モーニングから始める東海制圧――美月、かつパンで“ひのとり”を忘れる
藤堂隼人補佐官は、名古屋市内の喫茶店で、深いため息をついていた。
ここは名古屋のモーニング文化を象徴するような店だった。広いソファ席、落ち着いた照明、ゆったりした空気。コーヒー一杯で、トーストやゆで卵が当然のようについてくる。朝から客が長居し、新聞を読み、近所の人と話し、仕事前の一息をつく。名古屋らしい、居心地の良さと実用性が同居した空間である。
だが、隼人の心は穏やかではなかった。
遥室長からの一言。
「隼人くん、お願いね」
それだけで、東海地方地盤強化プロジェクトの監督責任者にされてしまったのだ。
藤堂隼人。都内出身。元々は優秀な若手官僚。大学時代はアメリカンフットボール部で、炎のランニングバックと呼ばれた男。屈強なディフェンス陣に真正面から突っ込み、タックルを受けても前へ進む熱いハートの持ち主である。
しかし今、彼が対峙する相手は、ディフェンスラインより厄介だった。
赤嶺美月。
河内のスピーカー。
山田真央。
器用な愛知県人。
二人とも人気者。
二人とも行動力がある。
二人とも、とにかくアクが強い。
隼人は心の中で呟いた。
「大学時代のラインバッカーの方が、まだ話が通じたかもしれません……」
そこへ、美月が入ってきた。
「隼人さん、聞いてや」
開口一番、それだった。
「けちのんがなぁ、“ひのとり”のプレミアム料金は出せへん言うねん。ありえへんやろ?」
隼人は静かにコーヒーを置いた。
「美月さん、まずは東海地区の活動方針を話しましょう」
「それは分かってる。でもな、移動の質は任務の質やねん」
美月は本気だった。
彼女は、名阪を結ぶ私鉄特急の車両運用を徹底的に研究していた。鶴橋から名古屋へ向かうにあたり、古い車両を避けるため、時刻表、運用情報、過去の充当傾向まで調べ上げた。
「今日はな、ちゃんと研究して来たから、ボロ特急は回避した。けどな、“ひのとり”のプレミアムに乗れへんかったんが悔しいねん。けちのんが『国民の皆様の税金で運営されています』とか言いよってな。あの子、経理の鬼や。いや鬼でももうちょい情あるで」
そこへ真央が現れた。
「美月さん、そりゃけちのんさんも仕事だで。けど気持ちは分かるわ。名古屋来るなら気分よう来たいでかんわ」
美月は即座に食いついた。
「せやろ! 真央は分かってる!」
隼人は早くも押され気味だった。
「二人とも、会議を始めます」
真央はメニューを広げていた。
「その前に、かつパン頼むでよ。ここのはデカいで」
数分後、巨大なかつパンが運ばれてきた。
美月は固まった。
「うわっ、デカ」
厚いパンに、厚いカツ。ソースの香り。皿の上に堂々と乗ったそれは、軽食というより戦闘車両のような存在感だった。
美月は一口食べた。
「ウマっ」
次の瞬間、彼女の頭から“ひのとり”問題は消えた。
「何これ、めっちゃうまいやん。名古屋強っ」
隼人は小声で言った。
「話が飛ぶ速度が速すぎますね……」
真央は得意げに胸を張る。
「名古屋の喫茶店文化なめたらかんでよ。モーニングはただの朝飯じゃにゃあ。生活文化だわ。朝からコーヒー飲んで、パン食べて、近所の人と喋って、そこで一日が始まるんだがね」
美月は頷く。
「東大阪にも喫茶店あるけど、名古屋の圧はすごいな」
「そうだで。名古屋は派手に見せんでも中身が濃いんだわ」
ようやく会議が始まった。
隼人は資料を広げる。
「東海地方の地盤強化ですが、まず拠点がありません。常駐スタッフもいません。予算も限られています。つまり、無い無いづくしです」
美月がかつパンを頬張りながら言う。
