一滴の血が国を揺らす ――その採血、国家機密につき
白石陽菜の血液には、世界を揺らす価値があった。
もちろん、本人は知らない。
陽菜にとって血液とは、藤崎紗絢の診察で定期的に採られ、そのたびに少しだけ顔をしかめる程度のものだった。
しかし、陽菜の実父は戦後最長内閣を築いた元総理大臣。
実母は、三十年前に世界各国の情報機関と闇社会から恐れられた伝説の女性諜報員――「東洋のマタハリ」。
その血縁が科学的に証明されれば、単なる政治家の隠し子騒動では済まない。
元総理の政治的遺産は崩れ、現政権の責任問題へ波及する。過去に元総理と外交交渉を行った各国政府も、東洋のマタハリによって秘密を奪われた情報機関も動き出す。
日本国内の政権交代どころか、世界のパワーバランスそのものが揺らぐ可能性さえあった。
ジェネラス・リンクが欲しがっているのは噂ではない。
証拠だった。
白石陽菜の血液、唾液、毛髪。
そのどれか一つを入手し、元総理側の試料と照合すればよい。
一滴あれば、十分だった。
◇
東京都内の大型商業施設で、戦隊ヒロインを招いた大規模イベントが開催されることになった。
題して、
「戦隊ヒロインと学ぶ! 未来の健康・安全フェスタ」
健康相談、交通安全教室、防災体験、子ども向け運動測定を一つにまとめた、いかにも健全な社会貢献イベントである。
目玉となるのは、海外系医療財団による無料健康チェックだった。
財団の名は、セレスティア国際医療支援財団。
欧州に本部を置き、若者と女性の健康支援を掲げている。公式サイトには、世界各国の子どもたちへ医薬品を届ける写真や、著名人が笑顔で寄付を呼びかける映像が並んでいた。
パンフレットは厚手の上質紙。
ロゴは白と淡い青。
スタッフは清潔な白衣をまとい、物腰も柔らかい。
経歴の立派な医師、看護師、栄養士がそろい、財団の代表者は穏やかな微笑みを浮かべていた。
普通の人間が見れば、疑う理由はない。
むしろ、疑う方が失礼に思えるほど美しい組織だった。
だが、西園寺綾乃と安岡真帆が見ると、清潔すぎた。
財団の設立は半年前。
欧州本部とされる住所は、複数の企業が登記された貸しオフィス。寄付金は幾つもの財団や企業を経由しており、最終的な出資者が見えない。
掲載されている医師の経歴も立派だったが、論文や学会発表の記録が不自然に少なかった。
何より、出演する戦隊ヒロイン全員を対象とする健康チェックでありながら、白石陽菜にだけ「循環器疾患のある若者を対象とした特別検査」が用意されていた。
陽菜の病歴を考えれば、不自然ではない。
不自然ではないからこそ、怪しかった。
イベント三日前。
新橋ヒロ室の小会議室に呼び出された綾乃は、財団の資料をめくりながら小さく息を吐いた。
同席しているのは波田巌蔵と安岡真帆だけだった。
遥室長は知らない。
ほかのフロント職員も、出演予定の戦隊ヒロインも知らない。
白石陽菜の出生を知る者を、これ以上増やすことはできなかった。
「表向きは、随分と立派な財団どすなぁ」
綾乃が言った。
「ホームページを見るだけなら、私も寄付したくなります」
真帆が淡々と答える。
「実際には?」
「資金の一部がジェネラス・リンク系のペーパーカンパニーから流れています。ただし、法的に追及できる証拠はまだありません」
波田が腕を組んだ。
「奴らの狙いは陽菜のDNAだ」
机の上には、イベント当日の検査手順書が置かれている。
問診、血圧測定、呼吸機能検査、唾液を使った簡易体質判定。
そして陽菜にだけ、指先から少量の血液を採る貧血検査が追加されていた。
「一滴だけどすか」
綾乃が尋ねる。
「ああ。一滴あれば足りる」
波田の答えは重かった。
綾乃は書類を閉じた。
「検査そのものを中止させればよろしいのと違います?」
「それをやれば、こちらが陽菜のDNAを守っていると教えるようなものです」
真帆が答えた。
「財団を排除するのも同じです。敵は陽菜の出生に関する疑いを確信へ変えるでしょう」
「検査は受けさせる。けど、試料は渡すな」
波田が言った。
綾乃は顔を上げる。
「無茶を言わはりますなぁ」
「ほかにもある」
