました」
綾乃が舞台袖にいる恵へ視線を向ける。
恵はいつもと変わらない穏やかな表情で、陽菜の飲み物と薬を確認していた。
「三回どころではございません」
恵が静かに訂正する。
「七回でございます」
「恵さん」
陽菜が恥ずかしそうに振り返る。
「最後の四回は、恵さんの方からやり直そうって言ったじゃないですか」
「陽菜さまが握手をしながら、お辞儀を三度なさったからでございます」
「丁寧な方がいいと思って……」
「頭を上下させながら握手するお人は、あまりおりまへんなぁ」
綾乃が笑う。
陽菜は頬を膨らませた。
「お二人とも、今日は私の味方ではないんですか?」
「もちろん味方どす」
「私も陽菜さまの味方でございます」
「笑っています」
「緊張を和らげようとしてるんどすえ」
綾乃はそう答えながら、恵の指先を観察していた。
陽菜の衣装の襟を整える手は正確で、震えてはいない。
しかし、いつもなら一度で終わる確認を、今日は二度、三度と繰り返している。
恵にとって、元総理と同じ場所へ来るのは二十年近くぶりだった。
まだ東洋のマタハリと呼ばれていた頃。
国家の命令を受け、別の名と別の顔で接近した政治家。
やがて任務を越えた感情が芽生えたのか、それすら演技だったのか、恵自身にも今では分からない。
ただ一つ確かなのは、その男との間に陽菜が生まれたということだった。
元総理は娘の存在を知らない。
陽菜は父親の正体を知らない。
そして恵は、母親であることを名乗れない。
その三人が今日、同じ会場にいる。
「恵さん」
綾乃が小声で呼ぶ。
「何でございましょう」
「ご気分は?」
「問題ございません」
即答だった。
「まだ何も聞いてまへんけど」
「体調についてのお尋ねかと存じました」
「さすがどすなぁ」
恵はそれ以上、何も答えなかった。
◇
一方、安岡真帆は会場へ到着した瞬間から、完全な戦闘状態へ入っていた。
ただし敵は悪の組織ではない。
政治家である。
「安岡君、久しぶりじゃないか」
「安岡さん、後で少し話せるかな」
「戦隊ヒロインの地方展開について資料をもらいたいんだが」
「先生が一度、室長へご挨拶したいと」
右から国会議員。
左から秘書。
前から官僚。
後ろから地方議員。
真帆は一人一人の名前、選挙区、所属委員会を瞬時に思い出し、正確に挨拶を返していく。
「ご無沙汰しております」
「資料は後ほど秘書室へお届けします」
「本日の遥室長は別公務で欠席しております」
「地方イベントについては、来年度の日程が確定してから改めてご相談ください」
その対応は完璧だった。
しかし予定外の人物が到着したことで、真帆の仕事量は一気に倍増する。
「榊原先生がお見えになりました!」
スタッフの声が飛ぶ。
戦隊ヒロインプロジェクトの創設に大きく関わり、現在も政界に強い影響力を持つ大物代議士・榊原征一郎。
真帆がかつて私設秘書として仕えていた恩師でもある。
本来は公務の都合で欠席する予定だったが、直前になって、
「戦隊ヒロインの若い子たちが出るなら、顔くらい出さないといかん」
と言い出し、突然現れたのである。
真帆の顔がわずかに引きつった。
「欠席ではなかったのですか」
「予定が早く終わったそうです」
「なぜ事前連絡が十分前なのですか」
「先生なので」
スタッフの答えは、何の説明にもなっていないが、妙に説得力があった。
榊原代議士は警護と秘書を引き連れ、豪快に会場へ入ってくる。
「真帆!」
大声で呼ばれた瞬間、周囲の政治家たちが一斉に振り返った。
真帆は一瞬だけ目を閉じ、それから完璧な笑顔を作る。
「先生、ご無沙汰しております」
「何だ、ずいぶん他人行儀だな。昔みたいに先生のネクタイが曲がっておりますと言ってくれ」
「曲がっております」
「そうか?」
「かなり」
真帆は反射的に榊原のネクタイを直した。
