第10.5話 引き戻す人
翌朝、相沢は少し早く会社に着いた。
早く来るつもりだったわけではない。
ただ、家を出る時間をうまく調整できなかった。
じっとしていると、昨日の駅の音を思い出しそうだったから、少しでも動いていたかったのかもしれない。
まだ始業前のフロアは静かだった。
照明はついているが、人はまばらで、コピー機の起動音だけがやけに大きく聞こえる。
総務部の島にも、まだ誰もいない。
相沢は自席に鞄を置いて、パソコンを立ち上げた。
画面が明るくなる。
いつものログイン画面。
いつもの朝。
それだけのことに、少しだけ安心する。
昨日のことは、もう終わった。
大きな事故が起きたわけではない。
誰かが怪我をしたわけでもない。
ただ、自分が一瞬、今ここを見失っただけだ。
それだけ。
そう言い切れればよかった。
「おはようございます」
と声がして、相沢は顔を上げた。
澪だった。
いつも通りの声。
いつも通りの歩幅。
でも、相沢を見る目だけが少しだけ静かだった。
「おはよう」
「早いですね」
「そっちも」
「今日は少し」
「奇遇だね」
「そうですね」
澪はそれ以上何も言わず、自席に荷物を置いた。
その距離感がありがたかった。
気を遣いすぎず、でも何も見ていないふりもしない。
そういうところが、この人はうまい。
しばらくして、澪が給湯室からマグカップを二つ持って戻ってきた。
一つを相沢の机に置く。
「どうぞ」
「……ありがとう」
「インスタントです」
「十分だよ」
「今日は甘くないです」
「昨日の反動?」
「少しあります」
「観察結果?」
「配慮です」
「珍しい」
「失礼ですね」
相沢は少しだけ笑った。
その笑い方が、自分でも思ったより自然だった。
コーヒーを一口飲む。
熱い。
苦い。
でも、頭が少しだけはっきりする。
「篠宮さん」
「はい」
「昨日」
「はい」
「……助かった」
「知ってます」
「そこ、最近固定なんだ」
「便利なので」
「本当に便利だなあ」
澪は自席に座らず、相沢の机の端に軽く手を置いたまま立っていた。
急かさないけれど、逃がさない立ち方だった。
「昨日のこと」
と澪が言う。
「少しだけ、整理しますか」
「朝から?」
「朝の方がいいです」
「どうして」
「引きずったまま始業すると、今日の観察精度が落ちるので」
「仕事の話にした」
「その方が相沢さんが逃げにくいので」
「厳しいなあ」
「必要なので」
相沢はマグカップの縁を見た。
白い陶器の縁に、照明が細く映っている。
「……昨日さ」
「はい」
「自分でも、変だってわかってたんだよ」
「はい」
「でも止まれなかった」
「はい」
「音がした瞬間に、もう別の場所にいた感じがして」
「駅ではなく」
「うん」
「過去に」
「たぶん」
澪はうなずいた。
否定もしないし、過剰に深刻にも受け取らない。
ただ、言葉を置く場所を作ってくれる。
「前から、ああいうことはあったんですか」
と澪が聞く。
「……少しは」
「少し」
「似たような音とか、空気とかで、嫌な感じが強くなることはあった」
「でも昨日ほどではない」
「昨日ほどじゃない」
「止まれなくなるほどではなかった」
「うん」
そこで澪は、少しだけ考えるように黙った。
「相沢さん」
「なに」
「昨日のあれは、“見えた”んですか」
「……」
「それとも、“思い出した”んですか」
相沢はその問いに、すぐ答えられなかった。
ずっと曖昧だった。
先に見える感覚と、嫌な予感と、過去の記憶。
全部が同じ場所から来ている気がしていた。
でも昨日のことを思い返すと、少し違う気もする。
「……思い出した、の方が近いかもしれない」
と相沢は言った。
「昨日の駅で何かが見えたっていうより、昔の方に引っ張られた」
「はい」
「でも、その瞬間は区別つかなかった」
「そうでしょうね」
「わかるの?」
「少しは」
「どうして」
「不安って、今のものと昔のものが混ざることがあるので」
「……そっか」
それはたぶん、澪自身の話でもあった。
母親の不安に引っ張られていた頃のこと。
