古都プラハ、王家の微笑み裁判――綾乃、舞踏会で要人を静かに失脚させる
プラハの夜は、石畳まで歴史を語っていた。
赤い屋根が連なる旧市街。
尖塔が空を刺す教会群。
ヴルタヴァ川に架かる古い橋。
丘の上にそびえる城。
チェコの首都プラハは、「百塔の都」と呼ばれる中欧屈指の美しい古都である。中世から続く街並みが奇跡のように残り、ゴシック、バロック、ルネサンス、アール・ヌーヴォーが一つの都市の中で静かに調和している。街そのものが巨大な美術館であり、夜になれば城も橋も教会も淡い光に包まれ、まるで古い物語の中へ入り込んだような気分になる。
そしてプラハは、美しいだけの街ではない。
かつてこの街は、自由を求める人々の願いを背負った。
一九六八年、改革と自由化を目指した「プラハの春」。
しかしその希望は、外から押し寄せた軍事力によって踏みにじられた。
それでも、自由への記憶は消えなかった。
街の石畳には、圧力に屈せず、人間らしく生きようとした人々の声が今も残っている。
その歴史を知る者にとって、プラハはただの観光都市ではない。
美しさと痛みを両方抱えた、誇り高い都市だった。
そのプラハの古城ホテルで、世界的イリュージョンカンパニーファントム・オブ・ミラージュの特別公演が行われることになった。
演目は、「Castle of Illusions――幻影の王城」。
巨大な玉座が光に包まれて消え、王冠が白い鳩へ変わり、中世の騎士たちが鏡の迷宮へ吸い込まれる。そして最後には、高田美雪が古城のバルコニーへ現れるという、プラハの雰囲気を存分に生かした幻想的な舞台だった。
もちろん、美雪と西園寺綾乃にとって、本当の目的はショーだけではない。
古城ホテルで開かれる王侯貴族、政府高官、文化財団関係者、財界人が集うチャリティー舞踏会。その裏で、ジェネラス・リンクと東欧武器密売組織、さらに複数国の汚職政治家が極秘に接触するという情報が入っていた。
今回の任務は、盗聴器を仕掛けるだけでは足りない。
標的に直接近づき、相手の口から核心を引き出すこと。
つまり、綾乃にとって一段危険な任務だった。
控室で、美雪は綾乃のドレス姿を見た。
黒に深い青を差した控えめなイブニングドレス。派手ではないが、質が良い。立ち姿は凛としていて、古城の空気にも自然に馴染んでいる。
「綾乃さん。今日はあなた自身が鍵です」
綾乃は静かに一礼する。
「承知しました」
「織物の話から入ってください」
「得意分野どす」
「実家の西園寺商店でしたね。京都の老舗繊維商社」
「応仁の乱より前から続いております」
美雪は一瞬だけ黙った。
「毎回思いますけど、歴史が長すぎません?」
「京都では、まあまあ普通どす」
「普通の基準が怖い」
舞踏会が始まった。
古城の大広間には、シャンデリアの光が降り注ぎ、壁には古い肖像画、窓の外にはプラハの夜景。弦楽四重奏が流れ、招待客たちはワインを片手に談笑している。
綾乃はその中へ、ごく自然に溶け込んだ。
あまりにも自然だった。
背筋。
視線。
会釈の角度。
歩幅。
グラスを持つ指先。
どれを取っても上品で、しかも気取りがない。
王族関係者が見ても違和感がない。
外交官夫人が見ても失礼がない。
老舗商家の娘らしい落ち着きが、古城の格式とぴたりと合っていた。
誰も思わない。
このはんなりした女子大生が、政府のエージェントだとは。
標的は、東欧某国の政府高官だった。
文化保護を掲げる財団の後援者でありながら、裏ではジェネラス・リンクへ資金を流し、武器密売組織とも接点を持つと見られている人物。
綾乃は最初から彼へ向かわなかった。
まずは夫人へ近づいた。
夫人が身につけていたショールに目を留め、柔らかく声をかける。
「とても美しい織りでございますね」
夫人は嬉しそうに振り向く。
「分かりますか?」
「はい。ヨーロッパのタペストリーにも似た重厚さがありますけど、糸の艶が柔らこうございます」
「あなた、詳しいのね」
「実家が京都の繊維商でして」
そこから会話は自然に弾んだ。
西陣織。
友禅。
チェコのレース。
ボヘミアのガラス工芸。
ヨーロッパの宮廷装飾。
夫人は完全に綾乃を気に入った。
「主人にも紹介したいわ。彼も日本文化が好きなの」
綾乃は、はんなり微笑む。
「光栄どす」
美雪は少し離れた場所でそれを見ていた。
イヤホンには綾乃の穏やかな声が入る。
自然すぎる。
警戒されていない。
むしろ向こうから近づいている。
美雪は思わず小さく息を吐いた。
「……本当にセンスあるね」
やがて高官本人が現れた。
彼は綾乃をただの上品な学生だと思い込んだ。
京都の伝統織物に詳しい、礼儀正しい日本人女子大生。
それだけだった。
「京都へは一度行きましたよ。素晴らしい街でした」
