第6話 落ちる前の手
その日、何も起きないはずだった。
少なくとも会社では。
午前中は備品管理。
午後は月末前の申請処理。
来客もなく、会議室トラブルもなく、館内放送も鳴らない。
総務部としては、むしろ理想的なくらい平和な一日だった。
「珍しいですね」
と、澪が午後三時ごろに言った。
「今日はまだ何もない」
「そうだね」
「少し安心してます?」
「してない」
「どうしてですか」
「そういう日に限って、帰り際に来ることがあるから」
「嫌な経験則ですね」
「本当にね」
相沢はそう答えながら、申請書類のチェックを続けた。
実際、今日は朝から妙な静けさがあった。
嫌な予感がないわけではない。
ただ、輪郭がぼやけている。
何かがある。
でも、どこで、何が、どの程度なのかが見えない。
そういう日は、かえって落ち着かない。
澪はそんな相沢を横目で見ながら、パソコンへ入力を続ける。
「今日、帰り遅いですか」
と彼女が聞いた。
「たぶん普通」
「たぶん」
「その言い方やめて」
「最近、確定で言わないので」
「確定できることの方が少ないんだよ」
「深いようで浅いですね」
「ひどいな」
少しだけ笑いが混じる。
こういうやり取りが、最近は増えた。
増えてしまった、というべきかもしれない。
前なら必要最低限で済んでいた会話が、今は少しだけ長くなる。
澪が踏み込み、相沢が嫌がり、でも完全には拒まない。
その繰り返しだ。
午後六時過ぎ。
業務を終えた社員たちが少しずつ帰り始める。
相沢もデスクを片づけ、鞄の中身を確認した。
モバイルバッテリー、折りたたみ傘、救急用品、小型ライト、メモ帳、財布、社員証。
いつもの確認。
いつもの順番。
「帰りますか」
と澪が立ち上がる。
「うん」
「駅まで一緒ですね」
「そうだっけ」
「方向が同じなので」
「知ってたけど、改めて言われると監視感ある」
「観察です」
「言い換えても怖い」
二人で会社を出る。
夕方を過ぎた街は、まだ人通りが多い。
駅前の信号、コンビニの明かり、飲食店の呼び込み、仕事帰りの人の群れ。
どこにでもある平日の夜だ。
それなのに、駅が近づくにつれて、相沢の胸の奥がざわつき始めた。
改札。
階段。
ホーム。
人の流れ。
断片だけが浮かぶ。
つながらない。
でも、嫌な感じだけは強くなる。
「相沢さん」
と澪が隣で言う。
「またですか」
「……何が」
「駅に入る前から歩幅が変わりました」
「そんなのまで見てるの」
「見えます」
「怖い」
「で、どこですか」
「どこって」
「駅の中でしょう」
「……たぶん」
「ホーム?」
「まだわからない」
「階段?」
「かも」
「改札?」
「全部かもしれない」
「最悪ですね」
本当にその通りだった。
駅構内へ入る。
改札前は混んでいたが、いつもの範囲だ。
異常はない。
だが、相沢の視線は自然と上へ向く。
ホームへ続く階段。
人が上り下りする流れ。
その途中で、誰かが足を止める。
後ろが詰まる。
肩がぶつかる。
体勢が崩れる。
そこまでは見える。
その先が、まだ見えない。
「エスカレーター使う?」
と澪が聞く。
「いや、階段」
「理由は」
「見やすいから」
「もう隠す気ないですね」
「隠してる余裕がない」
二人は階段へ向かった。
上りの流れはそこそこ速い。
急いでいる人、スマートフォンを見ながら歩く人、イヤホンをしたままの人。
危ない要素はいくらでもある。
相沢は一段上がるごとに、嫌な感覚が強くなるのを感じていた。
前方、十段ほど上。
小さな子どもを連れた母親。
その少し後ろに、スーツ姿の男性。
さらに後ろから、駆け上がってくる学生。
違う。
そこじゃない。
さらに上。
ホーム手前。
人の流れが少しだけ滞る場所。
その瞬間、頭の奥で映像がつながった。
ホームへ上がりきる直前。
誰かが落としたスマートフォンを拾おうとしてしゃがむ。
後ろの人が避けきれない。
ぶつかる。
前の人がよろける。
端にいた誰かが線路側へ――
「止まって!」
相沢の声が、階段の途中で響いた。
何人かが驚いて振り向く。
だが、相沢はもう走っていた。
ホーム手前の最後の数段。
若い男性がポケットから滑り落ちたスマートフォンに気づき、反射的にしゃがみ込もうとしている。
そのすぐ後ろには、急いだ足取りの会社員。
さらに横には、ホームへ出ようとする人の流れ。
まずい。
相沢は手を伸ばし、しゃがみかけた男性の肩をつかんで引いた。
「危ない!」
同時に、後ろから来た会社員が避けきれずにぶつかる。
衝撃で相沢の足元がずれる。
視界が揺れた。
次の瞬間、自分の腕が強く引かれる。
「相沢さん!」
澪だった。
階段の手すり側から相沢の鞄をつかみ、体を引き戻している。
