仮面の水都に青い鍵は沈む――綾乃、ヴェネツィアで静かに闇をほどく
ヴェネツィアの夜は、水面まで仮面をつけているようだった。
運河に揺れる灯り、石造りの宮殿、狭い路地を抜ける潮の匂い。ゴンドラが静かに進み、橋の上では仮面をつけた紳士淑女が笑い合っている。
イタリア・ヴェネツィア。
「アドリア海の女王」と呼ばれる水の都であり、街全体が美術館のような奇跡の都市。大小の運河が迷路のように巡り、古い宮殿と教会が水辺に立ち並ぶ。仮面祭の華やかさ、ゴンドラの優雅さ、そして海洋国家として栄えた歴史。どこを歩いても、過去と現在が水面に映っていた。
その街へ、世界最高峰のイリュージョンカンパニー、ファントム・オブ・ミラージュがやって来た。
今回の新作は、「The Blue Mask――蒼き仮面」。
巨大な青い仮面が舞台中央で割れ、中から高田美雪が現れる。劇場内に再現された運河をゴンドラが進み、美雪が水面へ消えたかと思えば、次の瞬間には最上階のバルコニーに立っている。ヴェネツィアでしかできない、幻想的で贅沢な演目だった。
だが、美雪と西園寺綾乃の本当の任務は、ショーではない。
ジェネラス・リンクと欧州武器密売組織が、文化財保護チャリティーの名を借りて接触するという情報が入っていた。舞台は、運河沿いの由緒ある宮殿ホテル。表向きは歴史的建造物の修復基金を募る優雅な夜会。裏では、文化財輸送船を使った資金洗浄と武器密輸の打ち合わせが行われる可能性が高い。
ホテルの控室で、美雪は小型端末を閉じた。
「綾乃さん。今回は盗聴器は一つだけです」
綾乃は黒のスタッフドレスの袖を整えながら、静かに頷いた。
「置き場所を間違えたら終わり、いうことどすな」
「そうです」
「ほな、間違えへんようにします」
美雪は微笑んだ。
「頼もしいね」
「まだまだどす」
「その“まだまだ”で何カ国救うつもりですか」
綾乃は、はんなり笑った。
「単位取るついでに、できる範囲で」
「大学生の副業にしては重すぎます」
宮殿ホテルでのレセプションが始まった。
会場には、文化財団代表、外交官、美術商、海運会社幹部、財界人が集まっている。仮面祭に合わせて、参加者の多くは仮面をつけていた。顔を隠した社交場。エージェントにとっては厄介だが、綾乃にとっては少し違った。
彼女は顔ではなく、所作を見る。
グラスの持ち方。
椅子を引く角度。
相手を見るタイミング。
紹介されていないのに目だけで挨拶する距離感。
京都の老舗繊維問屋で育った綾乃は、人の間合いを読むことに長けていた。
あるイタリア人の財団代表が声をかける。
「あなたは日本から?」
綾乃は柔らかく一礼する。
「はい。京都から参りました」
「学生だと聞いたが、本当に?」
「はい。まだ単位取得中どす」
「信じられない。外交官の秘書のようだ」
「おおきに。けど、秘書さんほど仕事は速うありまへん」
その上品な冗談に周囲が笑う。誰も疑わない。目の前の京美人が、会場内の不審な人間関係をすべて頭に入れていることを。
イヤホンに美雪の声が入る。
「どう?」
綾乃はグラスを並べながら小声で返す。
「右奥の円卓どす」
「理由は?」
「三人とも違う国の方のはずなのに、同じ香水どす」
美雪が一瞬黙る。
「……香水?」
「はい。しかも全員、仮面の縁に同じ青い飾り紐。偶然にしては揃いすぎております」
「なるほど」
「あと、一人だけ笑うタイミングが半拍遅いです」
「そこまで見たの?」
「京都の商売では、愛想笑いの遅れは大事どす」
美雪は舞台袖で苦笑した。
「京都、怖いですね」
「褒め言葉として受け取ります」
その時、会場中央で美雪のショーが始まった。
巨大な青い仮面が照明を浴びる。オーケストラが低く鳴り、仮面がゆっくり割れる。中から美雪が現れ、会場中が拍手に包まれた。
続いて、劇場内の水路にゴンドラが滑り込む。
観客の視線が完全に美雪へ向く。
美雪が囁く。
「今」
綾乃は動いた。
テーブルクロスの乱れを直すふりをして、右奥の円卓へ近づく。銀盆を置き、仮面の紳士に軽く会釈する。
