五人目の秘密保持者 ――国家の暗部を知った京女は、もう以前のようには笑えない
「今日から、お前で五人目だ」
新橋ヒロ室の薄暗い会議室で、波田巌蔵はそう言った。
机の上には、一枚の古い写真が置かれている。
三十年前の東欧で撮影された、若い日本人女性。小柄で色白、大きな瞳を持つ、息をのむほどの美女だった。
その女は、かつて世界の政財界と闇社会から「東洋のマタハリ」と恐れられた敏腕諜報員。
そして現在は、顔も名前も戸籍も変え、相模原の白石家に仕える家政婦――杉本恵として生きている。
彼女が、白石陽菜の実母だった。
さらに陽菜の実父は、戦後最長内閣を築き、国際舞台でも大きな功績を残した元総理大臣。
清廉潔白。
高潔な人格。
卓越した演説力。
戦後最高の宰相とまで称され、いまなお国内外へ強い影響力を持つ、誰もが知る政治家である。
元総理本人は、陽菜の存在を知らない。
陽菜もまた、自分の父親が誰なのかを知らない。
実の母親が毎日そばにいて、自分の食事を作り、衣装の襟を整え、体調を誰より気にかけていることさえ知らなかった。
この秘密を知っている者は、世界中で五人しかいない。
波田巌蔵。
白石家の主人。
杉本恵。
安岡真帆。
そして、西園寺綾乃。
波田は椅子の背もたれへ深く体を預け、綾乃を睨むように見た。
「公になれば、政治家の隠し子騒動じゃ済まねえ」
綾乃は黙っていた。
「元総理が築いてきた政治的な遺産が全部揺らぐ。現政権への責任追及、政界再編、政権交代。そこまでは国内の話だ」
波田は机の上の写真を指で叩いた。
「母親は、世界中の政府高官や軍関係者、犯罪組織の機密を知っていた女だ。そいつの娘が、あの元総理の血を引いていると証明されれば、外交交渉も安全保障もひっくり返る。敵対国も、情報機関も、財閥も動く」
「世界のパワーバランスまで崩れる可能性がある、いうことどすか」
「ああ」
綾乃の声は平静だった。
姿勢も表情も変わらない。
海外の潜入任務で、銃口を向けられても笑顔を保ってきた。相手の嘘を見抜きながら、何も知らない令嬢のふりを続けたこともある。
一部の世界では、すでに「令和の東洋のマタハリ」と呼ばれ始めている。
その綾乃でさえ、今回ばかりは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
国家機密の規模が大きいからではない。
その中心にいるのが、白石陽菜だからだった。
礼儀正しく、無邪気で、先輩ヒロインに会えば必ず深く頭を下げる少女。
楽屋では人の荷物を運びたがり、スタッフから差し入れをもらえば、食べる前に必ず礼を言う。
体調に不安を抱えていても、周囲へ心配をかけまいと笑う。
小動物のように首を傾げ、大きな瞳で人の話を聞く、大人気の戦隊ヒロイン。
その少女の存在そのものが、世界を揺らす危険物として扱われている。
綾乃は、はんなりと微笑んだ。
「随分と重たいお土産をいただきましたなぁ」
波田は笑わなかった。
「土産じゃねえ。墓まで持っていく秘密だ」
「縁起でもあらしまへんなぁ」
「美月にも言うな」
「言いまへん」
「遥室長にもだ」
「承知しております」
「陽菜本人には、絶対に悟られるな」
その言葉だけは、綾乃の胸へ鋭く刺さった。
秘密を知らされた瞬間から、自分も陽菜を欺く側へ入ったのである。
波田は綾乃の目を正面から見た。
「お前に話したのは、信用してるからじゃねえ」
「そうどすか」
「止めても、お前は調べる。中途半端な情報だけ持って敵の罠に突っ込まれるより、全部知ってる方がましだ」
「それを世間では信用いうんと違います?」
「調子に乗るな」
「相変わらず、素直やおへんなぁ」
綾乃はいつもと変わらない調子で返した。
だが会議室を出て、人気のない非常階段へ入ったところで、足が止まった。
