獅子の港に囁かれた異名――綾乃、“東洋のマタ・ハリ”と呼ばれる夜
シンガポールの夜景は、宝石箱のようだった。
マリーナベイの水面に高層ビル群の光が揺れ、巨大な観覧車がゆっくり回り、白いマーライオンが水を吐き続けている。整然とした街路、清潔な歩道、世界中の金融機関が集まるビジネス街。中華、マレー、インド、欧米の文化が混ざり合うこの都市国家は、東南アジアの交差点であり、世界有数の金融ハブでもある。
「東洋の真珠」と称されるシンガポール。
治安の良さ、洗練された都市機能、美しい夜景、国際的な港湾。どこを見ても完成された都市のように見える。
だが、光が強い街ほど影も濃い。
世界中の資金が集まり、海運、投資、慈善財団、企業買収、港湾物流が複雑に絡み合うこの都市は、国際金融犯罪やマネーロンダリングの中継点にもなりやすい。綺麗な水面の下で、汚れた資金が静かに流れていることもある。
その街へ、世界最高峰のイリュージョンカンパニーファントム・オブ・ミラージュがやって来た。
今回の新作は、「Pearl of Illusion――真珠の幻影」。
舞台中央には巨大な噴水。シンガポールの象徴であるマーライオンを模した白いオブジェが設置され、水煙の中から高田美雪が現れる。客席上空には無数の光る真珠が舞い、最後にはそれらが一つの巨大な真珠へ集まり、美雪がその中へ消える。
上品で豪華。
水と光と真珠の幻想。
シンガポールらしい洗練された舞台に、観客は酔いしれた。
だが、美雪と西園寺綾乃の本当の任務は別にあった。
ジェネラス・リンクが、海運会社、投資ファンド、慈善財団を利用して、東南アジア一帯の資金洗浄を統括しているとの情報が入ったのである。
国際金融フォーラム。
各国要人、巨大企業幹部、金融機関トップ、港湾会社CEO、慈善財団関係者が集う超VIPイベント。
綾乃は今回も、美雪一座の大学生スタッフとして潜入した。
白いブラウス。
落ち着いた濃紺のジャケット。
控えめな真珠のイヤリング。
自然な英語。
京都仕込みの柔らかな所作。
誰が見ても、品の良い日本人女子大生だった。
「京都から来たのですか?」
「はい。大学で学びながら、美雪さんの一座で研修をしております」
「素晴らしい礼儀ですね」
「恐れ入ります」
金融財団の代表も、港湾会社の重役も、政府顧問も、彼女を疑わない。
むしろ、自分から近づいてくる。
「京都を案内してほしい」
「日本文化について教えてほしい」
「茶道に興味がある」
綾乃は、はんなりと微笑み、聞き役に徹した。
彼女は強く問い詰めない。
誘導もしない。
ただ相手が話したい方向へ、ほんの少しだけ水路を整える。
すると相手は、自分から流れ始める。
「実は来月、港湾関係で大きな契約がある」
「慈善財団を経由した資金移動が予定されている」
「東南アジア側の窓口は別会社名義だ」
「ジェネラス・リンクとは直接結びつかない形にしてある」
綾乃は静かに相槌を打つ。
「まあ、大きなお仕事どすな」
「責任重大でいらっしゃいますね」
その言葉だけで、相手はさらに気分を良くして話す。
秘密会談の日程。
資金移動先。
港湾ルート。
暗号名。
必要な情報は、想定以上に集まった。
美雪は離れた席で紅茶を飲みながら、その様子を見ていた。
「……本当に、私の出番がなくなりますね」
一座のスタッフが尋ねる。
「ミス・タカダ?」
美雪は静かに笑った。
「弟子が優秀すぎるだけです」
だが、その会場で一人だけ、綾乃を疑う男がいた。
ジェネラス・リンクの古参幹部。
彼は壇上で談笑する綾乃をじっと見ていた。
ロンドン。
プラハ。
バクー。
サマルカンド。
各地の監視映像が、彼の頭の中でつながる。
「……また、あの女か」
部下が尋ねる。
「ご存じで?」
男は低く笑う。
「名は知らん」
「だが、毎回いる」
「誰にも疑われず、要人の隣に立ち、数日後には誰かが失脚する」
彼はグラスを傾け、ぽつりと呟いた。
「東洋のマタ・ハリ……か」
その言葉は、まだ小さな囁きだった。
だが、その夜、綾乃に新しい異名が付いた。
本人は知らない。
美雪も知らない。
ただ、闇社会だけが、その存在を認識し始めた。