財団側は、採血に失敗した場合の予備策まで準備している可能性があった。
イベント中に軽い怪我を発生させ、救護員に扮した工作員が血液の付着したガーゼを回収する。
楽屋で陽菜が使った紙コップやストローを、清掃員に扮した者が持ち出す。
使用済みのヘアブラシから毛髪を回収する。
血液が駄目なら唾液。
唾液が駄目なら毛髪。
「全部、陽菜はんに知られんように防げと?」
「そうだ」
「遥室長にも知らせず?」
「そうだ」
「財団側にも、計画が発覚したと悟らせず?」
「そうだ」
「それを一人で?」
「真帆が後方支援に入る。俺も見ている」
綾乃はしばらく波田を見つめた。
「ご顧問はん」
「何だ」
「それは“一人で”言いますのえ」
波田は咳払いをした。
「できるか」
「随分と簡単に聞かはりますなぁ」
「できるか、できねえかだ」
綾乃は答えなかった。
波田が、珍しく声を落とした。
「お前ならできる」
綾乃の指が止まる。
褒めることを知らない波田が、真正面から能力を認めた。
それだけ追い詰められているということだった。
「命令どすか?」
「違う」
波田は綾乃を見た。
「頼みだ」
綾乃は目を伏せ、はんなりと笑った。
「その言い方は、ずるおすなぁ」
◇
イベント当日。
陽菜は何も知らず、いつものように明るく会場入りした。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします!」
警備員、音響スタッフ、会場設営員。
一人一人に頭を下げていく。
この日参加するのは、白石陽菜、西園寺綾乃、赤嶺美月、館山みのり、杉山ひかり、そして藤崎紗絢だった。
紗絢は陽菜の主治医であると同時に、岡山医科大学附属病院に勤務する循環器内科医。そして現役の戦隊ヒロインでもある。
穏やかな顔立ちと落ち着いた声。
患者への説明は丁寧で、子どもにも人気がある。
しかし医療に関しては、一切妥協しない。
美月も綾乃も、これまで何度も紗絢とイベントステージを共にしていた。
そして二人とも、紗絢が柔らかな笑顔のまま正論を突きつけてくる恐ろしさをよく知っていた。
健康チェックの説明を聞いた美月は、採血という言葉に露骨に顔をしかめた。
「血ぃ取るん?」
財団スタッフが微笑む。
「簡単な検査です。痛みもほとんどありません」
「その“ほとんど”が信用できへんねん」
陽菜が不思議そうに首を傾げた。
「美月さん、戦闘任務は平気なのに、注射は苦手なんですか?」
「戦闘は敵も殺気出してくるやろ。こっちも覚悟できるねん」
「はい」
「注射は看護師さんが笑顔で近づいてきて、急に刺すやん。あれは不意打ちや」
紗絢が穏やかに振り返った。
「赤嶺さん」
「はい」
美月の背筋が伸びる。
「医療行為を不意打ち扱いしないでください」
「すみません」
「それから昨日の夜、揚げ物を食べましたね」
美月の顔が引きつった。
「何で分かるん?」
「顔色と、さっき控室で胃薬を探していたからです」
「敏腕エージェントより怖いやん……」
綾乃が横から言う。
「紗絢先生に隠し事は無理どすえ」
「綾乃は隠し事だらけやろ」
美月の一言に、綾乃の胸がわずかに揺れる。
だが笑顔は崩さなかった。
「うちは織物のお勉強をしてきただけどす」
「その言い訳、もう誰も信じてへんで」
周囲が笑う。
その間も、綾乃の視線は財団スタッフ全員を追っていた。
会場へ入った人数が、事前の名簿より一人多い。
財団医師を名乗る男は、聴診器を首に下げているが、陽菜の顔より先に手首や首筋を見ていた。
看護師の一人は、ほかのヒロインには関心を示さず、陽菜の動線ばかり確認している。
救護班の男は、まだ事故も起きていないのに、血液汚染物を入れる医療廃棄物容器を手元へ置いていた。
普通のスタッフなら気づかない。
だが綾乃には、彼らの視線が医療従事者のものではなく、獲物を狙う工作員のものだと分かった。
セレスティア国際医療支援財団は、表面だけを見れば非の打ち所がない。
しかし、きれいな包装紙の下にあるものを知る者には、異臭がした。
◇
最初の健康チェックは順調に進んだ。
血圧測定、問診、呼吸機能検査。
陽菜は検査にも礼儀正しく応じていた。
「よろしくお願いします」