「ありがとうございます」
「古いものを守る心は、ヨーロッパにも通じますね」
「はい。古いものを守るいうんは、未来を守ることでもありますさかい」
この一言が高官を気分よくさせた。
彼は文化保護を語り始める。
綾乃は聞き役に徹する。
決して先を急がない。
相手が自分から話したくなるように、半歩だけ引く。
やがて高官は、得意げに言った。
「実は来月、大きな文化支援基金が動きます」
「まあ、素晴らしいことどすね」
「複数国が関わる大きな事業でしてね」
「責任重大どすなぁ」
「もちろんです。資金管理も慎重に……」
そこから先は、綾乃が質問したわけではない。
高官が勝手に話した。
資金移動先。
担当銀行。
仲介財団。
秘密会談の日程。
港湾関連の企業名。
必要以上の情報だった。
綾乃はただ、静かに相槌を打っていただけだった。
控室で聞いていた美雪は、思わず上品に笑った。
「私も、もう潮時かな」
隣のスタッフが驚く。
「ミス・タカダ?」
美雪は微笑む。
「後継者が優秀すぎるの」
その夜のうちに、欧州各国の合同捜査が動いた。
文化支援基金を装った巨大資金ルートは摘発され、東欧某国の政府高官は辞任に追い込まれる。関連企業、財団、港湾事業者にも捜査が入り、ジェネラス・リンクの東欧ルートは大きく崩れた。
だが、誰も綾乃を疑わなかった。
高官の記憶に残ったのは、京都の織物に詳しい、礼儀正しい女子大生。
ただそれだけだった。
任務後。
プラハ城を望む丘の上で、美雪と綾乃は温かいハーブティーを飲んでいた。
美雪が言う。
「一時間話しただけで、政府高官が失脚しました」
綾乃は首をかしげる。
「うちは、織物のお話をしていただけどす」
「その織物の話で世界が動きました」
「糸というものは、どこかへ繋がっておりますさかい」
「おしゃれですね」
「今のは少し狙いました」
美雪は笑った。
「今日は本当に見事でした」
「ありがとうございます」
「でも、危険な距離でした」
綾乃はカップを見つめる。
「分かっております」
「本当に?」
「はい。近づきすぎると、相手の影もこちらへ移ります」
美雪は一瞬だけ黙った。
「……その感覚があるなら大丈夫」
綾乃は、はんなり笑う。
「まだまだ、美雪さんに教えていただかなあきまへん」
「私ももう潮時かなと言ったばかりなのに」
「撤回しておくれやす」
二人は静かに笑った。
一方、新橋ヒロ室。
報告書を読んだ遥室長は、まさに絶賛の嵐だった。
「綾乃ちゃん、すごいのら!」
「織物の話だけで資金ルートを引き出すなんて、すごすぎるのら!」
「これはもう海外任務の切り札なのら!」
「品があるのら!」
「頭がいいのら!」
「しかも相手に全然疑われてないのら!」
隣で波田顧問も頷く。
「確かに見事だ」
「百点だな」
「いや、百二十点だ」
遥室長は得意げに言う。
「波田顧問もそう思うのら?」
「ああ。ありゃ本物だ」
だが、波田の表情は次第に重くなった。
報告書の一文。
標的要人との接触距離、極めて自然。警戒反応なし。標的は自発的に重要情報を開示。
その文章が、波田の胸に刺さる。
――同じだ。
かつての白石陽菜の実母。
政府諜報部門の責任者だった頃、波田の直属にいた伝説の女。小柄で童顔、圧倒的な美貌と社交性で各国要人に近づき、闇社会で東洋のマタハリと恐れられた存在。
彼女もまた、こうだった。
相手が勝手に話す。
誰も疑わない。
そして、標的は後から失脚する。
綾乃は違う。
違うはずだ。
だが、近づき方があまりにも似ていた。
遥室長が顔をのぞき込む。
「波田顧問?」
「ん?」
「何か不安そうなのら」
波田は数秒固まった。
そして、いつものべらんめえ口調で笑った。
「いやぁ、プラハって聞いたらな、ビールがうまそうだなぁと思ってよ」
「またお酒の話なのら?」
「そうそう。昨日もちょっと飲みすぎてな。いや、プラハの報告書を読んでたら、胃袋まで中欧旅行しちまってよ!」
「胃袋は旅行しないのら」
「年取るとな、するんだよ。胃袋だけ先に空港行っちまうんだ」
「意味不明なのら」
「俺も分からねぇ。だから飲みすぎなんだよ」
遥室長は呆れつつも笑った。
「本当に気を付けてくださいなのら」
「おう、反省反省」
波田は笑って誤魔化した。
しかし、心の奥は笑っていなかった。
――綾乃。
――お前さんは優秀すぎる。
――その才能は、人を救う。
――だが同時に、世界の闇を引き寄せる。
波田は報告書をそっと閉じた。
プラハの夜、王家の舞踏会で下された判決。
それは銃声も怒号もない、世界一静かな失脚劇だった。
そしてその中心にいたのは、誰にも疑われなかった一人の京美人。
はんなりと微笑む西園寺綾乃は、また一歩、世界の裏側へ踏み込んでいた。




