第3話 見えすぎる男
篠宮澪は、観察すると言った。
あれはたぶん冗談半分だったのだろうと、相沢恒一は翌朝まで思っていた。
だが、甘かった。
「おはようございます」
「おはよう」
出社して席に着いてから三分後。
給湯室へ行けば、なぜか同じタイミングで澪が来る。
備品棚を確認すれば、少し遅れて澪が現れる。
会議室の予約表を見ていれば、「何か気になることでも?」と後ろから声が飛んでくる。
怖い。
「篠宮さん」
「はい」
「本当に観察してるんだ」
「言ったじゃないですか」
「もっと比喩的な意味かと思ってた」
「残念でした」
残念なのはこっちだ、と相沢は心の中でだけ返した。
とはいえ、露骨に張りつかれているわけではない。澪は普段通り仕事をしているし、必要以上に話しかけてもこない。ただ、相沢が何かを気にして動くと、かなりの確率でその視線がある。
偶然ではない。
たぶん本当に見ている。
昨日のやり取り以来、相沢の中には落ち着かない感覚が居座っていた。
見られていること自体もそうだが、それ以上に厄介なのは、澪がただ面白がっているわけではないとわかってしまったことだ。彼女はたぶん、本気で確かめようとしている。
相沢恒一は何を見ているのか。
何を恐れているのか。
どうしてそこまで備えるのか。
その答えを、相沢自身が一番知りたいのに。
午前九時。
総務部の朝礼で、今日の予定が共有される。
「午後二時から、七階大会議室で社内向けの新システム説明会があります」
部長がそう言った瞬間、相沢の背筋に冷たいものが走った。
「参加者は営業、経理、総務、企画から合わせて四十名ほど。外部ベンダーの担当者も来るので、会場設営と受付、資料配布のサポートを総務で回します」
七階大会議室。
四十名。
外部ベンダー。
プロジェクター使用。
説明会。
単語が並んだだけで、頭の奥がざわつく。
嫌な感じがした。
理由はまだわからない。
だが、こういうときはだいたい当たる。
「相沢くん、会場まわりお願いできる?」
と部長が言う。
「篠宮さんと二人で」
「……はい」
「わかりました」
隣で澪が短く答える。
相沢は内心でため息をついた。
よりによって、今日は二人一組らしい。
朝礼が終わると、澪がすぐにこちらを見た。
「嫌そうですね」
「顔に出てた?」
「少し」
「説明会って、準備多いから」
「それだけですか?」
「それだけ」
澪は「またそれか」という顔をしたが、何も言わなかった。
七階大会議室は、社内でも比較的大きい部屋だった。
長机を並べ替えれば五十人程度は入る。壁際には予備椅子、前方にはスクリーン、天井にはプロジェクター。説明会や研修でよく使われる場所だ。
相沢は部屋に入った瞬間、足を止めた。
見えた、というより、浮かんだ。
前方のプロジェクターが一瞬ちらつく。
誰かが延長コードに足を引っかける。
机の端に置かれた紙コップが倒れる。
こぼれたコーヒーが電源タップにかかる。
短い火花。
悲鳴。
椅子が倒れる。
立ち上がった誰かが後ろの荷物にぶつかる。
連鎖して、数人がもつれる。
一瞬だった。
だが、嫌になるほど鮮明だった。
「相沢さん?」
澪の声で我に返る。
「どうかしました?」
「……いや」
「また何か見ました?」
「見てない」
「今の間でそれは無理があります」
鋭い。
本当に鋭い。
相沢はごまかすように会場を見回した。
長机の配置。
配線の位置。
出入口の導線。
受付の置き場。
非常口。
消火器。
窓際のブラインド。
参加者が荷物を置きそうな場所。
危ない要素はいくつもある。
だが、さっき頭に浮かんだ最悪の中心はたぶん一つだ。
液体と電源。
「篠宮さん」
「はい」
「会場、前方の机少し下げよう」
「前方?」
「プロジェクターの真下、飲み物置きそうだから」
「説明会中に飲み物って、そんなにあります?」
「あるかもしれない」
「また“かもしれない”ですか」
「……念のため」
澪は小さく息を吐いたが、反対はしなかった。
二人で前方の机を少し後ろへずらし、プロジェクター下のスペースを空ける。ついでに、電源タップの位置を机の上から壁際へ移し、ケーブルを養生テープで床に固定する。受付横には「会場内での飲み物はふた付きのみ可」と小さな案内も置いた。
