笑う少女の母は戸籍にいない ――新橋ヒロ室、白石陽菜「封印された出生」
白石陽菜は、よく笑う少女だった。
嬉しい時は大きな瞳を細め、両手を胸の前で小さく合わせて笑う。驚けば肩をすくめ、困れば小動物のように首を傾げる。
整った顔立ちには近寄りがたいほどの華やかさがあるのに、本人にはそれを鼻にかけるところがまったくない。先輩ヒロインには必ず敬語を使い、スタッフや警備員にも自分から頭を下げる。子どもから握手を求められれば、膝を折って目線を合わせた。
戦隊ヒロインの中でも屈指の人気を誇りながら、楽屋では先輩の荷物を運ぼうとする。
「陽菜はん。それ、うちの荷物どすえ」
西園寺綾乃が注意すると、陽菜は大きなバッグを両手で抱えたまま振り返った。
「はい。だから運ぼうと思って」
「そうやのうて、先輩の荷物まで持たんでもよろしおす」
「でも綾乃さん、昨日もステージがあったんですよね。疲れていませんか?」
「陽菜はんの方が、昨日の握手会で立ちっぱなしやったでしょう」
陽菜は少し考え、それから無邪気に笑った。
「では、半分ずつ持ちましょう」
荷物を半分に分けられるような形ではなかったが、その真剣な提案に、綾乃は思わず笑ってしまった。
こういうところが、多くの先輩ヒロインから可愛がられる理由なのだろう。
赤嶺美月なら「後輩に持たせたら楽やん」と一秒で任せそうだが、綾乃は陽菜からバッグを取り返した。
「お気持ちだけいただいときます」
「重くないですか?」
「大丈夫どす」
「本当に?」
「陽菜はんは心配性どすなぁ」
「恵さんにも、よく言われます」
その名前を聞いた瞬間だけ、綾乃の笑みがわずかに薄くなった。
杉本恵。
相模原市郊外に建つ白石家の白亜の屋敷で、陽菜の世話をしている家政婦。
料理が上手く、紅茶を淹れる所作は完璧で、陽菜の体調や好みを誰よりも正確に把握している。
そして、間違いなく特殊な訓練を受けている女。
白石家を訪れた綾乃は、恵と二人きりで二度目の紅茶を飲んだ。
互いに経歴を探りながら、決定的なことは何一つ口にしなかった。
だが綾乃は、恵の正体を調べる必要があると判断していた。
それは好奇心ではない。
陽菜を守るためだった。
陽菜は礼儀正しく、素直で、少し世間知らずである。誰かを疑うより、まず信じようとする。
戦隊ヒロインとしては、それが彼女の魅力だった。
しかし、裏社会では致命的な弱点にもなる。
綾乃は陽菜を高く評価していた。
人気や美貌だけではない。体調に不安を抱えながらも弱音を吐かず、仲間に迷惑をかけまいとする。危険な任務でも、自分より幼い子どもや一般人を先に逃がそうとする。
だからこそ、綾乃は思う。
この少女の周囲に何かが隠されているなら、自分が先に見つけなければならない。
陽菜本人が傷つく前に。
京都へ戻った綾乃は、表向きはいつもの大学生活へ復帰した。
午前中は講義へ出席し、午後は図書館で資料を読み、夕方には戦隊ヒロインの打ち合わせに参加する。
その合間にも、美月からひっきりなしに連絡が来た。
〈恵さんのクッキー、もうないん?〉
〈ありません〉
〈ほんまに? 綾乃が隠してるんちゃう?〉
〈うちはクッキーの密輸業者やおへん〉
〈次に白石家行く時は絶対呼んでや〉
〈まず必修講義に呼ばれたら、きちんと行っておくれやす〉
数秒後、美月から泣いているスタンプが届いた。
綾乃は小さく笑い、端末を伏せる。
机の上には、杉本恵に関する資料が並んでいた。
調査を始めて三日。
何も出てこなかった。
正確には、必要最低限の情報だけは存在した。
杉本恵。白石家家政婦。過去に複数の個人宅で住み込み勤務の経験あり。海外在住歴あり。犯罪歴なし。借金なし。目立った病歴なし。
記録だけを見れば、実直で清潔な人生だった。
だが、綾乃には分かる。
清潔すぎる。
人間が数十年生きれば、必ず何かが残る。
同級生との写真。前の職場での評判。近所の記憶。失敗した買い物。病院の診察券。昔の手紙。
杉本恵には、そのすべてがなかった。
記録上の学校には確かに在籍している。だが、当時の同級生は誰も彼女を覚えていない。