「逆に自由やん」
真央も頷く。
「何もにゃあなら、作ればええがね」
隼人は少しだけ目を上げた。
意外にも、二人は前向きだった。
真央が話し始める。
「東海言うても一枚岩じゃにゃあで。愛知、岐阜、三重、静岡で全然違う。愛知の中でも尾張と三河じゃ文化が違うでかんわ。わしは春日井だから尾張寄りだけど、三河には三河の顔がいるわ」
美月も真剣に聞いている。
「三河やと、豊川の稲生明日香やな。新機材開発で忙しそうやけど、使いたいな」
真央が頷く。
「遠州なら河合美音さん、駿河なら杉山ひかりさん、三重なら山本あかり、岐阜なら伊吹真白。ここらと組めば東海らしさが出るでよ」
美月も乗ってくる。
「あと福永理沙さんはどうするん?」
真央が首を傾げる。
「理沙さんは福井だがね。入るんかね?」
美月は即座に言った。
「福井は東海ちゃうやろ。北陸やろな。近畿感もあるけど、東海に入れたら富山も石川も入ってまう」
隼人は資料を示した。
「東海地方の定義は、行政、経済圏、交通圏、放送圏で変わります。今回のヒロ室東海は、まず愛知、岐阜、三重、静岡を基本範囲にします。福井の福永理沙さんはヒロ室スタッフとして連携対象。ただし、東海メンバーには含めない方が整理しやすいでしょう」
美月と真央は同時に頷いた。
「分かりやすいわ」
「隼人さん、ちゃんとしとるがね」
隼人は苦笑した。
「一応、これでも官僚です」
そこからは、意外なほど建設的だった。
美月は集客やSNS発信の案を出す。
「東海は地域ごとに動画分けた方がええ。尾張編、三河編、遠州編、駿河編、伊勢志摩編、岐阜編。ご当地感出したら伸びるで」
真央は現場感覚で補足する。
「春日井ならサボテンも使えるでよ。名古屋だけじゃなくて、郊外都市も拾わなかん。東海は車社会だで、駅前イベントだけじゃ足りんわ」
隼人はメモを取る。
「なるほど。都市部と郊外部を分ける必要がありますね」
美月はかつパンの最後の一切れを食べながら言った。
「あと、真央はもっと前に出した方がええ。器用やし、何でもできる愛知県人ってキャラは強い」
真央は照れた。
「何でもできる言うても、だいたい何となくできるだけだで」
「それが一番強いねん」
隼人は、少し手ごたえを感じていた。
この二人はうるさい。
本当にうるさい。
放っておくと話はすぐ脱線する。
だが、動き出せば強い。
美月は発信力がある。
真央は地域感覚がある。
二人とも人を巻き込む力がある。
拠点なし。
スタッフなし。
予算少なめ。
それでも、この二人なら何とかできるのではないか。
隼人は静かに言った。
「分かりました。まずは名古屋市内と春日井を起点に、東海各地へ連携を広げましょう。美月さんは発信と集客、真央さんは地域調整と現地企画。私は全体管理をします」
美月は笑った。
「ええやん。東海、面白くなりそうや」
真央も拳を握る。
「任せときゃあ! 東海盛り上げたるでよ!」
隼人は頷いた。
その瞬間、美月がふと思い出した。
「でも次は“ひのとり”乗りたいな」
隼人は即座に返した。
「その話は終わりました」
真央が笑う。
「美月さん、かつパンで忘れとったんじゃにゃあの?」
美月は堂々と言った。
「忘れてたけど、思い出した」
隼人はコーヒーを飲みながら、遠い目をした。
炎のランニングバックは、かつて敵陣へ何度も突っ込んだ。
だが今、彼の前に立ちはだかるのは、河内のスピーカーと尾張の暴走娘である。
それでも、彼は前に進むしかない。
ヒロ室東海、仮称。
その第一歩は、名古屋の喫茶店の片隅で、かつパンとモーニングと“ひのとり”への未練にまみれながら始まった。