その手際があまりに自然だったため、近くにいた綾乃が感心する。
「元秘書いうんは、体が覚えてはるんどすなぁ」
陽菜も小声で頷いた。
「真帆さん、すごいです」
「感心している場合ではありません」
真帆はネクタイを直しながら、榊原の秘書へ尋ねる。
「先生の滞在時間は?」
「当初は十五分の予定でした」
「当初は?」
「元総理へ挨拶し、戦隊ヒロインの発表を見て、可能なら記念撮影にも参加したいと」
「全部ではありませんか」
榊原が笑う。
「せっかく来たんだからな」
「先生が予定外の行動をなさると、警備、進行、席次、撮影位置、すべて変更になるのです」
「真帆は昔から細かいなあ」
「先生が昔から大まかすぎるのです」
綾乃は陽菜へ囁く。
「真帆はん、今日一番の強敵に出会わはりましたなぁ」
陽菜も真剣な顔で答える。
「ジェネラス・リンクより手強そうです」
「それは本人には言わん方がよろしおす」
榊原は陽菜に気づき、嬉しそうに近づいてきた。
「君が白石陽菜さんか」
「はい。初めまして」
陽菜は勢いよく頭を下げた。
「いつも活動を拝見しているよ。若いのに立派だ」
「ありがとうございます」
「真帆は怖いだろう」
「先生」
真帆の声が低くなる。
陽菜は困ったように二人を見比べた。
「とても頼りになる方です」
「模範解答だな」
「陽菜さんを困らせないでください」
「昔は私の原稿にも、赤字をびっしり入れていたんだ」
「事実誤認が多かったからです」
「政治家の演説は勢いも大切なんだ」
「事実の方が大切です」
元秘書と大物代議士のやり取りに、周囲のスタッフが笑いをこらえている。
真帆は榊原を来賓控室へ案内しながら、同時に別の議員へ挨拶し、スタッフへ席次変更を指示し、元総理側の秘書へ榊原到着を報告する。
「真帆さん、三人くらいいませんか?」
陽菜が真剣に尋ねる。
「一人どす」
綾乃が答える。
「けど、仕事量は四人分どすなぁ」
◇
やがて開会式が始まった。
壇上へ元総理が姿を現すと、会場全体の空気が変わる。
高齢になっても背筋は伸び、歩みには落ち着きがある。
元総理は演台へ立つと、原稿へほとんど目を落とさず、青少年を社会全体で守る重要性について語り始めた。
言葉は平易だった。
難しい政策論を並べるのではなく、自ら出会った子どもや地方の家族の話を交え、聞き手一人一人へ語りかける。
陽菜は舞台袖から目を輝かせていた。
「すごい……」
「何がどす?」
「言葉が全部、自分に向けられているみたいです」
綾乃は陽菜の横顔を見る。
陽菜がイベントステージで話す時も、客席全体ではなく、目の前の一人へ語りかけるような話し方をする。
間の取り方。
相手の反応を待つ癖。
声を少し落として重要な言葉を伝えるところ。
血のつながりというものを、これほど目に見える形で感じたことはなかった。
「陽菜はんも、似た話し方をしはりますえ」
「私がですか?」
「ええ」
「そんなわけありません」
陽菜は照れたように笑った。
その後方で、恵は元総理を見つめていた。
二十年近く前。
まだ別の名前を名乗り、別の顔を持っていた頃。
人目のない部屋で政策について語る彼も、同じような間の取り方をしていた。
疲れていても、誰かの前では笑う。
褒める時には少し首を傾ける。
考え込む時、右手の親指で人差し指の側面をなぞる。
何も変わっていない。
元総理は過去を知らないまま年齢を重ねた。
恵だけが顔を変え、戸籍を失い、母であることを封印した。
そして、その隣には二人の娘がいる。
「お変わりあらしまへんなぁ」
綾乃が小さく言った。
恵は元総理から視線を外さない。
「長く国民から親しまれている方でございますから」
「昔から、ああいうお話し方どした?」
恵は綾乃を見る。
その目は静かだった。
「家政婦の私が、昔の元総理をご存じのはずがございません」