以前勤めていたとされる家は、すでに所有者が変わっている。別の勤務先は企業ごと消滅し、古い書類は火災で失われていた。
過去の住所も存在する。しかし、近隣住民に杉本恵を覚えている者はいない。
まるで現在の彼女を成立させるため、必要な項目だけを後から書き込んだようだった。
「何もないいうのも、一つの情報どすなぁ」
綾乃は呟いた。
埃が出ないのではない。
誰かが徹底的に掃除したのだ。
しかも国家機関ほどの力を使って。
綾乃は調査対象を白石陽菜へ広げた。
その瞬間、指が止まった。
仲間の出生を、本人に黙って調べる。
エージェントとしては当然の判断でも、一人の友人としては褒められた行為ではない。
脳裏に、陽菜の笑顔が浮かぶ。
「綾乃さん、また一緒にクッキーを作りましょうね」
あの無邪気な言葉を思い出すと、後ろめたさが残った。
それでも綾乃は調査を続けた。
陽菜が狙われる理由を知らなければ、本当に守ることはできない。
白石家が公表している経歴では、陽菜の実の両親は幼い頃に事故死している。
身寄りを失った陽菜は、相模原の資産家である白石家と養子縁組を結んだ。
ありふれてはいないが、不自然な話でもなかった。
しかし、綾乃が事故記録を調べると、最初の綻びが見つかった。
事故が起きたとされる日、該当地域の地方紙に、それらしい記事がない。
警察の年間事故統計にも、条件の合う死亡事故は記録されていない。
両親が埋葬されたとされる寺院には、該当する墓が存在しなかった。
さらに奇妙なのは、事故から養子縁組までの短さだった。
身元不明の幼児を、親族調査や家庭裁判所の審査をほとんど経ず、短期間で資産家の養女にしている。
行政手続きとして、あまりに速すぎる。
「日本のお役所が、ここまで手際よう動く時は、大抵上から何か降りてきてますなぁ」
綾乃は皮肉交じりに呟いた。
書類を追う。
途中で記録は非公開となっていたが、一つだけ消し切れなかった照会番号が残っていた。
内閣関係機関の古い管理番号。
その当時、該当部署にいた人物。
波田巌蔵。
現在の戦隊ヒロインプロジェクト顧問。
綾乃たちにとって、頑固で口が悪く、昼間から競輪新聞を読んでいる困った老人だった。
しかし若い頃の波田が、政府中枢で危険な実務を担っていたことを、綾乃は知っている。
「ご顧問はんどすか」
点が、一つにつながった。
さらに杉本恵の住民記録が初めて現れた時期を調べる。
陽菜が白石家へ迎えられた時期と、ほぼ同じだった。
一人の幼児が白石家の養女となり、その直前に過去を持たない女性が使用人として現れた。
偶然と呼ぶには、できすぎている。
そして、三十年前の東欧の機密文書。
「東洋のマタハリ」と記された日本人女性の写真。
現在の杉本恵には似ていない。
だが、白石陽菜には驚くほど似ていた。
色白で、小柄。
大きな瞳と、幼く見える輪郭。
笑う直前、唇の右端がわずかに上がる癖。
考え込む時、視線をほんの少し左下へ落とす癖。
顔を変えることはできる。
名を変えることも、戸籍を作り直すこともできる。
しかし、血のつながりまでは偽装できない。
綾乃は写真を机へ置いた。
「杉本恵さんが、東洋のマタハリ本人」
声に出す。
「陽菜はんは、その娘」
口にした途端、仮説が異様なほど自然に収まった。
恵が陽菜を見つめる目。
家政婦という立場を超えた献身。
何があっても守ると言い切った理由。
だが、それだけでは説明できない。
なぜ国家が一人の女性エージェントと、その娘の経歴をここまで徹底して消したのか。
陽菜の父親は誰なのか。
綾乃は波田へ連絡した。
〈ご顧問はん。東洋の織物について、少し昔話を伺いたいんどす〉
返事はなかなか来なかった。
三十分後、ようやく短い返信が届く。
〈新橋。明日二十時。他言無用〉
翌日の新橋ヒロ室は、昼間の騒がしさが嘘のように静かだった。
フロント職員もヒロインも帰宅し、廊下の照明は半分落とされている。
会議室には、波田巌蔵が一人で待っていた。
机の上には競輪新聞と缶コーヒー。
綾乃は向かいの椅子へ座り、上品に頭を下げた。
「お時間をいただき、おおきに」
「礼を言う顔じゃねえな」
「どんな顔に見えます?」
