オペラ座の幻影会談――はんなり京美人、ワルツの都で世界を守る
ウィーンの夜は、音まで上品だった。
石畳を走る馬車の音。
遠くから聞こえる弦楽四重奏。
カフェから漏れる人々の笑い声。
そして、歴史ある宮殿の窓からこぼれる黄金色の灯り。
音楽の都ウィーン。
王宮文化と芸術が息づき、街そのものが巨大な美術館のような都市である。壮麗な歌劇場、重厚な宮殿、石畳の旧市街、甘い菓子の香りが漂うカフェ。どこを切り取っても絵になる。
その街で、世界的チャリティーコンサートが開催されることになった。
会場は、かつて貴族たちが舞踏会を開いたという音楽宮殿。
王族関係者、各国外交官、政府高官、大企業の経営者、世界的音楽家、文化人。
そこに特別出演するのが、高田美雪率いる世界最高峰のイリュージョンカンパニー、ファントム・オブ・ミラージュだった。
ラスベガスを本拠地に、巨大消失、水中脱出、空中浮遊、瞬間移動までこなす伝説的な一座。
その総座長・高田美雪は、ショー・ビジネス界の女王であると同時に、政府の敏腕エージェントでもあった。
そして今回、その隣に立つのは――新米エージェント、西園寺綾乃。
表向きは、京都の名門国立大学に通う女子大生で、美雪一座の研修アシスタントスタッフ。
裏の顔は、美雪から直接指導を受ける政府エージェント候補である。
ホテルのラウンジで、美雪は綾乃へ最後の講義をしていた。
「外交官を見分ける方法、分かりますか?」
綾乃は紅茶を置く。
「名刺どすか?」
「違います。靴です」
「靴?」
「本当に場慣れしている人ほど、高価な靴を自然に履きこなします。逆に偽物ほど新品で固い」
綾乃は真剣に頷いた。
「なるほど。京都でいうたら、急に高い着物を着て歩き方が追いついてへん人みたいなもんどすな」
美雪は少し笑う。
「例えが京都ですね」
「育ちが京都どすさかい」
さらに美雪は続ける。
「笑顔も大事です。笑いすぎない。無表情でもない。相手が安心する程度に」
「難しおすなぁ」
「だからエージェントは面白い」
その会話を近くで聞いていた一座の外国人スタッフが首を傾げた。
「日本の大学生研修って、そんなに高度なの?」
綾乃は涼しい顔で答えた。
「うち、単位が厳しおすので」
スタッフは納得した。
「日本の大学、すごいな」
美雪は笑いをこらえた。
当日。
音楽宮殿は、まさに別世界だった。
赤い絨毯。
金箔の装飾。
大理石の階段。
シャンデリア。
壁に描かれた天井画。
弦楽器の調べ。
綾乃は黒を基調にした上品なスタッフドレスで立っていた。
派手ではない。
だが、地味でもない。
宮殿の空気にすっと溶け込む。
京都の老舗繊維問屋で身につけた所作は、ウィーンの宮殿にも負けていなかった。
ある大使夫人が小声で言う。
「あの日本人のお嬢さん、とても優雅ね」
別の王族関係者も頷く。
「どちらの外交官のご令嬢だろう」
実際は、大学生アシスタントスタッフである。
しかも新米エージェントである。
綾乃は流れるような英語で要人を席へ案内する。
「こちらへどうぞ。今夜の公演をお楽しみくださいませ」
相手が王族でも、財界人でも、軍関係者でも、綾乃は怯まない。
美雪は舞台袖からその様子を見て、イヤホン越しに言った。
「いいですね。その調子」
綾乃は小声で返す。
「褒められると、少し緊張しますなぁ」
「緊張しているようには見えません」
「そこは京都人どす」
やがて、美雪のショーが始まった。
宮殿の大広間が、一瞬で幻想の劇場へ変わる。
巨大な鏡が舞台中央に現れる。