完璧な答えだった。
杉本恵という家政婦は、元総理の過去を知らない。
知っているのは、すでに戸籍から消された別の女である。
綾乃は小さく笑う。
「華麗にかわさはりますなぁ」
「何のことでございましょう」
「演説が終わりますえ」
恵は何事もなかったように、陽菜の飲み物を確認した。
◇
元総理の講演が終わると、戦隊ヒロインによる活動発表が始まった。
綾乃が海外文化交流について語り、真帆が地域防犯イベントの実績を紹介する。
ただし真帆は発表直前まで、榊原代議士の席次変更と、別の議員から申し込まれた記念撮影の整理に追われていた。
「安岡さん、榊原先生が元総理の隣へ座りたいと」
「勝手に席を変えないでください」
「すでに移動しています」
真帆が来賓席を見る。
榊原は元総理の隣へ座り、昔話に花を咲かせていた。
本来そこへ座る予定だった自治体首長が、所在なさそうに一席ずれている。
「先生……」
真帆はこめかみを押さえた。
綾乃が横を通りながら声をかける。
「ご苦労さまどす」
「笑い事ではありません」
「真帆はんが仕えてはった理由が、よう分かります」
「どういう意味ですか」
「放っておけへんお方どす」
「そのとおりだから困るのです」
真帆は榊原の秘書を捕まえ、撮影順と退場経路を再調整する。
その間に、陽菜の登壇時間が近づいていた。
「陽菜さん」
真帆は忙しそうに資料を抱えながらも、足を止める。
「原稿は覚えていますか」
「はい」
「元総理の方だけを見ず、会場全体へ話してください」
「はい」
「緊張したら、一度息を吸ってから次の文章へ」
「はい」
「握手は右手で一回。お辞儀は一度」
陽菜が驚く。
「どうして練習したことを知っているんですか?」
「杉本さんから聞きました」
恵が静かに頭を下げる。
真帆は続ける。
「大丈夫です。陽菜さんならできます」
その言葉だけは、秘書でもフロント職員でもなく、仲間としてのものだった。
陽菜は力強く頷き、壇上へ向かった。
◇
「私たち戦隊ヒロインは、悪い人と戦うだけではありません」
陽菜の声が会場へ響く。
最初は少し緊張していた。
しかし客席にいる子どもたちや、地域活動で出会った人々のことを思い出すうちに、次第に自分の言葉になっていく。
「地域のイベントに参加したり、交通安全や防犯について一緒に考えたり、困っている方のお手伝いをしたりしています」
原稿から顔を上げる。
「私一人にできることは、そんなに多くありません。でも、目の前の一人を笑顔にできれば、その人がまた誰かを笑顔にしてくれると思っています」
会場が静かになる。
難しい政策用語は一つもない。
だが、その素直な言葉は、議員や官僚が並べる長い挨拶よりも強く届いた。
来賓席にいた元総理は、少し身を乗り出して陽菜を見ていた。
「彼女が白石陽菜さんかね」
隣の榊原代議士へ尋ねる。
「ああ。うちの戦隊ヒロインプロジェクトでも、特に人気のある子ですよ」
榊原は自分が育てたかのように胸を張る。
少し離れた場所で聞いていた真帆が、小声で呟く。
「先生が直接育てたわけではありません」
近くの秘書が苦笑する。
「先生なので」
また、その説明だった。
元総理は陽菜から目を離さない。
どこかで会ったような感覚がある。
もちろん、実際に会うのは初めてだった。
だが、話す時の間。
言葉を選ぶ前に少しだけ目を細める癖。
聞き手の反応を確かめる視線。
自分によく似ているように感じる。
元総理は、それを若い頃の自分に似た政治的才能だと考えた。
父と娘だからとは、夢にも思わない。
◇
活動発表が終わると、花束贈呈が行われた。
陽菜は大きな花束を両手で抱え、元総理の前へ進む。
練習どおり一度だけ頭を下げる。
「本日は、貴重なお話をありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう」
