家政婦は紅茶を二度注ぐ ――白石家で始まる、二人のエージェントの静かな探り合い
町田市の大型イベントで、西園寺綾乃と杉本恵が初めて顔を合わせてから、まだ数日しかたっていなかった。
町田は東京都である。
横浜線が走っていようが、かなちゅうバスが駅前を我が物顔で往来していようが、神奈川県との境界が地図上で妙に入り組んでいようが、行政上は間違いなく東京都である。
その町田で、海外の裏社会から「令和の東洋のマタハリ」と呼ばれ始めた綾乃と、白石家の家政婦を名乗る謎めいた女性が、一秒にも満たない視線を交わした。
綾乃は恵の立ち姿や紅茶を注ぐ手つきから、特殊な訓練を受けた人物だと察した。
恵もまた、綾乃が華やかなイベントステージだけを仕事場にしている女性ではないと見抜いていた。
だが、その場では互いに何も問わなかった。
本物のエージェントほど、相手の仮面を不用意に剝がさない。
数日後、綾乃は再びイベント出演のため上京した。
今度の会場は八王子市内の大型商業施設。東京都ではあるものの、町田ほど所属自治体を強調されることはない、比較的平穏な土地だった。
この日のステージには綾乃、美月、陽菜らが登壇し、海外帰りの綾乃による伝統織物の紹介や、戦隊ヒロインによる子ども向けの防犯教室が行われた。
イベント終了後、控室で衣装を整えていた綾乃に、陽菜が嬉しそうに声をかけた。
「綾乃さん、この後、もう京都へ戻るんですか?」
「今日は都内に泊まります。明日の午前中に少し用事がありますさかい」
それを聞いた陽菜の顔が明るくなった。
「それなら、うちへ来ませんか?」
「陽菜はんのお宅へ?」
「はい。町田で恵さんのクッキーを褒めてくれたでしょう? 今日、恵さんにクッキー作りを教えてもらう約束なんです。綾乃さんも一緒に作りませんか?」
綾乃は一瞬だけ考えた。
白石家を訪問できる。
杉本恵という女性を、町田の騒がしい楽屋ではなく、彼女の本来の生活圏で観察できる。
エージェントとしては、願ってもない機会だった。
だが、陽菜の期待に満ちた目を前にすると、そうした打算を表へ出す理由もない。
「喜んで。恵さんのクッキーは、ほんまに美味しゅうございましたさかい」
「よかった!」
その会話を聞きつけた美月が、衣装のまま飛び込んできた。
「ちょっと待って! クッキー作り? うちも行く!」
陽菜が笑顔を向ける。
「もちろんです。一緒に行きましょう」
ところが、美月の背後からスタッフが無慈悲に告げた。
「赤嶺さん。十八時台の新幹線に乗らないと、明日の一限に間に合いませんよ」
美月の表情が固まった。
翌朝には、出席が厳格な必修講義が入っていた。すでに欠席回数は、単位取得を左右する危険水域へ近づいている。
「一回くらい、ええんちゃう?」
「前回も同じことを言って休みましたよね」
「教授には、東京都の安全と平和を守ってた言うといて」
「前回は大阪府の安全と平和を守ったことになっています」
「ほな今回は関東遠征やから、事情がちゃうやん」
綾乃が、はんなりと笑う。
「美月はん。単位は世界平和より身近な危機どすえ」
「綾乃だけクッキー食べに行くの、ずるない?」
「今回は陽菜はんからのお招きどすさかい」
「うちも今、招かれたやん!」
「けど大学からも招かれてますえ。一限へ」
美月は心底不満そうな顔で荷物をまとめた。
「絶対、うちの分も持って帰ってきてや。プレーン、紅茶、チョコ、全部やで」
「大学生が幼稚園児みたいな注文をせんといてください」
「枚数も同じにしてな。綾乃が途中で食べたら分かるからな」
「そんな能力があるなら、講義にも生かしたらよろしいのに」
美月は最後までぶつぶつ言いながら、新横浜駅へ向かう車に乗せられていった。
陽菜と綾乃は、白石家の迎えの車で相模原へ向かった。
車が市街地を抜け、住宅の密集が少しずつ薄くなっていく。
やがて車は、高い塀と立派な鉄製の門の前で速度を落とした。
門が静かに開く。
その向こうには、長いアプローチと手入れの行き届いた庭園が広がっていた。季節の花が咲き、石造りの噴水が午後の日差しを受けている。さらに奥には、白い外壁と大きな窓を持つ洋館が建っていた。
