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第8話 始まる前のざわめき

総務の仕事は、始まる前に終わっているのが理想だ。


会場が整っていること。

資料が揃っていること。

機材が動くこと。

人が迷わないこと。

空調が適切で、椅子が足りていて、導線に無理がないこと。


何かが起きてから動くのでは遅い。

起きる前に潰しておく。

それができれば、何もなかったように一日が終わる。


相沢は、その“何もなかったように終わる”という状態が好きだった。

少なくとも、昔はそう思っていた。


今は少し違う。

何も起きないこと自体は歓迎する。

でも、そのために自分がどこまで先回りしているのかを、隣にいる澪だけは知っている。


そして最近は、周囲も少しずつ気づき始めていた。


その日、総務部は朝から慌ただしかった。


午後に社内説明会が予定されていたのだ。

新しい勤怠システムの導入に関する全体向け説明会。

参加者は各部署から集まるため、会場は大会議室。

人数は五十人を超える。

プロジェクター、マイク、配布資料、追加椅子、受付名簿、誘導表示。

総務が準備の中心になるのは当然だった。


「会場レイアウト、これで確定です」

と澪が言って、印刷した配置図を机に置く。

「前方に長机、後方に予備椅子六脚、出入口は左右両方使用」

「ありがとう」

と相沢は受け取る。

「マイクは?」

「有線二本、無線一本。予備電池もあります」

「プロジェクター」

「接続確認は十一時に情報システム部と一緒に」

「資料」

「人数分プラス十部」

「完璧だね」

「相沢さんが昨日のうちに三回確認したので」

「回数まで言わなくていいよ」

「見ていたので」


最近、こういう会話が増えた。


澪は相沢の確認癖を止めない。

むしろ必要なところでは乗る。

その代わり、過剰になりそうなときだけ少し引き戻す。

その距離感が、いつの間にかできていた。


「相沢さん」

「なに」

「今日、少し嫌な感じありますか」

「……少し」

「やっぱり」

「そんなにわかりやすい?」

「前よりは」

「嫌だなあ」

「慣れてください」


慣れたくない言葉ばかり増えていく。


相沢は大会議室の配置図を見ながら、胸の奥に引っかかるざわつきを確かめていた。


大きな事故ではない。

でも、放っておくと複数の小さな問題が重なりそうな感覚がある。


入口付近。

後方の予備椅子。

マイクコード。

空調。

受付の列。


断片だけが浮かぶ。

まだつながらない。

だが、こういうときは大抵、始まる直前に一気に形になる。


「会場、先に見ますか」

と澪が言う。

「うん」

「私も行きます」

「一人で大丈夫だけど」

「知ってます」

「じゃあ何で」

「一人で大丈夫なときほど、余計なことまで見るので」

「信用がない」

「観察結果です」

「便利だなあ」


大会議室は三階の突き当たりにある。

普段は部門会議や研修に使われる広めの部屋だ。

今日は机と椅子が整然と並べられ、前方にはスクリーンが下ろされていた。


一見、問題はない。


だが相沢は部屋に入った瞬間、足を止めた。


「どうしました」

と澪が聞く。


相沢はすぐには答えず、視線をゆっくり動かした。


前方の演台。

その横のマイクスタンド。

床を這うコード。

中央通路。

後方に積まれた予備椅子。

壁際の空調吹き出し口。


「……後ろの椅子、少し寄せよう」

「予備椅子ですか」

「うん。あそこだと、出入口に近すぎる」

「人が増えたとき、引っかかりますか」

「たぶん」

「わかりました」


澪はすぐに動いた。

二人で予備椅子の位置を少し壁際へずらす。


その様子を、設営を手伝っていた三浦が見ていた。


「そこ、そんなに変わります?」

と三浦が聞く。

「少しだけ」

と相沢が答える。

「でも、その少しで変わることがあるから」

「へえ……」

「覚えなくていいですよ」

と澪が横から言う。

「今日は人が多いので、念のためです」

「なるほど」


“念のため”。

最近、この言葉が総務部の中で妙に流通している気がする。


会場確認を終えて戻る途中、営業部の高橋とすれ違った。


「お、説明会の準備ですか」

「そうです」

と澪が答える。

「大変そうですねえ」

「まあね」

と相沢が言う。

「高橋さんの部署も参加ですよね」

「行きます行きます。新システム苦手なんで、ちゃんと聞かないと」

「それは大事ですね」

