町田は東京、彼女の正体は極秘 ――二人の「東洋のマタハリ」が交わした一秒
「皆さーん! 本日の会場は、東京都町田市でーす!」
大型ショッピングセンターの吹き抜け広場に、杉山ひかりの澄んだ声が響き渡った。
特設ステージを取り囲む三階までの回廊には、親子連れや戦隊ヒロインのファンがびっしりと並んでいる。女子アナウンサーを目指しているひかりは、マイクを手にすると普段の穏やかな雰囲気から一変し、聞き取りやすい発声と滑らかな進行で会場を引きつけた。
その隣では、グレースフォースの相棒である館山みのりが、進行表を手に理知的な笑みを浮かべている。
「ここで大切なことを、もう一度申し上げます」
ひかりが少し間を置いた。
「町田市は――東京都です!」
地元客から、待ってましたとばかりに拍手が起きた。
「横浜線が走っていても東京都! かなちゅうバスが駅前を行き交っていても東京都! 相模原市に三方向を囲まれそうな勢いでも、決して神奈川県ではありません!」
「ひかり、それ以上強調すると、かえって疑われるわよ」
みのりが冷静に補足すると、会場がどっと沸いた。
ひかりは一瞬だけ困ったように笑う。
「そ、そうだら? でも町田の皆さんには大事なことですから」
緊張した時に時折出る駿河弁まで拾われ、客席から温かい笑いが広がった。
この日のイベントは、題して「東西人気戦隊ヒロイン大集合」。
登壇したのは、東大阪の赤嶺美月、京都の西園寺綾乃、浜松の河合美音、司会を務める杉山ひかりと館山みのりのグレースフォース、川崎の水無瀬澪、横浜の南部沙羅、江東区の月島小春、相模原の白石陽菜、松本の松本美紀、そして文京区のクイズ女王・一条知佳。
名前を呼ばれるたび、会場から大きな歓声が上がる。
なかでもひときわ拍手を集めたのは、しばらく海外へ出ていた西園寺綾乃だった。
綾乃はステージ中央まで進み、両手を前で重ねて優雅に一礼した。
「皆さま、お久しぶりどす。しばらく織物のお勉強で、海外をあちらこちら回っとりました。今日からまた、よろしゅうお頼申します」
吹き抜けの上階からも、「綾乃、おかえり!」という声が飛ぶ。
綾乃ははんなりと微笑み、客席へ手を振った。
その横で美月が、口元だけ動かした。
「織物の勉強だけで、何か国回ってんねん」
「美月はん」
綾乃は笑顔のまま答えた。
「世界には、表から見ただけでは分からん織り目もありますのえ」
「絶対、布の話やないやろ」
「さあ、何のことでっしゃろ」
世界各国の情報機関や犯罪組織の間で、西園寺綾乃の名前が徐々に知られ始めていることを、美月は知らない。
相手に警戒心を抱かせない柔らかな物腰。知性と語学力。必要ならば社交界の令嬢にも、地方の行商人にも、研究者にも姿を変えられる適応力。
一部の関係者は、彼女を密かにこう呼び始めていた。
――令和の東洋のマタハリ。
だが、そのような裏側を感じさせないまま、イベントは町田市の話題へ移った。
「陽菜ちゃんは、お隣の相模原市に住んでるんだよね?」
ひかりから話を振られ、陽菜が元気よく頷いた。
「はい。町田には本当によく来ます。買い物もしますし、友達との待ち合わせも町田駅が多いです」
陽菜は少し考えてから、笑顔で続ける。
「それに、相模原でもおなじみのかなちゅうバスが普通に走っているので、小さい頃は町田も神奈川県だと思っていました」
地元客が笑う。
「でも、東京都なんですよね」
「はい、東京都です!」
ひかりが即答した。
「ここは強く言い切ります!」
「司会者に政治的圧力がかかっているように聞こえますね」
みのりが淡々と言った。
そこで、一条知佳が眼鏡を押し上げる。
「現在の町田市を含む三多摩地域は、かつて神奈川県に属していました。しかし一八九三年、明治二十六年に東京府へ移管されています。背景には水源管理や行政上の事情がありました」
客席から「へえ」という声が上がる。
分かりやすく、しかも簡潔。さすがクイズ女王である。
