第10話 似た音
その日は、何事もなく終わるはずだった。
午後の問い合わせは落ち着いていて、来客対応も少ない。
設備の不具合もなく、会議室の利用も予定通り。
総務部としては珍しいくらい、平穏な一日だった。
「今日は静かですね」
と三浦が言ったのは、定時の少し前だった。
「いいことです」
と澪が答える。
「相沢さんも、今日は落ち着いてますね」
「比較対象がひどいな」
「普段が悪いみたいじゃないですか」
「みたいじゃなくて、少しあります」
と澪が言う。
「篠宮さん?」
「観察結果です」
「最近それ便利に使ってない?」
「便利なので」
三浦が笑う。
相沢も苦笑して、パソコンの画面を閉じた。
今日は本当に、何もなかった。
何も起きない日。
それはいいことのはずなのに、相沢はまだ少しだけ慣れない。
けれど前よりはましだった。
何もないことを、何もないまま終わらせる。
それを受け入れる感覚が、少しずつ身についてきている気がする。
「お先に失礼します」
と三浦が立ち上がる。
「お疲れさま」
「気をつけて帰ってください」
「はい。お二人も」
三浦が去ったあと、総務部には相沢と澪だけが残った。
澪は明日の会議室利用表を確認し、相沢は共有フォルダの更新を終える。
いつもの終業前の静かな時間だった。
「篠宮さん」
「はい」
「今日は本当に何もなかったね」
「そうですね」
「こういう日、ちょっと安心する」
「少しは慣れてきましたか」
「少しは」
「それはよかったです」
「信用度は?」
「五割から六割の間です」
「細かいなあ」
「観察結果なので」
「便利だね」
「役立っているので」
澪はそう言って、ファイルを閉じた。
帰り支度をして、二人でオフィスを出る。
廊下は静かで、エレベーターもすぐに来た。
一階へ降りる間も、特に会話はない。
でも気まずさはなかった。
黙っていても平気な時間が、少しずつ増えている。
外へ出ると、空気は少し湿っていた。
昼間より気温が下がって、風が駅前のビルの間を抜けていく。
人の流れは多い。
退勤時間の駅前は、いつも少しだけせわしない。
「今日はまっすぐ帰りますか」
と澪が聞く。
「そのつもり」
「寄り道なし?」
「なし」
「珍しい」
「どういう意味」
「考えごとが多い日は、少し歩いてから帰ることがあるので」
「よく見てるね」
「役立っているので」
「本当に便利だなあ」
駅へ向かう横断歩道の手前で信号が変わる。
人の流れが一度止まり、青になった瞬間にまた動き出す。
その波に合わせて二人も歩き出した。
駅構内は、いつも通り混んでいた。
改札前の電子音。
アナウンス。
足音。
話し声。
電車が入ってくる低い振動。
どれも日常の音だ。
聞き慣れている。
それなのに、その日は一つだけ、妙に耳に引っかかる音があった。
金属が強く擦れるような、短い高い音。
相沢の足が止まった。
ほんの一瞬だった。
でも、その音はあまりにも似ていた。
ブレーキ。
レール。
急停止。
人のざわめき。
誰かの叫び声。
頭の中で、今の駅ではない別の場所が立ち上がる。
白い照明。
ホームの端。
押し寄せる人の流れ。
遅れて聞こえる非常ベル。
「相沢さん」
澪の声がした。
けれど、すぐには届かなかった。
また音が鳴る。
今度は少し遠くで、台車の車輪が金属の継ぎ目を越えた音だと、どこかではわかっている。
でも体は先に反応していた。
人が多い。
ホーム。
危ない。
止めないと。
相沢はほとんど反射で人の流れの方へ踏み出した。
「相沢さん!」
今度の声は、はっきり聞こえた。
同時に、腕をつかまれる。
強い力ではない。
でも、止める意志がはっきり伝わる掴み方だった。
相沢はそこでようやく振り向く。
澪が、いつになく真っ直ぐな目でこちらを見ていた。
「今の音です」
と澪が言う。
「……」
「今、ここです」
「……あ」
「見てください」
澪は相沢の腕を離さず、視線だけで前を示した。
改札横で、駅員が台車を押している。
その車輪が金属の見切りに引っかかって、さっきの高い音を立てていた。
周囲の人は少し避けて通るだけで、混乱はない。