「でも安心だなあ。相沢さんいるなら何かあってもどうにかなるでしょ」

「買いかぶりです」

「またまた」


軽い調子だった。

でも相沢は、その言葉に少しだけ肩がこわばるのを感じた。


何かあってもどうにかなる。


そう思われるのは、ありがたい反面、危うい。

期待は視線を集める。

視線は違和感を育てる。


「相沢さん」

と澪が小さく言う。

「顔」

「そんなに?」

「少し」

「便利だね、その報告」

「役立っているので」


昼前、情報システム部との接続確認が始まった。


説明会で使うノートパソコンをプロジェクターにつなぎ、投影資料を映す。

音声は使わないが、マイクは念のため通電確認。

スクリーンの位置、照明の落とし方、リモコンの反応。

一つずつ潰していく。


「映りました」

と情報システム部の担当が言う。

「問題なさそうです」

「ありがとうございます」

と相沢が答える。


そのとき、また小さなざわつきが走った。


視線が、前方ではなく入口側へ向く。

受付の列。

開始直前に人がまとまって入る。

名簿確認で一瞬止まる。

後ろが詰まる。

遅れて来た人が横から入ろうとする。

椅子の脚。

鞄。

足元。


「……受付、机一つじゃ足りないかも」

と相沢が言った。

「今ですか?」

と三浦が驚く。

「名簿一冊ですよね?」

「うん。でも列が偏る」

「左右入口だからですか」

と澪が聞く。

「たぶん」

「追加机、出します」

「早いね」

「最近、少し慣れました」

「嫌な慣れ方だなあ」


結局、受付は一列ではなく二か所に分けることになった。

名簿も部署別に分け、左右どちらから入っても詰まりにくいようにする。


三浦が感心したように言う。

「そこまで考えるんですね」

「考えるというか……」

と相沢は言いかけてやめた。

「人が多いと、偏ることがあるから」

「経験ですか」

「まあ」

「相沢さん、経験値高すぎません?」

「総務なので」

「便利ですね、その返し」

と三浦が笑う。


午後一時半。

説明会開始まであと三十分。


参加者が少しずつ集まり始め、会場前の空気がざわついてくる。

資料を受け取る人、知り合いと立ち話をする人、開始前に席を探す人。

人が増えると、空気の流れが変わる。

音の反響も変わる。

小さな違和感が埋もれやすくなる。


相沢は受付の横に立ちながら、無意識に全体を見ていた。


列の流れ。

足元。

扉の開閉。

会場内の空席。

後方の予備椅子。

前方のコード。


「相沢さん」

と澪が資料の束を抱えたまま近づく。

「今、どこですか」

「どこって」

「気にしてる場所です」

「……入口と、後ろ」

「二つですね」

「今のところは」

「わかりました」


その返事があまりに自然で、近くにいた三浦が一瞬だけ不思議そうな顔をした。

だが何も言わず、受付対応へ戻っていく。


開始十分前。

人が一気に増えた。


営業部、経理部、人事部、開発部。

それぞれがまとまって来るせいで、受付の列が一瞬だけ偏る。

だが二列にしていたおかげで、完全な滞留にはならない。


「すみません、資料一部足りません」

と受付担当の女性が言う。

「追加、後ろの箱です」

と澪が即答する。

「ありがとうございます」


その直後、会場内で椅子を引く音が重なった。

後方の席に座ろうとした社員の鞄が、通路側へ少しはみ出す。

そこへ遅れて入ってきた別の社員が足を引っかけかける。


相沢は反射的に一歩出た。

だが、その前に澪が声をかけていた。


「すみません、鞄だけ中へお願いします」

穏やかな声だったが、通る声だった。


社員は「あ、すみません」と慌てて鞄を引く。

引っかけかけた社員も体勢を戻し、そのまま席へ着く。


「……助かった」

と相沢が小さく言う。

「見えてました」

と澪が答える。

「今のは私でもわかりました」

「そういうの増えたね」

「相沢さんのせいです」

「責任重いな」


開始五分前。

会場はほぼ埋まった。


説明担当の人事部社員が前方でマイクを確認している。

情報システム部の担当は壁際でパソコンを見ている。

受付もそろそろ締めに入る。


ここで終わればいい。

何も起きずに始まれば、それでいい。


そう思った瞬間、相沢の視線が前方の床で止まった。


マイクコード。


演台の足元から伸びた一本が、さっきよりわずかに中央通路側へずれている。

誰かの靴が触れたのだろう。

今はまだ小さい。

だが、説明担当が一歩下がるか、前列の誰かが足を出せば引っかかる。


