仮面の古城に幻影は微笑む――綾乃、東欧ガラディナーで静かに初陣を飾る
東欧の夜は、思っていたより静かだった。
石畳の道を黒塗りの車が滑るように進む。窓の外には、尖塔を持つ古城がゆっくりと近づいてきた。赤い屋根、重厚な城壁、雪を残した庭園、そして窓から漏れる黄金色の灯り。
西園寺綾乃は、膝の上で白い手袋をそっと整えた。
「……ほんまに、おとぎ話みたいなお城どすなぁ」
隣に座る高田美雪は、ラスベガスの劇場衣装ほどではないが、それでも十分に目立つ黒いドレス姿で微笑んだ。
「今日はここが舞台です。表も、裏も」
美雪が率いる世界的イリュージョンカンパニー、ファントム・オブ・ミラージュ。ラスベガスを本拠地に、世界各国の劇場、王宮、豪華客船、巨大アリーナを巡る幻影の一座である。
総座長は、高田美雪。
巨大消失、水中脱出、空中浮遊、瞬間移動。命懸けの大仕掛けを涼しい顔で成功させ、ワンステージで数億円を動かす世界のショー・ビジネス界の女王。
だが、その一座にはもう一つの顔があった。
各国要人が集まる場へ自然に入り込み、誰にも怪しまれず情報を持ち帰る、政府の極秘情報網。
今回、綾乃はその一座に「日本から研修に来た大学生アシスタントスタッフ」として同行していた。京都の名門国立大学に籍を置く現役学生。表向きは衣装管理、通訳、VIP応対の補助。
裏向きは、美雪の諜報任務の補佐。
つまり、今日がエージェントとしての初陣だった。
会場は、東欧の古城ホテルで開かれる慈善ガラディナー。
王族、大使、軍需企業幹部、資産家、文化人。さらに、表の名刺では決して分からない影の実力者たちが集まる超VIPイベントである。
綾乃は城内へ入った瞬間、空気を読んだ。
シャンデリアの光。磨かれた大理石。壁に掛けられた古い肖像画。弦楽四重奏の音色。控えめな香水とワインの香り。
派手に振る舞う場所ではない。
静かに、品よく、相手より半歩引く。
京都の老舗繊維問屋で育った綾乃には、その感覚が自然に身についていた。
彼女は黒のスタッフドレスに身を包み、英語で要人を席へ案内する。
「こちらでございます。どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
はんなりとした柔らかな笑み。流れるような所作。外国の大使夫人が小声で言った。
「あの日本人の若いスタッフ、とても上品ね」
別の要人が頷く。
「学生には見えない。外交官の家の娘かと思った」
誰も思わない。
この女子大生が、政府の新米エージェントだとは。
美雪のショーが始まる。
古城の大広間が、一瞬にして劇場へ変わった。
巨大な鏡が割れ、炎が弧を描き、黒いマントを翻した美雪が箱の中へ消える。次の瞬間、彼女は二階バルコニーに現れ、仮面の紳士たちへ優雅に一礼した。
会場は総立ち。
拍手、歓声、ため息。
その瞬間、全員の視線が美雪へ吸い寄せられた。
綾乃は動いた。
銀盆を持ったまま、VIPラウンジへ入る。足音は絨毯に吸われる。笑顔は崩さない。花瓶の横へグラスを置くふりをして、飾り布の内側に小型盗聴器を滑り込ませる。
指先は震えなかった。
茶室で茶器を扱うように、静かに、正確に。
ただ一つ誤算があった。
戻る途中、巨大な鎧飾りに軽く袖が引っかかった。
「……失礼しました」
綾乃は鎧に向かって小さく会釈した。
近くにいた老紳士が吹き出す。
「鎧にまで礼をするとは、実に日本的だ」
綾乃は涼しい顔で返した。
「古いものには、敬意を払うものどす」
結果的に、その一言で彼女はさらに好印象を得た。
任務中の小さな事故まで、はんなり処理する。美雪は舞台袖からそれを見て、思わず笑いそうになった。
夜更け。
控室で盗聴データが再生される。
男たちの低い声。
ジェネラス・リンク。
東欧経由の資金ルート。
北方地域への物資移送。
そして「次の接触は北の島」という言葉。
美雪の表情が変わった。
「取れましたね」
綾乃は静かに息を吐く。
「運がようございました」
美雪は首を振る。
「違います。あれは運じゃない」
綾乃が顔を上げる。
美雪ははっきり言った。
「センスあるね」
その一言に、綾乃は少しだけ頬を緩めた。
「おおきに。初陣で褒めていただけるとは、光栄どす」
「鎧にお辞儀したところも含めて?」
「そこは忘れていただけますやろか」
「無理です。報告書に書きたいくらいです」
「それだけは堪忍しておくれやす」
二人は小さく笑った。
古城の外では、東欧の冷たい夜風が石壁を撫でている。
華やかな仮面舞踏会の裏で、綾乃は初めて世界の暗部に触れた。
派手な戦闘はない。
銃声もない。
ただ、言葉を拾い、視線を読み、誰にも気づかれず真実を持ち帰る。
それが、美雪の言う「もう一つの舞台」だった。
綾乃は窓の外の闇を見つめ、静かに呟いた。
「世界を守るいうんは、案外、静かな仕事なんどすな」
美雪は隣に立ち、微笑んだ。
「だから、続けられる人は少ない」
「けど、あなたなら続けられるかもしれない」
古城の灯りが、二人の横顔を照らす。
世界的イリュージョニストと、はんなり京美人の新米エージェント。
その初陣は、静かに、しかし確かに成功した。
幻影の幕は、まだ上がったばかりだった。