誰も走っていない。
誰も叫んでいない。
非常ベルも鳴っていない。
ただの駅の、ただの雑音だった。
相沢は息を吸おうとして、うまくできなかった。
胸の奥が妙に固い。
喉が狭くなったみたいに、空気が浅い。
「……ごめん」
と、やっと言う。
「謝らなくていいです」
と澪は答えた。
「でも、止まってください」
「うん」
「ちゃんと見てください」
「……うん」
澪の声は低く、静かだった。
静かなのに、逃がさない。
仕事中の落ち着いた声とも少し違う。
相沢個人に向けて、まっすぐ届く声だった。
「端に寄りましょう」
と澪が言う。
「人の流れから外れます」
「……わかった」
二人は改札脇の壁際まで移動した。
自販機の横、少し人通りの薄い場所だ。
そこまで来て、相沢はようやく深く息を吐いた。
「水、買います」
と澪が言う。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない顔してます」
「顔で判断しないで」
「今はします」
澪は返事を待たずに小さいペットボトルの水を買った。
キャップを開けて差し出され、相沢は素直に受け取る。
一口飲む。
冷たさで、少しだけ意識が戻る。
「……助かった」
「知ってます」
「そこは普通に返して」
「どういたしまして」
「雑だなあ」
「二回目なので」
そのやり取りで、少しだけ呼吸が整う。
澪は壁に背を預けず、相沢の少し斜め前に立っていた。
人の流れと相沢の間に入る位置だ。
無意識なのか、意図的なのかはわからない。
でも、その立ち方に守る意志があるのはわかった。
「似てたんですか」
と澪が聞いた。
相沢はすぐには答えなかった。
答えたくないわけではない。
ただ、言葉にするまでに少し時間が必要だった。
「……音が」
と、やがて言う。
「昔の?」
「たぶん」
「たぶん、ではなく」
澪は少しだけ言い直すように続ける。
「そうだったんですね」
「……うん」
澪はそれ以上、無理に聞かなかった。
でも、黙って流しもしなかった。
「今、何が見えましたか」
その聞き方に、相沢は少しだけ救われる。
“何を思い出しましたか”ではなく、“何が見えましたか”。
責めずに、でも曖昧にもさせない聞き方だった。
「ホーム」
と相沢は言う。
「人が多くて、誰かが押されて……」
そこで言葉が止まる。
実際に今見えているわけではない。
でも、頭の中では鮮明だった。
「止めないとって思った」
「今の駅で?」
「違う」
「はい」
「でも、体が先に動いた」
澪は小さくうなずいた。
「似た音で、引っ張られたんですね」
「……たぶん」
「はい」
「ごめん」
「だから、謝らなくていいです」
澪は少しだけ息をついて、それから言った。
「でも、次は先に言ってください」
「……」
「動く前に」
「できるかな」
「やってください」
「厳しいなあ」
「今は厳しく言います」
相沢は思わず少し笑った。
笑ったせいで、逆に自分がどれだけ張っていたかがわかる。
肩の力が少し抜けた。
「篠宮さん」
「はい」
「さっき、強かったね」
「止める必要があったので」
「怒ってた?」
「少し」
「やっぱり」
「相沢さんが、今ここを見てなかったので」
「……うん」
「それは困ります」
「ごめん」
「それは受け取ります」
少しだけ間が空く。
改札の向こうで、電車到着のアナウンスが流れた。
今度はもう、ただの音として聞こえた。
「前に言いましたよね」
と澪が言う。
「一人で抱える形にしない方がいいって」
「うん」
「こういうのもです」
「こういうのも?」
「見えたことだけじゃなくて、引っ張られる感じも」
「……」
「危ない場所だけ共有するんじゃ足りないときがあります」
「そうだね」
「今みたいに、相沢さん自身が危ないときもあるので」
その言葉に、相沢は返事ができなかった。
自分が危ない。
そう言われて、ようやく腑に落ちる。
今までずっと、危ないのは周りだと思っていた。
自分はそれを先に見て、避ける側だと。
でも違う。
過去に引っ張られた瞬間、自分自身もまた危うくなる。
