魔人11
花藤は隅田川署に到着し腕時計を確認する。時刻は16時40分。高橋署長との約束の時間である17時15分までまだ30分以上ある。
署に目を向けると警杖を手にした警察官が二人立っていた。浅草に近いとはいえ金剛力士像というわけでもないだろう。
一人は落ち着きなく周囲を見回し、もう一人は花藤に気が付いたようで視線の隅でとらえ続けているようだった。
どうしたものか。
ここを行ったり来たりと歩いていては実に怪しいし、あと30分ここに立ち続けるか?それともあの立番の警官に署長に取り次いでくれと声をかけるか?それは上手くないだろう。
花藤は手持無沙汰にスマホを取り出し、そしてポケットに入れ腕を組み、またスマホを取り出す。
ふと署に目を向けると一人は相変わらず周囲を見回していた。だいぶ若い、おそらく新人警官なのだろう。だがもう一人はハッキリと「お前を警戒しているぞ」という視線を花藤に視線を向けていた。
花藤は署に背を向け再びスマホを取り出し時刻を確認した。16時55分。定時退勤ならもう出てくるだろう。
花藤は高橋署長とは面識がない。
だがその点に於いては花藤は特に心配はしていなかった。
向こうは警察だ。
花藤はもう一度、隅田川署に顔を向けた。
今度は二人の立番が花藤を見ていた。
しまった!花藤はスマホを取り出し地図を開き確認すると直ぐに走り始めた。
実につまらないミスだ。花藤が待機していたのは隅田川署ではなかった。
二人の立番の頭上に示されていたのは蔵前橋署だった。
長年、地方の駐屯地を転々としてきた花藤がすっかり忘れていた東京。
多くの場合、警察署には所在する市区町村の名前が付くが、全国の全ての市区町村それぞれに必ず警察署があるという話でもない。そう言った場合は市区町村ではなく地域名が付くこともある。
だが東京23区は逆だ。江東区に江東署はないし、墨田区に墨田署はない。
そして台東区にも台東署はない。台東区だけでも複数の警察署があるからだ。そう、隅田川署だけでなく浅草寺署や蔵前橋署などがある。
花藤は走りながら腕時計を見た。1700。
距離は2キロといったところで、10分もかからないだろう。タクシーに乗っても大差ない。待ち合わせ時間よりも前には着くだろう。だが長年自衛官として生きてきた性がその走り速度を押し上げるのだった。
時間厳守。それは自衛官が一番最初にその身体に叩き込まれる絶対のルールの一つ。
花藤は自分のつまらないミスを恥じ、その分だけ速度が上がった。
たった二キロほどの全力疾走で花藤はすっかり息切れした。
それでも両手を膝に付けるようなみっともない真似はしない。
白い息を吐きながら隅田川署を目にし腕時計を見る。
1710。
ギリギリ間に合ったが、今度は立番の警官に見られないように距離を取った。
向こうが何とかするだろう。
花藤がそう思うと同時に背後から声を掛けられた。
「加藤さんですか?」
花藤が振り向くとそこには一台のタクシーが止まっていた。
男がそのタクシーの半分ほど空いた後部座席の窓から手を向けていた。
花藤が一応に周囲を見渡すとタクシーのドアが開いた。
「高橋です。どうぞ」
男は言い、花藤は素早く乗り込んだ。
「初めまして、加藤さん」
男は右手を差し出し、花藤もそれに答えた。
「では運転手さん、お願いします」
男が言うとタクシーが走り始めた。
花藤はまず東京のタクシーの車内に驚き挨拶も返せずにいた。
広い!とにかく広い!
花藤にとってタクシーとはセダンタイプ。そう、クラウンコンフォートだ。
だがこのタクシーはまずルーフが高い。そして足元も非常にゆったりしている。
そして驚くべきことになんと、助手席のヘッドレストにテレビが付いている。
何故タクシーにテレビが?なるべく長い距離を乗ってもらいたいという狙いなのか?
