表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/18

第9話 言う前に動く癖

午後三時を過ぎたころ、空気が少し変わった。


最初に気づいたのは、音だった。


総務部の島の上を流れていた空調の低い駆動音が、ふっと弱くなる。

完全に止まったわけではない。

でも、いつもと違う。

照明も一瞬だけわずかに明滅した。


相沢は顔を上げた。


「今の」

と三浦が言う。

「ちょっと暗くなりませんでした?」

「なったね」

と澪が答える。

「ブレーカーですかね」

「まだわからない」

と相沢は言った。


その瞬間、胸の奥に嫌なざわつきが走る。


大きな事故ではない。

だが、こういう小さな設備の揺れは、別の混乱を呼びやすい。

照明、空調、エレベーター、会議室の機材、給湯室のポット、来客用の自動ドア。

一つが不安定になると、連鎖して問い合わせが増える。


しかも今日は、午後に社内打ち合わせがいくつか重なっていた。

会議室利用も多い。

人が動く時間帯でもある。


「相沢さん」

と澪が小さく呼ぶ。

「はい」

「どこですか」

「……まだ、散ってる」

「設備系?」

「たぶん」

「会議室?」

「それもある」

「他は」

「エレベーターと、給湯室と……受付前」

「多いですね」

「嫌な感じしかしない」


言いながら、相沢はもう立ち上がっていた。


その動きを見て、三浦がきょとんとする。

「え、何かあるんですか」

「まだ確定じゃないけど」

と相沢は答える。

「念のため、会議室の利用状況だけ見ておいて」

「は、はい」


澪もすぐに立ち上がる。

「私は受付見ます」

「お願い」

「エレベーターは?」

「あとで確認する」

「給湯室」

「先に声だけかける」

「わかりました」


そこまで言ってから、相沢は一瞬だけ止まった。


今のは、少しだけうまくいった。

全部ではないが、どこを気にしているかを先に言えた。

澪もそれを受けて動けた。

この前話したことが、頭のどこかに残っていたのかもしれない。


一人で抱える形にしない方がいいです。


総務部を出た途端、廊下の向こうでざわめきが起きた。


「プロジェクター落ちた?」

「いや、電源が……」

「一回切れたかも」


会議室Bの前で、営業部の高橋が困った顔をしている。

中では打ち合わせ中らしく、扉の隙間から数人の声が漏れていた。


「高橋さん」

と相沢が声をかける。

「今、機材ですか」

「あ、相沢さん。急に画面消えて、また戻ったんですけど」

「完全には落ちてない?」

「今は映ってます。でもまた切れたら困るなって」

「予備の延長コード、抜けかけてないですか」

「え?」

「足元、見てもらっていいですか」

「あ、はい」


高橋が机の下をのぞき込む。

「あ、ほんとだ。少し緩いかも」

「差し直してください」

「了解です」


相沢はその場に入らず、扉の外から状況だけ確認した。

今はまだ大丈夫。

でも、こういう“戻ったから平気”が一番危ない。


そのまま給湯室へ向かう。

途中、照明がまた一瞬だけ揺れた。


嫌な感じが少し強くなる。


給湯室では、電気ポットの前で人事部の女性社員が首をかしげていた。

「お湯、沸かない……?」

「一度電源確認してもらえますか」

と相沢が言う。

「今、少し電気が不安定かもしれません」

「え、大丈夫ですか?」

「まだ確認中です。熱いもの扱ってるので、少しだけ気をつけてください」

「わかりました」


言いながら、相沢の頭の中では別の映像が浮かんでいた。


受付前。

来客用の自動ドア。

一瞬止まる。

人が戸惑う。

後ろから来た人がぶつかる。

入館証の受け渡しが乱れる。


「……受付」

と相沢は小さくつぶやいた。


そのとき、内線が鳴った。

総務部からの転送だ。


「はい、相沢です」

『受付です。自動ドア、少し反応が鈍いみたいで』

「やっぱり」

『え?』

「いえ、今行きます」


電話を切って、相沢は足を速めた。


受付前にはすでに澪がいた。

自動ドアの前で立ち位置を少し変えながら、来客の導線を見ている。

受付担当の女性が不安そうな顔をしていた。


「相沢さん」

「どう?」

「完全停止ではないです。でも反応が遅いです」

「人が重なると危ないね」

「はい。今は私が声かけしてます」

「助かる」


ちょうどそのとき、外から来客が二人続けて入ろうとして、ドアの開きが一瞬遅れた。

先頭の一人が少しだけ立ち止まり、後ろの人が詰まりかける。


「どうぞ、ゆっくりで大丈夫です」

と澪がすぐに声をかける。

その声で二人とも足を止め、ぶつからずに済んだ。


相沢は受付担当へ向き直る。

「しばらく、ドア前に一人立って誘導してください」

「はい」

「来客が重なったら、手動で開けます」

