第3.5話 偶然を数えない女
篠宮澪は、偶然をあまり信じない。
別に、運命論者というわけではない。
何もかもに意味がある、などと考える性格でもない。
ただ、仕事をしているとわかるのだ。
「たまたま」は便利な言葉だ。
説明が面倒なとき、責任の所在を曖昧にしたいとき、深く考えたくないとき、人はよくそれを使う。
たまたま気づいた。
たまたま間に合った。
たまたま何も起きなかった。
でも実際には、その裏に誰かの確認や準備や判断があることが多い。
見えていないだけで、偶然の顔をした必然は案外そこら中に転がっている。
だから澪は、昔から「たまたま」で話を終わらせる人が少し苦手だった。
その点で言えば、相沢恒一はかなり怪しい。
会社を出て駅まで歩く夜道で、澪は今日一日のことを思い返していた。
七月に入ったばかりの空気はまだ湿っていて、昼間の熱がアスファルトに残っている。駅前へ向かう人の流れは途切れず、信号待ちの列には仕事帰りの疲れた顔が並んでいた。
澪はその中で一人、淡々と考える。
停電。
資料室の棚。
給湯室のコード。
エレベーターの急停止。
そして今日の説明会。
一つひとつだけなら、まだわかる。
心配性な人が、少し先回りして動いた。
そう言えなくもない。
でも、重なりすぎていた。
しかも相沢は、いつも「起きたあと」に動くのではなく、「起きる前」に動く。
そこが決定的におかしい。
今日の説明会だってそうだ。
飲み物の位置を気にして、配線を固定して、タオルまですぐ出せる位置に入れていた。あれをただの丁寧さで片づけるのは無理がある。
澪は信号が青に変わるのを見て、ゆっくり横断歩道を渡った。
相沢恒一は、何かを知っている。
少なくとも、そう考えるのが一番自然だった。
けれど同時に、澪にはもう一つわかっていることがある。
あの人は、たぶんそれを“便利なもの”だとは思っていない。
むしろ逆だ。
説明会のあと、会場の隅で向けられた顔を思い出す。
助かったはずなのに、少しも安心していない顔。
何かを防いだ人間の顔ではなく、何かに怯えている人間の顔だった。
あれが、ずっと引っかかっていた。
澪は昔から、人の表情を見るのが得意だった。
学生時代、空気を読むのが上手いと言われたことがある。
社会人になってからは、相手が何を言っていないかを拾うのが早いと評価された。
別に特別な能力ではない。ただ、言葉より先に顔や間や視線の方が本音を出すことを知っているだけだ。
相沢は、隠すのが上手くない。
いや、正確には、言葉では隠せるのに顔では隠しきれていない。
「念のため」
「心配性だから」
「たまたま」
口ではそう言う。
でも、そのたびに目の奥だけが少し固くなる。
冗談で済ませたい人の顔ではない。
本当に、そう言うしかない人の顔だ。
駅の改札を抜け、ホームへ向かう階段を上りながら、澪は小さく息を吐いた。
面倒な人だと思う。
何かを抱えているくせに、説明しない。
助けるくせに、感謝されると困った顔をする。
明らかに普通じゃないのに、普通で押し通そうとする。
正直、関わると厄介そうだ。
それでも、放っておけないと思ってしまった。
ホームに電車が滑り込んでくる。
ドアが開き、人の流れに合わせて乗り込む。つり革の前に立ち、窓に映る自分の顔をぼんやり見た。
自分は、こんなにお節介だっただろうか。
少し前までの澪なら、もっと距離を取っていた気がする。
仕事相手として有能ならそれでいい。
個人の事情に踏み込む必要はない。
そう割り切る方が楽だし、実際その方が面倒も少ない。
なのに今回は、どうにもそうできない。
理由を考えて、すぐに一つ思い当たる。
たぶん、相沢が“助ける側”だからだ。
もしあの人が、自分の得のために何かを隠しているなら、澪はここまで気にしなかった。
危ない人なら距離を取るだけでいい。
でも相沢は違う。
あの人は、何かが起きる前に動く。
誰かが怪我をしないように、場が壊れないように、間に合うように動く。
そのくせ、本人だけが少しも救われていない。