綾乃は、思わず一度だけ瞬きをした。
「こちらが、陽菜はんのお宅どすか」
「はい」
陽菜はごく普通に答えた。
京都の旧家に生まれた綾乃も、決して庶民的な家庭の出身ではない。幼い頃から茶道や華道を学び、格式ある座敷や庭園にも慣れている。
それでも、白石家は規模が違った。
車寄せには別の車が二台止まり、庭師が植木を整えている。玄関前では、制服姿の使用人が車の到着を待っていた。
「陽菜はん」
「はい?」
「失礼ながら、うちも世間ではお嬢様に分類されると思うてましたけど」
「そうなんですか?」
「今、その分類に自信がなくなりました」
陽菜は首を傾げた。
「綾乃さんのおうちも大きいんですよね?」
「うちは古いだけどす。こちらは、家の中で迷子になったら捜索隊が要りそうどすなぁ」
陽菜は楽しそうに笑った。
玄関へ着くと、大きな扉が内側から開いた。
そこに立っていたのは杉本恵だった。
町田で会った時と同じく、落ち着いた色の服装。薄化粧で、髪も簡素にまとめている。
豪邸に仕える親切な家政婦。
表向きは、どこから見てもそれ以上ではなかった。
「お帰りなさいませ、陽菜さま」
「ただいま、恵さん」
「西園寺さまも、ようこそお越しくださいました」
「今日はお招きいただいて、おおきに」
二人は穏やかに頭を下げた。
その短い挨拶の間に、綾乃は幾つかのことを見ていた。
恵は陽菜の足取り、呼吸、顔色を一度に確認している。
綾乃が玄関へ入る瞬間には、荷物の重さ、利き手、歩幅を自然に把握した。
だが、相手を観察していることを感じさせない。
家政婦として客を迎える所作の中へ、すべてを埋め込んでいる。
――やっぱり、ただのお人やあらへんな。
一方の恵も、綾乃の視線を見逃さなかった。
綾乃は屋敷の豪華さに感心しているように見えたが、その実、玄関ホールの奥行き、階段の位置、庭へ通じる扉、使用人の人数を一度に確認していた。
高価な絵画や調度品には、必要以上の関心を示さない。
むしろ人の動きと、屋敷の構造を見ている。
――町田で感じた通りですね。
恵もまた、何も気づかないふりをした。
三人は広い厨房へ移動した。
白石家には料理人もいるが、この日は恵が陽菜へ菓子作りを教えるため、厨房の一角が空けられていた。
テーブルには小麦粉、砂糖、バター、卵、アーモンドプードル、紅茶の葉、チョコレートが美しく並べられている。
陽菜はエプロンを着けながら、目を輝かせた。
「今日は三種類作るんです。プレーンと紅茶とチョコです」
「美月はんの執念が届いたみたいどすなぁ」
綾乃もエプロンを身につける。
恵が、バターを柔らかくするところから説明を始めた。
「急いで熱を加えすぎると、溶けてしまいます。状態を確かめながら、少しずつ扱ってください」
綾乃が答える。
「急ぐ時ほど、状況をよう見なあきまへんなぁ」
「ええ。焦って動くと、取り返しのつかないこともございます」
二人の言葉は、菓子作りの会話として成立している。
しかし、互いには別の意味も通じていた。
陽菜だけが何も疑わず、バターを混ぜ始めた。
「これくらいですか?」
「もう少し柔らかくしましょう」
「こう?」
「力を入れすぎです」
次の瞬間、ボウルの中の粉がふわりと舞い上がり、陽菜の頬と綾乃の袖を白く染めた。
「あっ!」
陽菜が目を丸くする。
綾乃は白くなった袖を見て、静かに言った。
「海外でも、ここまで見事に粉を浴びたことはありまへんでした」
「ご、ごめんなさい!」
「大丈夫どす。爆発物やのうて小麦粉で安心しました」
恵の手が、一瞬だけ止まった。
陽菜は単なる冗談だと思って笑ったが、恵には、綾乃の言葉が妙に実感を伴って聞こえた。
「綾乃さん、危ない場所にも行ったんですか?」
陽菜が尋ねる。
「織物のお勉強に行っただけどすえ」
恵が布巾を差し出す。
「織物の世界も、随分と危険なのですね」
「糸が絡まると、いろいろ大変どすさかい」
二人は微笑み合った。
陽菜は、