「面倒なことを突き止めた顔だ」
波田は競輪新聞を畳んだ。
「京都へ帰ってから、何を嗅ぎ回ってやがった」
「織物の勉強どす」
「その言い訳はもう聞き飽きた」
綾乃はバッグから一枚の写真を取り出し、机の上へ置いた。
若き日の「東洋のマタハリ」。
陽菜によく似た、絶世の美女だった。
「このお方について、知ってはることを教えておくれやす」
波田は写真を見た。
表情は変わらない。
だが、机の下で握った拳に力が入ったのを、綾乃は見逃さなかった。
「知らねえ」
「そうどすか」
綾乃は写真を戻そうとしない。
「ほな、うちが自分で調べます」
「やめろ」
「理由を聞かんことには、やめられまへんなぁ」
「知らなくていいこともある」
「陽菜はんの命に関わることでも?」
波田の目が鋭くなった。
綾乃は淡々と続ける。
「杉本恵という女性には、陽菜はんが白石家へ迎えられる以前の確かな人生がありまへん。陽菜はんの実のご両親が亡くなったいう事故も存在せえへん。養子縁組には、ご顧問はんがいた部署の管理番号が残ってました」
「余計なところまで見やがって」
「ご顧問はんが消し損ねはったんどすか?」
「当時の部下が仕事をしくじったんだ」
「部下のせいにしはるんは、感心しまへんなぁ」
「うるせえ」
重い話をしているはずなのに、いつもの調子が少しだけ戻る。
だが、それも長くは続かなかった。
波田は深く息を吐き、写真から綾乃へ視線を移した。
「西園寺」
「はい」
「この話を聞けば、お前はもう、ただの女子大生ではいられなくなる」
綾乃は表情を変えなかった。
「うちはとっくに、ただの女子大生やおへん」
「知った後で、知らなかったことにはできねえぞ」
「承知しております」
「一生、墓まで持っていく秘密になる」
「それでも、お話しください」
波田は長い間、何も言わなかった。
やがて缶コーヒーへ手を伸ばしたが、開けることなく元の場所へ戻した。
「東洋のマタハリは、俺の部下だった」
低い声だった。
本名は不明。
正確な出身地も不明。
複数の国籍と名前を使い分け、政府高官、外交官、軍関係者、武器商人、犯罪組織の首領へ接近した。
頭脳明晰。
語学、演技、変装、格闘、暗号解読のすべてに秀でていた。
そして、息をのむほど美しかった。
幼く見える顔立ちと小柄な体格を武器に、相手の警戒心を解き、多くの世界的重鎮を破滅へ追い込んだ。
彼女に愛されたと信じた男たちは、秘密を明かし、地位を失い、ある者は命まで失った。
「怪物みてえな女だった」
波田は言う。
「けど、あいつ自身は怪物じゃなかった。怪物に仕立てたのは、俺たちだ」
綾乃は黙って聞いている。
ある任務で、彼女は一人の政治家へ接近した。
当時から清廉潔白なイメージで国民的人気を集め、卓越した演説力を持っていた男。
後に総理大臣となり、国際舞台で存在感を示し、戦後最長内閣を築いた。
今なお「戦後最高の宰相」と評価する者も多い、誰もが知る超大物政治家。
その男との間に生まれた子どもが、白石陽菜だった。
「……陽菜はんの実のお父さまが」
綾乃は初めて口を開いた。
「元総理大臣」
波田は頷いた。
「本人は知らねえ」
「陽菜はんの存在を?」
「妊娠していたことすら知らされていない」
綾乃の表情は動かなかった。
だが机の下で、指先がわずかに強く重なった。
女性エージェントの妊娠が発覚した時、国家は母子の抹消を検討した。
国民的人気を持つ政治家の隠し子。
世界各国の機密を知る女性諜報員。
その二つが結びつけば、外交、政権、世界の権力構造すら揺らしかねない。
敵対国家に知られれば脅迫材料となる。
犯罪組織に知られれば、交渉の道具となる。
母子が存在するだけで、世界のパワーバランスが変わる可能性さえあった。
女性は波田へ懇願した。
自分は消されても構わない。
せめて、子どもだけは助けてほしい。
波田は命令へ背いた。
旧知の相模原の資産家である白石家へ頼み込み、生まれた陽菜を養女として受け入れさせた。
実の両親は事故死したという経歴を作り、政府の力で養子縁組を短期間に成立させた。
母親の戸籍は抹消。
顔を変え、声や歩き方まで作り直し、まったく別の女性として新しい人生を与えた。