「ありがとうございます」
何をされても、必ず一言添える。
財団スタッフは笑顔を返す。
その中に、自分の血を狙う工作員がいるとは夢にも思っていない。
やがて財団の医師が、陽菜へ特別検査を提案した。
「白石さんには循環器系のご病歴がありますので、念のため簡単な貧血検査も行いましょう」
「はい。お願いします」
陽菜は疑わず手を差し出そうとする。
その瞬間、紗絢が間へ入った。
「お待ちください」
声は穏やかだった。
しかし、その場の空気が変わった。
財団医師が微笑む。
「簡易検査ですので、危険はありません」
「危険がないことと、必要性があることは別です」
紗絢は陽菜の前へ立つ。
「私は白石陽菜さんの主治医です。追加検査を行う医学的根拠、検査項目、試料の保存期間、検査機関、廃棄方法を確認させてください」
財団医師の笑顔が、ほんの少し硬くなった。
「国際的な標準手順に基づいております」
「どの標準手順ですか?」
「若年女性を対象とした――」
「正式名称と発行機関をお願いします」
美月が綾乃へ小声で囁く。
「始まったで」
「何がどす?」
「紗絢先生の、穏やかな顔で逃げ道全部塞ぐやつ」
紗絢は陽菜の出生について何も知らない。
元総理の娘であることも、東洋のマタハリの娘であることも知らない。
ただ主治医として、担当患者へ根拠の不明な検査を受けさせない。
その医療倫理だけで、ジェネラス・リンクの第一の作戦を止めようとしていた。
綾乃は思う。
――これほど心強い援軍はおりまへんなぁ。
財団医師は説明を続けようとしたが、紗絢は一つ一つ問題点を指摘した。
最後には、いつもの穏やかな表情で結論を告げる。
「医学的な必要性が確認できるまで、採血は認めません」
陽菜が申し訳なさそうに尋ねる。
「紗絢先生、私なら大丈夫ですよ?」
紗絢は陽菜へ向き直る。
「陽菜さん」
「はい」
「あなたが我慢できるかどうかの問題ではありません。必要のない医療行為は受けない。それも自分の体を守るために大切なことです」
「分かりました」
陽菜は素直に手を引いた。
美月も大きく頷く。
「さすが先生や。必要のない注射は受けへん」
紗絢が美月を見る。
「赤嶺さんには必要な検査があります」
「何でうちだけ!」
「生活習慣について確認します」
「注射より怖いやつやん!」
周囲に笑いが起きた。
その隙に、綾乃は財団医師の顔を確認する。
笑顔の奥に、明確な焦りが見えた。
第一の採取計画は、失敗した。
◇
しかし、敵は一つの方法に賭けてはいなかった。
午後のステージ。
ひかりの司会で交通安全トークが進み、陽菜が横断歩道の渡り方を子どもたちへ説明していた。
「信号が青でも、右と左をよく確認してください」
陽菜は丁寧に身振りを交える。
その後方では、大型の装飾パネルが舞台袖からゆっくり移動していた。
綾乃は、留め具の一つが不自然に外されていることへ気づいた。
さらに舞台袖には、財団の救護員を名乗る男が立っている。
手には、すでにガーゼと密封袋。
まだ誰も怪我をしていないのに。
パネルが陽菜の後方へ到達する。
金属製の装飾がわずかに傾く。
狙いは重傷ではない。
陽菜の腕へ浅い傷を負わせ、一滴の血を出させるだけ。
パネルが動くより早く、綾乃は陽菜の肩へ手を添えた。
「陽菜はん、こちらへ」
「え?」
綾乃は即興で陽菜と位置を入れ替え、客席へ向かって優雅に手を広げる。
「ここで、左右の安全確認を実演しまひょ」
陽菜は意図を理解しないまま、綾乃に合わせた。
「はい。まず右を見て」
二人が一歩前へ出た直後、後方でパネルが大きく傾いた。
スタッフが慌てて支える。
会場から小さなどよめきが起きた。
ひかりは一瞬驚いたが、すぐ司会者の顔へ戻る。
「舞台上でも周囲の安全確認は大切ですね!」
「うまいことまとめはりましたなぁ」
綾乃が笑う。
反対側にいた美月が口を挟む。
「綾乃、今の絶対たまたまちゃうやろ!」
「安全確認の成果どす」
「その反射速度、横断歩道に要らんやろ!」
客席が笑った。
事故は、ステージ上の軽いハプニングとして処理された。
だが綾乃の視線は、舞台袖の救護員へ向けられていた。
