湯けむりは沈黙を溶かせるか――下風呂温泉、彩芽と一杯の笑顔がノースフロントを救う
津軽海峡での任務は、勝利と言えば勝利だった。
ジェネラス・リンクによる密漁は防いだ。
積み荷の一部も押さえた。
敵が北海道方面へ逃走するルートを持っていることも分かった。
だが、密輸船そのものは取り逃がした。
あと少しだった。
遠州の勇者・河合美音の神がかった操船で、濃霧の津軽海峡をぎりぎりまで追い詰めた。漁協関係者も地元漁師も、あの操舵は見事だったと舌を巻いた。
それでも、最後の最後で逃げられた。
ノースフロント北方管区のメンバーは、誰も勝った顔をしていなかった。
ただ一人、高城彩芽だけを除いて。
「いやぁ……海戦、すごかったべさ……!」
彩芽は、まだ目をきらきらさせていた。
るみねぇが疲れた顔で言う。
「彩芽、そのテンション出せるの、逆に才能だべ」
その夜、一行は下北半島の北にある下風呂温泉郷に宿を取った。
津軽海峡を望む、ひなびた温泉地である。古くから漁師や旅人の疲れを癒してきた湯治場で、硫黄の香りが漂い、湯けむりの向こうには黒々とした海が広がる。派手な大型温泉街ではないが、湯の良さ、人の温かさ、海の幸の豊かさで静かに勝負する、北国らしい名湯だった。
宿は古い旅館だった。
畳の匂い。
少しきしむ廊下。
窓の外に見える津軽海峡。
任務の疲れを癒やすには、これ以上ない場所だった。
温泉も良かった。
硫黄の香りがする湯は、体の芯までじんわり温めてくれる。
玲香でさえ、湯に浸かると小さく息を吐いた。
「……悪くないわね」
柚希も湯をすくって頷く。
「よく温まります。雪国の温泉らしいですね」
紗耶は海の方を見ていた。
「……逃がしました」
その一言で、また空気が沈む。
温泉で体は温まっても、心はまだ津軽海峡の霧の中にあった。
夕食会場には、豪華な料理が並んでいた。
大間マグロの刺身を中心にした舟盛り。
ホタテ。
イカ。
ウニ。
アワビ。
津軽海峡の幸が、これでもかと並んでいる。
女将は誇らしげに言った。
「今日はいいマグロが入りましたよ。皆さん、たくさん召し上がってください」
普通なら歓声が上がる場面だった。
しかし、広間は静かだった。
柚葉が小さく呟く。
「……わぁ、すごい」
それで終わった。
カラオケセットまで用意されている。
だが、誰も歌う気配がない。
箸の音だけが、やけに大きく響いた。
見かねたるみねぇが立ち上がる。
「よし!」
「こういう時は歌だべ!」
全員、反応が薄い。
るみねぇは無理やり明るく振る舞う。
「彩芽、一曲いぐべ!」
彩芽は目を丸くした。
「えぇっ!? あたし、歌は自信ないべさ!」
「いいから! 元気だけはあるべ!」
「元気だけって何だべさ!」
それでも彩芽はマイクを握った。
選んだのは、かつて大ヒットした坂道系アイドルグループの明るい代表曲。タイトルに“シャンプー”っぽい言葉が入っていて、サビではみんなで手を振りたくなる、爽やかで可愛らしい青春ソングである。
本来なら、軽やかで甘酸っぱく、聴けば自然に笑顔になる曲だった。
だが、彩芽が歌うと別物になった。
出だしから音程が半音どころか一駅分ずれている。
リズムは自由行動。
可愛い振り付けをしようとしているのに、なぜか雪山で敵に突撃する前の準備運動みたいになる。
サビに入ると急に声量だけが倍になる。
「おいでぇぇぇぇ!」
旅館の障子が震えた。
玲香が箸を止める。
柚希が目を伏せる。
美音は真顔で固まる。
紗耶は肩を震わせている。
二番では歌詞を見失い、彩芽はなぜか満面の笑みで押し切った。
「ららら〜だべさ〜!」
最後だけ妙に決め顔。
歌い終わった彩芽は汗を拭いた。
「どうだったべさ?」
沈黙。
るみねぇが、ゆっくり言った。
「……ジャイアンリサイタルかと思ったべ」
一瞬、空気が止まる。
次の瞬間、玲香が吹き出した。
「ちょっと……それは言いすぎ……でも否定できないわ」
柚希も肩を震わせる。
「破壊力はありました」
