第5話 火のない場所の煙
総務部には、年に何度か忙しくなる日がある。
月末。
人事異動の時期。
大型来客の前日。
そして、防災点検と避難訓練の日。
その朝、相沢恒一は出社してすぐに嫌な汗をかいていた。
訓練は午後三時から。
館内放送で非常ベルを鳴らし、各部署が避難経路を確認しながら一階の集合場所へ移動する。消防設備会社の立ち会いも入り、総務は事前確認と当日の誘導を担当する。
毎年ある、珍しくもない行事だ。
本来なら、そこまで構える必要はない。
本来なら。
「顔色悪いですね」
と、朝一番で澪に言われた。
相沢はパソコンの電源を入れながら、できるだけ平静を装う。
「寝不足」
「嘘ですね」
「最近それしか言ってない気がする」
「最近それしか言われてないので」
澪は自席に鞄を置きながら、こちらを見た。
「今日、訓練ですよね」
「うん」
「何かありますか」
「……」
「あるんですね」
「まだわからない」
「“まだ”ってことは、候補はある」
「篠宮さん」
「はい」
「朝から詰めるのやめて」
「じゃあ昼からにします」
「そういう問題じゃない」
澪は少しだけ口元を緩めた。
だが、目は笑っていない。
観察継続中、という顔だった。
相沢が嫌な汗をかいている理由は単純だった。
今朝、会社のビルを見上げた瞬間に、頭の奥へ一つの光景が流れ込んできたのだ。
非常ベル。
ざわつく廊下。
避難を急ぐ人の列。
誰かが階段の踊り場で足を止める。
後ろから人が詰まる。
押される。
バランスを崩す。
転倒。
連鎖。
そこまでは、まだ訓練でも起こりうる範囲だ。
問題は、その先だった。
誰かが「煙」と叫ぶ。
実際には火は出ていない。
なのに、その一言で空気が変わる。
焦りが焦りを呼び、列が乱れる。
将棋倒し寸前までいく。
火のない場所の煙。
それが、今朝から頭にこびりついていた。
「相沢さん」
と澪が小声で呼ぶ。
「今、また遠く見てました」
「見てない」
「見てました」
「……少しだけ」
「何ですか」
「階段」
「階段?」
「訓練のとき、混むかも」
「それだけですか」
「それだけならいいんだけど」
澪の表情が少しだけ引き締まる。
「大きいですか」
「わからない」
「でも、嫌な感じはする」
「……うん」
そこまで言うと、澪はそれ以上は聞かなかった。
代わりに、手帳を開いて今日の予定を確認する。
「訓練前の点検、私も入ります」
「もともと入ってるでしょ」
「そうじゃなくて、相沢さんと同じ動線で回ります」
「宣言しなくていいよ」
「必要なので」
「何に」
「補助戦力の配置に」
最近、本当にその言い方が定着してきた。
困る。
午前中、総務部は消防設備会社の担当者と一緒に館内を回った。
非常口の表示灯。
消火器の位置。
防火扉の作動確認。
避難経路上の障害物。
階段の手すり。
館内放送設備。
どれも問題なし。
少なくとも表面上は。
だが相沢は、三階から二階へ下りる非常階段の踊り場で足を止めた。
幅は十分ある。
手すりもある。
照明も切れていない。
なのに、嫌な感じだけが強い。
「ここですか」
と澪が隣で言う。
「……何が」
「今、一番長く見てる場所」
「見すぎ」
「観察中なので」
相沢は踊り場の壁際を見た。
訓練時には各階から人が流れ込む。
三階の営業部、四階の企画部、五階の経理部。タイミングが少し重なれば、この踊り場で列が詰まる可能性はある。
しかも今日は、設備会社の立ち会いで一部の防火扉が通常よりゆっくり閉まる設定確認もあると聞いていた。
小さな遅れが、列の圧を生むかもしれない。
「篠宮さん」
「はい」
「訓練の誘導、ここ一人増やせないかな」
「踊り場に?」
「うん」
「理由は」
「詰まりそうだから」
「それだけ?」
「……それだけで通して」
「わかりました」
澪はすぐに手帳へ書き込み、その場で総務部長へ相談に行った。
こういうところが助かる。
理由を全部聞き出そうとせず、必要な行動を先に取る。