「二人とも、話が難しいなあ」
と首を傾げ、再び生地を混ぜ始める。
クッキー作りは、穏やかに進んだ。
恵は包丁でチョコレートを刻む。刃の動きに一切の迷いがない。
細かさが寸分違わずそろい、手元を見ながらも、陽菜の動きやオーブンの状態を把握している。
綾乃も生地を伸ばしながら、隣で落ちかけた道具を見ずに受け止めた。
それは一般人なら偶然で済ませる程度の、小さな動作だった。
だが、恵は見ていた。
反射速度だけではない。
道具が落ちる前から、重心の変化と音で位置を読んでいた。
――やはり、よく訓練されています。
綾乃も、恵が刃物を持つ時、決して陽菜へ切っ先を向けないことに気づく。
単なる調理上の配慮より、さらに深い習慣だった。
危険物と人との位置関係を、常に意識している。
素人には分からない。
分かる者にだけ分かる動きだった。
二人は腹を探り合いながらも、表面上は上品にクッキーを作り続けた。
その中央で陽菜は、星形や花形の型を使い、楽しそうに生地を抜いていく。
「これは綾乃さんの分。こっちは美月さんの分です」
「形で分けるんどすか?」
「美月さんは大きい星です」
「分かりやすいどすなぁ」
「綾乃さんは、この花の形。上品だから」
「おおきに」
恵が穏やかに笑った。
「陽菜さまご自身は、どちらになさるのですか?」
「私はハートです」
「それが一番多いように見えますが」
「たまたまです」
三人の笑い声が厨房へ広がる。
そこには疑いも、機密文書も、過去の闇もなかった。
ただ三人の女性が、休日の午後にクッキーを焼いている。
綾乃は、その時間が陽菜にとってどれほど大切なものかを感じていた。
生地を冷蔵庫で休ませている時、陽菜の端末へ着信が入った。
画面には、主治医である藤崎紗絢の名前が表示されている。
「紗絢先生だ」
陽菜が応答すると、画面にホテルらしい室内と藤崎紗絢の姿が映った。
紗絢は循環器関連の国際学会へ出席するため、ベルギーのブリュッセルに滞在していた。
『陽菜さん、体調はどう? 予定が少し空いたから、今のうちに簡単なオンライン診察をしておきましょう』
「今、綾乃さんと恵さんとクッキーを作っています」
『楽しそうね。でも診察は別。血圧と脈拍を測って、記録を見せてください』
「今じゃないとダメ?」
『クッキーは逃げません』
陽菜は残念そうに綾乃を見る。
「少しだけ席を外します」
「ごゆっくり。お身体の方が大事どす」
恵が使用人へ声をかけ、オンライン診察用の機器を準備させる。
陽菜は端末を持って、隣の部屋へ移動した。
扉が閉じる。
足音が遠ざかる。
厨房には、綾乃と恵だけが残された。
恵は何も言わず、ティーポットを取り替えた。
一度目は、陽菜を含めた三人のために淹れた軽い香りの紅茶。
二度目は、少し濃く、渋みのある茶葉を選んでいた。
恵は綾乃のカップへ、静かに紅茶を注ぐ。
「先ほどとは、少し違う茶葉です」
「香りが深うなりましたなぁ」
「甘い物には、こちらの方が合います」
「お話の内容によって、お茶も変えはるんどすなぁ」
恵は微笑んだ。
「お客さまのお好みに合わせているだけでございます」
二度目の紅茶が注がれた時、二人は家政婦と戦隊ヒロインではなくなった。
名前も所属も明かさない、二人のエージェントとして向かい合っていた。
恵が尋ねる。
「海外でのご生活は、長かったのですか?」
「長う感じる国もあれば、短う感じる国もありました」
「土地ではなく、そこでお会いした方によるのでしょうか」
「人とのご縁で、時間の流れ方は変わりますさかい」
「予定どおりに帰れないことも?」
「相手の都合で、少し足止めされることはありました」
「ご無事で何よりです」
「恵さんも、海外にお住まいやったことが?」
「昔、幾つかのお宅で働いたことがございます」
「どちらの国どす?」
「もう随分と昔のことです。国の名前まで申し上げるほどの経験ではございません」
恵は答えているようで、何も答えていない。
綾乃は質問を変える。
「白石家には、長うお勤めなんどすか?」
「陽菜さまが幼い頃から、お世話をさせていただいております」