その先が、一瞬で見えた。


マイクスタンドが傾く。

音が鳴る。

前方がざわつく。

開始が遅れる。

人の視線が集まる。


大事故ではない。

でも、目立つ。

そして、連鎖する。


「篠宮さん」

と相沢が低く呼ぶ。

「はい」

「前」

「コードですね」

「うん」

「行きます」


二人はほとんど同時に動いた。


相沢が前方へ向かい、澪がその少し外側を回る。

説明担当の人事部社員が「どうしました?」と目で問う前に、相沢はしゃがみ込んでコードを足元へ寄せた。

澪はすぐにマイクスタンドの位置を半歩だけ内側へずらす。


「失礼します、少しだけ位置を直します」

と澪が自然に言う。

「あ、お願いします」

と人事部社員が答える。


それだけで済んだ。

ざわつきも起きない。

気づいた人は少ない。


だが、少し離れた場所で見ていた高橋が、また妙な顔をしていた。


説明会は定刻通りに始まった。


人事部の説明。

情報システム部の補足。

質疑応答。

途中でプロジェクターが切れることもなく、マイクが途切れることもない。

受付の混乱もなく、空調の苦情も出ない。


表面上は、完璧だった。


総務としては成功だ。

何も起きなかった説明会。

それでいい。

それが仕事だ。


だが相沢は、会場後方の壁際に立ちながら、妙に疲れていた。


何も起きなかったからではない。

起きる前のものを、いくつも潰したからだ。

しかも今日は、そのたびに誰かの視線があった。


「お疲れさまです」

と、説明会終了後に三浦が近づいてきた。

「無事終わりましたね」

「そうだね」

「でも、やっぱり相沢さんってすごいですね」

「何が」

「いや、受付増やしたのも当たってたし、前のコードもすぐ気づいたし」

「たまたまだよ」

「またそれですか」

と三浦が笑う。

「でも、篠宮さんもすぐ動いてましたよね」

「そうですね」

と澪が横から答える。

「見えていたので」

「え?」

と三浦がきょとんとする。

「会場全体が、です」

と澪はさらりと言い直した。

「今日は人が多かったので」

「ああ、なるほど」


相沢は何も言わなかった。

今の言い換えは、かなり危なかった気がする。

でも澪の顔は平然としている。


片づけが始まる。

資料の回収、忘れ物確認、椅子の整頓、機材の返却。

説明会後の大会議室は、終わった安堵と帰りたい空気が混ざって少し雑になる。

そういうときほど、小さな事故は起きやすい。


相沢はスクリーン横のケーブルをまとめながら、ふと入口付近を見る。


高橋がまだいた。

営業部なのに、なぜか片づけを手伝っている。

いや、手伝い半分、様子見半分かもしれない。


「高橋さん、珍しいですね」

と相沢が声をかける。

「いやー、ちょっと気になって」

「何がですか」

「今日の総務、動きよすぎません?」

「褒めてます?」

「半分くらい」

「残り半分は」

「不思議だなって」


軽い調子だった。

でも、前より一歩踏み込んでいる。


相沢が返事を選ぶより先に、澪が横へ来た。


「高橋さん」

「はい?」

「総務は、何も起きないように動くのが仕事です」

「それはそうですけど」

「今日は人が多かったので、少し目立っただけです」

「……なるほど?」

「たぶん、営業部の方が普段は目立ってます」

「それは否定できないなあ」


高橋は笑った。

その笑いに乗るように、空気も少し緩む。


「まあ、助かったのは本当です」

と高橋は言う。

「お疲れさまでした」

「お疲れさまです」

と澪。

「ありがとうございます」

と相沢。


高橋が去ってから、相沢は小さく息を吐いた。


「助かった」

「何がですか」

「今の返し」

「普通です」

「普通がうまいね」

「大事なので」

「最近そればっかりだ」

「影響です」


片づけが終わるころには、外は少し曇っていた。

窓の向こうの光が鈍く、夕方の色が早めに落ちてきている。


総務部へ戻る途中、相沢は廊下の自販機の前で立ち止まった。


「飲みますか」

と澪が聞く。

「少し休みたい」

「珍しいですね」

「疲れたから」

「知ってます」

「そこは“お疲れさまです”じゃないの」

「さっき言いました」

「正しい」


二人で自販機の前のベンチに座る。

相沢は水、澪は無糖のカフェラテを買った。


しばらく、どちらもすぐには口を開かなかった。

説明会が終わったあとの静けさが、少し遅れて体に落ちてくる。


「今日」

と澪が先に言った。