男はガーゼを持ったまま動けずにいる。
綾乃は袖へ戻る際、男の前で一度足を止めた。
「お仕事がなくて、よろしゅうございましたなぁ」
「安全なイベントが何よりです」
男も笑顔を返す。
「ほんまに」
綾乃の笑みが少し深くなる。
「次も、お仕事がないとよろしいどすなぁ」
男の目が、わずかに揺れた。
第二の採取計画も失敗した。
◇
残る方法は、楽屋から使用済みの物を持ち出すことだった。
陽菜の紙コップ、ストロー、スプーン、ヘアブラシ。
そこには唾液や毛髪が残る。
イベント終了後、綾乃は陽菜が使用した物を一つの袋へまとめた。
陽菜が不思議そうに尋ねる。
「綾乃さん、片づけまでしてくれるんですか?」
「先輩らしいところも見せなあきまへんさかい」
美月が疑わしそうに見る。
「綾乃が自分からごみ片づけるん、怪しすぎるで」
「美月はんと一緒にせんといてください」
「うちは食べ残しだけは出さへん」
「食品以外のごみを散らかしてますやろ」
「完璧な人間なんておらんねん」
「ずいぶん都合のええ人生哲学どすなぁ」
そこへ、清掃員の制服を着た女性が入ってきた。
「失礼します。ごみを回収いたします」
綾乃は女性の入館証を見る。
制服は施設の物。
入館証も一見本物だった。
しかし、部署名が前年度の名称になっている。
さらに女性は室内全体のごみではなく、陽菜が使っていたテーブルだけを見ていた。
綾乃は袋を持ち上げる。
「こちらは小道具が混ざっておりますさかい、後でこちらで分別します」
「規則ですので、すべて回収します」
女性が一歩近づく。
「そうどすか」
綾乃は素直に袋を渡した。
工作員は一瞬だけ安心した表情を見せ、楽屋を出ていく。
美月が首を傾げる。
「小道具なんか入ってへんかったやろ」
「そうどすなぁ」
「ほな何で嘘ついたん?」
「袋の中身を、別の物に替える時間が欲しかっただけどす」
「別の物?」
「美月はんが食べた骨付きチキンの紙容器と、ひかりはんの未使用の紙コップどす」
美月が目を見開く。
「うちのチキン持っていかれたん?」
「食べ終わった後の骨どす」
「それでも何か嫌やな」
「敵側はもっと嫌やと思いますえ」
持ち帰った試料を解析しても、白石陽菜のDNAは出ない。
代わりに検出されるのは、鶏肉と、誰も口をつけていない紙コップだけである。
美月が真剣な顔で尋ねる。
「その人、何で陽菜のごみ欲しかったん?」
綾乃は一瞬だけ美月を見る。
「熱心なファンやったんと違います?」
「ごみ持って帰るファンは怖いやろ」
「ほな、怖い人やったんでしょうなぁ」
美月は納得していない。
しかし陽菜が近づいてきたため、それ以上は追及しなかった。
第三の採取計画も、失敗した。
◇
イベント終了後。
会場の地下管理室で、安岡真帆が監視映像を確認していた。
医療財団の医師。
看護師。
偽の救護員。
清掃員に扮した工作員。
少なくとも五人が、ジェネラス・リンクと関係している可能性が高い。
波田は通信越しに綾乃へ告げた。
『よくやった』
「まだ終わってまへん」
綾乃は廊下の陰から、陽菜の姿を見ていた。
『三つとも潰しただろ』
「敵は陽菜はんのDNAに価値があると分かってます。今回は失敗しただけどす」
真帆も冷静に続ける。
『綾乃さんの判断で、工作員はその場では拘束していません。偽の試料を持ち帰らせ、財団の報告経路を追跡します』
末端の工作員を捕らえれば、ジェネラス・リンクは計画の発覚を悟る。
あえて失敗に気づかせず、敵の分析施設や指揮系統を探る。
それが綾乃の選んだ方法だった。
『新米にしちゃ、上出来だ』
波田が言う。
「褒めるか、けなすか、どちらかにしておくれやす」
『調子に乗るな』
「いつものご顧問はんに戻らはりましたなぁ」
通信を終える。
廊下の向こうで、陽菜がスタッフから花束を受け取っていた。
「今日はありがとうございました」
花束を両手で抱え、深く頭を下げる。
自分の血を狙って、五人もの工作員が会場へ入っていたことを知らない。
綾乃に気づいた陽菜は、花束の陰から小さく手を振った。
「綾乃さん!」
綾乃も、はんなりと笑って手を振り返した。
今日守ったのは、一滴の血だった。