元総理が花束を受け取る。
間近で陽菜の顔を見た瞬間、その表情がわずかに止まった。
理由の分からない懐かしさ。
昔、どこかで見た瞳。
だが、その記憶の持ち主である東洋のマタハリは、現在の杉本恵とはまったく異なる顔をしていた。
元総理には、答えへたどり着く手がかりがない。
「あなたが、白石陽菜さんですね」
「はい」
「テレビで何度か拝見しましたよ」
「本当ですか?」
陽菜の顔が一気に明るくなる。
「悪人と戦ったり、健全な青少年育成のために活動したり、本当に立派ですね」
「ありがとうございます!」
陽菜は嬉しさのあまり、練習を忘れて二度頭を下げた。
舞台袖で恵が小さく目を閉じる。
綾乃が囁く。
「二度目、出ましたなぁ」
「緊張しておられますから」
元総理は楽しそうに笑った。
「それにしても、可愛らしいねぇ」
「えっ」
陽菜の頬が赤くなる。
会場にも温かな笑いが広がった。
「人気があるのも分かります。見た目だけでなく、先ほどのお話にも心がこもっていました」
「ありがとうございます。もっと頑張ります!」
陽菜は完全に有頂天だった。
元総理から一歩離れた後、舞台袖の綾乃へ向かって、小さく拳を握る。
声には出さないが、
――褒められました。
と全身で訴えている。
綾乃は笑顔で拍手を送った。
その横で、杉本恵は父と娘を見つめていた。
二十年近く前、国家の命令で接近した男。
自分が娘を産んだことさえ知らない男。
そして、実の父親から褒められたとも知らず、無邪気に喜ぶ娘。
恵は穏やかな表情を崩さない。
だが、衣装を持つ指に、ほんのわずかに力が入っていた。
綾乃は、その変化を見逃さない。
「よう似てはりますなぁ」
「何がでございましょう」
「お話しする時の間どす。陽菜はんと元総理はん」
「人前へ立つ方は、聞き取りやすく話されるものでございます」
「初めて会うたようには見えまへんなぁ」
「元総理は、どなたにも親しみを感じさせる方なのでしょう」
「恵さんは、あのお方をようご存じなんどすか?」
恵は一切表情を変えない。
「国民なら、どなたでも存じ上げている方でございます」
「昔、お会いしたことは?」
恵は綾乃へ静かな視線を向けた。
「家政婦が元総理大臣とお会いする機会など、ございません」
嘘ではない。
杉本恵は、元総理と会ったことがない。
綾乃はその巧妙さに、思わず口元を緩めた。
「さすがどすなぁ」
「何のお話でございましょう」
「何でもあらしまへん」
そこへ陽菜が戻ってきた。
「恵さん、綾乃さん!」
小走りで近づき、嬉しそうに報告する。
「元総理に褒めていただきました!」
「拝見しておりました」
恵が微笑む。
「可愛らしいって言ってくださいました」
「それはようございました」
「私、ちゃんと話せていましたか?」
「大変立派でございました」
恵は陽菜の乱れた髪を整える。
それは、明らかに母親の手だった。
しかし陽菜は、長年自分を支えてくれた家政婦の手だと思っている。
「綾乃さんも聞いていました?」
「もちろんどす。偉いお方から、えらい褒められようどしたなぁ」
「今日、眠れないかもしれません」
「明日の朝には普通に寝坊してはると思いますえ」
「しません」
「昨日も同じこと言うて、集合時間ぎりぎりどしたやろ」
「今日は特別です」
陽菜は頬を膨らませる。
その様子を見て、恵も笑った。
完璧な家政婦の笑顔だった。
◇
記念撮影の時間になると、再び真帆の戦いが始まった。
当初の予定では、中央に元総理。
その右に陽菜、左に綾乃。
後列へ主催者代表と関係者が並ぶことになっていた。
だが榊原代議士が当然のように元総理の隣へ立とうとする。
「先生、そこは白石陽菜さんの位置です」
真帆が静かに言う。
「私は少し端でいい」