杉本恵。
それが、東洋のマタハリの現在の名だった。
ただし、条件があった。
自分が実母であることを、陽菜には絶対に明かさない。
娘のそばにいることは許す。
だが、母親として名乗ることは許さない。
「恵さんが……」
綾乃は、白石家での光景を思い出した。
陽菜のエプロンを直す手。
咳をした瞬間に水を差し出す速さ。
焼きたてのクッキーを食べようとする陽菜を、穏やかに止める声。
玄関で告げられた言葉。
――陽菜さまを、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
あれは家政婦の頼みではなかった。
母親の願いだった。
実の娘から「恵さん」と呼ばれながら、笑って返事をし続ける母親の。
波田はさらに話した。
ジェネラス・リンクは、東洋のマタハリが日本で子どもを産んだという断片的な情報をつかんでいる。
陽菜の実父までは特定していない。
だが、若き日の東洋のマタハリと、人気戦隊ヒロインとなった陽菜の容姿が酷似していることには気づき始めている。
「そこまで危険やのに、どうして陽菜はんを戦隊ヒロインにしたんどす?」
綾乃の声は静かだった。
「隠しておいた方が、安全やったんと違います?」
「隠せば、誰にも気づかれずに消される」
波田は答えた。
陽菜をあえて表舞台へ出す。
大勢の観客、仲間、スタッフ、報道関係者の目がある場所へ置く。
大人気の戦隊ヒロインになれば、突然姿を消した時、社会が騒ぐ。
それ自体が敵への抑止力となる。
さらに、陽菜へ近づく者を監視し、ジェネラス・リンクがどこまで真実へ迫っているのかを探ることもできる。
綾乃は机の上の写真へ視線を落とした。
「囮どすか」
波田は否定しなかった。
「そう言われても仕方ねえ」
「陽菜はん本人は、何も知らずに?」
「知らねえ」
「自分が狙われてる理由も?」
「知らねえ」
「実のお母さまが、毎日そばにいることも?」
「知らねえよ」
波田の声が少しだけ荒くなった。
「知らねえから、あいつはあんなふうに笑えるんだ」
綾乃は顔を上げた。
「それを決めたんは、ご顧問はんどす」
「ああ」
「陽菜はんにとって何が幸せかを」
「俺が決めた」
「残酷なことをしはりますなぁ」
「分かってる」
波田は逃げなかった。
重い沈黙が、会議室へ落ちた。
陽菜の秘密を知る者は、これまで四人だけだった。
波田巌蔵。
白石家の主人。
杉本恵。
そしてヒロ室フロントの安岡真帆。
遥室長さえ知らない。
「真帆はんは、どうして?」
「いずれ国政へ出る女だ。嫌でも、この秘密に触れる時が来る」
波田は答えた。
「何も知らずに政治の世界で動かれたら、陽菜を危険にさらす。それに俺や白石家の主人が先に死んだ後、政治的に母子を守る人間が必要になる」
「遥室長には?」
「運営だけで手いっぱいの人間に、こんなものまで背負わせる必要はねえ」
波田は綾乃を見た。
「今日からは、五人だ」
すべてを聞き終えても、綾乃の表情は変わらなかった。
波田が苛立ったように言う。
「何も感じねえのか」
「感じておりますえ」
「そうは見えねえ」
「顔に出したら、敏腕エージェント失格どすさかい」
綾乃は写真の中の女性を見つめた。
若く、美しく、陽菜に似ている。
この女性が今は顔も名前も失い、白石家でクッキーを焼いている。
実の娘から礼儀正しく、
「恵さん、ありがとうございます」
と頭を下げられ、
「どういたしまして、陽菜さま」
と答えている。
母親であることを名乗る資格すら奪われたまま。
「ご顧問はん」
「何だ」
「うちに話した理由は?」
「止めても、お前は調べる」
波田は即答した。
「半端な情報だけ持って敵の罠に突っ込まれるより、全部知ってる方がましだ。それに、お前なら陽菜を守れる」
「信用していただいたいうことで?」
「調子に乗るな。仕方なくだ」
「相変わらず素直やおへんなぁ」
「美月にも言うなよ」
「美月はんに言うたら、三秒で顔に出ますさかい」
「否定できねえのが困る」
綾乃は写真を封筒へ戻した。
「この秘密は守ります」
「陽菜本人にもだ」