「多かったですね」

「何が」

「小さいの」

「……うん」

「大きくはないけど、放っておくと面倒になるやつ」

「そうだね」

「一番嫌な種類です」

「わかる」


相沢はペットボトルの水を一口飲んだ。

冷たさが、ようやく喉を通る。


「高橋さん」

と澪が言う。

「少し気づき始めてますね」

「やっぱりそう見える?」

「見えます」

「嫌だな」

「でも、今日はごまかせました」

「篠宮さんのおかげで」

「半分です」

「残り半分は?」

「私が見えていたので」

「その言い方、危ないからやめて」

「冗談です」

「顔が冗談じゃない」

「観察中なので」

「便利だなあ」


澪は少しだけ笑った。

それから、缶のふたを指でなぞりながら言う。


「でも」

「?」

「今日みたいな日は、二人の方が自然です」

「自然?」

「相沢さんが気づいて、私が動く」

「逆もあるよ」

「少しだけ」

「少しなんだ」

「まだです」

「何が」

「追いつくのが」

「追いつかなくていいよ、そんなの」

「それは困ります」

「何で」

「補助戦力なので」

「まだ言うんだ、それ」


相沢は思わず笑った。

澪も少しだけ口元を緩める。


「……でも」

と相沢は言う。

「今日は本当に助かった」

「どこがですか」

「いろいろ」

「便利ですね」

「うつったから」

「困りましたね」

「そう思ってないでしょ」

「少しだけ」


廊下の向こうを、別部署の社員が何人か通り過ぎていく。

誰もこちらを気にしていない。

そのことに少しだけ安心する。


「相沢さん」

「なに」

「今日、最初に会場入ったとき」

「うん」

「後ろの椅子、すぐ見ましたよね」

「見たね」

「何が見えてたんですか」

「……引っかかる感じ」

「誰が」

「まだそこまでは」

「でも、出入口に近いと危ないと思った」

「うん」

「そういうの、前より言ってくれるようになりましたね」

「そうだっけ」

「前は“動けばいい”って顔してました」

「そんな顔ある?」

「あります」

「便利だな、その観察」

「役立っているので」


相沢は少しだけ視線を落とした。


たしかに、前よりは言うようになったかもしれない。

全部ではない。

でも、危ない場所や方向くらいは共有するようになっている。

あの日、駅で言われたことが、まだ残っていた。


一人で全部やろうとしないでください。


簡単には変わらない。

でも、少しずつなら変われるのかもしれない。


「次も」

と澪が言う。

「今日くらい共有してください」

「今日くらい?」

「全部はまだ無理そうなので」

「信用が低い」

「現実的です」

「厳しいなあ」

「仕事なので」

「絶対違う」


また少し笑いが混じる。


そのとき、相沢のスマートフォンが震えた。

総務部の内線転送通知だった。


画面を見る。

大会議室。

忘れ物確認の件。


「まだ終わらないね」

と相沢が言う。

「総務なので」

と澪が返す。

「便利ですね、その返し」

「でしょう」


二人で立ち上がる。

ベンチを離れ、また大会議室の方へ向かう。


始まる前のざわめきは終わった。

説明会も終わった。

でも、何もかもが片づいたわけではない。


それでも今日は、少しだけ違った。


起きる前に気づくこと。

その隣で、同じ方向を見る人がいること。

そして、それを周囲の目の中で、ぎりぎり普通に見せること。


難しいことばかり増えていく。

面倒も増えていく。

でも、不思議と前ほど一人きりではなかった。


大会議室の前まで来たところで、澪がふと足を緩めた。


「相沢さん」

「なに」

「今日は、大きいことにはなりませんでしたね」

「そうだね」

「いいことです」

「うん」

「でも、次はもう少し早く言ってください」

「何を」

「どこが危ないか」

「努力します」

「信用度は半分です」

「上がった?」

「少し」

「厳しいなあ」

「観察結果です」


澪はそう言って、先に扉へ手をかけた。


相沢はその背中を見ながら、小さく息を吐く。


始まる前のざわめきは、たしかにあった。

でも今日は、それに飲まれずに済んだ。


一人で先回りするだけではなく、

隣にいる誰かと、少しずつ同じものを見る。


それができるようになってきたのだとしたら、

今日の慌ただしさにも、少しは意味があったのかもしれなかった。


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