消された女の肖像――綾乃、“東洋のマタハリ”の足跡を追う
シンガポールの夜景は、まだ窓の外で輝いていた。
マリーナベイを見下ろす最高級ホテルのスイートルーム。大理石のテーブル、静かな間接照明、窓いっぱいに広がる摩天楼と水面の光。任務の緊張が嘘のように、部屋には上品な静けさが漂っている。
高田美雪はソファに腰掛け、紅茶を一口飲んだ。
「綾乃さん。今回も見事でした」
西園寺綾乃は向かいに座り、少しだけ恐縮したように微笑む。
「まだまだどす」
「それ、最近は謙遜に聞こえませんね」
「本心どすえ」
美雪は小さく笑った。
「エージェントとしてだけじゃありません。ファントム・オブ・ミラージュのスタッフとしても、あなたは本当に優秀でした」
「世界一のイリュージョニストにそんなお言葉をいただけるなんて、光栄どす」
「また手伝ってください」
「喜んで。けど、次は少し楽な都市でお願いしたいどすな」
「楽な都市は任務になりません」
「世知辛いどす」
二人は静かに笑った。
だが、綾乃の心には一つだけ引っかかりが残っていた。
シンガポール任務の終盤、敵対組織内で囁かれた異名。
東洋のマタハリ。
美雪はその意味を知らなかった。遥室長も、おそらく知らない。
だが、波田顧問だけは違う。
綾乃はそう直感していた。
帰国後、綾乃はまず京都へ戻った。
そして盟友・赤嶺美月へ土産を渡す。
「美月さん、これどうぞ」
「おっ、シンガポール土産か?」
「いえ。乗り継ぎで買うたドバイのデーツチョコどす」
「なんでシンガポールちゃうねん!」
「美月さん、前に“ベタな土産はいらん”言うてはりましたやろ」
「言うたけど! ドバイ挟むんズルいわ!」
美月は文句を言いながらも、箱を抱えてにやけている。
「まあ高そうやから許す」
「基準が分かりやすいどすな」
笑い合う二人。
そこだけは、いつもの日常だった。
翌日、綾乃は新橋のヒロ室へ帰還報告に向かった。
遥室長は満面の笑みで出迎える。
「綾乃ちゃん、お帰りなのら!」
「今回も大活躍だったのら!」
「東洋のマタハリ、すごいのら! なんか世界的なのら!」
綾乃は少し困ったように笑う。
「その呼び名、あまり喜んでええものか分かりまへん」
「かっこええのら!」
「遥室長は前向きどすなぁ」
そこへ波田顧問が現れる。
「よぉ。無事で帰ってきたな」
その声は穏やかだった。
だが、報告が進むにつれ、波田の表情は少しずつ変わった。
綾乃はそれを見逃さない。
眉間のわずかな皺。
指先が机を叩く回数。
ほんの一瞬だけ落ちた視線。
「東洋のマタハリ」という言葉が出た瞬間の呼吸の乱れ。
海外で修羅場を経験し、すでに敏腕エージェントとなった綾乃には、それが異常だと分かった。
波田は低い声で言った。
「綾乃」
「はい」
「一つだけ言っとく」
「ターゲットに近づき過ぎるな」
綾乃は静かに見つめ返す。
「近づかなければ、取れへん情報もありますえ」
「分かってる」
波田は口を開きかけた。
「昔な……」
そこで止まった。
一瞬、空気が冷えた。
波田はすぐに笑顔を作り、べらんめえ口調へ戻る。
「いや、なんでもねぇ。歳取ると話が勝手に昭和へ戻るんだよ」
遥室長が首をかしげる。
「昭和へ戻るって何なのら?」
「俺の脳内タイムマシンだ」
「壊れてるのら」
「壊れてるから歳なんだよ」
ヒロ室に笑いが起きた。
しかし、綾乃だけは笑わなかった。
(今、何か言いかけはった)
(“昔”)
(波田顧問は、何かを知ってはる)
京都へ戻った綾乃は、すぐに調査を始めた。
国内の資料を片っ端から当たる。
新聞アーカイブ。
国会図書館。
外交史料。
公安関係の公開資料。
古い雑誌。
学術論文。
過去の事件記録。
