第4話 隣に立つ理由
相沢恒一は、その朝の時点で二つ見ていた。
一つは、会議室Bのプロジェクター台車が廊下で誰かの足にぶつかり、積まれていた機材が床に落ちる場面。
もう一つは、営業部と企画部の合同打ち合わせで、資料の取り違えをきっかけに空気が険悪になり、そのまま重要な案件が流れかける場面。
前者は物理的な事故。
後者は、もっと面倒な種類の事故だった。
相沢はデスクに座ったまま、目を閉じた。
最近、少し頻度が高い気がする。
いや、気のせいかもしれない。
気のせいであってほしい。
だが、頭に浮かぶものはだいたい外れない。
少なくとも、何もしなければ悪い方向へ転がる。
「おはようございます」
と、隣から声がした。
顔を上げると、篠宮澪がいつもの無駄のない動きで席に着くところだった。
「おはよう」
「今日は何が見えてますか」
「朝の挨拶が怖い」
「否定しないんですね」
「しても信じないでしょ」
「はい」
即答だった。
相沢は小さくため息をつく。
第3話の説明会以来、澪は前よりも遠慮がなくなった。
もちろん、誰にでも聞こえる場所で妙なことを言うほど無神経ではない。だが二人きりになると、かなり自然に核心へ踏み込んでくる。
しかも厄介なことに、相沢が本気で嫌がる一歩手前で止まるのがうまい。
「で、今日は?」
と澪が改めて聞く。
「何も」
「嘘ですね」
「どうしてそう思うの」
「相沢さん、何かある日は朝から机の上が少し整いすぎるので」
「そんな観察ある?」
「あります」
怖い。
本当に観察されている。
相沢はごまかすようにパソコンを立ち上げた。
だが、澪はそれ以上追及せず、自分の業務を始める。
その距離感が、余計にやりづらい。
午前中、総務部には営業部から会議室利用の相談が入った。
「十時半から会議室Bで、企画部との合同打ち合わせをしたいんだけど」
「資料投影もあるので、プロジェクター台車も使います」
「あと、先方が少しピリついてる案件だから、入室前に資料だけ先に置いておきたくて」
その言葉を聞いた瞬間、相沢の中で朝の二つ目の映像が少しだけ輪郭を増した。
資料の取り違え。
場の空気が変わる。
誰かの声が硬くなる。
そのまま話がこじれる。
「会議室Bですね。準備しておきます」
と相沢は答えた。
営業部の担当者が去ると、澪がすぐにこちらを見る。
「今のですか」
「何が」
「“何も”じゃなかったやつ」
「……」
「図星ですね」
相沢は返事をしなかった。
会議室Bは中規模の部屋で、廊下の角を曲がった先にある。プロジェクター台車を運ぶには少し狭く、朝に見た映像とも一致していた。
相沢はまず、台車のルートを確認した。
廊下の途中に置かれた段ボール。
壁際に寄せられた折りたたみ椅子。
少し開いたままの倉庫扉。
どれも小さいが、台車の車輪や人の足を引っかけるには十分だ。
「篠宮さん」
「はい」
「廊下、少し片づける」
「やっぱり何かあるんですね」
「通りにくいから」
「はいはい、“通りにくいから”」
澪はそう言いながらも、素直に段ボールを移動させた。
折りたたみ椅子を倉庫へ戻し、扉もきちんと閉める。
二人で作業していると、他部署の社員からは単に気が利く総務にしか見えない。
それがありがたかった。
「台車、私が押しましょうか」
と澪が言う。
「いいよ」
「どうして」
「危ないから」
「危ないことが起きるんですか」
「そういう言い方やめて」
「じゃあ、どういう言い方ならいいですか」
「……念のため」
「便利ですね、その言葉」
結局、台車は相沢が押し、澪が前を歩いて人を避ける形になった。
廊下の角を曲がる瞬間、向こう側から営業部の若手が早足で来るのが見えた。
腕には資料の束。
視線は手元のスマートフォン。
危ない、と思うより先に、澪が一歩前へ出る。