相沢一人なら、「気のせいかもしれない」で迷っていたかもしれない。
昼前には、踊り場付近に誘導担当を一人追加することが決まった。
さらに澪の提案で、各階の避難開始タイミングを数十秒ずつずらす案も通る。
「名目は?」
と相沢が聞くと、
「混雑緩和のため、です」
と澪が答えた。
「嘘じゃないでしょう」
「まあ、そうだけど」
「便利ですね、ちゃんとした理由って」
「それ、俺への嫌味?」
「少しだけ」
昼休み。
相沢は珍しく食欲がなく、社員食堂ではなく給湯室横の小さな休憩スペースで缶コーヒーを持て余していた。
午後三時。
まだ数時間あるのに、胸の奥が落ち着かない。
火のない場所の煙。
その言葉だけが、何度も頭をよぎる。
煙なんて出ない。
今日は訓練だ。
設備点検も済んでいる。
火災が起きる要素はない。
なのに、誰かがそう叫ぶ映像だけが離れない。
「ここにいましたか」
と声がして、澪が現れた。
紙パックの麦茶を片手に、相沢の向かいへ座る。
「食堂行かなかったんですね」
「ちょっと」
「食欲ない?」
「少し」
「珍しいですね」
「そうでもないよ」
「私が知る限りでは珍しいです」
澪はストローをさしながら、相沢を見た。
「午後、私が踊り場に入ります」
「え」
「追加した誘導担当、私にしました」
「何で」
「一番状況を見やすいからです」
「危ないかもしれないのに」
「だからです」
「だからって」
「相沢さん、またそうやって一人で危ない方に寄せようとしますよね」
言い返せなかった。
たしかに、もし何か起きるなら自分が近い方がいいと思っていた。
それは半分癖みたいなものだ。
澪は静かに続ける。
「私、無茶するつもりはありません」
「……」
「でも、何かあるかもしれない場所に、相沢さんだけ立たせるのも違うと思ってます」
「篠宮さん」
「それに」
「?」
「相沢さん、そういうとき周りが見えなくなるので」
「そんなことない」
「あります」
「ないよ」
「あります。昨日の倉庫でもそうでした」
「昨日?」
「メモ帳落としたとき」
「それは別件でしょ」
「別件じゃありません。余裕がなくなると、顔に全部出ます」
「観察が細かい」
「仕事なので」
「絶対違う」
少しだけ、相沢の口元が緩む。
澪はそれを見て、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「大丈夫です」
と彼女は言う。
「何かあっても、まずは訓練です。本物じゃない」
「……うん」
「だから、必要以上に背負わないでください」
「それができたら苦労しない」
「でしょうね」
「否定しないんだ」
「事実なので」
午後二時五十分。
訓練開始十分前。
総務部は各配置につき、館内放送の準備が進む。
相沢は一階の防災盤前で最終確認をしながらも、意識の半分を階段へ向けていた。
三階から二階の踊り場。
澪がいる場所。
嫌な予感は消えない。
むしろ時間が近づくほど濃くなる。
「相沢くん、放送後は一階集合場所の確認お願い」
と部長に言われる。
「はい」
「階段側は篠宮さんと設備会社の人が見てるから」
「……わかりました」
わかっている。
配置としては正しい。
でも、落ち着かない。
午後三時ちょうど。
非常ベルが鳴った。
館内放送が流れる。
「ただいまより避難訓練を開始します。従業員の皆さまは、係員の指示に従って落ち着いて避難してください」
オフィスの空気が一斉に変わる。
立ち上がる音。
椅子の引かれる音。
ざわめき。
足音。
相沢は一階で人の流れを確認しながら、何度も腕時計を見た。
各階の避難開始タイミングはずらしてある。
これで詰まりはかなり減るはずだ。
はずなのに。
次の瞬間、館内無線が短く鳴った。
『三階踊り場、少し列が詰まってます。調整入ります』
澪の声だった。
落ち着いている。
だが、その奥にわずかな緊張がある。
相沢の背中に冷たいものが走る。
「部長、少し階段見てきます」
「え、でも一階は」
