第2話 偶然を信じない女
相沢恒一は、朝の時点で嫌なものを三つ見ていた。
一つ目は、書類棚の上段に無理やり押し込まれた古いファイルの束が、昼すぎに崩れて誰かの肩に落ちる場面。
二つ目は、給湯室で電気ポットのコードに誰かの足が引っかかり、熱湯が手元にこぼれる場面。
三つ目は、夕方のエレベーターで急停止が起き、乗っていた社員が転倒する場面。
どれも大事故ではない。
けれど、放っておけば怪我人が出るには十分だった。
しかも厄介なことに、こういう日はだいたい重なる。
朝のデスクでパソコンを立ち上げながら、相沢は小さく息を吐いた。
やめてくれ、と思う。
できれば今日は何も起きないでほしい。
昨日の停電対応で営業部からやたら感謝され、総務部でも「相沢くんすごかったね」と言われ続けた翌日だ。これ以上目立ちたくない。
だが、願ったところで頭に浮かぶ最悪は消えない。
相沢はまず、書類棚のある資料室へ向かった。
総務部の資料室は、古い書類も新しい備品も雑多に押し込まれている小部屋だ。棚は金属製で頑丈そうに見えるが、上段には誰が積んだのかわからないファイルの山が斜めに傾いている。
見た瞬間、昨日の朝に頭へ浮かんだ映像とぴたり重なった。
昼休み、誰かが下の段のファイルを引き抜く。
バランスが崩れる。
上段の束が滑る。
避けきれず、肩口に直撃する。
相沢は無言で脚立を持ってきた。
「朝から何してるの?」
背後から声がして振り返ると、篠宮澪が資料室の入口に立っていた。今日も無駄のない服装で、手には回覧用の書類を持っている。
「ちょっと整理」
「始業五分で?」
「気になったから」
相沢は脚立に上り、上段のファイルを一つずつ下ろし始める。見た目以上に重い。しかも古い紙の束は妙に滑りやすく、少しでも雑に扱えば本当に落ちそうだった。
澪は入口にもたれたまま、その様子を見ている。
「昨日の停電の次は、今日は棚ですか」
「別に、次ってわけじゃ」
「相沢さん、最近ずっと何かに先回りしてません?」
「総務ってそういう仕事だから」
「便利ですね、その返し」
相沢は答えず、ファイルを抱えたまま脚立を降りた。
棚の上段を空け、重いものは下へ移す。ついでに転倒防止の簡易ストッパーも付け直す。十分もかからない作業だったが、終わるころには額にうっすら汗がにじんでいた。
「これでよし」
「本当に“気になったから”だけですか?」
「……うん」
澪は納得していない顔だったが、それ以上は追及しなかった。
午前中は比較的平和に過ぎた。
電話対応、備品発注、会議室予約の調整、来客用の名札準備。総務部の仕事は細かくて地味だが、相沢にはそのくらいの方がありがたい。目立たず、淡々と、必要なことをこなしていればいい。
そう思っていたのに、十一時を過ぎたころ、給湯室の前を通った瞬間に背筋が冷えた。
電気ポット。
カウンターの端。
床を這うコード。
急いで入ってきた誰かの足。
引っかかる。
傾く。
熱湯がこぼれる。
頭の中で、映像が一気に鮮明になる。
相沢は足を止めた。
給湯室の中では、営業部の若手二人がコーヒーを入れながら雑談している。ポットはすでに湯気を立てていて、コードは確かに少しだけ通路側へはみ出していた。
今ならまだ間に合う。
「すみません」
相沢は給湯室に入り、できるだけ自然な顔でポットの位置をずらした。ついでにコードをまとめ、足元に引っかからないよう壁際へ寄せる。
「え、相沢さん?」
「ちょっと危ないから」
「あー、確かに。ありがとうございます」
若手社員は軽く笑って礼を言う。
それだけで済めばよかった。
だが次の瞬間、給湯室のドアが勢いよく開いた。
「やば、会議始まる!」
別の社員が慌てて飛び込んでくる。勢いのまま一歩踏み込んだ足が、さっきまでコードがあった位置をかすめた。
もしそのままだったら、確実に引っかけていた。
相沢の喉がひりつく。
「うわ、危な」
と入ってきた社員が苦笑する。
「すみません、急いでて」
「大丈夫です」
と相沢は答えたが、心臓はまだ速かった。
給湯室の入口の外に、澪が立っていた。
いつから見ていたのかわからない。
だが、彼女の目は明らかにさっきの一連の流れを追っていた。
「……またですか」
と、澪が言う。
「またって?」
「危なくなる前に直しましたよね」
「たまたま目についただけ」
「その“たまたま”、多くないですか」
相沢は返事をしなかった。
澪は少しだけ目を細める。
その視線は責めるものではなく、観察するものだった。
昼休み。
相沢は人が少なくなる時間を見計らって、資料室へ戻った。
朝のうちに整理した棚をもう一度確認するためだ。ストッパーはきちんと固定されているし、重いファイルも下段へ移した。これなら少なくとも、朝に見た最悪は起きないはずだった。
そのとき、資料室の外から声がした。
「あれ、このファイル去年の監査資料だっけ?」
「たぶん上の棚じゃない?」
総務部の別の社員二人が入ってくる気配がする。
相沢は反射的に棚の前へ立った。
「その資料なら下です」
「え、そう?」
「朝、整理したので」
二人は相沢の示した下段から目当てのファイルを見つけ、「助かった」と言って出ていった。
ドアが閉まる。
相沢はその場で、ゆっくり息を吐いた。
もし朝のままだったら。
