蒼きシルクロードに消えた京美人――砂漠の都サマルカンド、美雪が魅せた“世界で最も華麗な救出劇”
サマルカンドの夜空は、深い藍色だった。
青いタイルで飾られた巨大な門、月明かりに浮かぶミナレット、古い隊商都市の面影を残す石畳。ウズベキスタン・サマルカンドは、かつてシルクロードの中心として東西の商人、旅人、学者、権力者を引き寄せた「青の都」である。
絹、宝石、香辛料、古美術。
価値あるものは、昔も今もこの街を通る。
そして価値あるものが集まる場所には、必ず闇も集まる。
その街で、世界最高峰のイリュージョンカンパニーファントム・オブ・ミラージュの新作公演が開かれていた。
演目は、「Blue Crescent Mirage――蒼月の幻影」。
巨大な月を背に、美雪が空中を歩く。ワイヤーと照明を駆使した軽業のような演出。青い絨毯、砂漠の夜、シルクロードの旅人を思わせる幻想的な舞台。
観客は夢を見ていた。
だが、高田美雪と西園寺綾乃にとって、その夜の本当の舞台は別にあった。
ジェネラス・リンクが中央アジアを経由し、希少文化財を密売。その利益を武器密売組織へ流しているという情報が入っていた。
綾乃は、いつものように美雪一座の大学生スタッフとして交流会へ潜入した。
黒を基調にした上品なドレス。
柔らかな京言葉。
落ち着いた所作。
古美術商や文化財保護関係者の中にいても、彼女は自然だった。京都の老舗繊維商社の令嬢として、織物や文化財の話にも詳しい。
「サマルカンドの青は、ほんまに深うございますね。京都の染めにも通じる静けさがあります」
その一言で、場の空気は和らいだ。
誰も思わない。
このはんなりした女子大生が、政府のエージェントだとは。
綾乃は会話の流れに乗り、花瓶の陰へ小型盗聴器を仕掛ける。取引先、輸送ルート、隠し倉庫。必要な情報は次々と取れていった。
だが、今回は相手も違った。
奥の部屋で、ジェネラス・リンクの幹部が監視映像を見ていた。
「ロンドン……プラハ……バクー……」
男は画面を拡大する。
そこには、何度も別々の任務地に現れていた一人の日本人女性。
「この女だ」
綾乃の正体が、ついに割れた。
交流会を終え、裏路地へ出た綾乃の前に、数人の工作員が立ちはだかる。
青いタイルの壁。
月明かり。
逃げ道のない細い路地。
「西園寺綾乃さんですね」
綾乃は表情を変えない。
「人違いではございませんか」
「もう演技は結構」
背後にも男たち。
完全に囲まれた。
綾乃は恐怖を顔に出さなかった。だが、指先だけがわずかに冷えた。
美雪への通信は、すでに送っている。
あとは時間を稼ぐだけ。
「せめて、お話は明るい場所でお願いできますやろか」
男が笑う。
「余裕だな」
「京都では、暗い場所で長話は野暮どす」
その瞬間、遠くから歓声が響いた。
公演のフィナーレが始まったのだ。
夜空に一筋の光が走る。
次の瞬間、美雪が空から現れた。
白いマントを翻し、ワイヤーを使って建物の屋根から屋根へ舞う。まるで重力を忘れた軽業師。観客席からは大歓声が上がる。
「ショーの演出だ!」
誰も救出劇だとは気付かない。
美雪はシャンデリアのように吊るされた装置を蹴り、軽快なステップで路地へ降り立つ。
「綾乃」
「はい」
「帰ります」
「承知しました」
敵が動くより早く、美雪の投げた布が広がる。
煙。
鏡。
青い光。
そこに映るのは、一人ではない。
何人もの美雪。
何人もの綾乃。
敵は混乱する。
「どれが本物だ!」
美雪はその間を踊るようにすり抜けた。敵に触れもしない。だが、誰も彼女を捕まえられない。
次の瞬間、綾乃の手を取る。
二人の足元に青い布が広がる。
それがふわりと舞い上がった時、二人は消えていた。
そして数秒後。
舞台袖のバルコニーに、美雪と綾乃が並んで現れる。
観客は総立ちになった。
拍手。
歓声。
誰も知らない。
今の数十秒が、命懸けの救出だったことを。
舞台裏へ入ると、綾乃はようやく深く息を吐いた。
「……美雪はん」
「はい」
「いったい、どちらから現れはったんどす?」
美雪は艶やかに微笑む。
「企業秘密です」
「弟子にも教えていただけまへんの?」
「弟子にも秘密です」
「意地悪どす」
「イリュージョニストですから」
綾乃は小さく笑った。
だが、その笑みには疲労が混じっていた。
任務は半分成功だった。
文化財密売ルートの一部を押さえ、いくつかの取引は阻止できた。しかし、ジェネラス・リンクの中枢人物は逃走した。
完全勝利ではない。
だが敗北でもない。
その夜、サマルカンドの中庭で、美雪と綾乃は緑茶を飲んでいた。焼きたてのノン、ドライフルーツ、ナッツが並ぶ。
「怖かったですね」
美雪が静かに言う。
綾乃は素直に頷いた。
「はい」
「それでいいんです」
「怖いと思える人間だけが、生き残ります」
綾乃は夜空を見上げる。
「今まで、少し順調すぎました」
「そうですね」
「今日は、自分が見られる側でもあると分かりました」
美雪は穏やかに微笑んだ。
「今日から本当のスタートです」
綾乃は静かに一礼する。
「また、教えてください」
「もちろん」
「私はまだ引退しません」
「安心しました」
一方、新橋ヒロ室。
報告書を読んだ遥室長は胸を撫で下ろした。
「綾乃ちゃん、無事で本当に良かったのら」
「美雪さんも格好良すぎるのら」
だが、波田顧問だけは険しい表情だった。
「……似すぎてる」
「え?」
遥室長が聞き返す。
波田はすぐに笑って誤魔化す。
「いや、最近な、眉間のシワが親父に似てきたって話だよ」
「急に家族の話なのら?」
「歳取ると顔が家系図になるんだよ」
「意味が分からないのら」
部屋に笑いが起こる。
だが波田は笑っていなかった。
白石陽菜の実母。
かつて「東洋のマタハリ」と恐れられた女。
綾乃は、ますます彼女に似てきている。
ターゲットに近づき、疑われ、危険に踏み込む。
その先に何があるのか、波田だけは知っていた。
サマルカンドの青い夜に、京美人は一度消えた。
そして戻ってきた時、彼女はもう一段、本物のエージェントに近づいていた。