「そこまでします?」
と澪が聞く。
「する」
「理由は?」
「転ぶと危ないから」
「それだけ?」
「それだけ」
澪は納得していない顔のまま、テープを押さえる作業を手伝った。
準備を進めるうちに、相沢の不安は少しずつ増していった。
まだ足りない気がする。
プロジェクターの予備ケーブル。
ノートパソコンの予備。
紙資料の追加。
タオル。
ビニール袋。
簡易消火具の位置確認。
救急セット。
「相沢さん」
「なに」
「それ、全部使うんですか」
「使わないのが一番いい」
「でも持ってくるんですね」
「使うかもしれないから」
「本当に“起きる前提”なんですね」
その言葉に、相沢の手が一瞬止まる。
澪は責めるような口調ではなかった。
ただ、確認するように言っただけだ。
「……そう見える?」
「見えます」
「困るな」
「私は困りません」
「俺が困る」
澪は少しだけ口元をゆるめた。
その表情を見て、相沢は妙な気分になる。
この人、前より少しだけ柔らかくなった気がする。
いや、気のせいかもしれない。
気のせいであってほしい。これ以上距離を詰められると困る。
昼休みを挟んで、説明会の準備はほぼ整った。
受付に名簿。
入口に資料。
前方にベンダー用の端末。
後方に予備椅子。
壁際に荷物置きスペース。
見た目には、ただ丁寧に準備された会場だ。
だが相沢だけは知っている。
これは丁寧なのではなく、過剰なのだ。
午後一時四十分。
外部ベンダーの担当者が到着した。
三十代前半くらいの男性と、二十代後半くらいの女性の二人組で、どちらも感じがよく、慣れた様子で挨拶をする。
「本日はよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
機材確認をしながら、相沢は二人の持ち込んだ荷物に目を留めた。
ノートパソコン。
接続ケーブル。
レーザーポインター。
そして、コンビニの紙コップ入りコーヒー。
嫌な汗が背中を伝った。
「すみません」
と相沢はできるだけ自然に言う。
「会場内、飲み物はふた付きのものだけお願いしていて」
「あ、すみません。すぐ飲み切ります」
と女性担当者が笑う。
「こちらで預かりましょうか」
「え、そこまでしていただかなくても」
「資料が多いので、こぼれると危ないんです」
少し強引だったかもしれない。
だが、相沢は紙コップを受け取り、会場外のサイドテーブルへ移した。
その様子を、澪が少し離れたところから見ていた。
「今のも?」
と小声で聞かれる。
「何が」
「念のため?」
「……そう」
「本当に徹底してますね」
「笑うなら今のうちだよ」
「笑いません」
即答だった。
午後二時。
説明会が始まった。
参加者は予定通り四十名ほど。
営業部の若手から管理職まで、幅広い顔ぶれがそろっている。前方ではベンダー担当者が新システムの概要を説明し、スクリーンには操作画面が映し出される。
相沢は会場後方の壁際に立ち、全体を見ていた。
澪は受付横で追加資料の整理をしている。
今のところ問題はない。
ないのに、胸のざわつきが消えない。
プロジェクターの光。
机の上の資料。
参加者の足元の鞄。
壁際の電源。
出入口付近の人の流れ。
どこだ。
何が来る。
ベンダー担当者がデモ操作に入ったとき、前方の席にいた営業部員の一人が手を挙げた。
「すみません、少し画面が見づらくて」
その声に応じて、女性担当者が前へ出る。
スクリーン横のノートパソコンに手を伸ばし、表示を調整しようとする。
その瞬間、相沢の視界の端で何かが揺れた。
会場外のサイドテーブル。
さっき移した紙コップ。
通りかかった社員の鞄が、テーブルの脚に軽く当たる。
紙コップが傾く。
中身がこぼれる。
床を伝う。
開け放したままの会場扉の下をくぐる。
前方の電源ケーブルへ――
「篠宮さん、扉!」
叫ぶのと同時に、相沢は走っていた。
澪が反射的に会場扉を押さえる。
だが、完全には間に合わない。