「……見えてるつもりで、見えてなかった」
と相沢は言った。
「はい」
「今の駅も、人の流れも」
「はい」
「篠宮さんが止めなかったら、たぶん変な動きしてた」
「したと思います」
「断言するね」
「観察結果なので」
「便利だなあ」
「役立っているので」
その言い方がいつも通りで、相沢は少しだけ安心した。
澪は少し考えてから、声を落とした。
「相沢さん」
「なに」
「見えることと、引っ張られることは、同じじゃないです」
「……」
「そこ、分けてください」
「分けられるかな」
「すぐには無理でも、分けるつもりではいてください」
「つもり」
「はい。全部同じにすると、苦しくなるので」
それはたぶん、澪自身の経験から出てきた言葉だった。
不安に引っ張られること。
今と過去が混ざること。
それを少しずつ整理してきた人の言葉だ。
「……努力します」
と相沢は言う。
「信用度は?」
「今は三割です」
「低いなあ」
「さっき走りかけたので」
「厳しい」
「当然です」
二人は少しだけその場に留まってから、改札を通った。
ホームへ向かう階段は混んでいたが、さっきほどの圧迫感はない。
相沢は意識して、今見えているものを一つずつ確認した。
前を歩く学生。
手すり。
足元の黄色い線。
電光掲示板。
ホームドア。
澪の背中。
今ここ。
今の音。
今の人の流れ。
電車が入ってくる。
ブレーキ音がする。
少しだけ胸がざわつく。
でも、さっきほどではない。
「大丈夫ですか」
と澪が聞く。
「完全ではないけど」
「はい」
「さっきよりは」
「それで十分です」
ホームの端から少し離れた位置に並ぶ。
澪は何も言わない。
でも、相沢が線の内側にいることをちゃんと見ている気配がした。
電車が止まり、扉が開く。
人が降りて、人が乗る。
その流れも今日はやけに鮮明に見えた。
車内に入って、吊り革の前に立つ。
混んではいるが、押しつぶされるほどではない。
窓に映る自分の顔は、少し疲れていた。
「今日は」
と相沢が言う。
「何もなかった日だったのにね」
「そうですね」
と澪が答える。
「でも、何も起きない日だから出るものもあります」
「……それ、あの日のような言い方だね」
「何ですかそれ」
「なんでもない」
澪は少しだけ怪訝そうな顔をしたが、追及はしなかった。
電車が揺れて、次の駅へ向かう。
車内アナウンスが流れる。
もうその音は、ただの案内として聞こえた。
「篠宮さん」
「はい」
「さっき、ありがとう」
「どういたしまして」
「今度はちゃんとしてる」
「一回目なので」
「基準がわからないなあ」
「私にも少しはあります」
相沢は小さく笑って、それから少し真面目な声で言った。
「次、ああいうのがあったら」
「はい」
「動く前に言う」
「はい」
「今、引っ張られてるかもしれないって」
「それは助かります」
「できるだけ」
「“できるだけ”は減点です」
「厳しいなあ」
「観察結果なので」
電車の窓に、流れていくホームの灯りが映る。
相沢はそれを見ながら思う。
見えているつもりで、見えていないことがある。
危険を避けるつもりで、過去に引き戻されることがある。
一人で先に動くことが、正しいとは限らない。
それでも、止めてくれる人がいる。
今ここを見ろと言ってくれる人がいる。
それはたぶん、思っていたよりずっと大きいことだった。
次の駅で、二人は降りた。
改札へ向かう人の流れは穏やかで、さっきのようなざわつきはもうない。
階段を上がりながら、澪が言う。
「相沢さん」
「なに」
「今日は、少し進みました」
「そうかな」
「はい」
「どこが」
「止められました」
「それ、俺の成果じゃなくない?」
「止められて、止まったので」
「……なるほど」
「大事です」
「そうだね」
駅の外へ出ると、夜風が少しだけ涼しかった。
何かが解決したわけではない。
過去が消えたわけでもない。
似た音を、もう二度と怖がらないわけでもない。
でも少なくとも今日は、
引き戻されるだけで終わらなかった。
今ここへ戻る道を、
相沢は一人ではなく、隣にいる誰かと一緒に見つけたのだった。