そのおかげで、相沢はホーム側へ倒れ込まずに済んだ。
スマートフォンは階段の端で止まり、線路には落ちなかった。
しゃがみかけた男性も、相沢に引かれて体勢を立て直す。
後ろの会社員は舌打ち混じりに足を止め、周囲から「危ないですよ」と声が飛ぶ。
ほんの数秒。
でも、一歩違えば誰かがホームへ投げ出されていてもおかしくなかった。
「……すみません」
と若い男性が青ざめた顔で言う。
「落としたの、気づいて」
「今はいいです、下がって」
と相沢が言うより早く、
「一度端に寄ってください」
と澪が落ち着いた声で促した。
その声に押されるように、周囲の人の流れが少し整う。
駅員も異変に気づいて近づいてくる。
「大丈夫ですか?」
「はい、転倒はありません」
と澪が答える。
「スマートフォンを落とされた方がしゃがみかけて、少しぶつかっただけです」
「承知しました。こちらで見ますので、皆さま通路を空けてください」
駅員の対応は早かった。
人の流れが戻る。
ざわめきも、すぐに日常の音へ溶けていく。
何もなかったことになる。
いつものように。
だが相沢は、その場から動けなかった。
心臓が速い。
呼吸が浅い。
手のひらが冷たい。
今のは危なかった。
本当に危なかった。
しかも、助けようとして、自分の方が落ちかけた。
「相沢さん」
澪が低い声で呼ぶ。
「こっち」
「……うん」
半ば誘導されるように、ホーム端から少し離れたベンチの方へ移動する。
座った瞬間、膝から力が抜けたのがわかった。
澪は自分も隣に座ると、少しだけ息を整えた。
「手、出してください」
「え」
「震えてます」
「そんなに?」
「かなり」
言われて初めて、自分の指先が細かく震えているのに気づく。
澪は鞄から小さなペットボトルの水を取り出して渡した。
いつの間にそんなものを、と思ったが、たぶんこの人もこの人で備えているのだろう。
「飲めますか」
「……うん」
「ゆっくりでいいです」
キャップを開けるのに少し手間取った。
情けないと思う。
でも、うまく力が入らない。
一口飲むと、少しだけ喉が動いた。
ホームには電車が入ってきて、また人が増える。
アナウンスが流れ、ドアが開き、閉まり、発車する。
世界は何事もなかったように進んでいく。
「今の」
と澪が言った。
「見えてたんですね」
「……少し」
「少し、であれですか」
「最後までじゃなかった」
「でも動いた」
「動かないと、間に合わないと思ったから」
澪は数秒黙った。
それから、静かに言う。
「相沢さん」
「なに」
「次から、飛び込む前に一回だけ私を見てください」
「え」
「一回だけでいいです」
「何で」
「私も動くので」
「……」
「一人で全部やろうとしないでください」
その言葉は、第5話のときよりもずっと強く響いた。
相沢はペットボトルを握ったまま、視線を落とす。
「でも、今のは」
「今のもです」
「間に合わないかもしれなかった」
「だからこそです」
「篠宮さんまで危ない」
「もう巻き込まれてます」
「……」
「今さらです」
言い方は少しきつい。
でも、怒っているというより、必死に押し返している感じだった。
相沢はそこで初めて気づく。
澪の手も、少しだけ震えていた。
「……ごめん」
と相沢は言った。
澪はすぐには返事をしなかった。
少ししてから、
「謝るところ、そこじゃないです」
と言う。
「じゃあどこ」
「無茶する前に相談しないところです」
「相談してる時間なかった」
「今のはそうです。でも、駅に入る前から変だったでしょう」
「……」
「階段って言ってましたよね」
「うん」
「なら、その時点で“危ないかもしれない”って共有してください」
「それで何か変わる?」
「変わります」
「例えば?」
「私が前を見るか、後ろを見るか決められます」
「……」
「相沢さんが飛び出したとき、私が引けたのは、たまたま近かったからです」
「たまたま」
「今、嫌そうな顔しましたね」
「その言葉、好きじゃないから」
「知ってます」
澪はそこで、少しだけ声をやわらげた。
「でも、本当にそうなんです」
「……」
「次は、たまたまじゃなくしたい」
その言葉に、相沢は何も返せなかった。
電車がもう一本入ってきて、ホームの風が少し強くなる。
アナウンスが流れる。
遠くで子どもの声がする。
日常の音の中で、さっきの数秒だけが妙に浮いていた。
「昔も」
と澪が言った。
「こういうこと、あったんですか」
相沢の肩がわずかに強張る。
聞かれると思っていた。
いつかは来ると思っていた。
でも、こんなタイミングで来るとは思わなかった。
「……何でそう思うの」
「慣れ方が、今日だけの人じゃないからです」
「慣れたくて慣れたわけじゃないよ」