こぼれたコーヒーの一部が扉の内側まで流れ込み、床を這うケーブルへ近づいていく。
相沢は鞄からタオルを引き抜き、滑り込むように床へ膝をついた。
液体を押さえ、ケーブルを持ち上げ、電源タップを床から離す。
「え、何?」
「どうした?」
「ちょ、止めてください!」
会場がざわつく。
そのざわめきの中で、前方の男性担当者が驚いて一歩下がった。
その足が、固定しきれていなかった予備ケーブルに引っかかる。
まずい。
相沢がそちらへ向くより早く、澪が動いた。
「危ない!」
澪が男性担当者の腕をつかみ、倒れ込むのを防ぐ。
だが勢いで、近くの折りたたみ椅子が一脚倒れた。
金属音が会場に響く。
一瞬、空気が凍る。
けれど、それだけだった。
火花は散らない。
誰も転ばない。
悲鳴も連鎖しない。
最悪の形には、ならなかった。
「……大丈夫です」
と相沢は息を整えながら言った。
「飲み物がこぼれただけです。少しお待ちください」
澪も男性担当者の腕を離し、短くうなずく。
「こちら問題ありません。続けられます」
会場のざわめきは、数十秒で落ち着いた。
参加者たちも「びっくりした」「何事かと思った」と小声で言い合う程度で、説明会そのものは中断せずに済んだ。
相沢は濡れた床を拭き取り、ケーブル位置を再確認し、倒れた椅子を戻す。
手は動いているのに、心臓だけが嫌にうるさい。
間に合った。
また、間に合った。
でも。
もし自分があの光景を思い浮かべなければ。
もし最悪を見なければ。
そもそも、こんな連鎖は起きなかったんじゃないか。
その考えが頭をよぎった瞬間、指先が少し冷えた。
説明会はその後、大きな問題もなく終了した。
参加者が帰り始め、会場の空気がようやく緩む。
ベンダー担当者たちは何度も頭を下げた。
「先ほどは本当に助かりました」
「こちらの不注意でもありました。申し訳ありません」
「いえ、事前に飲み物のことまで気にしていただいていたのに……」
相沢は「大丈夫です」とだけ答えた。
大丈夫。
そう言うしかない。
実際には、全然大丈夫じゃない。
喉の奥にはまだ冷たいものが残っているし、頭の中ではさっきの最悪の映像が何度も再生されていた。
片づけが始まると、澪が無言で近づいてきた。
「相沢さん」
「……なに」
「ちょっといいですか」
その声は低く、静かだった。
怒っているわけではない。
でも、逃がさない声だ。
会場の隅、使っていない長机の横まで来ると、澪は相沢をまっすぐ見た。
「今の、見えてましたよね」
「見えてない」
「嘘です」
「嘘じゃない」
「じゃあ、どうして扉って叫んだんですか」
「たまたま外が見えたから」
「その前からタオル持ってましたよね」
「……」
「鞄から出すの、早すぎました」
相沢は答えられなかった。
実際、タオルにはもう手をかけていた。
何かが来る気がして、無意識に準備していたのだ。
澪は続ける。
「しかも、私が扉を押さえるってわかってたみたいな言い方でした」
「そんなことない」
「ありました。あの一瞬で、相沢さんは“どこで何が起きるか”をほとんど把握してた」
言い逃れは難しかった。
澪は少しだけ息を吐く。
「……やっぱり、偶然じゃない」
「篠宮さん」
「でも」
そこで、彼女の声が少しだけ変わった。
追及する調子ではなく、確かめるような響きになる。
「どうして、そんな顔するんですか」
相沢は眉をひそめた。
「どんな顔」
「助かったあとなのに、全然安心してない顔です」
「そんなこと」
「あります」
澪ははっきり言い切った。
「普通、今みたいに防げたら、少しはほっとするはずです。でも相沢さん、違う」
「……」
「まるで、自分が悪いことをしたみたいな顔してます」
その言葉が、胸の奥に深く刺さった。
会場のざわめきが遠くなる。
片づけの音も、人の声も、急に薄くなる。
言えるわけがない。
自分でも確信なんてないのに。
最悪を思い浮かべる。
最悪が起きる。
備える。
防ぐ。
でも、もし最初の“思い浮かべる”こと自体が引き金だったら。
そんな馬鹿げた考えを、相沢は十年近く捨てられずにいる。
「……別に」
と相沢は言った。
