タンゴは秘密を知っている――綾乃、ブエノスアイレスで一輪の薔薇になる
ブエノスアイレスの夜は、赤い。
街灯に照らされた石畳。
重厚なヨーロッパ風建築。
カフェから漏れる笑い声。
そして、路地裏から響くバンドネオンの音色。
アルゼンチンの首都ブエノスアイレスは、南米のパリと称される美しい街である。優雅な街並みと芸術の香り、そして情熱的なタンゴが、夜の空気にまで染み込んでいる。
その街に、世界最高峰のイリュージョンカンパニー**「ファントム・オブ・ミラージュ」**がやって来た。
今回の新作公演は、「Rose of Mirage」。
巨大な赤い薔薇が舞台中央で開き、その花弁の奥から高田美雪が姿を現す。フィナーレでは劇場全体に真紅の花びらが舞い、美雪自身が一輪の薔薇となって消えるという幻想的な演目だった。
観客はショーを見に来ている。
だが、美雪と西園寺綾乃にとって、この街での本当の舞台は別にあった。
南米を拠点とするテロ組織とジェネラス・リンクが、美術品オークションを利用して巨額のマネーロンダリングを行っている。さらに、南米政府要人とつながりを持つテロリストが、晩餐会でジェネラス・リンクの関係者と接触する可能性が高い。
政府からの極秘任務は明確だった。
接触の証拠を押さえ、資金洗浄ルートを潰すこと。
美雪はホテルのスイートで資料を閉じた。
「綾乃さん。今回は派手に動きません」
「はい」
「聞く。見る。記録する。それだけです」
綾乃は静かに頷いた。
「つまり、一番難しいやつどすな」
美雪は微笑む。
「分かってきましたね」
「まだまだどす」
その返事の落ち着き方が、すでに大学生のものではなかった。
綾乃の表向きの身分は、京都の名門国立大学に通う女子大生。美雪一座の研修アシスタントスタッフ。
だが、会議資料を読む目つき、会場図を頭に入れる速度、VIPの動線を確認する冷静さは、新人エージェントとは思えなかった。
美雪は内心で思う。
――この子は、慌てない。
それは才能だった。
公演当日。
ブエノスアイレス屈指のオペラ劇場は、世界中から集まった観客とVIPで埋め尽くされた。赤い絨毯。真鍮の手すり。金色の装飾。天井画。劇場そのものが宝石箱のようだった。
舞台に、巨大な薔薇が現れる。
タンゴの旋律が流れ、花弁が一枚ずつ開く。白いドレスの美雪がその中心に立ち、観客へ優雅に一礼した。
次の瞬間、照明が落ちる。
赤い花びらが舞う。
美雪は消えた。
観客が息をのむ。
そして二階席中央に、彼女は現れる。
劇場は総立ちになった。
喝采が響く。
その華やかな拍手の中で、綾乃は舞台袖に立ち、イヤホンを整えていた。目立たない黒のスタッフドレス。髪はきっちりまとめ、表情は柔らかい。
だが視線は鋭い。
翌日の晩餐会。
本当の任務はここからだった。
会場は超高級ホテルの大広間。
美術品オークションの前夜祭を兼ねた晩餐会で、世界中のコレクター、政府関係者、美術商、財界人が集まっている。
綾乃は受付スタッフとして配置された。
招待客リストを確認し、席順を案内し、カタログを配る。
一見、普通の学生スタッフ。
だが彼女は、数分で会場の全体像を把握していた。
誰が誰を避けているか。
誰が目だけで挨拶したか。
どの席が不自然に空けられているか。
どの警備員が本来の配置と違う場所にいるか。
すべて頭に入っている。
ある政府高官が綾乃に声をかけた。
「君は日本から?」
「はい。京都から参りました」
「学生?」
「はい。大学で学びながら、美雪さんの一座で研修をしております」
高官は驚いたように笑う。
「とても学生には見えないな。外交官かと思った」
綾乃は、はんなり微笑む。
「まだ単位も取りきれておりませんので」
その返しに周囲が笑った。
しかし、綾乃の目は一瞬も緩まない。
その高官の左手。
指輪の紋章。