「すぐ戻ります」
返事を待たずに走り出していた。
二階へ上がる途中、階段の上からざわめきが降ってくる。
「押さないでください」
「ゆっくりで大丈夫です」
「前、止まってます!」
澪と設備会社の担当者の声。
それに混じって、別の声がした。
「え、煙くない?」
誰かが言った。
その一言で、空気が変わる。
相沢の頭の中で、朝から見ていた映像が現実と重なった。
火のない場所の煙。
実際には煙なんてない。
たぶん誰かが、機械室のにおいか、閉まる防火扉の作動臭に反応しただけだ。
でも、言葉は一度出たら消えない。
列の後方がざわつく。
前へ進もうとする圧がわずかに強まる。
「煙って何?」
「本当?」
「早く行った方が」
まずい。
「止まって!」
と相沢は階段の下から声を張った。
「訓練です! 煙は出てません、押さないで!」
その声に何人かがこちらを見る。
だが、列の圧はすぐには消えない。
踊り場では、前方の社員が足をもつれさせかけていた。
後ろからの圧で、手すりに体重が寄る。
そのすぐ横に、澪がいた。
「一列でお願いします! 前、空きます!」
澪が声を張る。
片手で手すり側へ人を寄せ、もう片方で後方へ制止を送る。
設備会社の担当者も補助に入る。
だが、後ろから来た一人が焦って足を踏み外しかけた。
相沢は残り数段を飛ばすように上がった。
「篠宮さん、右寄せ!」
叫ぶと同時に、相沢は列の外側へ回り込み、体勢を崩した社員の腕をつかむ。
そのまま手すり側へ引き寄せる。
澪が即座に動いた。
「後ろ、止まってください! 一旦停止です!」
声が通る。
よく通る声だった。
列が一瞬止まる。
その隙に、設備会社の担当者が前方の流れを整える。
踊り場の圧が、少しだけ抜ける。
「大丈夫です、順番に下ります!」
澪が続ける。
「煙はありません。訓練です。落ち着いてください!」
その言葉で、ようやく空気が戻り始めた。
ざわめきは残る。
でも、パニックにはならない。
数十秒。
実際にはそれだけだった。
けれど相沢には、ひどく長く感じられた。
列が再びゆっくり動き出す。
一人、また一人と下りていく。
転倒者は出ない。
将棋倒しにもならない。
間に合った。
本当に、ぎりぎりで。
最後の列が下りきったあと、踊り場には相沢と澪、それから設備会社の担当者だけが残った。
「……大丈夫ですか」
と担当者が息を整えながら言う。
「はい、こちらは」
と澪が答える。
「下まで誘導続けます」
担当者が先に下りていく。
残された踊り場で、相沢は手すりに手をついたまま、しばらく動けなかった。
心臓がうるさい。
指先が冷たい。
「相沢さん」
澪の声が近い。
「終わりました」
「……うん」
「誰も落ちてません」
「うん」
「大丈夫です」
その言葉に、相沢はうまく返事ができなかった。
大丈夫。
そう言われても、胸の奥のざわつきは消えない。
もし自分が朝からあれを見ていなければ。
もし“煙”なんて言葉が頭に浮かばなければ。
そんな考えが、また喉元まで上がってくる。
「相沢さん」
澪がもう一度呼ぶ。
「顔、真っ白です」
「平気」
「平気じゃないです」
「……」
「座れますか」
「ここ階段」
「じゃあ壁にもたれてください」
半ば指示のように言われて、相沢は踊り場の壁に背を預けた。
澪は少しだけ周囲を確認してから、声を落とす。
「今、何を考えてますか」
「何も」
「嘘です」
「最近そればっかりだね」
「最近ずっと嘘なので」
相沢は目を閉じた。
逃げたい。
でも、この人はたぶん逃がさない。
「……俺が」
そこまで言って、喉が詰まる。
澪は急かさなかった。
ただ待っている。
「俺が、ああいうのを考えるから」
と相沢はようやく言った。
「だから、寄ってくるんじゃないかって、たまに思う」
言ってしまった、と思った。
今までで一番、はっきり口にしてしまった。
自分でも馬鹿げていると思っている考えを。
笑われても仕方ない。
否定されても当然だ。
