ロンドン紅茶諜報戦――綾乃、スコーンの横で世界の闇をほどく
ロンドンの空は、いかにも秘密を抱えていそうな灰色だった。
石造りの街並み、歴史ある劇場、王宮文化、金融街の高層ビル、黒いタクシー、赤い二階建てバス。古いものと新しいものが、何事もなかったかのように並んでいる。
イギリス・ロンドン。
世界有数の金融都市であり、外交、文化、芸術、情報が交差する街。美術館も劇場も宮殿もある。表通りには紳士淑女が歩き、裏通りには何百年分の噂が積もっている。敏腕エージェント高田美雪にとっては、華やかな劇場であり、危険な盤面でもあった。
今回、世界最高峰のイリュージョンカンパニーファントム・オブ・ミラージュが招待されたのは、ロンドン中心部の超高級ホテル。
新作公演は、「Royal Illusion――王宮の幻影」。
近衛兵を思わせる赤い隊列が一瞬で白い鳩へ変わり、巨大な時計塔を模した舞台装置から美雪が現れる。フィナーレでは劇場全体が美しいティーガーデンへ変わる、英国趣味をこれでもかと詰め込んだ優雅なショーだった。
もちろん、目的はそれだけではない。
超高級ホテルで行われる慈善財団のアフタヌーンティー。そこに、慈善財団を隠れ蓑にしたテロ支援団体と、ジェネラス・リンクにつながる人物が接触するという情報が入っていた。
美雪は控室で資料を閉じる。
「綾乃さん。今回は紅茶です」
西園寺綾乃は、白い手袋を整えながら静かに頷いた。
「こぼさへんようにします」
「そこじゃありません」
「冗談どす」
「冗談の温度が低いですね」
「京都では常温どす」
美雪は少し笑った。
表向き、綾乃は美雪一座の大学生研修スタッフ。京都の名門国立大学に通う女子大生で、今日はホテルの給仕補助として潜入する。
だが、その実態は政府エージェント見習い。
しかも最近、見習いとは思えない速度で成果を上げている。
アフタヌーンティー会場は、まさに格式の塊だった。
白いクロス。銀食器。三段スタンドに並ぶサンドイッチ、スコーン、ケーキ。紅茶の香り。壁には古い肖像画。窓の外には雨に濡れたロンドンの街。
綾乃は黒を基調とした上品なスタッフドレスで、そこに自然に立っていた。
派手ではない。
だが、所作が美しい。
京都の老舗商家で身につけた立ち居振る舞いは、英国式の格式にも妙に馴染んだ。
ある英国紳士が声をかける。
「日本から来た学生さんですか?」
綾乃は柔らかく一礼する。
「はい。京都で学んでおります」
「学生には見えませんね」
「よう言われます」
「外交官のお嬢さんかと」
「単位に追われる普通の大学生どす」
紳士は笑った。
誰も疑わない。
この上品な女子大生が、今まさに会場全体の暗号を読み解いていることを。
綾乃は紅茶を注ぎながら見ていた。
誰が砂糖を入れたか。
誰が入れないか。
誰がスプーンを時計回りに置いたか。
誰がカップの取っ手をわざと左へ向けたか。
一見ただの作法。
しかし、裏社会では作法が合図になる。
イヤホンから美雪の声が入る。
「何か見えました?」
「奥の丸テーブルどす」
「根拠は?」
「全員、紅茶を飲んでへんのにカップの位置だけ変えてはります」
「……そこ?」
「あと、一人だけ砂糖二杯」
「甘党では?」
「いいえ。砂糖を入れる手が、緊張してへんのに少し遅い。合図どす」
美雪は舞台袖で苦笑する。
「紅茶でそこまで分かる?」
「お茶は嘘つきまへん」
「名言ですね」
「使ってよろしおす」
その頃、美雪のショーが始まった。
巨大な時計塔の針が逆回転し、赤い近衛兵の隊列が一瞬で消える。観客が息を呑んだ次の瞬間、白い鳩が客席上空へ舞い上がり、美雪が時計塔の上に現れた。
会場は拍手に包まれる。
その瞬間、美雪が短く言う。
「今」
綾乃はポットを持ち、問題の丸テーブルへ向かった。
「失礼いたします。紅茶のおかわりでございます」
誰も顔を上げない。
綾乃は自然にポットを置き、ナプキンを整えるふりをする。指先だけが動き、極小盗聴器がテーブル裏へ吸い付いた。
一秒半。
完璧。
だが、ここで小さな問題が起きる。