照明が落ちる。
青白い光が走る。
美雪が鏡の前に立つ。
次の瞬間、鏡が砕け、彼女の姿が消えた。
会場が息をのむ。
そして数秒後、二階バルコニーに美雪が現れる。
拍手が爆発した。
その瞬間、美雪の声が綾乃のイヤホンに入る。
「今です」
綾乃は給仕スタッフに自然に道を譲るふりをして、会談室前へ向かった。
目的は、ジェネラス・リンク幹部と協力者が密談する可能性のある小部屋。
そこに超小型盗聴器を仕掛ける。
だが扉の前には、警備員が二人。
綾乃は立ち止まらない。
持っていた銀盆のグラスを見て、少し困ったように微笑む。
「すみません。こちら、先ほどのワインの差し替えでございます」
警備員が一瞬戸惑う。
綾乃はさらに、はんなり微笑む。
「大切なお客様のお席に、違う銘柄をお出しするわけにはまいりませんので」
その上品な圧に、警備員は道を開けた。
綾乃は内心で思う。
――京都の商家では、笑顔で押し切ることも作法どす。
部屋に入る。
花瓶の位置を整えるふりをする。
指先だけで盗聴器を滑り込ませる。
まるで花の向きを直しただけ。
完了。
戻ろうとした瞬間、綾乃の袖が重厚な椅子の飾りに引っかかった。
「……」
一瞬、固まる。
イヤホンの向こうで美雪が小声で言う。
「落ち着いて」
綾乃は椅子へ小さく会釈した。
「失礼しました」
近くにいた老紳士がそれを見て吹き出す。
「椅子にも礼をするのですか?」
綾乃は涼しい顔で返す。
「古いものには敬意を払いますので」
老紳士は大笑いした。
「実に素晴らしい。日本人らしい」
美雪は舞台上で空中浮遊しながら、笑いをこらえるのに苦労していた。
ショーは大成功。
観客は総立ち。
だが本当の成果は、控室で明らかになる。
盗聴器が拾った音声。
ジェネラス・リンクの幹部。
東欧経由の資金移動。
北欧方面への物流拠点。
さらに、次の作戦名らしき暗号。
政府担当官は通信越しに言った。
「十分すぎる成果です」
綾乃は静かに息を吐く。
「初めてにしては、上出来やったんでしょうか」
美雪は即答した。
「百点です」
「それは褒めすぎどす」
「いいえ。あの警備員の抜け方、花瓶への設置、椅子へのお辞儀」
「最後は忘れておくれやす」
「無理です」
美雪は笑った。
「でも本当に、センスあるね」
綾乃は少しだけ頬を緩める。
「おおきに。美雪さんにそう言うてもらえるなら、励みになります」
しかしすぐ、すました顔に戻る。
「ただ、盗聴器を置く時、一瞬だけ呼吸が止まりました。まだまだ修業が足りまへん」
美雪は満足そうに頷いた。
「それを自覚できるなら、大丈夫です」
帰り道。
ウィーンの石畳に、二人の靴音が響く。
宮殿の外では、遠くからワルツの旋律が聞こえていた。
綾乃がぽつりと言う。
「美雪さん」
「はい」
「この仕事、舞台より静かどすな」
「ええ」
「けど、静かな方が怖いこともありますなぁ」
美雪は夜空を見上げた。
「だから、静かに笑える人が必要なんです」
綾乃ははんなり微笑む。
「それなら、うち向きかもしれまへんな」
美雪は笑う。
「本当にそう思います」
ウィーンの夜に、鐘の音が響く。
その街で披露されたのは、世界最高峰のイリュージョンだけではなかった。
京都育ちの新米エージェントが、誰にも知られず、世界の裏側へ一歩踏み出した。
そして美雪は確信する。
この子は、ただの助手では終わらない。
いつか、自分の隣ではなく、自分の後を継ぐ存在になるかもしれない。
ワルツの都で、幻影の会談は静かに幕を閉じた。