だが、何も出てこない。
不自然なほどに、何もない。
「……これは、無いんやなくて、消されてますな」
綾乃は机に資料を並べ、静かに息を吐く。
普通、伝説級の諜報員なら噂の断片くらいは残る。
敵側の記録、新聞の誤報、海外記者の回想、どこかに必ず痕跡がある。
だが日本国内には、まるで最初から存在しなかったかのように何もない。
「疑惑は深まった、どすな」
綾乃は次に、海外資料へ向かった。
得意の語学力を駆使し、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、東欧諸語のデータベースを探る。
数日後。
ようやく、一つの文書にたどり着いた。
約三十年前の東欧の機密文書。
一部が黒塗りにされた諜報報告書。
そこに、古いタイプ文字で記されていた。
Oriental Mata Hari
東洋のマタハリ。
綾乃の背筋がわずかに冷えた。
資料には、名前はない。
国籍も曖昧。
ただ、こう書かれている。
東アジア出身の女性工作員。複数の偽名を使用。各国要人への接近能力は極めて高い。標的が自発的に機密情報を開示する傾向あり。危険度、最高。
さらにページを進める。
一枚だけ、写真が残っていた。
若い女性。
小柄。
端正な顔立ち。
柔らかく微笑んでいる。
だが目だけが違う。
人の奥底まで見透かすような、冷たく深い目。
綾乃はその写真をじっと見つめた。
「……綺麗な人どす」
そして、しばらくして小さく呟く。
「何となく……陽菜ちゃんに似てる気ぃしますえ」
もちろん、まだ何も分からない。
この女性が誰なのか。
今どこにいるのか。
生きているのか。
なぜ存在が消されたのか。
綾乃は資料を閉じ、窓の外の京都の夜を見た。
「この人、今どうしてはるんやろ」
「もう、おいくつくらいにならはったんやろ」
その頃。
神奈川県相模原市の白石家。
夕暮れの食卓に、温かな料理の香りが広がっていた。
家政婦の杉本恵が、静かに皿を並べている。
そこへ白石陽菜が明るい声で駆け込んできた。
「恵さん、ただいま!」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「今日ね、レッスンでいっぱい褒められたんです!」
「それは良かったですね」
「あとね、海外で活躍してる綾乃さんっていう先輩の話も聞いたんです。すごいんだって。世界中で任務してるんだって!」
恵の手が、ほんの一瞬だけ止まる。
だがすぐに、いつもの穏やかな家政婦の顔に戻る。
「そうですか。立派な方なのですね」
「うん! 私もいつか海外で活躍できるかな?」
「お嬢様なら、きっとできますよ」
陽菜は嬉しそうに笑う。
「ほんと?」
「はい。けれど、まずは夕食をしっかり召し上がってください」
「はーい!」
陽菜は何も知らない。
目の前の優しい家政婦が、自分を命懸けで産んだ実母であることを。
杉本恵という名前が仮の名であることを。
その女性がかつて世界を震撼させた元祖東洋のマタハリであることを。
そして京都では、その足跡を追い始めたもう一人の敏腕エージェント、西園寺綾乃がいることを。
この事実を知る者は、わずか四人。
波田巌蔵。
白石家の主人。
安岡真帆。
そして、戸籍上は存在しない本人――杉本恵。
食卓では、陽菜が楽しそうに今日の出来事を話し続けている。
恵はその声を静かに聞きながら、味噌汁の椀をそっと置いた。
「熱いので、お気をつけくださいね」
「うん、ありがとう、恵さん!」
その笑顔を見て、恵は柔らかく微笑んだ。
母とは名乗れない。
けれど、今この瞬間だけは、確かに娘のそばにいる。
しかし運命の歯車は、静かに、確実に回り始めていた。