「でしょうね」
澪は急かさない。
ただ、逃げ道も完全には作らない。
相沢はしばらく黙っていた。
ホームの床の模様を見つめる。
白線の内側。
注意喚起の表示。
規則正しいはずのものが、今は妙に遠い。
「高校のとき」
と、相沢はぽつりと言った。
「階段で、一回あった」
「……」
「文化祭の準備中で、人が多くて」
「転倒ですか」
「うん。将棋倒しみたいになりかけた」
「それを止めた?」
「止めたっていうか、たまたま近くにいて」
「その言い方、嫌いなんですよね」
「今は突っ込まないで」
澪は小さく「すみません」と言った。
でも、少しだけ本気で謝っていない感じがした。
相沢は続ける。
「その前に、嫌な感じがしてたんだよ」
「……」
「階段、危ないなって。人、詰まりそうだなって。だから少し見てた」
「それで、実際に起きた」
「うん」
「止められた」
「全部じゃないけど」
「それが最初ですか」
「覚えてる中では、たぶん」
澪は黙って聞いていた。
「そのあとから」
と相沢は言う。
「何か起きる前に、変な感じがすることが増えた」
「……」
「最初は気のせいだと思ってた。でも、何回か続くと、そうも言えなくなる」
「だから備えるようになった」
「そう」
「ずっと一人で?」
「まあ」
そこで、相沢は少しだけ笑おうとして失敗した。
「こんなの、人に言えないでしょ」
「普通は言いにくいですね」
「普通じゃなくても言いにくいよ」
「それはそうです」
澪は否定しなかった。
そのことが、少しだけありがたかった。
「でも」
と彼女は言う。
「今日、聞けてよかったです」
「何が」
「最初があったってこと」
「そんなに大事?」
「大事です」
「どうして」
「今日急に始まったわけじゃないって、わかったので」
「……」
「相沢さんが、ずっと一人で対処してきたことも」
相沢はペットボトルを見つめた。
水面が少し揺れている。
「別に、偉くはないよ」
「知ってます」
「そこは否定してほしい」
「無理です」
「即答だ」
「でも、偉いかどうかじゃなくて」
「?」
「しんどかっただろうな、とは思います」
その言葉は、妙に静かに胸へ入ってきた。
しんどかった。
たぶん、そうだ。
でも、そう言葉にしたことはあまりなかった気がする。
やるしかなかった。
備えるしかなかった。
間に合わせるしかなかった。
ずっと、そういう言い方で済ませてきた。
「……電車、一本見送る?」
と澪が聞く。
「うん」
「私もそうします」
「悪いよ」
「今さらです」
またそれだ、と思った。
でも、少しだけ救われる言い方でもあった。
二人で一本電車を見送る。
ホームの人波が入れ替わり、少しだけ空気が落ち着く。
次の電車が来るまでの数分、二人はあまり話さなかった。
それでも気まずくはなかった。
沈黙の中で、相沢はさっきの言葉を反芻していた。
次は、たまたまじゃなくしたい。
その発想は、今まで自分にはなかった。
自分が見て、自分が動いて、間に合わせる。
それ以外の形を、あまり考えてこなかった。
でももし、本当に誰かと共有できるなら。
少なくとも危ない場所や方向だけでも伝えられるなら。
少しは違うのかもしれない。
電車が来る。
ドアが開く。
「乗れますか」
と澪が聞く。
「うん」
「本当に?」
「今は大丈夫」
「“今は”ですね」
「細かいなあ」
「観察中なので」
「もうそれ、免罪符みたいに使ってるでしょ」
「便利なので」
二人で電車に乗る。
つり革をつかみ、揺れに合わせて体を預ける。
窓に映る自分の顔は、まだ少し青い。
でも、さっきよりはましだった。
相沢はふと、隣の澪を見た。
彼女は前を向いたまま、いつもの落ち着いた顔をしている。
ただ、つり革を持つ指先にだけ、まだ少し力が入っていた。
この人も怖かったのだろう。
当たり前だ。
危ない場面だった。
それでも引かなかった。
「篠宮さん」
「はい」
「さっき、ありがとう」
「どういたしまして」
「助かった」
「知ってます」
「そこは普通、どういたしましてだけでよくない?」
「確認です」
「何の」
「助かったなら、次から共有してください」
「交渉がうまい」
「仕事なので」
「絶対違う」
澪は少しだけ笑った。
電車は夜の街を滑っていく。
窓の外の明かりが流れ、駅が過ぎていく。
何も解決していない。
見えるものの正体も、自分が関係しているのかどうかも、まだわからない。
でも今日、初めて過去の話を少しだけ口にした。
それはたぶん、小さくない変化だった。
落ちる前に手を伸ばすこと。
そして、落ちそうな自分を引き戻す手があること。
その両方を知ってしまったら、
もう前と同じ一人きりには戻れないのかもしれなかった。




