第7話 見ている人
総務部は、目立たない部署だ。
少なくとも、何も起きていないときは。
備品を切らさない。
会議室を回す。
来客を通す。
空調や照明の不具合に気づく。
誰かが困る前に、少しだけ整えておく。
うまく回っているときほど、存在感は薄い。
それでいいと相沢は思っていた。
目立たない方が都合がいい。
説明しなくて済むことが多いからだ。
だが最近、その“目立たなさ”が少しずつ崩れている気がしていた。
原因はたぶん、隣にいる。
「相沢さん」
と、朝から澪が言った。
「今日、来客多いですね」
「そうだね」
「会議室Aと応接室、両方埋まってます」
「珍しい」
「珍しい日に限って、何かありそうな顔してます」
「顔で判断しないで」
「最近、精度が上がってるので」
「嫌な報告だな」
その日は朝から来客予定が立て込んでいた。
午前に取引先が二組。
午後に採用面接が三件。
さらに役員会議が入っていて、会議室の回転も早い。
受付、案内、飲み物、空調、資料、入館証。
総務としては細かい気配りが増える日だ。
相沢は予定表を見ながら、わずかに眉を寄せた。
嫌な感じが、ないわけではない。
ただ、いつものように鮮明ではない。
断片的で、ぼやけている。
来客用の紙コップ。
応接室の空調。
会議室Aの延長コード。
受付前の床。
どれも小さい。
小さいが、重なると面倒になる。
「何ですか」
と澪が聞く。
「何が」
「今、予定表じゃなくて別のもの見てました」
「便利だね、その観察」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
相沢は予定表を指でなぞった。
午前十時、会議室A。
十時半、応接室。
十一時、会議室Aの次利用。
午後一時、面接。
二時、役員会議。
時間が詰まっている。
こういう日は、小さな遅れが連鎖しやすい。
「会議室Aの延長コード、予備出しておこうかな」
と相沢が言う。
「今のところ申請ないですよ」
「念のため」
「出ましたね」
「何が」
「便利な言葉」
「そっちもよく言うようになったよね」
「影響です」
澪はそう言いながらも、素直に備品棚から予備の延長コードを持ってきた。
「応接室の空調も見てくる」
「不具合ありました?」
「まだない」
「でも気になる」
「うん」
「受付前の床も?」
「……何でわかるの」
「視線」
「本当に怖いな」
「慣れてください」
慣れたくはないが、もう少し慣れてしまっている気もする。
午前の一組目の来客は、問題なく終わった。
受付で入館証を渡し、応接室へ案内し、飲み物を出す。
空調も適温。
資料も揃っている。
何も起きない。
二組目の来客が来る少し前、営業部の高橋が総務へ顔を出した。
「相沢さん、会議室Aのプロジェクター使えますよね?」
「使えますよ」
「助かります。先方、急に投影したいって言い出して」
「HDMIですか」
「たぶん」
「たぶん?」
「先方の担当が詳しくなくて……」
嫌な予感が少しだけ輪郭を持つ。
相沢は立ち上がった。
「一応、変換アダプタも持っていきます」
「え、そこまで?」
「念のため」
「便利ですねえ、その言葉」
と高橋が笑う。
その瞬間、澪が小さく咳払いした。
高橋は一瞬きょとんとしてから、
「あ、もしかして総務内で流行ってる?」
と言った。
「流行ってません」
と相沢。
「少し流行ってます」
と澪。
高橋はますます面白そうな顔をした。
「何か最近、二人ちょっと息合ってない?」
「気のせいです」
と相沢は即答した。
「そうでしょうか」
と澪は否定しない。
やめてほしい。
そういうところだ。
会議室Aへ向かう途中、相沢は足を速めた。
高橋も後ろからついてくる。
部屋に入ると、先方の担当者はすでにノートパソコンを開いていた。
見た瞬間、相沢は心の中で当たりを引いたと思った。
USB-Cだった。
「HDMIだけだとつながらないかも」
と高橋が青くなる。
「だから持ってきました」
と相沢は変換アダプタを差し出す。
先方の担当者が驚いた顔をする。
「え、すごいですね。助かります」
「いえ」
と相沢は短く答え、接続を確認する。
映像は無事に映った。
高橋が露骨にほっとした顔をする。
「相沢さん、何でわかったんですか?」
「最近多いので」
「いや、でもぴったりすぎません?」
「たまたまです」
「その言い方、好きですねえ」
好きじゃない。
でも説明するよりはずっとましだった。
会議室を出ると、高橋が廊下で感心したように言った。
「相沢さんって、前から思ってたけど、先回りすごいですよね」
「総務なので」
「いや、総務の範囲をちょっと超えてません?」
「気のせいです」
「それも便利ですね」
後ろで澪が、ほんの少しだけ視線を逸らした。
笑いをこらえている。
たぶん。
午前の来客対応が一段落したころ、今度は受付前で小さな騒ぎが起きた。
来客用の紙コップを載せたトレーが、給湯室から戻る途中で傾きかけたのだ。