紗耶も笑ってしまう。
「元気は……出ました」
彩芽は首をかしげる。
「あれ? 褒められてるっしょ?」
るみねぇ。
「ある意味な!」
部屋に笑いが戻った。
重苦しかった空気が、ほんの少しだけ溶けた。
その夜、就寝前。
雪乃とるみねぇは、旅館の小さなロビーで向かい合った。
窓の外には津軽海峡がある。
雪乃は湯呑みを手に、静かに言った。
「今日、ノースフロントの課題が見えました」
るみねぇも頷く。
「真面目すぎんだべ」
雪乃は続ける。
「メンバーは職人気質が多いです。うまくいっている時は非常に強い。でも今回のように、失敗と言うほどではない結果でも、一気に空気が沈みます」
るみねぇは全国のヒロインを見てきた経験を思い返しながら、ゆっくり言葉を返した。
「東海なら美月が騒いで場を引っ張るし、真央もすぐにツッコんで笑いに変えっぺ。関東なら小春が自然と場を回してくれる。西日本も賑やかな子が多いがら、誰かが空気を変えてくれるんだべ。でも、北だけは真面目な子が多すぎるんだ」
雪乃は小さく頷いた。
「彩芽さんが、その役目を担っているのだと思います」
「だべな」
「でも、まだ最年少です。荒削りで、危なっかしくて、実力もこれからです」
るみねぇは苦笑する。
「それに、歌は壊滅的だべ」
雪乃も少し笑った。
「ええ。ただ、今日、彩芽さんがいなかったら、夕食会場は本当に通夜のようになっていたかもしれません」
「まったくだべ」
二人は同じ結論に至った。
ノースフロントには、強さだけでは足りない。
任務の重みを受け止める真面目さは大切だ。
だが、失敗を引きずりすぎると、次へ進む力が鈍る。
空気を変える人材。
沈黙を笑いに変える存在。
彩芽はまだ未熟だが、その芽を確かに持っていた。
翌朝。
旅館近くで、名物の烏賊様レースが開催されていた。
観光客が小さなイカを応援し、どのイカが先に進むかを競う、ゆるくて妙に熱い催しである。
完全にプライベート参加だったが、彩芽は一瞬で本気になった。
「この子にするべさ!」
彩芽が選んだイカは、最初あまり動かなかった。
玲香が言う。
「弱そうね」
彩芽は真剣な顔で首を振る。
「違うべさ。この子は後半型だべ」
柚希が苦笑する。
「イカにも脚質があるんですか?」
「あるっしょ!」
彩芽は両手を握りしめ、レース開始と同時に叫んだ。
「けっぱれー!」
「負げんなー!」
「そこだべさ! まっすぐ行くっしょ!」
周囲の観光客が笑う。
るみねぇは腹を抱える。
「イカにそこまで熱くなる子、初めて見たべ」
だが彩芽は本気だった。
「この子、目がいいべさ! 勝つ目してるっしょ!」
玲香。
「イカの目で分かるの?」
紗耶が微笑む。
「でも、元気は出ますね」
彩芽のイカは、序盤こそ遅かった。
しかし中盤からじわじわ伸びる。
「来たべさ!」
「ほら、やっぱり後半型だべ!」
最後は見事に一着。
彩芽は飛び跳ねた。
「勝ったべさー!」
そしてイカに向かって、本気で褒める。
「よくやったべさ。あんた、最高にかっこよかったっしょ。昨日のあたしたちより勝負強かったべさ」
玲香が吹き出す。
「イカに励まされる北方管区って何なのよ」
柚希も柔らかく笑う。
「でも、悪くありません」
紗耶も少しだけ表情を緩めた。
「昨日より、息がしやすいです」
雪乃はその様子を見ていた。
彩芽は荒削りだ。
早とちりも多い。
歌もひどい。
だが、底抜けに明るい。
沈んだ空気を理屈ではなく力ずくで持ち上げる。
それは、今のノースフロントに必要な力だった。
津軽海峡の霧の向こうに、敵は消えた。
だが彼女たちは、その悔しさの中で一つの課題を見つけた。
強さだけでは、北は守れない。
笑いもまた、仲間を前へ進ませる力なのだ。
ノースフロント北方管区。
その船出は、まだ完全ではない。
だが、湯けむりの中で、彼女たちは確かに次へ進む理由を掴んだ。
そして、やがて彼女たちは“試される大地”へ向かうのか。
北の物語は、まだ終わらない。