「今、中央へ向かって歩いておられました」
「昔の癖だ」
「どのような癖ですか」
「集合写真では中央へ行く」
「政治家として最も直すべき癖です」
榊原の秘書が必死で笑いをこらえている。
元総理本人も面白そうに二人のやり取りを見ていた。
「榊原君、今日は若い方へ場所を譲りなさい」
「元総理がおっしゃるなら」
榊原は素直に一歩下がる。
真帆が低い声で呟く。
「私が三回言っても聞かなかったのに」
「安岡さん、顔に出ています」
綾乃が小声で指摘する。
「出しているのです」
「真帆はんも、たまには感情的にならはるんどすなぁ」
「相手によります」
ようやく撮影位置が整う。
中央には元総理。
その隣に陽菜。
反対側に綾乃。
真帆は後列に回り、榊原代議士がさらにその横へ立つ。
杉本恵は使用人として撮影範囲の外にいた。
「皆さん、こちらをお願いします!」
カメラマンの声が飛ぶ。
陽菜は緊張しながら笑う。
元総理も穏やかに微笑む。
二人の目元と笑い方は、写真にすると想像以上によく似ていた。
何台ものカメラが、一斉にシャッターを切る。
父と娘。
二人とも、その事実を知らない。
母だけがフレームの外から見つめている。
真帆と綾乃は写真に写りながら、その一枚が持つ危険性を理解していた。
後日、新聞やニュースサイトには、
「元総理、人気戦隊ヒロイン白石陽菜を絶賛」
という見出しとともに、父娘のツーショットが掲載されるだろう。
一般の人々にとっては、微笑ましい交流写真である。
しかしジェネラス・リンクが見れば、顔の類似を分析し、陽菜の出生に関する仮説をさらに強める可能性がある。
撮影直後、真帆はすぐ報道担当者へ近づいた。
「掲載予定写真について、データの提供先を確認させてください」
そこへ別の議員が声をかける。
「安岡さん、今度うちの選挙区でもイベントを」
同時に榊原が呼ぶ。
「真帆、元総理との懇談時間を五分ほど取れないか」
さらに会場スタッフが駆けてくる。
「安岡さん、知事がご挨拶を希望されています」
真帆は一瞬、天井を見上げた。
綾乃が遠くから眺めている。
「真帆はん、分身の術が要りそうどすなぁ」
陽菜が心配そうに言う。
「助けた方がいいでしょうか」
「今近づいたら、陽菜はんまで挨拶回りに連れていかれますえ」
陽菜は即座に一歩下がった。
「ここで応援します」
真帆は三方向から呼ばれながら、すべてに答えていた。
「知事へのご挨拶が先です」
「先生、懇談は三分なら調整します」
「地方イベントは事務所を通してください」
榊原が楽しそうに笑う。
「相変わらず頼りになるな」
「先生が予定を増やさなければ、もっと余裕があります」
「戦隊ヒロインには臨機応変さが必要だろう」
「私は戦隊ヒロインではなくフロントです」
「似たようなものだ」
「まったく違います」
その会話が、この日の数少ない明るい場面となった。
◇
イベント終了後、元総理は帰り際、陽菜へもう一度声をかけた。
「白石さん」
「はい」
陽菜は背筋を伸ばす。
「これからも頑張ってください」
「ありがとうございます」
「あなたのような若い方がいるなら、日本の未来も明るい」
陽菜は深く頭を下げた。
「私も、元総理のように、たくさんの方を元気にできる人になりたいです」
元総理は少し驚いたような顔をし、やがて柔らかく笑う。
「期待していますよ」
実の父から娘へ。
何も知らないまま贈られた言葉だった。
元総理が警護員と秘書に囲まれて去っていく。
陽菜は、その背中が見えなくなるまで手を振っていた。
少し離れた場所では、杉本恵も同じ背中を見送っていた。
二十年近く封印していた過去。
二度と向き合うことはないと思っていた男。
その男が娘へ笑いかけ、娘がその言葉に喜ぶ姿を、恵は最後まで見届けた。
綾乃が隣に立つ。
しばらく、二人は何も話さなかった。