「すみません、通ります」
その声に若手が顔を上げ、足を止めた。
台車はそのまま安全に通過する。
相沢は思わず澪を見た。
「……何」
「いや」
「今の、危なかったんでしょう」
「たぶん」
「なら、合ってますね」
「何が」
「前を歩く役」
少しだけ得意そうに言うのが腹立たしい。
でも、否定はできなかった。
会議室Bの準備自体は順調に進んだ。
机の配置。
接続ケーブル。
投影テスト。
参加人数分の椅子。
空調。
ホワイトボード。
飲み物はなし。
物理的な事故の方は、これでかなり潰せたはずだ。
問題はもう一つ。
資料の取り違えによる空気の悪化。
これが厄介だった。
物が落ちる、転ぶ、こぼれるならまだ対処しやすい。
だが、人間関係のこじれは目に見えない。
しかも一度こじれると、後から修正する方が難しい。
相沢は会議室の机に置かれた資料の束を見た。
営業部用。
企画部用。
共通資料。
参考資料。
表紙の色は似ている。
部数も多い。
急いで配れば、取り違えは十分ありえる。
そして、朝に浮かんだ映像では、たしか誰かが
「それ、うちに出す数字じゃないですよね」
と低い声で言っていた。
そこから空気が変わる。
「相沢さん」
と澪が呼ぶ。
「資料、見てますけど」
「うん」
「今度は何ですか」
「……たぶん、配布ミス」
「それで?」
「それで、揉める」
「そこまでわかるんですか」
「わかるっていうか」
「浮かぶ?」
「……」
「図星ですね」
最近、この人は本当に容赦がない。
澪は資料の束を手に取り、表紙を見比べた。
「確かに紛らわしいですね」
「でしょ」
「じゃあ、分けましょう」
「分ける?」
「営業部は青い付箋、企画部は緑、共通は白。机に置く前に全部印をつければいいです」
「……それ、いいね」
「今ちょっと驚きました?」
「少し」
「失礼ですね」
言いながらも、澪はもう付箋とペンを持ってきていた。
作業は単純だが効果的だった。
資料の右上に色分けの印をつけ、席順に合わせて並べる。さらに、配布担当が迷わないよう簡単なメモも添える。
「これで取り違えはかなり減るはずです」
と澪が言う。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「……」
「何ですか」
「いや、普通に助かるなって」
「今さらですか」
「今さらかも」
澪は少しだけ目を細めた。
笑ったわけではないが、機嫌は悪くなさそうだった。
十時半。
営業部と企画部のメンバーが集まり始める。
空気は、たしかに少し硬い。
営業部側は案件を前に進めたい。
企画部側は条件面の詰めが甘いと見ている。
どちらも間違ってはいないが、温度差がある。
こういう場は、小さなきっかけで簡単にこじれる。
相沢は会議室の外で待機しながら、扉の隙間から中の様子を見ていた。
澪も隣にいる。
「見張りですか」
「違う」
「じゃあ何ですか」
「総務の待機」
「便利ですね、その言葉」
「最近それ好きだね」
「事実なので」
会議が始まる。
挨拶。
着席。
資料配布。
営業部の若手が一瞬、違う束に手を伸ばしかけた。
だが、右上の付箋に気づいて止まる。
青、緑、白。
迷わない。
相沢は胸の奥で少しだけ息を吐いた。
そのまま議題が進む。
数字の確認。
スケジュール。
役割分担。
懸念点。
今のところ、問題はない。
ないはずだった。
だが三十分ほど経ったころ、会議室の中から少し強い声が聞こえた。
「いや、その前提で進めるのは無理がありますよ」
企画部の主任の声だった。
相沢の肩がわずかに強張る。
続いて、営業部側の課長が低い声で返す。
「無理があるというより、そちらの確認が遅かったのでは?」
「その言い方はないでしょう」
「事実確認です」
空気が変わる。
まずい。
資料ミスではない。