「陽菜はんのことを、よう理解してはりますなぁ」
「長くおそばにおりますから」
「家政婦というより、ご家族のようどす」
一瞬だけ、恵の目に変化があった。
ほんのわずかな揺れ。
だが、声は変わらない。
「恐れ多いことでございます」
綾乃は深追いしなかった。
代わりに、壁に飾られた写真へ視線を向ける。
幼い陽菜が庭で笑っている。少し離れた場所には、当時から変わらぬ地味な服装の恵が立っていた。
「陽菜はんは、昔から明るいお子さんやったんどすなぁ」
「ええ。体調を崩しても、周囲へ心配をかけまいと笑う方でした」
「それは今も変わりまへんな」
「無理をしてしまうところも、変わっておりません」
「恵さんは、何があっても陽菜はんを守らはるんでしょうなぁ」
今度の問いは、明確な誘導だった。
恵は一切の間を置かなかった。
「もちろんでございます」
「お仕事やから?」
「それだけではございません」
初めて、恵が自ら一歩踏み込んだ。
しかし、理由までは語らない。
綾乃はティーカップへ口をつける。
「それを聞いて、安心しました」
恵も綾乃の目を見る。
「西園寺さまも、陽菜さまを大切にしてくださっているのですね」
「仲間どすさかい」
「海外のお仕事と、仲間の安全が両立しない時は?」
鋭い問いだった。
綾乃は微笑みを崩さない。
「両立させます」
「難しい場合もございます」
「難しいいう理由で、大切な方を見捨てるほど、うちは聞き分けのええ人間やありまへん」
恵の目が、初めて少しだけ柔らかくなった。
綾乃は優秀なエージェントだ。
だが、任務だけを優先する人間ではない。
それは恵が生きてきた世界とは、わずかに違っていた。
会話はその後も続いた。
最初は互いの経歴を探るための質問だった。
海外の食文化、言語、織物、ヨーロッパの都市構造、各国の紅茶の飲み方。
二人とも知的水準が高く、互いの話題に正確な返答を返す。
やがて腹の探り合いは、純粋な雑談へ少しずつ姿を変えていった。
綾乃がブリュッセルのレース編みについて話せば、恵はフランドル地方の古い刺繍文化を補足する。
恵が東欧の焼き菓子について語れば、綾乃は現地で食べた素朴な菓子の味を思い出す。
「恵さん、ほんまにようご存じどすなぁ」
「昔、料理好きの奥さまに教わりました」
「その奥さま、何か国に住んではったんどす?」
「転勤の多いご家庭でしたので」
また、答えているようで何も答えていない。
綾乃は笑った。
「恵さんから昔話を聞き出すんは、難儀どすなぁ」
「西園寺さまほどではございません」
二人は初めて、同時に小さく笑った。
その時、扉が開いた。
「終わりました!」
陽菜が戻ってくる。
新旧のエージェントは、一瞬で元の顔へ戻った。
「診察はいかがどした?」
「問題ありません。でも紗絢先生に、クッキーは三枚までって言われました」
陽菜は明らかに不満そうだった。
恵が冷静に尋ねる。
「作る枚数については、何も言われませんでしたね?」
「はい!」
「では、作ることを楽しみましょう」
「恵さん、頭いい!」
綾乃が言う。
「食べられへん分は、美月はんに送ったら一瞬で解決しますえ」
再び、楽しいクッキー作りが始まった。
型を抜き、天板へ並べ、オーブンへ入れる。
やがて厨房に、バターと紅茶の甘い香りが広がった。
焼き上がったクッキーを三人で眺め、陽菜は満足そうに胸を張る。
「お店で売れそうです」
「形が少し不揃いなのも、手作りの魅力どすなぁ」
「この端が少し焦げたのは?」
「それも個性どす」
「綾乃さん、優しい」
三人は庭に面したサンルームへ移り、焼きたてのクッキーを紅茶とともに味わった。
恵は客人へカップを出しながら、さりげなく窓の外を確認する。
使用人が扉へ近づく前に気配を察し、ポットの位置を変える。
陽菜が咳払いをすれば、会話を止めずに水を差し出す。
動作に無駄がなく、周囲すべてを把握していた。
綾乃は確信した。
杉本恵は、間違いなく特殊な訓練を受けている。
そこで綾乃は、何度か質問を仕掛けた。