ところが、感心していたはずの美月が突然手を挙げた。
「先生、コネチカット州は?」
知佳の眉がぴくりと動いた。
「……妥協しませんが」
会場の一部から笑いが漏れる。
知佳は以前、早押しクイズ番組で「コネチカット州」と答える問題に挑み、正解が分かっていながらコンマ数秒の差で解答権を奪われたことがある。
敗北後も「知識では負けていません。ボタンの差です」と主張し続けたため、美月から「コネチカット妥協」という妙な言葉でいじられるようになっていた。
「私は誤答していません。押し負けただけです」
「コンマ何秒やったっけ?」
「〇・〇七秒です」
「細かっ!」
知佳は表情を変えずに続けた。
「なお、コネチカットは十三植民地の一つであり、一七八八年に合衆国憲法を批准して、第五番目の州となりました」
美月が首を傾げる。
「それ、町田と関係ある?」
「あなたが聞いたんでしょう!」
知佳の鋭い声に、吹き抜け全体が笑いに包まれた。
その時、ステージの端で眠たそうに立っていた澪が、ゆっくりマイクを持ち上げた。
「町田は昔、神奈川県だったんだから」
いつもの気だるい口調だった。
「そろそろ戻してくれてもいいんじゃない? かなちゅうバスも走ってるし。知らんけど」
会場がざわめく。
「澪さん、それは大変な提案です」
ひかりが笑いをこらえながら言う。
すると、自称“ハマのプリンセス”こと南部沙羅が、待っていましたとばかりに一歩前へ出た。
「澪さん、素晴らしい提案ですわ」
沙羅は髪を優雅にかき上げる。
「横浜線で横浜と直結し、かなちゅうバスが市内を走る町田。生活圏を考えれば、神奈川県へ戻る方が自然ではなくて?」
「いや、自然じゃないから!」
小春が即座に声を上げた。
だが、神奈川県側は止まらない。
沙羅は客席へ向けて手を広げる。
「町田には、新たに“ハマの北の玄関口”という称号を差し上げますわ」
知佳が即座に反論した。
「横浜市ではない町田に、勝手にハマの称号を与えないでください」
陽菜まで面白くなってきたらしく、神奈川県側へ加わった。
「でも、町田が神奈川県になれば、相模原と同じ県になりますよね。もっと仲良くなれそうです」
澪が眠たそうなまま頷く。
「川崎、横浜、相模原、町田。神奈川四大都市」
「おい、横須賀はどうしたんだい!」
江戸っ子ギャルの小春が声を張り上げた。
「それより町田は渡さないよ! 絶対ダメ!」
小春はスカートの裾を翻し、まるで敵組織と対峙するように神奈川組の前へ立ちはだかった。
「一回東京に来た町を、バスが走ってるくらいで返せるかってんだ! 町田は東京! 東京都! 大都会!」
「最後は少し盛りましたね」
みのりが冷静に指摘する。
小春は気にせず、美月を振り返った。
「美月パイセンも何か言ってくださいよ!」
「うち関西人やで」
「勢いで援護してください!」
美月は腕を組み、町田問題を関西に置き換えようとした。
「関西で言うたら、高槻が大阪か京都かで揉めるようなもんか?」
綾乃が首を傾げる。
「高槻は普通に大阪どすえ」
「ほな大山崎は?」
「京都どす」
「島本町は?」
「大阪どす」
「なんやねん、あの辺!」
「地図どおりどすけど」
美月はしばらく考え、今度は別の案を出した。
「ほな京都が枚方を欲しがる感じか?」
「枚方は大阪どすなぁ。けど、いただけるなら」
「絶対あかん!」
美月が反射的に叫ぶ。
綾乃はにっこり笑った。
「美月はん、今の小春はんと同じ顔どしたえ」
「地元に近い話になったら本気になるんや!」
東京対神奈川の争いから離れ、グレースフォースの二人は一歩引いた場所で状況を分析していた。
ひかりが言う。
「住民の生活圏と行政区域は、必ずしも一致しませんよね」
みのりも頷く。
「ええ。税収、行政サービス、選挙区、都市計画、歴史的な帰属意識まで考慮する必要があります。イベントステージ上で決められる問題ではありません」
「さすがグレースフォース!」
美紀が感心した。
みのりは涼しい顔で付け加える。