別の火種だ。
相沢は扉に手をかけかけて、止まった。
総務が不用意に口を出す場面ではない。
だが、このままでは朝に見た二つ目の最悪に近づく。
どうする。
そのとき、隣で澪が小さく言った。
「お茶、入れます」
「え?」
「空気を切ります。相沢さんは部長呼んでください」
「でも」
「早く」
反射的に、相沢は動いていた。
総務部長はちょうど近くの席にいた。
事情を短く伝えると、すぐに立ち上がる。
その間に、澪は給湯室から急須と湯呑みを持って会議室へ入っていた。
「失礼します。お時間長くなりそうでしたので、お茶をお持ちしました」
あまりに自然な声だった。
会議室の中の全員が、一瞬そちらを見る。
張りつめていた視線が、ほんの少しだけ外れる。
そこへ総務部長が顔を出した。
「失礼、次の会議室利用の確認だけ先に」
と、ごく事務的な口調で言う。
「終了予定時刻、少し後ろ倒しになりそうですか?」
直接仲裁するわけではない。
だが、その一言で場の温度が少し下がる。
企画部主任も営業課長も、さっきの勢いのまま言葉を続けにくくなった。
「……いえ、予定通りで大丈夫です」
「そうですか。失礼しました」
部長が引く。
澪もお茶を配り終え、静かに下がる。
扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、相沢は思わず澪を見た。
「今の」
「はい」
「すごいね」
「相沢さんほどじゃないです」
「いや、普通にすごい」
「褒めても何も出ませんよ」
「出してほしいわけじゃない」
澪は湯呑みの載った盆を持ったまま、少しだけ肩をすくめた。
「資料ミスじゃなかったですね」
「うん」
「でも、空気が悪くなるのは当たってた」
「……そうだね」
「毎回思いますけど、精度が嫌ですね」
「自分でもそう思う」
会議はその後、大きく荒れずに終わった。
完全に円満、とは言えない。
だが案件が流れるほどではなく、少なくとも修復不能な空気にはならなかった。
昼休み。
相沢は社員食堂の隅で、珍しく澪と向かい合って座っていた。
いつもなら時間をずらすか、一人で適当に済ませる。
だが今日は、流れでそうなった。
「で」
と澪が味噌汁の椀を置きながら言う。
「朝の二つ、終わりました?」
「二つって決めつけるんだ」
「顔に書いてあります」
「便利な観察眼だね」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
澪は気にした様子もなく、焼き魚をほぐす。
「でも、少しわかりました」
「何が」
「相沢さん、一人でやるより二人の方が向いてます」
「急に嫌なこと言う」
「嫌ですか」
「嫌というか、困る」
「どうして」
「巻き込みたくないから」
言ってから、しまったと思った。
澪の箸が止まる。
「巻き込む?」
「……言い方が悪かった」
「悪いですね」
「そうだね」
「つまり、相沢さんの周りで起きることに、私を近づけたくないってことですか」
「そういうわけじゃ」
「じゃあ、どういうわけですか」
逃げ道がない。
食堂のざわめきの中なのに、そこだけ妙に静かに感じる。
相沢は視線を落とした。
味噌汁の表面に蛍光灯の光が揺れている。
「……近くにいると、面倒だから」
「それは知ってます」
「知ってるんだ」
「はい」
「じゃあそれで」
「誤魔化しましたね」
澪はため息をついた。
「相沢さん」
「なに」
「私、自分で近くにいるって決めてるんです」
「……」
「だから、そこは相沢さんが勝手に決めないでください」
思ったより強い言い方だった。
相沢は顔を上げる。
澪はまっすぐこちらを見ていた。
怒っているわけではない。
でも、引くつもりもない顔だ。
「危ないなら危ないで、そう言ってくれれば考えます」