任務は成功した。
シンガポール当局、各国情報機関、国際捜査チームが連携し、複数のダミー企業、慈善財団、港湾会社、金融口座へ一斉に手が入る。
要人の一人は辞任。
関係企業は摘発。
ジェネラス・リンクの東南アジア資金洗浄ルートは大きな打撃を受けた。
現地当局からは日本側へ謝意が届く。
美雪と綾乃の働きは極めて高く評価された。
その夜。
マリーナベイを見下ろすホテルのラウンジで、美雪と綾乃は紅茶を飲んでいた。
窓の外では、ライトアップされたマーライオンが水を吐き、摩天楼が水面に映っている。
美雪が静かに言う。
「今日は少し近づきすぎましたね」
綾乃はカップを置く。
「分かっております」
「ターゲットの隣に長くいすぎました」
「はい」
「怖くは?」
「任務中はありませんでした」
「終わってから?」
綾乃は少しだけ微笑む。
「少しだけ」
美雪は頷いた。
「その“少し”を忘れないでください」
「はい」
「恐怖を完全に消す人は、長く続きません」
綾乃は窓の外を見た。
「東洋の真珠は綺麗どすな」
「ええ」
「けど、水面の下は見えまへん」
美雪は静かに笑う。
「今日の反省会としては、満点ですね」
「紅茶もおいしいどす」
「それは別評価です」
二人は穏やかに笑った。
一方、新橋ヒロ室。
報告書を読んだ遥室長は大興奮だった。
「綾乃ちゃん、すごいのら!」
「また大手柄なのら!」
「東南アジアの資金ルートを潰したのら!」
「しかも現地当局からも大絶賛なのら!」
さらに報告書の末尾を見て、目を輝かせる。
「東洋のマタ・ハリ?」
「かっこええら!」
「すごいのら!」
「綾乃ちゃん、ついに海外でも異名持ちなのら!」
遥室長は完全に盛り上がっていた。
「戦隊ヒロインプロジェクト海外部門のエースなのら!」
「これは広報に使えるのら!」
隣で波田顧問が低い声で言う。
「使うな」
「え?」
「それは絶対に広報に使うな」
遥室長はきょとんとする。
「かっこいいのに?」
「かっこよくねぇ」
波田は報告書を見つめたまま、険しい表情を崩さなかった。
そこに記されていた一文。
敵対組織内部で対象を“東洋のマタ・ハリ”と呼称。
波田の脳裏に浮かぶのは、白石陽菜の実母だった。
かつて政府諜報部門で波田の直属だった伝説の女性エージェント。
小柄で童顔。
圧倒的な美貌と社交性で各国要人へ近づき、相手の心を開かせ、情報を奪い、時に政権すら揺るがした女。
闇社会は彼女を本当にそう呼んだ。
東洋のマタハリ。
その名が囁かれ始めた時から、彼女はただのエージェントではなく、世界の闇から狙われる存在になった。
綾乃が、その入り口に立っている。
遥室長はまだ興奮している。
「でも、異名ってヒロインっぽいのら」
「白いリボンの妖精みたいで、キャッチーなのら」
「東洋のマタ・ハリの京美人、みたいな――」
「やめろ」
波田の声が、少しだけ鋭かった。
部屋が一瞬静まる。
波田はすぐに咳払いして、いつものべらんめえ口調に戻した。
「いや、なんつうか、広報資料としては長ぇだろ」
「そこなのら?」
「そうだよ。文字数が多い。ポスターに入らねぇ」
「それは確かにそうなのら」
「だろ? あと、マタ・ハリって何かこう、説明が面倒くせぇ」
「説明文が長くなるのら」
「そうそう。チラシに向かねぇ」
遥室長は納得したように頷く。
「じゃあ広報には使わないのら」
「それがいい」
周囲には笑いが戻った。
しかし、波田の眉間のしわは消えない。
遥室長は純粋に綾乃の活躍を喜んでいる。
それは正しい。
美雪も綾乃を導いている。
それも正しい。
だが、波田だけは知っている。
才能がありすぎるエージェントが、闇社会に名を知られた時、何が起きるのかを。
波田は報告書を閉じ、小さく息を吐いた。
「綾乃……」
誰にも聞こえないほど低い声だった。
「そこから先は、慎重に行けよ」
シンガポールの夜景は美しかった。
東洋の真珠は、光を映す。
だが同時に、水面の下に沈む影も映す。
その夜、綾乃は大きな成果を上げた。
そして同時に、世界の闇から新たな名で呼ばれ始めた。
その名の重さを知る者は、まだ波田巌蔵ただ一人だった。