でも澪は、すぐには何も言わなかった。
しばらくしてから、静かに口を開く。
「そう思ってしまうくらい、当たりすぎてるんですね」
「……」
「それは、しんどいですね」
否定ではなかった。
肯定でもない。
ただ、そこにある苦しさだけを拾う言い方だった。
相沢はゆっくり目を開ける。
澪はまっすぐこちらを見ていた。
「私は」
と彼女は言う。
「相沢さんが原因だとは思ってません」
「でも」
「でも、相沢さんがそう疑ってしまうのは、少しわかります」
「……」
「今日だって、先に嫌な感じがして、実際に近いことが起きたんでしょう」
「うん」
「それが何回も続いたら、そう考えてもおかしくないです」
相沢は何も言えなかった。
理解された、とは少し違う。
でも、切り捨てられなかった。
それだけで、胸の奥の何かが少しだけ緩む。
澪は続ける。
「ただ」
「?」
「仮にそう思っても、一人で結論を出さないでください」
「え」
「自分が悪いって決めるの、早すぎます」
「……」
「まだ何もわかってないんですから」
その言い方は、少し強かった。
でも不思議と嫌ではなかった。
「それに」
と澪は言う。
「今日、止めたのは相沢さんです」
「一人じゃないよ」
「はい。私もいました」
「自分で言うんだ」
「事実なので」
「……そうだね」
少しだけ、息がしやすくなる。
階下から部長の声が聞こえた。
「篠宮さん、相沢くん、大丈夫ー?」
「大丈夫です!」
と澪が即答する。
それから小さな声で、
「今は」
と付け足した。
訓練終了後、総務部では簡単な振り返りが行われた。
「三階踊り場で一時的な滞留あり」
「一部で誤認発言があり、誘導強化の必要」
「各階の時間差避難は有効」
そんな報告が並ぶ。
表向きには、訓練中の小さな混乱として処理された。
誰も知らない。
あの数十秒で、どれだけ危ういところまで行きかけたか。
そして相沢が、どれだけ青ざめていたか。
夕方。
オフィスの窓に西日が差し込むころ、相沢は自席で避難訓練の記録をまとめていた。
指は動く。
文章も打てる。
でも、頭の奥にはまだ階段のざわめきが残っている。
そこへ、澪が紙コップを一つ置いた。
「甘いの、飲みますか」
「……何これ」
「自販機のカフェオレです」
「珍しい」
「今日は必要そうだったので」
「俺が?」
「はい」
「そんなにひどい顔してる?」
「かなり」
相沢は紙コップを見下ろした。
温かい。
たぶん、わざわざホットを選んだのだろう。
「ありがとう」
と言うと、
「どういたしまして」
と澪が返す。
少し間があってから、彼女は静かに言った。
「さっきの話ですけど」
「……うん」
「私は、まだ何も知らないです」
「そうだね」
「でも、知らないままでも、隣には立てます」
「篠宮さん」
「だから、次に何かあったら」
「……」
「せめて、一人で抱えた顔はしないでください」
難しいことを言う。
相沢は苦笑しかけて、うまく笑えなかった。
「努力はする」
「信用度は低いですね」
「自分でもそう思う」
「正直でよろしいです」
澪はそう言って、自分の席へ戻っていく。
相沢はその背中を見送りながら、紙コップのふたを開けた。
甘い匂いが少しだけ広がる。
火のない場所の煙。
それは結局、ただの言葉だった。
でも言葉一つで、人は簡単に崩れかける。
たぶん自分も同じだ。
確かめようのない考え一つに、長いこと縛られている。
それでも今日、少しだけ違った。
疑いを口にしても、全部を否定されなかった。
だからといって肯定もされなかった。
その曖昧さが、今はありがたかった。
白か黒かを決めるには、まだ早い。
わからないなら、わからないまま持っていていい。
そう言われた気がした。
窓の外では、夕方の光が少しずつ薄れていく。
明日もまた、何かが起きるかもしれない。
起きないかもしれない。
それでも備えるしかない。
ただ、前と違うのは――
その備えの隣に、
もう一人分の視線と声があることだった。