運んでいたのは総務の若手、三浦。
慣れない来客対応で少し緊張していたらしい。
「すみませんっ」
紙コップの中の水が揺れる。
床にこぼれれば、受付前は滑りやすい。
しかも次の来客がもう近い。
だが、その前に澪が動いた。
「三浦さん、止まってください」
短く言って、トレーの端を支える。
同時に相沢が足元のマットを少し引き寄せ、水滴が落ちそうな位置をずらす。
こぼれたのは数滴だけで済んだ。
「だ、大丈夫ですか」
と三浦が青ざめる。
「大丈夫」
と相沢が言う。
「一回置こう」
「すみません、私……」
「慌てなくていいです」
と澪が続ける。
「次は私が一緒に持ちます」
その連携があまりに自然だったせいか、近くにいた受付担当の女性が目を丸くした。
「すごいですね、今」
「何がですか」
と相沢が聞く。
「いや、息ぴったりだなって」
「気のせいです」
「またそれ」
と澪が小さく言う。
午後、面接対応が始まるころには、総務部の中で妙な空気が生まれていた。
別に悪い意味ではない。
ただ、何人かが気づき始めている。
相沢が妙に先回りすること。
澪がそれをほとんど当然のように補助すること。
そして二人とも、それを説明しないこと。
「ねえ」
と、コピー機の前で三浦が澪に小声で言った。
「相沢さんって、前からあんな感じでしたっけ」
「どんな感じですか」
「いや、何か……起きる前に動くっていうか」
「前からですよ」
「篠宮さん、慣れてますよね」
「少し」
「すごいなあ。私、まだ全然読めないです」
「読まなくていいと思います」
「え?」
「何でもないです」
澪はコピーを受け取り、そのまま歩き出した。
その会話を、少し離れた場所で相沢は聞いてしまっていた。
聞くつもりはなかった。
でも、耳に入ってしまった。
読まなくていい。
その言い方に、少しだけ救われる。
同時に、少しだけ引っかかる。
澪はたぶん、守ろうとしている。
自分のことを。
あるいは、この妙な均衡を。
午後二時過ぎ。
役員会議の準備で、会議室Aには再び資料と飲み物が運び込まれていた。
相沢は入口付近で、ふと立ち止まる。
また、嫌な感じがした。
今度ははっきりしている。
大きな事故ではない。
でも、このままだと確実に面倒になる。
視線の先には、会議室の壁際に這わせた延長コード。
養生テープで留めてあるが、一か所だけ端が少し浮いている。
そこを、誰かの靴が引っかける。
資料が落ちる。
コーヒーがこぼれる。
役員会議の空気が悪くなる。
そこまで一瞬で浮かんだ。
「篠宮さん」
と相沢が呼ぶ。
「はい」
「テープ、追加ある?」
「あります」
「会議室A」
「コードですね」
「……何でわかるの」
「今、床しか見てなかったので」
「怖い」
「慣れてください」
澪はすぐに追加のテープを持ってきた。
二人でしゃがみ込み、浮いた端を押さえる。
そこへ、役員秘書の女性が通りかかった。
「あら、ありがとうございます」
「いえ」
と相沢が答える。
「危ないので」
「本当に気がつきますね、相沢さん」
「たまたまです」
「それ、もう口癖ですか?」
「……かもしれません」
秘書が去ったあと、澪が小さく言う。
「最近、“たまたま”も増えましたね」
「便利だから」
「認めました」
「認めたくはない」
役員会議は無事に始まった。
資料も落ちず、コーヒーもこぼれず、空気も荒れない。
何も起きない。
それでいい。
それが一番いい。
なのに今日は、何も起きないたびに、別の意味で視線が集まっている気がした。
夕方、来客対応がすべて終わったころ。
総務部にはようやく少し落ち着いた空気が戻っていた。
三浦が大きく息をつく。
「今日、疲れました……」
「お疲れさま」
と澪が言う。
「来客多かったですね」
「篠宮さんと相沢さん、全然疲れてないように見えます」
「そんなことないよ」
と相沢が答える。
「疲れてる」
「でも、ずっと先回りしてませんでした?」
「総務なので」
「またそれだ」
と三浦が笑う。
そのとき、高橋が営業部から書類を持って戻ってきた。
「いやー、今日ほんと助かりました」
「何がですか」
と三浦が聞く。
「会議室A。変換アダプタぴったり持ってきてくれて」
「え、すごい」
「でしょ? 相沢さん、何か見えてるみたいなんだよな」
「高橋さん」
と相沢が低く言う。
「冗談冗談」
と高橋は笑う。
「でもほんと、先回り力すごいですよ」
その場の空気が、ほんの少しだけ止まった。
冗談のはずだった。
高橋も本気ではない。
でも、その言葉は軽くなかった。
三浦がきょとんとする。
受付担当の女性が苦笑する。
澪だけが、何も言わない。
相沢は一拍置いてから、できるだけ平坦に言った。
「見えてたら苦労しないよ」
「それもそうか」
と高橋はあっさり引いた。
「じゃ、また何かあったらお願いします」
営業部へ戻っていく背中を見送りながら、相沢は自分の指先に少し力が入っているのを感じた。
