第5.5話 何も起きない日の帰り道
その日は、驚くほど何も起きなかった。
朝、相沢はいつものように少し早めに出社した。
エレベーターに異音はない。
廊下に不自然な荷物もない。
給湯室の床も乾いている。
会議室の予約表にも無茶な詰め込みはない。
デスクに着いてからも同じだった。
急な来客なし。
備品トラブルなし。
館内放送なし。
誰かの怒鳴り声も、慌てた足音も、総務への駆け込み相談もない。
平和だった。
平和すぎて、落ち着かなかった。
「顔が変です」
と、午前十時過ぎに澪が言った。
相沢は備品発注の画面を見たまま答える。
「急に失礼だね」
「褒めてません」
「知ってる」
「何もないのに、何か待ってる顔してます」
「そんな顔ある?」
「あります」
「便利だね、その観察眼」
「ありがとうございます」
「だから褒めてないって」
澪は自席で書類をそろえながら、ちらりとこちらを見る。
「今日は静かですね」
「そうだね」
「助かりますか」
「……助かるよ」
「間がありました」
「気のせい」
「違いますね」
違わなかった。
助かる。
それは本当だ。
何も起きない方がいいに決まっている。
決まっているのに、朝からずっと胸のどこかがそわそわしていた。
何か見落としているのではないか。
まだ起きていないだけではないか。
午後に来るのではないか。
帰り際かもしれない。
そんなふうに考えてしまう。
我ながら面倒な癖だと思う。
「相沢さん」
「なに」
「今日、三回くらい非常口の方見ました」
「数えてるの」
「はい」
「怖いな」
「落ち着かないんですか」
「……少し」
「少し、で済む顔じゃないです」
「そんなに?」
「かなり」
澪はそこで少しだけ声をやわらげた。
「何も起きないなら、それでいいじゃないですか」
「まあね」
「納得してないですね」
「してるよ」
「してません」
「最近、断定が強い」
「当たるので」
その言い方に、相沢は少しだけ苦笑した。
第5話の避難訓練以来、二人の間には微妙な変化があった。
何かが劇的に変わったわけではない。
急に親しくなったわけでもない。
相沢が全部を話したわけでもないし、澪が遠慮を覚えたわけでもない。
ただ、前より少しだけ、沈黙が気まずくなくなった。
澪は相沢の妙な先回りを、前より自然に受け止めるようになった。
相沢もまた、澪が隣にいることを前ほど邪魔だと思わなくなっていた。
それが良いことなのかは、まだよくわからない。
でも少なくとも、悪くはなかった。
昼休み。
社員食堂はいつも通り混んでいた。
相沢は定食の列に並びながら、無意識に周囲を見ていた。
トレーの持ち方。
床の濡れ。
混雑具合。
熱い味噌汁。
子どもではない大人ばかりの場所なのに、気をつける対象はいくらでもある。
「本当に落ち着かないんですね」
と、後ろから声がした。
振り向くと、澪が同じ列に並んでいた。
「何でわかるの」
「味噌汁の鍋を二回見て、床を一回見て、前の人のトレーを見ました」
「見すぎじゃない?」
「それはこっちの台詞です」
「……」
「今日は何も起きませんよ、たぶん」
「その“たぶん”は嫌だな」
「お返しです」
結局、二人は同じタイミングで席を探すことになり、窓際の二人席に向かい合って座った。
「珍しいですね」
と澪が言う。
「何が」
「こうして普通に昼を食べるの」
「そうだね」
「避難訓練の日以来です」
「数えてるんだ」
「観察中なので」
「便利な言葉にしたね、それ」
「相沢さんの“念のため”ほどではありません」
相沢は焼き魚定食、澪は日替わりの鶏の照り焼き定食だった。
「ちゃんと食べるんですね」
と澪が言う。
「どういう意味」
「もっと適当かと思ってました」
「失礼だな」
「カロリーバーとかで済ませそうな顔をしてるので」
「どんな顔」
「備えてる顔」
「顔に出る情報量が多すぎる」
澪は少しだけ笑った。
その笑い方が、前より柔らかい気がして、相沢は少しだけ視線をそらす。
「篠宮さんは?」
「何がですか」
「ちゃんと食べるんだなって」
「私ですか」
「うん」
「食べますよ。食べないと機嫌が悪くなるので」
「自己申告なんだ」
「大事な情報です」
「確かに」
「覚えておいてください」
「何に備えて?」
「今後のために」
「今後って何」