何も起きていないのに、次の悪いことを前提にしてしまう感覚。
今とまだ起きていない先が混ざること。
澪はそれを知っている。
「だから」
と澪が言う。
「昨日、止めました」
「うん」
「“今の音です”“今ここです”って」
「……うん」
「区別がつかなくなっていたので」
「助かった」
「はい」
相沢はそこで、少しだけ息をついた。
「俺さ」
「はい」
「今まで、危ないのは周りだと思ってた」
「……」
「自分は先に気づく側で、避ける側で、間に合うように動く側だって」
「はい」
「でも昨日、違った」
「そうですね」
「自分も普通に危なかった」
「はい」
「それ、ちょっと……思ったより効くね」
「そうでしょうね」
澪の返事は静かだった。
慰めるでもなく、突き放すでもない。
ただ、事実として受け止めている声だった。
「嫌ですか」
と澪が聞く。
「何が」
「自分も危ない側だってわかるの」
「……嫌だね」
「そうですか」
「だって、見えてるつもりだったから」
「はい」
「それが崩れるの、結構きつい」
「でも」
澪は少しだけ首を傾けた。
「崩れた方がいい思い込みもあります」
「厳しいなあ」
「必要なので」
相沢は苦笑した。
でも、その言葉は正しかった。
見えている。
間に合う。
自分が動けば何とかなる。
そう思っていたから、一人で抱え込んできた。
でももし、自分も見失うし、引っ張られるし、危うくなるのだとしたら。
その前提は、もう少し変えなければいけない。
始業時間が近づき、フロアに人が増え始める。
遠くで挨拶の声がして、コピー機が本格的に動き出す。
いつもの会社の朝が戻ってくる。
「一つ、決めませんか」
と澪が言った。
「何を」
「今後です」
「今後」
「昨日みたいに、引っ張られる感じがしたら」
「うん」
「先に言ってください」
「……」
「短くていいです」
「何て?」
「何でもいいです。相沢さんが言える言葉で」
相沢は少し黙った。
“危ない”でもいいのかもしれない。
“少し無理かもしれない”でも伝わるかもしれない。
でも、どれも少し違う気がした。
そういう言い方は、まだどこか整っている。
説明しようとしている。
自分を保ったまま渡そうとしている。
たぶん本当に必要なのは、もっと単純な言葉だった。
「俺さ」
と相沢は言った。
「昨日、止められなかったら、たぶん変な方に行ってた」
「はい」
「自分で戻れるつもりだったけど、あれはたぶん無理だった」
「……はい」
「だから」
そこで一度、言葉が止まる。
喉の奥が少しだけ詰まる。
こんな短い言葉の方が、言いにくい。
理屈をつける方がずっと楽だ。
でも、それでは足りない気がした。
相沢は視線を落としたまま、小さく言った。
「……たすけて」
その一言に、澪はすぐには返事ができなかった。
胸の奥が、思っていたより強く揺れた。
目頭がわずかに熱くなる。
自分でも少し驚くくらい、まっすぐ届いた。
やっと言ってくれた、と思った。
ずっと一人で抱え込んで、
危ない方へ先に手を伸ばして、
自分は大丈夫な顔をしていた人が、
今、ちゃんとこちらを頼った。
そのことが、澪には思っていた以上に重かった。
でも、その熱を顔に出すのは違う気がした。
今ここで相沢が渡してきたものを、
自分の感情で重くしたくなかった。
澪は一度だけ静かく息を整えて、それから言った。
「はい」
それだけだった。
でも、その短い返事は曖昧じゃなかった。
困ったようにも、戸惑ったようにも聞こえない。
引き受けると決めた人の声だった。
相沢は少しだけ息を吐いた。
自分でも気づかないうちに、肩に力が入っていたらしい。
「……よろしく」
と相沢が言う。
「はい」
「軽くない?」
「軽くしていません」
「そうかな」
「はい。助けます」
「……うん」
澪はそこで少しだけ表情をやわらげた。
「相沢さん」
「なに」
「それ、言ってくれてよかったです」
「……」
「言わないままの方が困るので」
「困る、なんだ」
「十分重いです」
「そうだね」
三浦が出社してきたのは、その少しあとだった。
「おはようございます! あれ、今日はお二人とも早いですね」