見えてたら苦労しない。
半分は本音で、半分は嘘だった。
「相沢さん」
と澪が小さく呼ぶ。
「大丈夫ですか」
「何が」
「今、顔が固いです」
「……平気」
「平気じゃないときの方ですね」
「最近、本当に容赦ないね」
「観察中なので」
「便利だな、それ」
定時後。
人が少なくなったオフィスで、相沢は会議室利用表を整理していた。
今日一日の来客記録、備品使用、面接室の利用時間。
いつもの事務作業だ。
手は動く。
でも、頭の片隅には高橋の言葉が残っていた。
何か見えてるみたい。
冗談だ。
ただの言い回しだ。
それくらいわかっている。
でも、こういう小さな引っかかりが積み重なると、いつか誰かが本気で不思議がるかもしれない。
そうなったとき、自分はどうするのか。
説明はできない。
ごまかし続けるしかない。
たぶん、ずっと。
「まだ帰らないんですか」
と、澪が隣に立った。
「もう少し」
「高橋さんのこと、気にしてます?」
「……少し」
「冗談ですよ」
「わかってる」
「でも、嫌だった」
「まあね」
澪は少し考えてから、相沢のデスクの端に寄りかかった。
「今日」
と彼女は言う。
「見られてましたね」
「誰に」
「いろんな人に」
「嫌な言い方する」
「事実なので」
「否定できないのが困る」
澪はそこで、少しだけ声を落とした。
「でも」
「?」
「悪いことばかりじゃないと思います」
「何が」
「相沢さんが先回りしてること」
「いや、目立つのは困るよ」
「目立つのはそうです」
「じゃあ何」
「助かってる人がいるのは、本当です」
相沢は返事をしなかった。
それは知っている。
知っているけれど、そこを正面から認めると、別のものまで認めてしまいそうで嫌だった。
「それに」
と澪が続ける。
「今日は私も見られてました」
「え」
「相沢さんと一緒に動いてるので」
「……ごめん」
「何で謝るんですか」
「巻き込んでる」
「今さらです」
「それ便利だね、本当に」
「でしょう」
澪は少しだけ笑った。
それから、いつもより少しだけまっすぐな声で言う。
「見られるなら」
「?」
「せめて、変に一人で抱え込んでるようには見えない方がいいです」
「どういう意味」
「一人で全部やってるように見えると、余計に不自然です」
「……」
「だから、少しは私を使ってください」
「人を備品みたいに言わないで」
「補助戦力です」
「言い換えても変」
「でも、自然でしょう」
「何が」
「二人で動いてる方が」
相沢はそこで、少しだけ黙った。
たしかに最近、そうなっている。
自分が先に気づいて、澪が補助する。
あるいは澪が先に拾って、自分が動く。
その流れが、少しずつ形になってきている。
それは秘密を共有している、というほど明確ではない。
でも、他人から見れば、十分に“息が合っている”のだろう。
「……嫌じゃないの」
と相沢は聞いた。
「何がですか」
「そうやって一緒に見られるの」
「別に」
「即答だ」
「嫌ならやりません」
「それもそうか」
「はい」
澪は本当に、そこで迷わなかった。
オフィスの窓の外は、もう暗い。
フロアの照明だけが白く机を照らしている。
人の少ない総務部は、昼間より少しだけ静かで、言葉がよく響く。
「相沢さん」
「なに」
「次に誰かに“見えてるんですか”って言われたら」
「うん」
「“見えてたら苦労しない”じゃなくて」
「じゃあ何て言うの」
「“よく気づくだけです”でいいと思います」
「普通だ」
「普通が一番です」
「……そうだね」
澪は満足そうにうなずいた。
「あと」
「まだあるの」
「あります」
「どうぞ」
「“たまたま”も少し減らしてください」
「そこまで管理されるの」
「言葉は大事です」
「厳しいなあ」
「仕事なので」
「絶対違う」
ようやく、相沢は少しだけ笑った。
澪もつられるように笑う。
その空気が、昼間の張りつめた感じを少しだけほどいていく。
見ている人がいる。
それは面倒だ。
隠しておきたいものがある以上、歓迎はできない。
でも同時に、見られているのが自分一人ではないことに、ほんの少しだけ救われてもいた。
隣に立つ人がいる。
その事実まで含めて、周囲の視線に映っている。
「帰りますか」
と澪が言う。
「うん」
「今日は、大きいことにはなりませんでしたね」
「そうだね」
「いいことです」
「うん」
「でも、見られてました」
「そこは繰り返すんだ」
「大事なので」
「便利だなあ、その言い方」
「影響です」
二人で並んでオフィスを出る。
廊下の照明は少し落とされ、昼間の慌ただしさが嘘みたいに静かだった。
大きな事故にはならなかった一日。
それなのに、何かが少しだけ動いた気がする。
秘密そのものではない。
その周りの空気が、少しずつ形を持ち始めている。
それが良いことか悪いことかは、まだわからない。
ただ一つわかるのは、
もう自分一人だけの問題としては、片づかなくなり始めているということだった。