視線の先。
背後に立つ護衛の立ち位置。
すべて確認していた。
イヤホンから美雪の声が入る。
「右奥の丸テーブル」
「確認しております」
「政府要人の隣」
「はい」
「そこへ近づけますか?」
「自然に、どすな」
綾乃はカタログを手に、ゆっくりと歩いた。
焦らない。
早足にならない。
目線を泳がせない。
まるで最初からそこへ行く予定だったように、彼女は政府要人の背後へ回る。
「失礼いたします。明日のオークションカタログ、差し替え版でございます」
テーブルの上にカタログを置く。
同時に、ナプキンの乱れを直すふりをして、テーブル裏へ極小盗聴器を貼り付けた。
二秒。
完璧だった。
その瞬間、テロ組織の関係者とジェネラス・リンクの男が会場に入ってくる。
綾乃は一歩下がり、自然に道を譲った。
男たちは彼女を一瞥もしない。
ただの日本人学生スタッフ。
そう判断したのだ。
綾乃はその場を離れる。
背筋は伸びたまま。
表情は穏やかなまま。
心拍だけが少し速い。
だが外には出さない。
美雪の声が入る。
「綾乃さん」
「はい」
「完璧」
「まだ音声が取れておりません」
「その冷静さも含めて、完璧」
数分後、音声が入った。
「オークションは予定通り」
「絵画は三重名義で落札させる」
「資金は慈善団体を経由」
「港の搬出は変更する」
「ジェネラス・リンクへの送金は来週だ」
決定的だった。
美雪は舞台裏の控室で、静かに目を細めた。
「取れました」
政府側へ即時送信。
現地情報機関、警察、国際捜査チームが一斉に動き出す。
晩餐会の客たちは、何も知らずにワインを飲み、タンゴを聴いていた。
その裏で、美術品保管庫、港湾倉庫、金融ブローカーの事務所へ捜査の手が伸びる。
資金洗浄ルートは、静かに崩壊していった。
任務終了後。
現地警察本部で、警察幹部が綾乃に握手を求めた。
「君が、あの盗聴器を仕掛けたのか?」
「はい」
「本当に大学生か?」
綾乃はいつもの穏やかな笑顔で答えた。
「はい。単位取得中どす」
幹部は一瞬固まり、すぐに笑った。
「信じられない。君は我々のベテラン捜査官より落ち着いている」
綾乃は軽く会釈する。
「まだまだ勉強中どす」
その姿に、美雪は少しだけ満足そうに笑った。
ホテルへ戻る車の中、ブエノスアイレスの夜景が流れていく。
街角ではタンゴが踊られていた。男女が一歩ずつ距離を詰め、離れ、また近づく。その動きは、まるで諜報戦のようだった。
綾乃が窓の外を見ながら言う。
「タンゴいうんは、駆け引きの踊りどすな」
「よく分かりましたね」
「近づきすぎてもあかん。離れすぎてもあかん。今日の任務と似ておりました」
美雪は頷く。
「だから、あなたに向いていました」
綾乃は少しだけ笑う。
「踊りは無理どすえ」
「日本舞踊ならできるでしょう」
「それとこれは別どす」
「でも見てみたい」
「任務外どす」
美雪は笑った。
やがて、二人はホテルのラウンジへ入る。
美雪は静かに言った。
「綾乃さん」
「はい」
「あなたはもう、新米じゃない」
綾乃は一瞬だけ目を伏せた。
そして、すました顔で返す。
「その評価は、卒業してからいただきます」
「大学を?」
「大学も、エージェントもどす」
美雪は声を出して笑った。
ブエノスアイレスの夜は、まだ熱を帯びている。
タンゴの旋律は、街の奥から途切れることなく流れていた。
その街で、美雪は幻影を演じた。
綾乃は薔薇のように静かに立ち、誰にも気づかれず秘密を盗んだ。
派手な戦闘はない。
銃声もない。
だが、一つの国際資金洗浄ルートが、この夜、確かに断たれた。
上品な京美人の女子大生。
誰も彼女がエージェントだとは思わない。
だからこそ、彼女は世界の最も深い場所へ入っていける。
タンゴは秘密を知っている。
そしてその秘密を、綾乃は静かに持ち帰った。