「少しだけ」
と澪が答える。
「珍しいですねえ」
「観察結果です」
と相沢が言う。
「え、何がですか?」
「なんでもない」
「少しあります」
と澪が続ける。
「どっちなんですか」
三浦が笑う。
その明るさに、空気が少しだけいつも通りに戻る。
午前中は穏やかに過ぎた。
備品の確認、申請書の処理、会議室の調整。
特に大きな問題はない。
電話も少なく、来客も予定通りだ。
それでも相沢は、時々ふと耳を澄ませてしまう。
廊下の台車の音。
コピー機の排紙音。
エレベーターの到着音。
どれも昨日ほどではない。
でも、完全に気にならないわけでもない。
そのたびに、澪の言葉を思い出す。
見えることと、引っ張られることは、同じじゃないです。
昼前、給湯室でマグカップを洗っていると、背後で金属の軽い音がした。
スプーンがシンクの縁に当たっただけの、小さな音だ。
それでも一瞬だけ肩が強張る。
「相沢さん」
と後ろから声がした。
振り向くと、澪がいた。
「大丈夫ですか」
と澪が聞く。
その声は低く、静かだった。
朝のやり取りのあとだからか、相沢は少しだけ迷って、それから言った。
「……少しだけ、嫌な感じ」
「はい」
「でも、昨日みたいではない」
「わかりました」
それだけで終わる。
深掘りしない。
でも、ちゃんと受け取る。
その短いやり取りが、思ったより効いた。
言ってもいい。
全部説明しなくてもいい。
危ないときは危ないと言っていい。
そんな当たり前のことを、相沢は今さら覚え始めている。
午後、窓の外が少し曇った。
雨にはならないが、光が鈍くなる。
社内の照明が少し白く見える。
「相沢さん」
「なに」
「今日、静かですね」
「そうだね」
「昨日の反動で、少し安心します」
「篠宮さんも?」
「少しは」
「意外」
「失礼ですね」
「だって、いつも平気そうだから」
「そう見せているだけです」
「……そっか」
「でも」
澪は書類から目を離さずに言う。
「昨日よりは、今ここにいます」
「俺が?」
「はい」
「観察結果?」
「ええ」
「便利だなあ」
「役立っているので」
定時が近づくころ、相沢はふと思った。
昨日、自分は止められた。
そして今日は、助けてほしいと言えた。
それは大きな進歩ではないかもしれない。
でも、確かに昨日とは違う。
引き戻されるだけではなく、
引き戻してもらえる。
そして、戻ったあとに少しだけ言葉にできる。
それはたぶん、思っていたよりずっと大きい。
帰り支度をしながら、相沢は澪に言った。
「篠宮さん」
「はい」
「今日、少しだけわかった」
「何がですか」
「引き戻されるのと、引き戻してもらうの、全然違う」
「……そうですね」
「一人で戻るの、たぶん難しい」
「はい」
「でも」
相沢は少しだけ言いよどんでから続けた。
「助けてもらえるなら、何とかなるかもしれない」
澪はそこで、ほんの少しだけ目を細めた。
「何とかします」
と彼女は言う。
「一人ではなく」
「……うん」
「その方が、たぶん精度がいいので」
「最後それなんだ」
「大事です」
「そうだね」
二人でオフィスを出る。
廊下は静かで、照明は安定している。
昨日の駅のようなざわつきはない。
それでも相沢は、もう知っていた。
危ないのは、外側だけじゃない。
自分の中にも、引き戻される場所がある。
そしてそこから戻るには、
一人では足りないことがある。
エレベーターを待つ間、澪がふと横を向いた。
「相沢さん」
「なに」
「朝のこと」
「うん」
「忘れません」
「……」
「だから、次も言ってください」
「たすけて、って?」
「はい」
「ハードル高いなあ」
「でも、言えました」
「一回だけね」
「一回言えたなら、次もたぶん言えます」
「観察結果?」
「期待です」
「珍しい」
「失礼ですね」
エレベーターの扉が開く。
二人で乗り込む。
閉まる直前、オフィスの白い光が細く見えて、それもすぐに消えた。
引き戻す人がいる。
その事実は、
未来を見通す力よりも、
もしかしたらずっと確かな支えなのかもしれなかった。