「さあ」
少しだけ、会話が途切れる。
でも気まずくはなかった。
食堂のざわめきがちょうどいい隙間を埋めてくれる。
相沢は味噌汁を一口飲んでから、ぽつりと言った。
「昨日、ありがとう」
「昨日?」
「カフェオレ」
「ああ」
「助かった」
「甘いもの、効きましたか」
「少し」
「ならよかったです」
澪はそれだけ言って、照り焼きを一口食べた。
大げさに返さないところが、この人らしい。
「でも」
と彼女が続ける。
「今日は甘いのいらなそうですね」
「何で」
「何も起きてないので」
「それはそう」
「代わりに落ち着きがないですけど」
「そこは放っておいて」
「無理です」
即答だった。
午後も、やはり何も起きなかった。
電話は数本。
備品の受け取り。
申請書の確認。
会議室の鍵の貸し出し。
どれも総務の日常の範囲内だ。
相沢は何度か拍子抜けするような気分になった。
同時に、少しずつ肩の力が抜けていくのも感じていた。
何も起きない。
本当に、何も起きない。
そんな当たり前のことに慣れていない自分が、少しだけおかしかった。
定時を少し過ぎたころ、澪がパソコンを閉じた。
「帰れますか」
「うん」
「今日は寄り道しませんか」
「え」
「反省会」
「何の」
「何も起きない日の過ごし方について」
「そんな会ある?」
「今作ります」
「雑だなあ」
相沢は思わず笑った。
澪はそれを見て、少しだけ目を細める。
「嫌ですか」
「嫌じゃないけど」
「けど?」
「何で急に」
「何ででしょうね」
「答えになってない」
「たまにはいいでしょう」
結局、断る理由も見つからず、二人は駅前の小さなカフェに入った。
チェーン店でもなく、気取った店でもない。
ガラス張りの、少しだけ落ち着いた店だった。
仕事帰りの客が数人、静かに話している。
「こういう店、来るんですね」
と相沢が言う。
「どういう意味ですか」
「もっと効率重視かと思ってた」
「失礼ですね」
「今日ずっとそれ言ってる気がする」
「事実なので」
「便利だな、その返し」
注文を済ませ、窓際の席に座る。
相沢はブレンドコーヒー、澪はカフェラテと小さなチーズケーキを頼んだ。
「甘いもの好きなんだ」
と相沢が言うと、
「嫌いではないです」
と澪が答える。
「相沢さんは?」
「普通」
「曖昧ですね」
「嫌いじゃないけど、自分からはあまり買わない」
「じゃあ、昨日のカフェオレは正解でしたね」
「そうかも」
「よかったです」
店内には静かな音楽が流れていた。
会社の外で向かい合って座ると、同じ相手なのに少し印象が違う。
澪は会社にいるときより少しだけ表情がやわらかい。
相沢もまた、仕事中ほど背筋を張っていない気がした。
「で」
と澪がカフェラテを持ちながら言う。
「何も起きない日、どうでしたか」
「質問が雑」
「感想をどうぞ」
「……落ち着かなかった」
「正直ですね」
「でも、途中から少し慣れた」
「それはよかったです」
「慣れるものなんだね」
「慣れてください」
「努力します」
「信用度は半分くらいです」
「上がったね」
「前は三割でした」
「数値化されてる」
澪は少しだけ笑う。
「相沢さん」
「なに」
「起きないことに慣れてないんですね」
「そうかも」
「それ、結構まずいですよ」
「自覚はある」
「何もないのに疲れるでしょう」
「……まあ」
「でしょうね」
カフェラテの泡を見ながら、澪は静かに言った。
「でも、今日は何もなかった」
「うん」
「それで終わりです」
「そうだね」
「終わったことを、ちゃんと終わったって思った方がいいです」
「難しいこと言う」
「簡単です」
「どこが」
「今、コーヒー飲んでるじゃないですか」
「うん」
「会社も終わってます」
「うん」
「火事もないし、転倒もないし、誰も怒鳴ってない」
「……うん」
「なら、今は大丈夫です」
その言い方は、妙にまっすぐだった。
相沢はコーヒーカップに視線を落とす。
黒い液面に店の照明が映っている。
今は大丈夫。
そんなふうに区切って考えたことは、あまりなかったかもしれない。
次があるかもしれない。
後で何か起きるかもしれない。
そうやって先へ先へ意識を伸ばす癖がついている。
でも、今は大丈夫。
そう思っていい時間も、たぶんある。
「篠宮さんって」