そこが、妙に気になった。
電車が揺れる。
窓の外の明かりが流れていく。
澪は今日見た相沢の鞄の中身を思い出した。
モバイルバッテリー。
救急用品。
ライト。
工具。
予備の記録媒体。
ビニール袋。
紙資料。
あれは心配性の範囲を少し超えている。
日常的に「何か起きる」と思っていなければ、あそこまで持ち歩かない。
つまり相沢恒一は、毎日備えているのだ。
起きるかもしれない最悪に。
しかも、かなり具体的な最悪に。
そこまで考えて、澪はふと眉を寄せた。
もし本当に、相沢が何かを“見ている”のだとしたら。
そしてもし、そのたびに自分も無関係ではないのではないかと疑っているのだとしたら。
それは、かなりしんどいのではないか。
自分なら嫌だ、と思った。
起きる前に危険がわかること自体は、便利に聞こえるかもしれない。
でも、それが毎回当たるなら。
しかも、自分までその出来事に関係しているのではないかと疑いながら生きるなら。
そんなのは、能力というより呪いに近い。
そこまで考えて、澪は少しだけ目を伏せた。
もちろん、まだ決めつけるつもりはない。
相沢が何を見ているのかも、本当に見えているのかもわからない。
全部、こちらの推測にすぎない。
でも、少なくとも一つだけは確かだった。
あの人は、助けたあとに安心しない。
それはたぶん、普通ではない。
電車が最寄り駅に着く。
澪は人の流れに合わせて降り、改札を抜け、夜道を歩く。住宅街は静かで、遠くで犬の鳴く声がした。マンションのエントランスに入るころには、頭の中の考えも少し整理されていた。
部屋に戻り、バッグを置き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。
一口飲んでから、ソファに腰を下ろした。
静かな部屋の中で、今日一日の出来事をもう一度並べる。
相沢恒一は怪しい。
それは間違いない。
でも、怖くはない。
むしろ逆だ。
あの人はたぶん、ずっと一人で何かを止め続けている。
止めながら、自分のしていることを信じきれずにいる。
もしそうなら、少し危うい。
誰かを助けることに慣れている人ほど、自分が壊れる瞬間を見落とすことがある。
澪はそれを、仕事でも何度か見てきた。
周りの穴を埋め続ける人は、限界が来ても「まだ大丈夫です」と言ってしまう。
相沢も、たぶんそっち側だ。
スマートフォンが小さく震えた。
会社のグループチャットに、今日の説明会のお礼が流れている。
「総務の対応が丁寧だった」「トラブル時のフォローが助かった」そんな文面が並ぶ。
澪はそれを少し眺めてから、画面を閉じた。
本人は、こういうのを見ても困るだけだろう。
そう思うと、少しだけ可笑しかった。
本当に面倒な人だ。
助けておいて、褒められるのが苦手で、しかも隠し事が下手。
観察しているこちらの方が、だんだん落ち着かなくなってくる。
澪はソファの背にもたれ、天井を見上げた。
明日も、たぶん何かある。
根拠はない。
でも、あの人の近くにいると、そういう予感だけは妙に強くなる。
そしてもし何かあるなら、相沢はまた先に動くのだろう。
誰にも説明できないまま。
誰にも頼らないまま。
「……それは、あんまりよくないな」
独り言が、静かな部屋に落ちる。
観察する。
そう言ったのは自分だ。
なら、最後まで見ようと思った。
見て、確かめる。
相沢恒一が何を知っていて、何を恐れていて、どうして助けたあとにあんな顔をするのか。
必要なら、手伝えばいい。
そこまで考えてから、澪は少しだけ苦笑した。
やっぱり自分は、思ったよりお節介なのかもしれない。
けれど、それでもいいと思った。
篠宮澪は、偶然を数えない。
見えていない理由があるなら、見ようとする。
言葉になっていないものがあるなら、拾おうとする。
相沢恒一の周りで起きていることを、簡単に説明できる言葉を、彼女はまだ持っていない。
だから、見る。
見て、考える。
この人が何を抱えているのか、見失わないように。
放っておくには、
少し気になりすぎた。