「すぐ近くなんですけどね」
高橋が言った。
ハッとした花藤が答えようとするがその前に遮られる。
「まあ、自己紹介はゆっくりとやりましょう」
花藤はその意図を悟り、開きかけた口を閉じる事にした。
二人が降り立ったのは古めかしい小さな喫茶店のような店だった。
高橋が先に立ち、店のドアを開けた。
「どうぞ」
花藤は促されるままに店内へと足を踏み入れた。
店内は実に重厚な雰囲気だった。
床に天井そしてカウンターはもちろん椅子もテーブルも壁も木製だった。
それは花藤でも単なる塗装ではないと分かるほどの、不死身の海賊船の船体で作られたような、歴史を感じされる重厚な色身を備えていた。
その重さに合わせるかのように店内のBGMは花藤には分からないクラシックが静かに流れていた。
高橋は店員に促されることも無く一つのテーブルを指し花藤を座らせ、自身もテーブルに着いた。
「ビールでいいですかね?」
高橋が聞くと花藤は素直に頷いた。
すぐに少しばかり腰の折れた老婆がやってきてテーブルに二つの小さなグラスと瓶ビールを置いていった。
「乾杯をする気分でもないですしね、手酌で行きましょう」
高橋は瓶ビールを手にすると、敢えて自分のグラスに注いでから花藤に向けた。
それでも花藤は一応はグラスを手に高橋にかざした。
高橋は花藤のグラスにビールを注ぎ、瓶を置くと早速自身のグラスを空け、二杯目を注いだ。
「ここはロシア料理の店です、お口に合えばいいのですが」
「好き嫌いはありませんよ」
高橋の言葉に花藤は答えた。
「なるほど、食事は選べませんものね」
高橋のその言葉を受けた花藤はゆっくりとグラスを口に運びビールを飲み干しグラスを置いた。
瓶ビールを手にしグラスに注いでいく。ゆっくりと最後の一滴まで注ぎ終えると静かに空き瓶を置き。高橋を見た。
「なぜ、分かりました?」
高橋は少し身体を傾けて、花藤の足を見た。
「木下に聞いていますから。自衛官である川口さんも同じブーツを履いていたとか」
「なるほど、さすがですね」
そこへ老婆がやってきて前菜と瓶ビールをテーブルに置いた。
皿にはキャビアにサーロとピクルス、それに黒パンとブリヌイが乗っていた。
オシェトラの黄色、サーロの白。緑色のキュウリに赤いトマトのピクルス。
「改めまして、隅田川署署長の高橋と言います」
花藤は差し出された右手を握り返し答える。
「カトーと言います。川口の上官でした。今は違いますが」
高橋は思案気に花藤を見つめていたが、二人の関係には触れずに口火を切った。
「木下からどこまで聞きましたか?」
「五人殺しの件、女性は生きていると」
花藤は駆け引きは無駄だとばかりに自分の手にある一番強いであろうカードを切った。
「なるほど、全部聞いたようですね」
全部か。木下という若い刑事はそれなりに頭が切れるようだったが、この男はそれ以上だ。まあ当然か、私より一回りほど若いようだが署長なのだからな。
「では、どこから話しましょうか」
花藤は店内に流れるとても控えめな音量のBGMが少しばかり力強くなると目を逸らした。
「ボロディンのポロヴィスタンダンスですね」
高橋が答えた。
花藤は店内を見回す。二人だけ。あの老婆も給仕をする時以外は姿を現さないようだ。
「すいていますね」
「ええ、そうかもしれませんね。今日は」
なるほど、これがエリートってやつか。
花藤はブリヌイの一枚を手に取り、人生で初めてのキャビアをスプーンで掬い乗せると口に押し込んだ。
これがエリートの味か。
アーモンド入りのバターみたいな味だな、イクラの方がいい。
花藤はエリート味をビールで流し込んでから駆け引きを開始した。
「田中と捜査一課とやらの確執、田中がなぜ事件を解決できたのか。それとなぜ田中は異動させられたのか。こんなところですかね」
自衛官花藤に出来る駆け引きなど直球勝負、一直線の正面突破だけだ。
「ふむ・・」
高橋は一つ頷いてから薄くスライスされているサーロとキュウリのピクルスを黒パンに乗せて口に運んだ。時間をかけて味わいゆっくりと飲み込んでから、口の中に残った豚の脂をビールで洗い流した。
「まず一課との確執ですが、これは単に田中部長が優秀だったという事です」
今度は花藤が頷いた。
「こう言っては何ですが私達には、子供ならまだしも成人の失踪などは捜査している余裕が無いのです。だが彼は件の事件の捜査するべき点を見つけだし、それを私に報告してきました。それは一課がするべき仕事だと私が判断したという事です」
花藤は軽く頷きながらピックで青トマトのピクルスを突き刺し口に運ぶ。
そのピクルスは一般的な酢漬けではなく、ロシア風のスパイスの効いた塩漬けだった。
花藤はその慣れない味に思わず顔をしかめた。
「なぜ田中は女性を救助できたのでしょうか」花藤は聞き、高橋はそれに答える。
「田中部長の報告では監禁場所の通報を受けたという事です」
「その通報で田中のヤツが現場を見つけ、五人殺しの女性を発見したというわけですか。その通報と・・」
高橋は微かに眉をひそめ指を立てて花藤を制し、そして警告する。
「救助された女性は被害者です。五人殺しは別の男です」
花藤は謝罪の意を込めて小さく頭を下げた。
「田中の異動については?」
「それは彼が優秀だからです」
そう言って高橋はポケットからタバコを取り出すと一本咥え火を点けた。
「女性を拉致監禁し、いたぶっていた五人の男。そいつらを殺したのは一人の男、それが五人殺し。そいつが吸っていたタバコはこれでしょう」
高橋はテーブルに置いた自身のタバコを指で叩いた。
「マルボロですか、それが?」
「これを見抜いたのが田中部長です。彼は優秀な警察官です。だから五人殺しの捜査に加わって欲しかった。しかし一課とのしがらみもあるので、まずは交番勤務から離れてもらったという事です」
高橋は聞かれたことは答えたとばかりに椅子にもたれタバコを吹かした。
「ああ、吸いますか?」
「いえ・・あります」
花藤は端的に答えラッキーストライクを取り出し、同じく火を点けた。
話が一段落したのを見て取ったのか老婆が料理を運んできた。
ケチャップのように真っ赤なスープに真っ白のサワークリームを乗せたボルシチの入った深い皿に、揚げ焼きのピロシキを乗せた浅い皿を二人の前に置いた。
「まぁ食べましょうか」
高橋は煙草を消すとスプーンを手にボルシチを掬い、花藤はピロシキを手に取り齧りついた。
花藤は物の5分でピロシキを腹に収め、ボルシチを食いその汁まで啜り尽くした。
そしてまだ優雅に料理を堪能する高橋に言う。
「それで・・・私に何をさせたいので?」