窓の外には、新橋の夜景が広がっていた。
仕事帰りの会社員たちが行き交い、赤い提灯の灯った飲食店から笑い声が聞こえる。
世界を変えかねない秘密を知った後でも、街は何も変わらない。
綾乃は手すりへ手を置いた。
指先が、ごくわずかに震えていた。
潜入先で正体を見破られた時も、脱出経路を塞がれた時も、ここまで明確に体が反応したことはない。
「これは……難儀どすなぁ」
呟いてから、綾乃は目を閉じた。
陽菜を守りたい。
その気持ちは間違いなく本物だった。
だが、明日から自分は、陽菜の笑顔を見るたびに、その裏側に隠された血筋と国家機密を思い出す。
以前のように、ただ可愛らしい後輩として接することができるのだろうか。
綾乃には、自信がなかった。
◇
数日後。
東京都内の大型商業施設で、戦隊ヒロインのイベントが開催された。
出演者は西園寺綾乃、赤嶺美月、白石陽菜、館山みのり、水無瀬澪ら。
綾乃が控室へ入ると、陽菜が真っ先に立ち上がった。
「綾乃さん、おはようございます!」
明るい声。
大きな瞳。
陽菜は小走りで近づき、綾乃へ丁寧に頭を下げる。
「先日はありがとうございました。恵さんも、また来てほしいって言っていました」
「そうどすか」
綾乃は笑った。
いつもと同じ、はんなりとした笑顔のつもりだった。
しかし、自分でも分かる。
ほんの少しだけ、硬い。
陽菜は気づかず、綾乃の手にある紙袋へ目を向けた。
「それ、京都のお土産ですか?」
「ええ。皆さんで召し上がっておくれやす」
「開けてもいいですか?」
「もちろんどす」
陽菜は紙袋を受け取り、嬉しそうに中を覗いた。
「わあ、きれい!」
色鮮やかな干菓子が、小さな箱へ整然と並んでいる。
陽菜は両手で箱を持ち、小動物のように目を輝かせた。
「食べるのがもったいないですね」
「食べるためのお菓子どすえ」
「写真を撮ってから食べます」
その何気ない表情に、綾乃は三十年前の写真を重ねてしまう。
目元。
口元。
笑う直前、右の頬がほんの少し上がる癖。
杉本恵が顔を変えても、娘へ受け継がれた特徴までは消せなかった。
さらに、ステージへ立った時の陽菜には、実父である元総理を思わせるものがあった。
人前で緊張しない。
言葉数は多くないのに、人を惹きつける。
会場全体へ目を配りながら、目の前の一人へ語りかけるように話す。
才能は、血とともに受け継がれたのかもしれない。
「綾乃さん?」
陽菜が首を傾げた。
綾乃は、無意識に半歩後ろへ下がっていた。
「何でもあらしまへん」
「少し疲れていますか?」
「海外から帰ってきたばかりどすさかい」
「でも、もうかなりたっていますよね?」
陽菜は素直だった。
疑っているのではなく、純粋に心配している。
「時差いうんは、しつこうございますのえ」
「そうなんですね」
陽菜は簡単に納得した。
その信頼が、綾乃には痛かった。
ステージへ出る直前、陽菜が背中を向ける。
「綾乃さん、衣装の後ろ、ずれていませんか?」
以前なら、綾乃は何も考えずに近づき、留め具を直していただろう。
だが、その日は一瞬だけ手が止まった。
国家機密の中心に触れているような、余計な意識が働いた。
綾乃は必要以上に慎重な手つきで留め具を直した。
「これで大丈夫どす」
「ありがとうございます」
陽菜が振り返り、笑顔で頭を下げる。
それを、控室の隅でおにぎりを食べながら見ていた美月がいた。
美月は政治にも外交にも詳しくない。
世界のパワーバランスと言われても、おそらく最初に思い浮かべるのは、大阪と東京のイベント出演数の差である。
しかし、人の感情には妙に鋭かった。
特に、長い付き合いの綾乃については。
イベントは滞りなく進んだ。
陽菜は子どもたちへ笑顔を向け、綾乃ははんなりした京言葉で会場を和ませ、美月は台本にない話を始めて館山みのりに止められた。