「海外の大きなお屋敷では、警備も厳しかったんと違います?」
「門番の方がいらしたお宅もございました」
「危険な方がお住まいやったことも?」
「どなたにも、多少の危険はございます」
「護身術を習われた経験は?」
「防犯教室に参加したことならございます」
「それだけで、あないに気配へ敏感になれますやろか」
「長く家事をしておりますと、物音には気づきやすくなるものです」
まったく引っかからない。
綾乃が投げる質問を、恵はすべて平凡な答えへ置き換える。
嘘をつかず、核心だけを外していた。
――さすがどすなぁ。
綾乃は内心で感心していた。
恵もまた、綾乃がどこまで自分を疑っているか測ろうとしたが、綾乃は町田で見た機密文書にも、「東洋のマタハリ」という名にも一切触れなかった。
互いに一歩も譲らない。
だが、不思議と険悪な空気にはならなかった。
二人とも、相手が陽菜を守ろうとしていることだけは理解し始めていたからである。
夕方、綾乃は帰り支度をした。
恵は三種類のクッキーを箱へ詰め、リボンをかける。
さらに別の大きな包みを用意した。
「こちらは、赤嶺さまへ」
「こんなにぎょうさん?」
「お待ちになっているのでしょう?」
「一人で全部食べると思いますえ」
「その場合は、松本さまに注意していただきましょう」
綾乃は笑って箱を受け取った。
玄関では、陽菜が名残惜しそうに手を振る。
「また来てくださいね」
「もちろん。また一緒に作りましょう」
陽菜が使用人に呼ばれ、少しだけ奥へ戻る。
玄関に残った綾乃と恵は、再び二人きりになった。
恵が深く頭を下げる。
「西園寺さま」
「はい」
「陽菜さまを、どうぞこれからもよろしくお願いいたします」
家政婦としてなら、ごく自然な言葉だった。
しかし綾乃には、その奥にある重みが分かった。
これは単なる挨拶ではない。
陽菜のそばにいる者として、能力と覚悟を測ったうえで託された言葉だった。
綾乃は、はんなりと微笑んだ。
「陽菜はんは、うちらの大事な仲間どす。言われるまでもありまへん」
恵の目をまっすぐに見て、続ける。
「何があっても、うちらが守ります」
「ありがとうございます」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
綾乃は恵を信用したわけではない。
恵も、自分の過去を綾乃へ明かすつもりはない。
それでも二人は、少なくとも同じ少女を守る側に立っている。
その一点だけは、疑いようがなかった。
迎えの車が門を出る。
後部座席に座った綾乃は、窓の外へ遠ざかる白亜の屋敷を見つめていた。
杉本恵。
親切で、料理が上手で、陽菜を心から大切にする家政婦。
そして、海外の文化や警備に詳しく、どのような質問にも核心を見せず、室内のすべてを一瞬で把握する女性。
三十年前の東欧の機密文書。
「東洋のマタハリ」と呼ばれた、陽菜によく似た若い美女の写真。
目の前の杉本恵は、その女性とは似ても似つかない。
だからこそ、綾乃の中に小さな疑問が残った。
敏腕エージェントなら、顔を変えることはできる。
名前も、経歴も、声も、歩き方さえ変えられる。
だが、陽菜を見つめるあの目だけは、演技ではなかった。
「親切な家政婦さん、いうだけでは説明がつきまへんなぁ……」
綾乃はそう呟き、膝の上のクッキー箱へ手を置いた。
箱の中には、美月のための大きな星形クッキーが並んでいる。
美月へ渡せば、きっと何も考えずに喜ぶだろう。
陽菜も、今日という一日をただ楽しい思い出として覚えている。
それでよい。
今はまだ。
綾乃は屋敷の方向を、もう一度だけ振り返った。
家政婦は紅茶を二度注いだ。
一度目は、陽菜の友人をもてなすため。
二度目は、同じ世界を知る女の覚悟を確かめるため。
その味を知った綾乃の胸には、杉本恵本人への疑念以上に、別の問いが静かに芽生え始めていた。
なぜ、あれほどの女性が白石家にいるのか。
そして、なぜ彼女は陽菜を「何があっても守る」と言い切れるのか。
答えはまだ、白亜の屋敷の奥深くに隠されていた。




