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第8.5話 言わないままの理由

雨の降りそうな夕方だった。


窓の外は朝からずっと曇っていて、日が落ちる前から街の色が鈍い。

こういう日は、社内の照明が少しだけ白く見える。

人の声も、いつもより遠く感じる気がした。


総務部は珍しく静かだった。


午後の問い合わせは一段落し、来客もない。

会議室の利用もほぼ終わっていて、残っているのは細かい事務処理ばかりだ。

月末前の確認作業、備品発注、申請書の整理、翌日の会議室準備。


忙しくないわけではない。

でも、慌ただしさとは違う。

手を動かしながら、頭のどこかが少し空く種類の時間だった。


「雨、降りそうですね」

と澪が言った。


相沢は画面から目を離さずに答える。

「そうだね」

「傘、持ってますか」

「持ってる」

「珍しい」

「失礼だな」

「今日は忘れそうな顔してたので」

「どんな顔」

「考えごとしてる顔です」

「便利だね、その観察」

「役立っているので」


相沢は小さく息をついた。


今日は朝から、妙に落ち着かなかった。

何かが起きそう、という感じではない。

むしろ逆だ。

何も起きない日ほど、気が抜けないことがある。


静かな日。

平和な日。

問題の少ない日。


そういう日に限って、自分の中のざわつきだけが目立つ。


「相沢さん」

「なに」

「今日、何かありますか」

「ないと思う」

「“思う”ですね」

「断定できるほど自信がない」

「何も見えてない?」

「見えてない」

「でも落ち着かない」

「……うん」

「面倒ですね」

「ひどいな」

「事実です」


澪はそう言いながら、書類の束をそろえてホチキスで留めた。

その手つきはいつも通り正確で、無駄がない。


相沢はその横顔をちらりと見る。


この人は、こういう静かな時間でも崩れない。

少なくとも、そう見える。

忙しいときも、何もないときも、声の調子が大きく変わらない。

感情がないわけではない。

ただ、表に出す量を自分で決めている感じがある。


「篠宮さんって」

と相沢は言った。

「はい」

「昔からそんな感じ?」

「そんな感じ、とは」

「落ち着いてる」

「褒めてます?」

「半分くらい」

「残り半分は」

「ちょっと怖い」

「失礼ですね」


澪はそう言ったが、少しだけ笑っていた。


「昔からではないです」

と彼女は続ける。

「へえ」

「必要になって、そうなっただけです」

「必要」

「はい」

「何があったの」

「急ですね」

「聞いたのは今だけど、前から少し気になってた」

「観察ですか」

「そっちの真似」

「精度は低いですね」

「厳しいなあ」


澪はすぐには答えなかった。

手元の書類を整え終えてから、ようやく椅子の背にもたれる。


「前に少し言いましたよね」

「家で、そういう人がいたって話?」

「はい」

「家族?」

「母です」


相沢は思わず視線を上げた。

澪は画面ではなく、机の上のペンを見ていた。


「ずっと、というほどではないです」

と澪は言う。

「でも、時々ひどくなる人でした」

「何が」

「先のことを考えすぎるのが」

「……」

「何も起きてないのに、次に悪いことが起きる前提で動くんです」

「……」

「戸締まりを何回も確認したり、連絡が少し遅いだけで事故かもしれないって言ったり、家族が帰る時間を過ぎるとずっと窓の外を見てたり」

「そっか」


相沢はそれ以上、すぐには言えなかった。


それはたぶん、軽い話ではない。

でも澪の口調は重くしすぎない。

事実だけを並べるように話している。

その話し方自体が、たぶん長い時間をかけて身についたものなのだろうと思った。


「昔は」

と澪が続ける。

「私、そういうの全部まともに受けてたんです」

「まともに?」

「母が不安になると、私も不安になるので」

「うん」

「一緒に戸締まりを見たり、一緒に外を見たり、電話がつながるまで何回もかけたり」

「……大変だったね」

「そうですね」

澪は少しだけ首を傾けた。

「でも、そのときはそれが普通だと思ってました」


オフィスの空調の音が、妙に静かに聞こえる。

周りの席にはもう人が少ない。

キーボードを打つ音も、遠くで一つ二つ響くだけだ。