やがて綾乃が静かに尋ねる。
「お声をかけんで、よろしかったんどすか」
「私は白石家の家政婦でございます」
「そういう意味やおへんのは、分かってはるでしょう」
「何のことでございましょう」
「恵さん」
綾乃の声から、探るような響きが消えた。
「おつらおしたやろ」
恵の目が、ほんのわずかに揺れる。
だが次の瞬間には、すべての感情が消えていた。
「陽菜さまが喜んでおられます。それで十分でございます」
「ほんまに、それだけどすか」
「それ以上、何が必要でしょう」
恵は淡々と言葉を続ける。
「あの方は、何も知りません」
「ええ」
「陽菜さまも、何もご存じありません」
「ええ」
「ならば今日の出来事は、偉大な元総理が若い戦隊ヒロインを励ました。それだけのことでございます」
あまりに完璧な整理だった。
事実だけを切り取り、感情をすべて捨てている。
そうしなければ、恵は立っていられないのだと綾乃には分かった。
「恵さんは、強いお人どすなぁ」
「強くなければ、守れないものもございます」
「強いふりをせんでも、守れる時もありますえ」
恵が初めて、綾乃を正面から見る。
新旧二人の敏腕エージェントの視線が交わった。
だが、恵は何も答えなかった。
そこへ陽菜が戻ってくる。
「お二人とも、何を話していたんですか?」
綾乃は即座にはんなりした笑顔へ戻った。
「陽菜はんが今夜ほんまに眠れへんのか、話してたんどす」
「眠れませんよ。絶対に」
恵が穏やかに言う。
「では帰宅後、温かいミルクをご用意いたします」
「ありがとうございます、恵さん」
「どういたしまして、陽菜さま」
母と娘は、いつもの呼び方で会話する。
その近くを、ようやく挨拶地獄から解放された真帆が疲れ切った表情で通りかかった。
「帰りの車を手配しました。十分後に出ます」
「真帆はん、お疲れどしたなぁ」
「榊原先生が、最後に戦隊ヒロイン全員との会食を企画すると言い出しました」
陽菜の顔が明るくなる。
「楽しそうですね」
真帆は無表情で答える。
「参加者、会場、警備、予算を決めるのは私です」
「聞かなかったことにします」
陽菜は即座に引いた。
綾乃が笑う。
「今日一番の苦労人は、真帆はんどしたなぁ」
「否定しません」
真帆は大きく息を吐いた。
そのわずかな笑いの向こうで、四人はそれぞれ異なる重さを抱えていた。
父は壇上にいた。
母は舞台袖にいた。
娘だけが、二人の間を流れる血の意味を知らなかった。
綾乃と真帆は、父娘を並べた一枚の写真が、単なる美談では終わらないことを理解している。
元総理が今後、陽菜の活動へ関心を持つかもしれない。
説明できない親近感から、再び会おうとするかもしれない。
そしてジェネラス・リンクは、二人の顔が並んだ写真を決して見逃さない。
帰りの車内でも、陽菜は上機嫌だった。
「元総理、本当に素敵な方でした」
「そうどしたなぁ」
「演説も分かりやすくて、お話しすると不思議と安心するんです」
綾乃は窓の外を見る。
「初めてお会いした気がしませんでした」
陽菜が無邪気に笑う。
「変ですよね」
「そういうことも、ありますのえ」
綾乃は表情を変えずに答えた。
前の座席には、杉本恵が静かに座っている。
窓ガラスには、その横顔が映っていた。
恵は目を閉じていた。
眠っているのではない。
二十年近く前の記憶を、再び胸の奥へ封じ込めようとしているのだ。
元総理と陽菜の出会いは、無事に終わった。
秘密が明らかになることもなかった。
しかし、止まっていた歯車は確かに動き始めていた。
父と娘を並べた一枚の写真。
それは国民にとって、偉大な元宰相と可愛らしい人気ヒロインの心温まる交流である。
だが国家の暗部を知る者たちにとっては、二十年間封印されてきた真実が、初めて公衆の前へ姿を現した瞬間だった。