「千葉県としては、東京と神奈川が争って消耗しても特に困りませんが」
「みのりちゃん、それは言わなくていいと思うな」
ひかりの優しい注意に、また客席が笑った。
その頃、美音と美紀は完全に蚊帳の外だった。
「私たちは、どちら側へつけばいいのでしょう」
美音が真剣に尋ねる。
美紀も真剣に考えた。
「浜松と松本だから、どちらにも関係がありません」
「何か主張を作りましょうか」
「浜松と松本を直結する高速道路を造ってもらう、とか」
「町田と一切関係がありません」
二人は結局、町田市民の判断を尊重するという極めて無難な結論を出し、なぜか客席から最も温かな拍手を受けた。
東京側の小春と知佳は徹底抗戦。
神奈川側の澪、沙羅、陽菜は再編入を要求。
美月と綾乃は関西の府県境へ脱線し、グレースフォースは知的に高みの見物。美音と美紀は最後まで議論に入りきれない。
町田を巡る争いに決着はつかなかったが、イベントは大盛況のまま幕を閉じた。
最後に地元の男性客が叫んだ。
「町田が東京でも神奈川でも、買い物が便利ならどっちでもいいぞ!」
知佳だけが、
「行政はそれほど単純ではありません!」
と最後まで反論していた。
イベント終了後、ヒロインたちが楽屋へ戻ると、室内に甘く香ばしい匂いが漂っていた。
白石家の家政婦、杉本恵が来ていた。
落ち着いた色のブラウスに、膝丈のスカート。化粧は薄く、髪形も地味だった。街ですれ違ったとしても、十分後には顔を思い出せなくなるような、特徴のない女性である。
「皆さん、お疲れさまでございました」
恵は上品に頭を下げ、テーブルの上に大きな銀色の缶を置いた。
蓋を開ける。
そこには、均一な焼き色のクッキーが整然と並んでいた。
プレーン、アーモンド、ココア、紅茶、中央に赤いジャムを添えた花形。白いレースペーパーの上に並べられた焼き菓子は、小さな洋菓子店のショーケースのようだった。
「うわあ!」
陽菜が真っ先に笑顔を見せた。
「恵さんのクッキー、大好き!」
ひかりは紅茶味を一枚取り、目を細める。
「香りが優しいですね。甘さも上品です」
みのりは断面を見て感心した。
「焼きむらがありません。生地の厚さもすべて均一です」
美音は一口食べたまま、しばらく黙った。
「完璧です」
美紀は二枚目へ手を伸ばしかけた美月を見る。
「美月さん、急いで食べると喉に詰まりますよ」
「大丈夫や! イベント後のおやつはヒロ室だと、あたりM田のクラッカーばっかりやったけど、恵さんのクッキーは最高や~!」
美月は両手にクッキーを持って絶賛した。
綾乃も一枚取り、上品にかじる。
「あたりM田のクラッカー、懐かしいどすなぁ。いつだったか戦闘任務後のご褒美や言うて、出されたこともありましたなぁ」
美月が大きく頷いた。
「あったわ! しかも二人で一袋!」
「一人一袋やと思うて手ぇ伸ばしたら、係の方に止められましたなぁ」
「命懸けで戦って、二人で一袋やで!」
「昔のヒロ室は、予算まで薄焼きどしたなぁ」
綾乃のはんなりした皮肉に、楽屋が笑いに包まれた。
しかし、その笑顔の奥で、綾乃の意識は杉本恵へ向けられていた。
恵は一度室内を見回しただけで、全員分のカップを正確に用意した。
誰が右利きで誰が左利きかを把握し、カップの取っ手の向きを変える。人の動線を塞がない場所へティーポットを置き、紅茶を注ぎながら、正面の鏡に映る出入口を確認する。
背後へ人を立たせない。
足音が近づけば、視線を動かさずに気配だけを捉える。
熱いポットを持ちながらも、重心は崩れず、いつでも左右どちらへも動ける姿勢を保っている。
普通の家政婦の動きではない。
――このお人、ただ者やあらへんな。
綾乃の脳裏に、帰国後に調べた三十年前の東欧の機密文書が浮かんだ。
旧体制崩壊前後の混乱期。政府機関、武器商人、犯罪組織の間を渡り歩き、複数の極秘情報を持ち出した日本人女性。
文書の余白には、英語でこう記されていた。
The Mata Hari of the East.
