津軽海峡、逃げた影――美音の神操舵でも届かなかった北の密輸船
津軽海峡は、ただの海ではない。
青森県下北半島の北端、大畑から大間へ続く海岸線は、荒々しい波と風、そして北国の港町の誇りが詰まった場所だった。
大畑は、かつて鉄路が通っていた港町である。列車が海峡沿いの人と物を運び、港と町を結び、暮らしを支えていた。線路は消えても、鉄道があった記憶は町に残っている。どこか懐かしく、海風の匂いが濃い土地だった。
そして大間。
言わずと知れたマグロの街。津軽海峡の荒波で育った本マグロは、全国の食通が憧れる海の王者である。漁師たちは夜明け前から命懸けで海に出る。魚を獲るだけではない。海と向き合い、潮を読み、風を読み、家族と町の暮らしを背負っている。
その宝の海が、汚されようとしていた。
仙台分室に入った情報は深刻だった。
津軽海峡沿いで、ジェネラス・リンク系列による組織的密漁が行われている。狙われているのは高級海産物。密漁品は第三国へ流され、闇資金の源泉になっている可能性が高い。
雪乃は即座に全員を招集した。
「これは地域経済への攻撃です」
るみねぇも厳しい顔で頷く。
「漁師さんの海を荒らすなんて、許せねぇべ」
そこに、いつもは温厚な紗耶が静かに言った。
「……絶対に許せません」
全員が振り返る。
八戸出身の紗耶は、漁港の町で育った。漁師たちがどれだけ真剣に海へ出るか知っている。命懸けで働く人たちの海を、金儲けの道具にされることだけは許せなかった。
玲香が小声で言う。
「紗耶がここまで怒るの、初めて見たわ」
柚希も頷く。
「今回は、紗耶さんの思いが強いですね」
雪乃は続けた。
「今回は海上追跡になります。特別に応援を呼びました」
その時だった。
仙台分室の外から、低いエンジン音が響く。
大型自動二輪が停まる。
ヘルメットを外したのは、遠州の勇者・河合美音だった。
浜松市出身。船舶免許を持ち、操船技術は折り紙付き。かつてエキシビションレースで現役ボートレーサーに勝ってしまい、関係者をざわつかせた伝説を持つ。
だが、問題はそこではなかった。
るみねぇが目を丸くする。
「美音ちゃん……浜松から来たんだよな?」
美音は平然と答える。
「はい」
「まさか、そのバイクで?」
「はい」
彩芽が叫ぶ。
「浜松から仙台までバイクって、すごすぎるべさ!」
美音は首を傾げる。
「途中で休憩しました」
玲香が呆れる。
「そういう問題じゃないのよ」
夜。
漁協の協力で漁船をチャーターする。
ノースフロントメンバーは全員、美音の操る漁船に乗り込む。
一方、雪乃とるみねぇは陸上の臨時指揮所から戦況を見守る。
漁協関係者と地元漁師も無線を繋ぐ。
漁師の一人が、難解な青森弁で言う。
「おめだぢ、気ぃつけで行げじゃ。あの海ぁ、なめだらまねど」
美音が真剣に頷く。
「必ず戻ります」
別の漁師が唸る。
「ほぉ……この嬢っこ、目ぇしてらな。海さ出る顔だじゃ」
船が出る。
津軽海峡は荒れていた。
風が強い。
波が高い。
船体が上下に揺れる。
彩芽は目を輝かせている。
「うわぁ、海戦っぽいべさ!」
柚希が冷静に言う。
「遊びではありません」
「分かってるっしょ。でもすごいべさ!」
玲香は少し顔色が悪い。
「揺れすぎじゃない?」
瑠璃が支える。
「波に逆らうともっと揺れますよ」
その時、美音が舵を切った。
船が波を正面から受けず、斜めに滑る。
揺れが小さくなる。
漁協関係者が思わず叫ぶ。
「なんだば、この操船!」
「波読んでらじゃ!」
「こいづ、ただ者でねぇ!」
美音は無表情に近いまま、舵を握る。
「潮目が変わります。少し速度を上げます」
漁師が舌を巻く。
「現役の漁師でも、今そごで上げねぇぞ……」
やがて、黒い密輸船が見える。
積み荷は密漁品。
津軽海峡の宝を盗み、闇へ流そうとしている。
紗耶の声が低くなる。
「見つけました」
敵船が逃げる。
美音は即座に追う。
津軽海峡海戦が始まった。
漁船は波を切り裂くように進む。
美音の操舵は精密だった。
大波を避けるのではなく、利用する。
横風を殺すのではなく、角度を変えて受け流す。
船体が跳ねそうになる瞬間、わずかに舵を切って落ち着かせる。
彩芽が興奮する。
「すごいべさ! 美音さん、船でドリフトしてるっしょ!」
柚葉が冷静に言う。
「船はドリフトしない」
玲香が言う。
「でも、してるように見えるわね」
敵船との距離は縮まる。
紗耶が叫ぶ。
「あと少し!」
乙実が進路を見る。
「向こう、霧さ入る気だの」
澪がぼそっと言う。
「たぶん、消えるね」
その予感は当たった。
敵船は濃霧へ突入する。
美音も追う。
あと数十メートル。
あと一歩。
だが、敵は海峡中央へ向けて急旋回した。
雪乃の声が無線に入る。
「美音さん、追跡中止です」
美音は歯を食いしばる。
「まだ追えます」
「海域が危険です。一般船舶もあります。中止してください」
沈黙。
美音はゆっくりと速度を落とした。
敵船は霧の中へ消えていった。
船内の空気が重くなる。
密漁そのものは防いだ。
一部の積み荷も回収した。
逃走ルートもある程度把握した。
北海道側に拠点がある可能性も見えた。
半分勝利と言っていい。
しかし、ノースフロントは常に完全勝利を目指している。
誰も納得していなかった。
港へ戻ると、漁協関係者や地元漁師たちは彼女たちを迎えた。
「よぐやったじゃ。海、守ってけだべ」
「逃げられだって、あんだら来ねば、もっと盗られでら」
「今日は勝ぢだ。胸張れじゃ」
青森弁は難解だったが、労いの気持ちは伝わった。
るみねぇも無線越しに明るく言う。
「完全じゃなくても、前進だべ。次の手がかり取れたんだがら」
雪乃も静かに続ける。
「密漁は止めました。ルートも見えました。これは敗北ではありません」
それでも空気は重い。
紗耶は海を見つめたまま動かない。
「逃がしました」
美音も舵から手を離せない。
「私が、もう少し……」
柚希は黙り、玲香も珍しく何も言わない。
そんな中で、ただ一人だけ様子が違う者がいた。
彩芽だった。
彼女だけは目を輝かせていた。
「すごかったべさ……」
全員が振り向く。
彩芽は拳を握る。
「初めての海戦、めちゃくちゃ燃えたっしょ! 次見つけたら、ただじゃ帰さないべさ! ロープ持って飛び移って、びしっと捕まえるっしょ!」
るみねぇが額を押さえる。
「だからよぉ……」
「船から飛び移るのはやめろって言ってんだべ!」
彩芽は満面の笑みで返す。
「じゃあ、ちゃんと許可取ってから飛ぶべさ!」
「許可出さねぇべ!」
重苦しかった港に、少しだけ笑いが戻る。
津軽海峡の向こうには、まだ見えない敵がいる。
今回は完全勝利ではなかった。
だが、次につながる手がかりは確かに掴んだ。
その悔しさと、彩芽の妙な高揚感を残して、津軽海峡の夜は静かに明けていくのだった。