美月が、
「東京のお客さんも、大阪のたこ焼き食べたら人生変わるで!」
と勝手に大阪観光大使のような発言をすると、みのりが、
「本日のイベントと大阪観光は関係ありません」
と冷静に切り捨てた。
「関係ある! 東西交流や!」
「たこ焼きを食べるだけで東西交流とは言いません」
「みのり、頭ええから話ややこしくすんねん!」
会場が笑いに包まれる。
綾乃も笑った。
だが、自分の笑顔が以前より薄いことを、美月だけは見ていた。
イベント終了後。
綾乃が廊下を歩いていると、美月が後ろから追いかけてきた。
「綾乃」
「何どす?」
「ちょっと来い」
「えらい乱暴なお誘いどすなぁ」
美月は綾乃を廊下の隅へ連れていき、腕を組んだ。
「何か隠してるやろ」
「隠してまへん」
「嘘や」
即答だった。
「何を根拠に?」
「今日、陽菜に対して変やった」
「どこが?」
「距離感」
綾乃の眉がわずかに動く。
美月は両手を使って説明し始めた。
「いつもやったら、陽菜が近づいてきたら普通にしゃべるやろ。今日は何や。ちょっと離れて、妙に丁寧で、皇室の方に接するみたいやったで」
「陽菜はんは人気者どすさかい。丁寧に接しただけどす」
「前から人気者やん」
「今日は一段と輝いて見えました」
「そんな通販番組みたいな言い訳ある?」
美月は綾乃の顔を覗き込む。
「陽菜に何かされたん?」
「何も」
「ほな、綾乃が何かしたん?」
「してまへん」
「借金?」
「何で陽菜はんに借金しますの」
「クッキー代を払ってへんとか」
「恵さんは請求書を出さはりまへん」
「ほな、恵さんに何か言われた?」
綾乃は答えなかった。
ほんの一瞬だった。
しかし、美月は見逃さなかった。
「あっ」
「何どす?」
「今、止まった」
「止まってまへん」
「止まった! 恵さんや!」
美月は勝ち誇った顔をする。
「恵さんから、陽菜をよろしくって頼まれたんやろ!」
綾乃は内心で驚いた。
核心そのものではない。
しかし、妙に近い。
「美月はん」
綾乃は、はんなりと微笑んだ。
「その想像力を、大学のレポートにも使うたらいかがどす?」
「話そらした!」
「そらしてまへん」
「絶対、何かある!」
「何もあらしまへん」
「ほな、うちの目を見て言うてみ」
美月が顔を近づける。
綾乃はまっすぐ目を見た。
「何もあらしまへん」
「目ぇ見ても分からへん!」
「何のために見させたんどす?」
「雰囲気や!」
「雑どすなぁ」
美月はしばらく唸っていたが、やがて別の可能性を思いついたように手を叩いた。
「分かった」
「何が?」
「綾乃、陽菜のこと好きになったんやろ」
「後輩として前から好きどすけど」
「そうやなくて、もっと重たい感じで」
「説明が雑すぎますえ」
「お姑さんみたいになってんねん」
「誰がお姑さんどす」
「陽菜が男連れてきたら、家柄とか学歴とか全部調べそう」
「相手が怪しければ調べます」
「ほら! もう姑やん!」
「エージェントとして当然どす」
「普通の先輩は、後輩の彼氏の身元調査せえへん!」
話が完全に違う方向へ進んでいる。
綾乃は額へ手を当てた。
「美月はんと真面目な話をしようと思うた、うちが間違いどした」
「まだ真面目な話してへんで」
「永遠に始まらん気がします」
美月は綾乃の顔を見つめた。
ふざけた表情が、少しだけ消える。
「まあ、言われへんことなんやったら、無理に聞かへん」
綾乃は美月を見る。
「ただな」
美月は声を落とした。
「一人で全部背負ったみたいな顔すんの、やめや」
「そんな顔してました?」
「してた。綾乃は笑ってごまかす時、いつもより口角が三ミリ上がるねん」
「細かいどすなぁ」
「うち、綾乃のこと長いから」
美月は胸を張る。
「内容は知らんでも、横におるくらいはできるで」
綾乃は、すぐには答えられなかった。