「わかりました」


そこまで対応したところで、施設管理から連絡が入った。

館内の一部電圧が不安定になっているらしい。

原因確認中。

大規模停電ではないが、精密機器と自動設備に一時的な影響が出る可能性あり。


「最悪ではないですね」

と澪が言う。

「最悪ではない」

と相沢も答える。

「でも、面倒」

「かなり」


二人はそのまま受付前に立ち、しばらく人の流れを見た。


来客、外出から戻る社員、荷物を運ぶ業者。

自動ドアの反応が少し遅いだけで、人は思った以上に戸惑う。

普段通りに動ける前提が崩れると、足が止まる。

足が止まると、後ろが詰まる。

それだけで小さな危険になる。


「相沢さん」

「なに」

「今、他にありますか」

「……エレベーター」

「閉まり方ですか」

「たぶん」

「見てきます」

「一人で大丈夫?」

「今のうちなら」

「無理しないで」

「それ、そっくり返します」


澪はそう言って、エレベーターホールの方へ向かった。


相沢はその背中を見送りながら、少しだけ息をつく。

前なら、自分も一緒に行っていたかもしれない。

あるいは、自分だけで全部見ようとしていた。

でも今は、任せるという選択肢が少しだけ現実になっている。


その数分後、澪が戻ってきた。


「閉まるのが少し早いです」

「やっぱり」

「挟まり防止は生きてます。でも、乗り降りが重なると危ないです」

「張り紙出そう」

「もう出しました」

「早いね」

「観察結果です」

「便利だなあ」


澪が見せた簡易掲示には、

『設備点検中のため、エレベーターのご利用は足元と扉にご注意ください』

と簡潔に書かれていた。

総務の予備掲示を使ったらしい。


「ありがとうございます」

と、通りかかった経理部の社員が言う。

「今日ちょっと変ですよね」

「現在確認中です」

と澪が答える。

「ご不便をおかけします」

その言い方があまりに自然で、相沢は少し感心した。


午後四時前には、問い合わせが一気に増えた。


会議室のモニターが一瞬消えた。

給湯室のポットが再起動した。

コピー機が止まってまた動いた。

エレベーターの扉が少し早い。

自動ドアの反応が鈍い。


どれも致命的ではない。

だが、全部が“少し気になる”。

そしてその“少し”が重なると、人は不安になる。


総務部の電話が鳴り続ける。

三浦が対応し、受付担当が状況を伝え、相沢が施設管理と連絡を取り、澪が館内を回って注意喚起を出す。


その最中、また照明が一瞬だけ揺れた。


相沢の頭の中で、いくつかの断片が急につながる。


会議室C。

窓のない小部屋。

照明が落ちる。

中にいる人が一瞬焦る。

立ち上がる。

椅子の脚。

鞄。

足元。


「会議室C」

と相沢が言った。

「え?」

と三浦が振り向く。

「今ですか?」

「打ち合わせ入ってる?」

「えっと……はい、四人」

「篠宮さん」

「行きます」

「照明」

「わかりました」


今度は、言うより先に澪が動いた。

相沢も後を追う。


会議室Cの前まで来たところで、中から椅子を引く音がした。

扉を開けると、ちょうど一人が立ち上がりかけている。

照明は落ちていない。

だが、さっきの明滅で空気が少し浮いていた。


「失礼します」

と澪が先に声をかける。

「設備が少し不安定なので、足元だけご注意ください」

「あ、はい」

と中の社員が答える。

その一言で、立ち上がりかけた人も動きを止めた。


次の瞬間、照明が一瞬だけ落ちた。


完全な暗闇ではない。

非常灯がすぐにつく。

でも、何も言わずに起きていたら、誰かが反射的に動いていたかもしれない。


「大丈夫です」

と相沢が言う。

「すぐ戻ります。座ったままでお願いします」

「わ、わかりました」


数秒後、照明は戻った。


会議室を出たあと、相沢は小さく息を吐いた。

「今のは危なかった」

「はい」

と澪が答える。

「でも、先に言えましたね」

「……半分くらい」

「前よりは」

「そうだね」


廊下の向こうで、高橋がこちらを見ていた。

たぶん、今の出入りも見ていたのだろう。

目が合うと、軽く手を上げてくる。


「大丈夫ですか?」

「今のところは」

と相沢が答える。

「何かあったら、座ったまま待機でお願いします」

「了解です。……相沢さん、ほんと早いですね」

「総務なので」

「それ便利ですねえ」

「最近よく言われる」

「言いたくなるので」


高橋は笑って去っていった。

その背中を見ながら、相沢は少しだけ眉を寄せる。


やはり見られている。

しかも前より具体的に。


午後四時半を過ぎたころ、施設管理から復旧連絡が入った。

原因は館内一部系統の瞬間的な電圧低下。

すでに安定化済み。

しばらく様子見は必要だが、大きな影響はない見込み。