その言葉に、綾乃はすぐには答えなかった。
陽菜に真実を告げないことが、本当に守ることなのか。
実の母親がそばにいることを知らないまま生きる方が、幸福なのか。
その答えを、今の綾乃は持っていない。
「今は、話しまへん」
綾乃はそう答えた。
「今は?」
波田の眉が動く。
「一生知らん方がええかどうかまで、うちが約束することやおへん」
「お前な……」
「けど、陽菜はんを危険にさらすような真似は絶対にしまへん」
二人の視線がぶつかる。
やがて波田が、諦めたように息を吐いた。
「京女は面倒だ」
「おおきに」
「褒めてねえ」
その時、綾乃の端末が振動した。
陽菜からのメッセージだった。
〈綾乃さん、この前はありがとうございました。美月さん、クッキーを全部食べちゃったそうです。また一緒に作りましょうね〉
続いて、美月からも届いた。
〈クッキー最高やった! 次はチョコ倍で頼む!〉
綾乃はしばらく画面を見つめた。
陽菜は何も知らない。
自分の父親が、誰もが知る元総理大臣であることを。
自分の母親が、世界を震え上がらせた元諜報員であることを。
その母親が顔を変え、名を捨て、毎日すぐそばで自分を見守っていることを。
自分の出生が明らかになれば、世界の政治的均衡さえ揺らぎかねないことを。
何も知らず、次に焼くクッキーのことを考えている。
無邪気で、小動物のような仕草をする、美しい少女。
誰にでも礼儀正しく、先輩たちから愛され、客席の子どもたちへ笑顔を向ける人気戦隊ヒロイン。
その明るい笑顔の背後には、一人の母親から名前と顔と戸籍を奪った、重すぎる国家の秘密が沈んでいる。
綾乃は陽菜へ返信した。
〈もちろんどす。また三人で作りましょう〉
送信した後、静かに席を立つ。
「帰るのか」
「ええ。明日は大学の講義がありますさかい」
「こんな話を聞いた後に、普通に講義へ出るのか」
「ただの女子大生ではいられへん言うたんは、ご顧問はんどすけど」
綾乃はドアの前で振り返った。
「女子大生をやめるとは言うてまへんえ」
波田は呆れたように手を振った。
新橋ヒロ室を出ると、夜風が綾乃の頬を撫でた。
街には会社員たちの声があふれ、飲食店の明かりが並んでいる。
世界を揺るがす秘密を知った後でも、東京の夜は何も変わらない。
綾乃も表情一つ変えず、人波の中を歩いた。
だが胸の内では、白石家の玄関で頭を下げた杉本恵の姿が、何度も浮かんでいた。
――陽菜さまを、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
あの時、恵は何を思っていたのだろう。
現役の敏腕エージェントである綾乃に、娘を託したのか。
それとも、いつか自分の過去へたどり着く者だと分かっていて、試したのか。
綾乃には、まだ分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
自分はもう、杉本恵を「怪しい家政婦」として調べることはできない。
彼女は、母親だった。
娘へ母と名乗ることを禁じられ、それでも一番近い場所で娘を守るため、家政婦として生き続ける母親。
そして白石陽菜は、綾乃にとって単なる調査対象ではない。
守るべき仲間だ。
どれほど重い血筋を持っていようと、どれほど世界が彼女を政治的な道具として欲しがろうと、陽菜は陽菜である。
礼儀正しく、少し頑張りすぎて、先輩の荷物まで運ぼうとする可愛らしい後輩。
クッキーを三枚までと言われて、露骨に残念そうな顔をする普通の少女。
綾乃は足を止め、夜空を見上げた。
「誰にも、道具にはさせまへんえ」
声は、人混みのざわめきに消えた。
その日、西園寺綾乃は白石陽菜の出生を知った。
だが、真実を知ったことで謎が終わったわけではない。
なぜジェネラス・リンクは今になって陽菜を狙い始めたのか。
元総理の側に、秘密を知る者はいないのか。
そして、国家が三十年間封印してきた母娘の過去は、本当に守り切れるのか。
新橋の夜に、五人目の秘密保持者が生まれた。
その表情は、最後まで少しも変わらなかった。
ただ胸の奥に、陽菜を守るという新たな覚悟だけが、静かに刻まれていた。