「変わったのは」

と澪が言う。

「高校くらいです」

「何かあった?」

「倒れたんです」

「え」

「母が」

「……」

「大きい病気ではなかったです。過労と、たぶんいろいろ重なって」

「そっか」

「そのとき初めて思いました」

「何を」

「ずっと先のことばかり怖がってると、今の方が先に壊れるんだなって」


相沢は何も言えなかった。


その言葉は、静かだった。

静かなのに、妙に重かった。


澪はそこで初めて、少しだけ苦笑した。


「偉そうですよね」

「そんなことない」

「でも、その頃からです」

「何が」

「終わったことを終わったって言うようになったの」

「……」

「今大丈夫なら、今は大丈夫って区切る」

「簡単じゃないでしょ」

「簡単じゃないです」

「じゃあ何でできるの」

「やらないと、引っ張られるので」

「誰に」

「前の不安に」


その言い方が、妙に澪らしかった。


感情の話をしているのに、言葉が整理されている。

整理しないと扱えないものだったのかもしれない。


相沢はペンを持ったまま、しばらく黙っていた。

何か言った方がいい気もした。

でも、軽い相づちで済ませるのも違う気がした。


「……だからか」

と、ようやく言う。

「何がですか」

「俺に、今は大丈夫って言ったの」

「そうです」

「経験談だったんだ」

「半分くらい」

「残り半分は」

「相沢さんが見ていて危なっかしいので」

「そこは容赦ないね」

「事実です」


少しだけ、空気がやわらぐ。


澪はそこで立ち上がり、給湯室の方を見た。

「コーヒー、飲みますか」

「飲む」

「甘くないやつでいいですか」

「今日はそれで」

「珍しいですね」

「何が」

「少し疲れてる顔してるので」

「顔で判断しないで」

「最近、精度が上がってるので」


そのやり取りに、相沢は少しだけ笑った。


澪が席を外している間、相沢は画面を見たまま考える。


必要になって、そうなっただけです。


その言葉が残っていた。


自分も、たぶん少し似ている。

望んでこうなったわけではない。

必要だったから、備えるようになった。

間に合わせるようになった。

見ないふりができなくなった。


でも、澪はそこからもう一歩先へ行っている。

備えるだけではなく、区切ることを覚えた。

終わったことを終わらせる方法を、自分なりに作った。


戻ってきた澪が、紙コップを一つ差し出す。

「どうぞ」

「ありがとう」

「熱いので気をつけてください」

「うん」


一口飲む。

少し苦い。

でも、ちょうどよかった。


「篠宮さん」

「はい」

「今も、その……お母さんは?」

「元気です」

「そっか」

「前よりずっと落ち着いてます」

「よかった」

「本当に」

澪はそこで少しだけ表情をやわらげた。

「今は、私の方がうるさいくらいです」

「想像つくなあ」

「失礼ですね」

「褒めてる」

「受け取りません」


相沢は紙コップを持ったまま、少し迷ってから言った。


「だから、人の変化に気づくの?」

「たぶん」

「俺が落ち着かないのも」

「わかりやすいです」

「そんなに?」

「かなり」

「嫌だな」

「でも、役には立ってます」

「何の」

「声をかけるタイミングの判断に」

「管理されてるみたい」

「半分くらいは」

「残り半分は?」

「観察です」

「便利だなあ」


澪はまた少し笑った。

その笑い方は、前より柔らかい。

会社の中でも、相沢の前では少しだけそういう顔をするようになっている気がした。


「相沢さん」

「なに」

「一つだけ言っていいですか」

「どうぞ」

「先のことを考えるのは、たぶんやめられないと思います」

「……うん」

「私も、完全にはやめられないので」

「篠宮さんも?」

「ええ。今でも、連絡が遅いと少し気になります」

「意外」

「そう見せないだけです」

「なるほど」

「でも」

澪は紙コップを机に置いた。

「一人で抱える形にしない方がいいです」

「……」

「自分の中だけで増やすと、際限がなくなるので」

「それは、経験談?」

「そうです」


相沢はコーヒーの表面を見た。

薄い色の液面が、照明をぼんやり映している。


一人で抱える形にしない方がいい。


それはたぶん、今の自分に向けた言葉であり、