スタッフ用のトレーに乗っていたスコーンが一つ、ころりと転がった。
綾乃は一瞬だけ目で追った。
スコーンは絨毯の上で止まる。
綾乃は何事もなかったかのように拾い上げ、近くのスタッフへ渡した。
「こちら、任務から脱落しました」
スタッフが真顔で受け取る。
「了解しました」
美雪はイヤホン越しに吹き出しそうになった。
「スコーンに任務があるんですか?」
「今日は全員、静かに動いておりますさかい」
「スコーン以外はね」
盗聴器から会話が流れる。
「慈善基金は予定通り動く」
「北欧経由で洗う」
「ジェネラス・リンクへの送金は来月」
「中東側には別名義で流せ」
決定的だった。
英国当局、欧州情報機関、日本政府が同時に動く。
慈善財団を隠れ蓑にした資金供給ルートは、アフタヌーンティーの香りに紛れて静かに崩れていった。
任務終了後。
ロンドンの夜。
雨上がりの橋の上で、美雪と綾乃は紙コップの紅茶を片手に歩いていた。
美雪が言う。
「今日のタイトルは決まりましたね」
「何どす?」
「王宮の紅茶は嘘を映す」
綾乃は少し考えて、うなずいた。
「悪くありまへん」
「上からですね」
「京都の感想どす」
美雪は笑った。
「それにしても、紅茶と砂糖で暗号を読むとは」
「京都でも、お茶席は情報戦どす」
「怖いですね、京都」
「ロンドンも大概どす」
二人は街灯の下で立ち止まる。
美雪が少し真面目な声になる。
「綾乃さん。最近、成果が大きすぎます」
「叱られております?」
「褒めています。でも、気をつけて」
「はい」
「要人に近づきすぎる人間は、こちらが見るだけでなく、相手からも見られます」
綾乃は紅茶を見つめ、静かに頷いた。
「承知しております」
「本当に?」
「はい」
そして、はんなり笑う。
「せやけど、今日はスコーンに見られてました」
美雪は吹き出した。
「それは警戒対象外です」
一方、日本・新橋ヒロ室。
波田顧問と遥室長は、ロンドン任務の報告書を読んでいた。
遥室長は感心しきりだった。
「綾乃ちゃん、また大手柄なのら。紅茶の作法で暗号を見抜くなんて、普通できないのら」
波田も深く頷く。
「見事だ。想定以上だな」
「美雪さんの指導もいいのら」
「ああ。美雪もよく見ている」
波田は報告書の一文に目を止めた。
各国要人との接触距離、極めて自然。警戒反応なし。
その瞬間、波田の表情が少しだけ変わった。
白石陽菜の実母。
その存在はトップシークレットであり、遥室長さえ知らない。かつて波田が政府諜報部門の責任者だった頃の直属の部下。小柄で童顔、圧倒的な美貌と社交性で要人に近づき、闇社会で東洋のマタハリと恐れられた女。
綾乃は似ている。
美貌ではなく、間合いが。
誰にも警戒されず、要人の懐へ自然に入るあの危うさが。
遥室長が首を傾げる。
「波田顧問。何かありました?」
波田は一瞬、完全に固まった。
「え?」
「今、すごく神妙な顔してたのら」
「いや、あれだ」
「どれなのら?」
波田は慌てて腹を押さえた。
「昨日、ちょっと飲み過ぎちゃったかなぁ~。いやぁ、英国の報告書読んでたら胃が紅茶になっちまったよ。歳考えねぇとなぁ、ハハハ!」
遥室長は半目になる。
「胃が紅茶になるわけないのら」
「なるんだよ、年寄りは。紅茶と焼酎が混ざるとな、こう、伯爵みてぇな胃もたれが来るんだ」
「意味が分からないのら」
「俺も分かんねぇ。だから飲み過ぎなんだよ」
遥室長は呆れた顔でため息をついた。
「本当に気を付けてくださいなのら」
「おう、反省反省」
波田は笑って誤魔化した。
だが、胸の奥では笑っていなかった。
――綾乃は優秀すぎる。
要人に近づきすぎる。
あの子を、闇の側に引きずり込ませてはならない。
波田は報告書をそっと閉じた。
ロンドンの紅茶は嘘を映した。
そして新橋の報告書は、波田だけが知る過去の亡霊を映していた。
世界最高の奇術師と、はんなり京美人のエージェント。
その任務はまた成功した。
だが、成功が重なれば重なるほど、世界の闇もまた、彼女たちを見始める。
そのことを、波田巌蔵だけは知っていた。