「そういうんじゃない」
「じゃあ、どういうんですか」
「ただ、間に合ってるか確認してるだけ」
「それだけで、あんな顔になります?」
「なるよ」
「ならないです」
即答だった。
澪は一歩だけ近づく。
「相沢さん」
「なに」
「あなた、自分が何かを起こしてるって思ってますか」
息が止まりかけた。
どうしてそこまで届く。
どうして、そんなところまで見抜く。
相沢はとっさに目を逸らした。
「……何言ってるの」
「違うなら、違うって言ってください」
「違うよ」
「今のは反射です」
「篠宮さん」
「本気で聞いてます」
その目は、冗談を許さなかった。
相沢はしばらく黙っていた。
言葉が出ない。
出せない。
やがて、絞り出すように言う。
「わからないんだよ」
「……」
「本当に、わからない。何でこうなるのかも、何で先に浮かぶのかも。俺が関係あるのかないのかも、何も」
そこまで言って、相沢は口をつぐんだ。
言いすぎた。
これではほとんど認めたようなものだ。
だが、澪は驚いた顔をしなかった。
ただ静かに、その言葉を受け止めていた。
「そうですか」
と彼女は言う。
「わからないんですね」
「……うん」
「でも、備えるのはやめない」
「やめて間に合わなかったら、もっと嫌だから」
それは、今までで一番まっすぐな本音だった。
澪は少しだけ目を伏せ、それからまた相沢を見る。
「じゃあ、やめなくていいです」
「え?」
「少なくとも私は、今日助かりました」
「篠宮さんは別に」
「助かりました。あの人を支えられたの、相沢さんが先に動いたからです」
「……」
「それに、会場にいた人たちも」
相沢は何も言えなかった。
助かった。
またその言葉だ。
自分には重すぎる言葉なのに、どうしてこの人はこんなふうにまっすぐ言えるのだろう。
澪は少しだけ視線を和らげた。
「だから、まだわからないことはそのままでいいです」
「そんな適当でいいの」
「適当じゃありません。保留です」
「言い方が仕事できる人っぽい」
「実際できます」
少しだけ、相沢の口元が緩んだ。
こんな状況で笑いそうになるのは不本意だったが、澪もほんの少しだけ表情をやわらげた。
そのとき、会場の向こうから声が飛ぶ。
「相沢くーん、片づけ手伝ってー!」
総務部の先輩の声だった。
「行きます」
と相沢が返すと、澪が小さく言った。
「この話、まだ終わってませんから」
「終わらせてほしいんだけど」
「無理です」
「即答だ」
「観察中なので」
やっぱり怖い。
だが、その怖さは昨日までとは少し違っていた。
片づけを終え、夕方のオフィスへ戻るころには、窓の外が薄く赤く染まっていた。説明会の成功として処理され、ベンダーからも社内からも礼を言われる。今日もまた、何もなかったことになる。
何もなかった。
そう見えるだけで、本当は違う。
相沢は自席で鞄の中身を整え直した。
使ったタオルをビニール袋へ入れ、予備のケーブルを巻き直し、救急セットの位置を戻す。
その手元を、少し離れた席から澪が見ているのに気づく。
目が合う。
澪は何も言わず、ただ小さくうなずいた。
その意味はよくわからなかった。
わからないままでいい気もした。
何も起きなければ、それでいい。
起きても、間に合えばいい。
そのために備えることは、たぶんこれからも変わらない。
ただ、変わってしまったこともある。
相沢恒一の異常さを、もう一人知っている人間がいる。
しかもその人間は、偶然では済ませない。
見て、考えて、たぶんこれからも隣に立とうとする。
それが面倒で、厄介で、
少しだけ心強いと思ってしまう自分がいる。
窓の外で、夕焼けの色がゆっくり薄れていく。
明日もまた、何かが起きるかもしれない。
起きないかもしれない。
それはまだわからない。
わからないから、備える。
そして今日、篠宮澪は確かに見たのだ。
相沢恒一が、ただ先回りしているだけではないことを。
助けたあとでさえ、救われた顔をしないことを。
見えすぎる男は、
誰かを守るたびに、少しずつ自分を追い詰めている。
そのことに気づいたのは、
たぶんまだ、彼女だけだった。