「失礼いたします。お水をお替えいたします」
「頼む」
その一瞬、綾乃の指先がテーブル裏へ触れた。
極小盗聴器が吸い付く。
二秒。
終わり。
だが、立ち去ろうとした瞬間、足元がふわりと揺れた。
会場脇の小さな船着き場から来た水上タクシーの波が、床下へ響いたのだ。
綾乃は一瞬だけ眉を寄せた。
「……水の都、足元まで油断なりまへんな」
近くの老紳士が笑う。
「船は苦手かね?」
綾乃は涼しい顔で答えた。
「泳ぐ予定はございませんので、大丈夫どす」
周囲が笑った。
美雪はイヤホン越しに吹き出しそうになる。
「綾乃さん、今の返しは百点」
「任務中どす」
「分かっています」
「笑うたらあきまへん」
「無理です」
盗聴器はすぐに会話を拾った。
「港は予定通り」
「文化財輸送船に紛れ込ませる」
「資金は保護基金を通す」
「武器は黒海ルートへ」
「ジェネラス・リンクが受け持つ」
決定的だった。
美雪は即座に各国情報機関へ暗号通信を送る。ヴェネツィア港、倉庫、ダミー財団事務所、海運会社の支社へ一斉に捜査網が広がる。
会場では拍手が鳴り止まない。
美雪がゴンドラから水面へ消え、次の瞬間、バルコニーに現れたからだ。
観客は総立ち。
その裏で、欧州武器密売組織とジェネラス・リンクの資金ルートは、静かに崩れ始めていた。
任務後。
夜の運河をゴンドラが進む。
綾乃は手すりを少し強めに握っていた。
美雪が横目で見る。
「怖い?」
「少しだけどす」
「さっきまで国際武器密売組織の円卓に近づいていた人が?」
「船は別どす」
「弱点発見ですね」
「報告書には書かんといておくれやす」
美雪は笑った。
「それにしても、今日の仕事は見事でした」
「香水と飾り紐と愛想笑いだけで、核心に行くとは」
綾乃は運河の灯りを見つめる。
「京都では、言葉より沈黙の方がよう喋ることがあります」
「水の都で沈黙を聞いたわけですね」
「おしゃれに言えば、そうどすな」
ゴンドラの漕ぎ手が何か陽気に歌い出し、綾乃は少しだけ顔を緩めた。
「美雪さん」
「はい」
「この街、危ないけど綺麗どすな」
「だから闇も隠れやすい」
「ほな、また来なあきまへんな」
「観光で?」
「できれば」
二人は静かに笑った。
一方、日本・新橋ヒロ室。
波田顧問と遥室長は、海外任務の報告書を読んでいた。
遥室長は目を輝かせる。
「綾乃ちゃん、また大手柄なのら。香水と仮面の紐で見抜くなんて、すごいのら」
波田も頷く。
「百点だ。いや、百二十点だな」
「美雪の目に狂いはなかったのら」
「ああ。あの子は本物だ」
波田はそう言いながら、報告書の一文を見つめた。
要人との接触距離、極めて自然。警戒反応なし。
その言葉に、胸の奥がわずかに冷える。
白石陽菜の実母。
その存在は、戦隊ヒロインプロジェクトでもトップシークレットだった。知っているのは波田厳蔵だけである。かつて闇社会で**「東洋のマタハリ」**と呼ばれ、多くの要人に近づき、誰にも疑われず、国内外の暗部を動かした女。
綾乃の鮮やかすぎる成功は、その影を思い出させた。
才能がある。
ありすぎる。
波田は報告書を閉じた。
遥室長が鋭く見る。
「波田顧問。何か不安でもありますか?」
波田は一瞬だけ黙る。
そして、いつものべらんめえ口調で笑った。
「いやぁ、昨日ちょっと飲み過ぎちゃったかなぁ。歳考えねぇとなぁ、ハハハ」
遥室長は首をかしげる。
「本当ですか?」
「本当だって。年寄りの胃袋は正直なんだよ」
そう言って誤魔化したが、波田の目は笑っていなかった。
綾乃は優秀だ。
上品で、冷静で、誰にも怪しまれない。
だからこそ危うい。
世界の闇は、そういう者を放っておかない。
波田は心の中で呟いた。
――美雪、頼むぞ。あの子を、光の側に置いてやってくれ。
ヴェネツィアの水面には、青い仮面の幻影が揺れていた。
世界最高の奇術師と、はんなり京美人の新米エージェント。
二人の任務は成功した。
だが、その成功が大きくなるほど、世界の闇もまた、静かに彼女たちの存在へ目を向け始めていた。