東洋のマタハリ。
添付されていた写真は一枚だけだった。
二十代と思われる、整った顔立ちの美しい日本人女性。その目元は、不思議なほど白石陽菜に似ていた。
だが、目の前の杉本恵は、陽菜とは似ても似つかない。
顔立ちは凡庸で、どこにも華やかさがない。写真の美女とはまるで別人だった。
――まさか、このお人が東洋のマタハリ?
綾乃は心の中で打ち消した。
――そんなわけ、あらへん。
特殊な訓練を受けた経歴はあるかもしれない。白石家が陽菜を守るために雇った元警護員という可能性もある。
その程度だろう。
綾乃は何も気づかなかったふりをして、紅茶へ口をつけた。
一方、杉本恵も、綾乃を見ていた。
陽菜から何度も話を聞いている。
京都出身で、はんなりした言葉を使う知性派。長期間海外へ出ており、危険な任務をいくつも成功させた女性。
――陽菜が話していた、海外任務をこなしてきた綾乃さんか。
恵は一瞬で理解した。
綾乃は楽屋へ入った直後、誰にも悟られずに出入口と非常口を確認した。
自然に壁を背負える位置へ立ち、鏡を利用して室内全体を視界へ入れている。笑っている間も利き手を空け、恵がティーポットを置いた位置まで見ていた。
ただの戦隊ヒロインではない。
それも、かなり高度な訓練を受けている。
若い。だが才能がある。
相手に警戒心を抱かせない柔らかさは、かつての自分とは異なる種類の武器だった。
恵は綾乃の前にティーカップを置いた。
「西園寺さん、お砂糖はいかがなさいますか?」
綾乃が顔を上げる。
「このままで結構どす。せっかくの香りが消えてしまいますさかい」
二人の視線が交わった。
ほんの一秒。
周囲では美月が八枚目のクッキーをめぐって美紀に注意され、小春と沙羅がまだ町田の所属を言い争っている。
だが、その一瞬だけ、二人の周囲から音が消えた。
綾乃は感じた。
――この人、うちが気づいたことまで察してはる。
恵も理解した。
――この子も、私を普通の家政婦とは思っていない。
それでも、二人の表情は穏やかなままだった。
「おいしい紅茶どすなぁ」
「ありがとうございます」
言葉は、それだけだった。
新旧二人の敏腕エージェントは、互いの正体を暴こうとはしなかった。
本物は、証拠もなく相手の仮面を剝がしたりしない。
本物は、危険を感じたからといって、すぐに武器へ手を伸ばしたりもしない。
相手が敵か味方か。
何を守ろうとしているのか。
それを見極めるまで、静かに待つ。
恵は帰り際、陽菜の衣装の襟をそっと直した。
「今日はよく頑張りましたね」
「ありがとう、恵さん」
陽菜は何も知らず、明るく笑った。
その笑顔を見た綾乃は、恵が陽菜へ向ける愛情だけは、演技ではないと悟る。
恵もまた、綾乃が陽菜を守る側の人間であると見抜いていた。
ならば、今は何も問う必要がない。
杉本恵がショッピングセンターの人混みへ消えた後、綾乃は二階通路から、その背中を見送った。
地味な歩き方。平凡な服装。誰の記憶にも残らない速度。
数十秒後には、人波の中から完全に姿を消していた。
「美人に化けるより、どこにでもいる人に見せる方が、ずっと難しいんどすけどなぁ……」
綾乃が小さく呟く。
隣にいた美月が振り向いた。
「何か言うた?」
綾乃は、いつものはんなりした笑顔へ戻った。
「いいえ。クッキー、もう一枚残しとけばよかったと思うただけどす」
「それや! 最後の一枚、誰が食べたん?」
「美月パイセンです!」
後ろから小春が叫んだ。
「うそやろ!」
美月の声が通路へ響き渡る。
その日、東京都町田市――決して神奈川県ではない町田市で、二人の「東洋のマタハリ」が初めて交錯した。
二人は互いを見逃したのではない。
互いに気づきながら、あえて何も見なかったことにしたのである。
だが、その一秒の視線は、間眠っていた秘密を、静かに目覚めさせようとしていた。