昔の澪自身に向けた言葉でもあるのだろう。


「共有しろってこと?」

と相沢が聞く。

「全部じゃなくていいです」

「どこが危ないか、とか」

「それだけでも十分です」

「……努力します」

「信用度は四割です」

「下がってない?」

「現状維持です」

「厳しいなあ」

「観察結果なので」


外で、ようやく雨が降り始めた。

窓に細かい音が当たる。

社内の明るさが、急に外と切り離されたみたいに見えた。


定時を少し過ぎて、残っていた社員たちもぽつぽつ帰り始める。

総務部の島には、相沢と澪、それから少し離れた席に三浦がいるだけになった。


三浦は書類をまとめながら、

「お先に失礼します」

と頭を下げる。

「お疲れさま」

と相沢。

「気をつけて帰ってください」

と澪。

「雨、強いですねえ」

「傘あります?」

「あります。今日はちゃんと」

「偉いですね」

「篠宮さんに言われると複雑です」

と三浦が笑って出ていく。


扉が閉まる。

静かになる。


「今日は本当に静かですね」

と相沢が言う。

「そうですね」

「何も起きない」

「いいことです」

「うん」

「でも、相沢さんは少し落ち着かない」

「……うん」

「面倒ですね」

「ひどいなあ」


澪はそこで、少しだけ真面目な顔になった。


「でも」

「?」

「何も起きない日に落ち着かないの、少しわかります」

「篠宮さんも?」

「昔は特に」

「今は?」

「今は、前よりましです」

「どうやって」

「確認する範囲を決めます」

「範囲?」

「戸締まりなら一回。連絡なら一回。考えるならここまで、って」

「できるもの?」

「最初は無理でした」

「今は?」

「たまに失敗します」

「するんだ」

「人間なので」

「ちょっと安心した」

「失礼ですね」


相沢は笑って、それから少しだけ真面目な声で言った。


「話してくれてありがとう」

「どういたしまして」

「軽いな」

「重く受け取られるの、あまり好きじゃないので」

「……そっか」

「でも」

澪は少しだけ視線を上げた。

「相沢さんになら、まあいいかと思いました」

「それ、結構すごいこと言ってない?」

「そうですか」

「うん」

「なら、忘れてください」

「無理だよ」

「でしょうね」


雨音が少し強くなる。

窓の外の街灯が、濡れたガラスの向こうでぼやけていた。


帰る支度をしながら、相沢はふと思う。


この人は、ただ鋭いだけじゃない。

ただ世話焼きなだけでもない。

不安に引っ張られる人を見てきたから、

その兆しに気づくし、放っておけないのだ。


そしてたぶん、自分自身も少しはそういう側にいた。


「帰りますか」

と澪が言う。

「うん」

「駅まで、今日は傘いりますね」

「そうだね」

「忘れてなくてよかったです」

「まだ言う」

「大事なので」


二人でオフィスを出る。

廊下は静かで、足音だけが少し響く。


エレベーターを待つ間、相沢は壁にもたれて小さく息をついた。

疲れているわけではない。

でも、今日はいつもと違う種類の重さがあった。


澪の話を聞いたからだろう。

あるいは、自分の中に似たものを見つけてしまったからかもしれない。


「相沢さん」

「なに」

「今日、何も起きませんでしたね」

「そうだね」

「いい日です」

「うん」

「でも」

「?」

「何も起きない日に落ち着かないの、少しずつ慣れてください」

「難しいこと言う」

「経験者なので」

「説得力あるなあ」

「でしょう」


エレベーターの扉が開く。

二人で乗り込む。

閉まる直前、オフィスの白い光が細く切り取られて、それもすぐに消えた。


何も起きない日だった。


本当に、それだけの日だった。


でも、何も起きない日の中でしか聞けない話もある。

慌ただしさに紛れないからこそ、見えるものもある。


先の不安に引っ張られること。

終わったことを終わらせること。

一人で抱え込まないこと。


どれも簡単ではない。

たぶん、これからも簡単にはならない。


それでも、少なくとも今は、

その難しさを知っている相手が隣にいる。


それだけで、静かな夜の重さは少しだけ変わる気がした。


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