と相沢は言った。
「たまに妙に言葉が強いよね」
「たまに?」
「わりといつもかも」
「自覚はあります」
「あるんだ」
「でも、必要なときだけです」
「今は必要だった?」
「はい」
「即答だ」
「相沢さん、放っておくとずっと先のこと考えるので」
「よく見てるね」
「観察中なので」
「それ、もう万能だな」
チーズケーキを一口食べた澪が、少しだけ考えるような顔をした。
「私」
と彼女は言う。
「昔、家でそういう人がいたんです」
「そういう人?」
「何も起きてないのに、ずっと次の心配をしてる人」
「家族?」
「ええ、まあ」
「……大変だった?」
「少し」
「そっか」
澪は詳しくは話さなかった。
相沢も、無理に聞かなかった。
でも、その短い言葉だけで、少しだけ彼女の見え方が変わる。
ただ鋭いだけじゃない。
ただ踏み込んでくるだけでもない。
たぶんこの人にも、この人なりの理由がある。
「だから」
と澪は続ける。
「終わったことを終わったって言うの、わりと大事だと思ってます」
「経験談?」
「そうかもしれません」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
少し沈黙が落ちる。
でも、それは重い沈黙ではなかった。
窓の外では、駅前の人通りが絶えず流れている。
信号が変わり、車のライトが通り過ぎる。
何も起きない、ただの夜だった。
「そういえば」
と澪が言う。
「相沢さん、魚きれいに食べますね」
「急に何」
「昼、見てました」
「そこ見る?」
「見ます」
「本当に観察対象なんだな、俺」
「今さらです」
「嫌だなあ」
「嫌ですか」
「……少し」
「少しなら問題ありません」
「基準が強い」
澪はまた少し笑った。
相沢はその笑い方を見て、ふと思う。
この人、会社ではあまりこういう顔をしない。
少なくとも他の人の前では、もっときっちりしている。
「篠宮さんも」
と相沢が言う。
「会社だと今よりちょっと固いよね」
「そうですか」
「うん」
「仕事中なので」
「今は?」
「仕事外です」
「線引きがはっきりしてる」
「大事です」
「じゃあ今の方が素?」
「どうでしょう」
「そこは濁すんだ」
「全部は見せません」
「公平だね」
「相沢さんに言われたくないです」
それはそうだった。
相沢は苦笑して、コーヒーを飲む。
少しぬるくなっていたが、その方が飲みやすかった。
店を出るころには、外はすっかり夜になっていた。
駅までの短い道を、二人で並んで歩く。
会社からの帰り道と同じはずなのに、少しだけ空気が違う。
「今日は本当に何もなかったですね」
と澪が言う。
「そうだね」
「残念でしたか」
「何でそうなるの」
「落ち着かなかったので」
「残念ではないよ」
「ならよかったです」
「でも」
「?」
「こういう日も、悪くないかも」
「“こういう日”って、何も起きない日ですか」
「それもあるし」
「それも?」
「……寄り道する日とか」
「へえ」
澪は少しだけ意地の悪い顔をした。
「嫌じゃなかったんですね」
「嫌なら来てないよ」
「断れなかっただけかと」
「そこまででもない」
「じゃあ、また誘ってもいいですか」
「反省会?」
「何も起きない日の確認会です」
「名前変わってる」
「柔軟に対応します」
「総務っぽいな」
「褒めてます?」
「少し」
「なら受け取っておきます」
改札前に着く。
人の流れは多いが、今日はもう相沢の胸はざわつかなかった。
何も起きない日。
それは退屈でも、空白でもなかった。
少なくとも今日は、そうではなかった。
「じゃあ」
と澪が言う。
「また明日」
「うん、また明日」
別々の改札へ向かう直前、相沢はふと足を止めた。
「篠宮さん」
「はい」
「今日は、ありがとう」
「何に対してですか」
「いろいろ」
「便利ですね、その言葉」
「うつったかも」
「少しだけですね」
澪はそう言って、ほんの少し笑った。
その笑い方を見送ってから、相沢は改札を抜ける。
何も起きない日だった。
本当に、それだけの日だった。
でも、そういう日があることを、
少しだけ心強いと思ってしまった自分に気づいて、
相沢は小さく息を吐いた。
悪くない。
そう思えたなら、
たぶん今日は、それだけで十分だった。