世界中で五人しか知らない秘密。
美月には話せない。
話せば、美月まで国家の暗部へ引き込むことになる。
だが、秘密を知らなくても、綾乃が苦しんでいることは見抜いている。
「おおきに」
綾乃が小さく答えると、美月は満足そうに頷いた。
「ほな、話まとまったな」
「何もまとまってまへんけど」
その時、スタッフが廊下の向こうから声をかけた。
「お弁当、肉と魚がありますよ!」
美月の顔が一瞬で明るくなった。
「肉と魚、両方もろてもええ?」
「一人一つです!」
「何でや! 東西の人気ヒロイン大集合やぞ!」
「弁当の数は増えません!」
美月は綾乃との話を完全に忘れ、弁当の方へ走っていった。
「魚残ったら、うちが責任持つからな!」
先ほどまでの真剣な空気は跡形もない。
綾乃は思わず吹き出した。
「ほんまに、かなわんお人どすなぁ」
胸の重さが、ほんの少しだけ軽くなった。
◇
控室へ戻ると、陽菜が一人一人のスタッフへ頭を下げていた。
「今日はありがとうございました」
警備員にも、音響担当にも、清掃スタッフにも礼を言っている。
子どもからもらった手紙は折れないよう、硬いケースへ丁寧にしまっていた。
陽菜は、自分の血にどれほどの価値がつけられているか知らない。
元総理の娘だからでも、東洋のマタハリの娘だからでもなく、陽菜自身が人を大切にする少女であることを、綾乃は改めて思い知る。
綾乃は、国家機密を意識するあまり、陽菜を一人の人間ではなく、危険な血筋を持つ存在として見始めていた。
守ろうとして距離を取る。
それでは、陽菜を政治的な道具として見る者たちと同じではないか。
「陽菜はん」
綾乃は声をかけた。
陽菜が振り返る。
「はい」
「少し、よろしおすか」
「もちろんです」
綾乃は陽菜の前へ立つ。
「今日は、ちょっとよそよそしゅうして、堪忍え」
陽菜は驚いたように目を瞬かせた。
「やっぱり、何かあったんですか?」
「うちの方に考え事があっただけどす。陽菜はんは、何も悪うありまへん」
「そうなんですね」
陽菜は安心したように笑う。
「私、何か失礼なことをしたのかと思いました」
「陽菜はんが失礼なことをする方が、難しそうどすなぁ」
「そんなことないです。たまに失敗します」
「例えば?」
「この前、恵さんが焼いたクッキーを四枚食べました」
「それは失礼というより、食べすぎどす」
「紗絢先生にも同じことを言われました」
陽菜は少し恥ずかしそうに笑った。
その笑顔を見て、綾乃も今度は自然に笑うことができた。
陽菜はバッグから小さな紙袋を取り出す。
「これ、綾乃さんへ」
「うちに?」
「恵さんが持たせてくれました」
袋の中には、手焼きのクッキーが入っていた。
短いメモも添えられている。
〈紅茶に合うよう、甘さを控えております〉
それだけの文章だった。
しかし、綾乃には別の意味にも読めた。
――冷静さを失わないでください。
――陽菜の前では、これまでどおりでいてください。
あるいは、単に甘さを控えたというだけかもしれない。
杉本恵は、そうした二重の意味を自然に紛れ込ませる女性だった。
「美味しそうどすなぁ」
「美月さんに見つかる前に、隠した方がいいですよ」
「陽菜はんも、美月はんの扱いが分かってきはりましたなぁ」
「前に、私の分まで食べられましたから」
「それは油断した方にも責任がありますえ」
「今度から名前を書きます」
「美月はんは名前が書いてあっても食べます」
「では、鍵をかけます」
「クッキーに鍵をかける戦隊ヒロインは、陽菜はんが初めてどすなぁ」
二人は並んで笑った。
綾乃は、その笑顔を守りたいと思った。
国家の秘密としてではない。
政治的な価値を持つ血筋としてでもない。
自分を心配し、クッキーを分け、失礼をしたのではないかと真剣に悩む一人の後輩として。