しかし本当に守りたいものは、陽菜の人生である。
◇
帰りの車内。
陽菜は楽しそうに今日の感想を話していた。
「健康フェスタ、勉強になりました。採血は受けられませんでしたけど」
紗絢が穏やかに答える。
「必要な検査は、病院で私が行います」
「はい」
「赤嶺さんも、一度きちんと検査を受けてください」
前方の座席にいた美月が振り返る。
「何でまだうちの話続いてるん?」
「夜更かしと間食の改善が必要です」
「先生、今日のイベント終わりましたで」
「医療に終了時刻はありません」
美月が綾乃へ助けを求める。
「綾乃、何とか言うて」
「先生のおっしゃるとおりどす」
「裏切ったな!」
「医療には妥協できまへんさかい」
紗絢が満足そうに頷く。
陽菜は楽しそうに笑った。
しばらくして、陽菜が綾乃を見る。
「綾乃さん」
「何どす?」
「今日は何度も助けてくれましたね」
「そうどした?」
「パネルが倒れる前に引いてくれたし、ごみまで片づけてくれたし」
「たまたまどす」
「綾乃さんの“たまたま”って、多いですよね」
綾乃の胸が、わずかにざわつく。
陽菜は無邪気に続けた。
「敏腕エージェントみたいです」
綾乃は、いつもの笑顔を崩さない。
「映画の見すぎどすえ」
美月が身を乗り出す。
「いや、今日の綾乃は絶対怪しかったで」
「美月はんまで」
「偽清掃員みたいな人と話して、袋の中身入れ替えて、パネル倒れる前に動いたやん」
綾乃は美月を見る。
思っていた以上によく見られていた。
「美月はん」
「何?」
「意外と周りを見てはりますなぁ」
「うちを何やと思ってんねん」
「弁当とクッキーしか見てへん人」
「失礼やな! 骨付きチキンも見てるわ!」
「全部食べ物どす」
陽菜が声を立てて笑う。
紗絢まで口元を緩めた。
綾乃も笑った。
だが、窓の外へ顔を向けると、その笑みは静かに消えた。
ジェネラス・リンクが陽菜の血を狙ったということは、敵が出生の秘密へ相当近づいている証拠だった。
そして、陽菜のDNAを元総理のものと照合するには、比較対象となる試料が必要である。
敵はすでに、元総理側のDNAを入手しているのではないか。
そうでなければ、ここまで大がかりな作戦へ出る意味がない。
政府内部に協力者がいるのか。
元総理の側近に、ジェネラス・リンクとつながる者がいるのか。
今回の作戦を潰したことで、新たな疑問が生まれた。
◇
その夜。
京都へ戻った綾乃の端末へ、杉本恵から短い連絡が届いた。
〈本日は、陽菜さまがお世話になりました〉
恵がどこまで知っているのかは分からない。
波田から連絡を受けたのか。
あるいは、帰宅した陽菜の話を聞いただけで、異変を察したのか。
綾乃は返信する。
〈舞台装置に少し不具合がありましたけど、陽菜はんにお怪我はありませんでした〉
少しして、返事が届く。
〈そうですか。安心いたしました〉
表面上は、家政婦と陽菜の先輩との会話でしかない。
だが二人には、別の意味が伝わっていた。
敵が動いた。
陽菜は守った。
そして、次も必ず来る。
綾乃は端末を伏せた。
机の上には、陽菜からもらった健康フェスタの記念ボールペンが置かれている。
「今日は助けてもらったので、お礼です」
そう言って陽菜が差し出した、安価な記念品。
自分が何から救われたのか、何も知らないまま。
綾乃はボールペンを手に取った。
「勝手に人の血へ値段をつけて」
声から、はんなりした柔らかさが消える。
「勝手に奪おうやなんて、えらい図々しいお人らどすなぁ」
新鋭敏腕エージェント、西園寺綾乃。
今回の任務で、敵が仕掛けた三つの採取計画をすべて阻止した。
しかも陽菜本人にも、遥室長にも、ほかのヒロインにも真相を悟らせていない。
だが、これは最初の攻防にすぎなかった。
ジェネラス・リンクが本当に欲しいのは、一滴の血ではない。
白石陽菜という存在そのもの。
彼女を証拠として、政治を動かし、国家を脅し、世界の均衡を崩す力である。
守るだけでは足りない。
次は、陽菜へ伸びる手をたどり、その腕の持ち主を見つけなければならない。
一滴の血を巡る戦いは、華やかなイベントステージの裏側から、静かに国境を越え始めていた。