と澪は続ける。
「でも、何も言わずに一人で抱えるのは、たぶんもっと危ないです」
「そんな大げさな」
「今日だって、私が前にいなかったら台車の件、少し危なかったですよね」
「……うん」
「会議室だって、相沢さん一人だと部長を呼ぶのが一瞬遅れたかもしれない」
「それは」
「違いますか」
「違わない」
認めるしかなかった。
澪はそこで少しだけ表情を緩めた。
「なら、使ってください」
「人を道具みたいに言わないで」
「補助戦力です」
「言い換えてもだいぶ変」
「でも意味は伝わるでしょう」
「伝わるのが困る」
澪は小さく笑った。
ほんの少しだけだったが、前より自然な笑い方だった。
午後、会議室Bの片づけを終えたあと、相沢は備品倉庫で一人、プロジェクター台車のコードを巻き直していた。
朝の一つ目は、ほぼ潰せた。
二つ目も、大事にはならなかった。
今日はこれで終わればいい。
そう思ったとき、倉庫の入口で足音が止まる。
「やっぱりここにいましたか」
澪だった。
「何」
「これ、落ちてました」
と差し出されたのは、小さなメモ帳だった。
相沢のものだ。
受け取って、心臓が少しだけ嫌な音を立てる。
表紙は無地だが、中には日付と簡単な走り書きがある。
人に見せるつもりのないメモだ。
「見た?」
と相沢は思わず聞いた。
「開いてません」
「本当に?」
「本当に」
「……ならいいけど」
「でも」
澪はそこで少しだけ間を置いた。
「そんなに困るものなんですね」
「困るよ」
「予想メモですか」
「……」
「図星ですか」
「篠宮さん」
「はい」
「たまに本当に怖い」
「よく言われます」
たぶん嘘だ。
でも今は突っ込む気力がなかった。
メモ帳をポケットにしまう相沢を見ながら、澪が静かに言う。
「無理に見ようとはしません」
「助かる」
「でも、必要になったら教えてください」
「必要って?」
「一人じゃ足りないときです」
その言葉に、相沢は少しだけ黙った。
一人じゃ足りないとき。
そんな日は、たぶん来る。
来てほしくないが、来ないとは言い切れない。
昔からずっと、一人で何とかしてきた。
誰かに説明しても信じられないし、信じられても困ると思っていた。
だから備えて、先回りして、間に合わせるしかなかった。
でも最近は、その“しかない”が少しだけ揺らいでいる。
「……考えとく」
と相沢は言った。
澪はそれを聞いて、少しだけ目を細める。
「前進ですね」
「そうかな」
「はい。前は即答で断ってたので」
「観察記録でもつけてるの」
「頭の中に」
「やめてほしい」
「無理です」
即答だった。
倉庫の外では、午後のオフィスの音が続いている。
電話の声、キーボードの音、コピー機の作動音。
いつも通りの会社の音だ。
その中で相沢は、ポケットの中のメモ帳を指先で確かめた。
見えてしまうもの。
備えてしまう癖。
自分が関係しているのではないかという、消えない疑い。
何一つ解決していない。
それでも、前より少しだけ状況が変わっている。
隣に立とうとする人がいる。
それが良いことなのか、まだわからない。
でも少なくとも、今日の二つは一人よりうまく片づいた。
「相沢さん」
と澪が呼ぶ。
「明日も何かありますか」
「天気予報みたいに聞くの、まだ続けるんだ」
「便利なので」
「便利にしないで」
「で、どうですか」
「……知らないよ」
「じゃあ、念のため気をつけます」
「その言い方、うつってる」
「誰のせいでしょうね」
澪はそう言って、先に倉庫を出ていった。
相沢はその背中を見送り、少し遅れて歩き出す。
何も起きなければ、それでいい。
起きても、間に合えばいい。
そのために備える。
それは変わらない。
ただ最近は、
その“間に合わせる”の中に、もう一人分の足音が混ざり始めていた。