総務部に戻ると、三浦が大きく息をついた。

「終わった……」

「お疲れさま」

と澪が言う。

「電話対応、助かりました」

「いえ、もう何が何だか」

「十分です」

と相沢も言う。

「混乱してないだけで助かる」

「そういうものですか」

「そういうもの」


三浦はへなっと笑って、自席に座り込んだ。


ようやくフロアの空気が落ち着いてくる。

電話も止まり、照明も安定し、空調も元に戻った。

何人かの社員が「直ったみたいですね」と言いながら仕事へ戻っていく。


表面上は、何事もなかったように終わる。

たぶん今日もそうなる。


「相沢さん」

と澪が小さく言う。

「はい」

「今日は、前より言えてました」

「どこが?」

「どこが危ないか」

「……全部じゃないよ」

「全部は求めてません」

「優しい」

「現実的です」

「厳しいなあ」


澪は少しだけ笑った。

それから、声を落とす。


「でも、言う前に動く癖はまだ強いですね」

「否定できない」

「会議室C、半歩早かったです」

「見えてた?」

「相沢さんが、です」

「そこか」

「そこです」


相沢は思わず息をついた。


たしかにそうだった。

会議室Cのとき、自分は澪に伝えたつもりで、実際にはもう体が先に動いていた。

言葉より先に足が出る。

長く染みついた癖だ。

簡単には抜けない。


「でも」

と澪が言う。

「今日は、前よりずっとましです」

「本当?」

「本当です」

「信用していい?」

「六割くらいで」

「上がった」

「少し」

「厳しい評価だなあ」

「観察結果なので」


定時が近づくころ、高橋がまた総務へ顔を出した。


「さっきは助かりました」

「何かありました?」

と三浦が聞く。

「会議室Cの近くで、ちょっとざわついてたんですよ」

「へえ」

「でも相沢さんと篠宮さんがすぐ来たから、何も起きなかった」

「総務なので」

と相沢が言う。

「またそれだ」

と高橋が笑う。

「でも今日、二人とも動きが早すぎません?」

「気のせいです」

「それも便利ですね」

「便利な言葉が多い部署ですねえ」

「影響です」

と澪が言う。


高橋は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。

「何それ、ちょっと面白いですね」

「そうですか」

「はい。何か最近、総務の会話テンポよくないですか」

「気のせいです」

と相沢。

「少しあります」

と澪。


やめてほしい。

本当にそういうところだ。


高橋が去ったあと、三浦がぽつりと言った。

「でも、ほんと助かりました」

「何が?」

と相沢が聞く。

「今日、何か起きそうで起きない感じ、ずっとあったじゃないですか」

「……」

「私、途中からちょっと焦ってたんですけど、相沢さんと篠宮さんが普通に動いてるから、何とかなる気がして」

「それは」

相沢は少し言葉を探した。

「たまたま落ち着いて見えただけだよ」

「またそれですか」

と三浦が笑う。

「でも、そういうの大事ですね」


その言葉に、相沢は返事をしなかった。


落ち着いて見えること。

普通に見えること。

それはたぶん、今の自分たちにとって必要なことだった。


帰る支度をしながら、相沢はふと澪を見る。

澪はいつも通りの顔で書類をそろえている。

でも、今日は少しだけ疲れて見えた。


「篠宮さん」

「はい」

「お疲れ」

「相沢さんも」

「今日は助かった」

「知ってます」

「そこは普通に返して」

「どういたしまして」

「雑だなあ」

「二回目なので」

「そういう問題かな」


澪は少しだけ笑って、鞄を持った。


「帰りますか」

「うん」

「今日は、大きいことにはなりませんでしたね」

「そうだね」

「いいことです」

「うん」

「でも」

「?」

「次は、もう少し早く言ってください」

「努力します」

「信用度は六割です」

「さっきから細かいなあ」

「観察結果なので」


二人で並んでオフィスを出る。


廊下の照明は安定していて、もう揺れない。

空調の音もいつも通りだ。

さっきまでのざわつきが嘘みたいに、会社は元の顔へ戻っている。


何も起きなかったわけではない。

でも、大きなことにはならなかった。


それは運だけではなく、

少しだけ言葉にして、

少しだけ任せて、

少しだけ一人で抱えないようにした結果でもあるのかもしれなかった。


言う前に動く癖は、まだ抜けない。

たぶん、すぐには変わらない。


それでも今日、

言葉がほんの少しだけ先に出た場面があった。


その小さな変化を、

隣にいる誰かがちゃんと見ていた。


それだけで、次も少しはましにできる気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