もし上段の束がそのままだったら。
たぶん今ごろ、誰かの肩か頭に落ちていた。
「やっぱり」
背後から聞こえた声に、相沢は肩を跳ねさせた。
振り向くと、澪が資料室の入口に立っていた。
「篠宮さん……」
「今の、待ってましたよね」
「何を」
「誰かがその棚を触るの」
相沢は言葉に詰まる。
澪は一歩だけ中へ入ってきた。狭い資料室で向かい合うと、逃げ場がない。
「昨日から見てて思ってたんですけど」
「……何を」
「相沢さん、偶然にしては動きが早すぎます」
静かな声だった。
怒っているわけでも、責めているわけでもない。
ただ、事実を並べているだけの声。
「停電の準備もそう。給湯室もそう。今の棚もそう」
「総務だから」
「それ、もう聞きました」
「……」
「総務でも、普通は“起きる前”にそこまで動けません」
相沢は視線を逸らした。
資料室の空気は、古い紙と金属の匂いが混ざって少し息苦しい。こういう狭い場所で追い詰められると、余計に言葉が出なくなる。
「別に、何か隠してるなら無理に聞きません」
と澪は言った。
「でも、見てるとそう思うんです。相沢さんって、何かが起きるのを知ってるみたいだなって」
その一言に、心臓が嫌な音を立てた。
知っているわけじゃない。
そんなふうに言い切れるものじゃない。
ただ、頭に浮かぶだけだ。
最悪の形が、勝手に。
「知らないよ」
と相沢はようやく言った。
「そんなの」
「じゃあ、どうしてわかるんですか」
「わからない」
「わからないのに、あんなに先回りするんですか」
「……わからないから、備えるんだよ」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
澪も同じだったのか、わずかに目を見開く。
「わからないから?」
「何も起きないなら、それでいい。起きても、間に合えばいい。それだけ」
それは半分本音で、半分ごまかしだった。
澪はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「相沢さんって、面倒な人ですね」
「悪かったね」
「褒めてません」
「知ってる」
少しだけ空気が緩む。
だが、澪の疑いが消えたわけではないと、相沢にはわかった。
午後も細かい仕事は続いた。
備品倉庫の在庫確認。
来週の社内研修の座席表作成。
郵便物の仕分け。
会議室のレイアウト変更。
その合間にも、相沢は何度もエレベーター前を通った。
夕方、急停止。
乗っていた社員がよろける。
一人が尻もちをつき、もう一人が壁に肩をぶつける。
朝から頭にこびりついている三つ目の最悪だ。
エレベーターそのものを止める権限はない。点検を今すぐ入れるのも現実的ではない。なら、被害を減らすしかない。
相沢は考えた末、エレベーター前に
「本日一時的に揺れが発生する可能性があります。乗降時は足元にご注意ください」
という簡易掲示を出した。
ビル管理会社に確認したところ、午前中に近隣設備の影響で一時的な電圧変動があったらしく、完全に的外れでもない。
ついでに、乗り込む社員にそれとなく
「今日は少し不安定かもしれないので、足元に気をつけてください」
と声をかける。
やりすぎだと思われても仕方ない。
でも、何もしないよりはいい。
十七時四十分。
退勤ラッシュが始まり、エレベーター前に人が集まり出す。
相沢は少し離れた位置から様子を見ていた。
「相沢さん、また見張ってるんですか」
隣に来たのは澪だった。
「見張ってるわけじゃ」
「じゃあ何ですか」
「……念のため」
「本当に好きですね、その言葉」
半ば呆れたように言いながらも、澪はその場を離れなかった。
扉が開き、社員たちが乗り込む。
定員まではまだ余裕がある。
相沢の視線は、自然と中の足元や立ち位置を追っていた。
閉まる。
下降する。
数秒後。
ガクン、と鈍い振動が伝わった。
「きゃっ」
と中から短い悲鳴が聞こえる。
相沢はすぐに非常停止ではないことを確認し、表示灯を見る。エレベーターは数秒後にゆっくり再始動し、一階へ降りていった。
扉が再び開くと、中にいた社員たちは少し青ざめた顔で出てきた。
「びっくりした……」
「急に止まったよね」
「ちょっと構えてたから転ばずに済んだ」
「掲示見てなかったら危なかったかも」
その言葉に、相沢は胸の奥で小さく息を吐いた。
大きな怪我はない。
朝に見た最悪より、ずっと軽く済んだ。
「……本当に起きた」
隣で、澪が小さくつぶやいた。
相沢は何も言えなかった。
澪はエレベーターから出てきた社員たちを見送り、それからゆっくり相沢の方を向く。
「相沢さん」
「なに」
「ちょっといいですか」
その声色に逆らえず、相沢は総務部の奥にある小さな備品室まで連れていかれた。
備品室は狭く、棚と段ボールで半分埋まっている。人二人が入ると距離が近い。澪はドアを閉めると、腕を組んで相沢を見た。
「確認したいんですけど」
「何を」
「あなた、何なんですか」
「何なんですかって」
「停電も、棚も、給湯室も、エレベーターも。全部、偶然で片づけるには無理があります」
相沢は黙る。
澪は続ける。
「別に超能力者ですかとか、そういうことを聞きたいわけじゃないです」
「十分変なこと聞いてると思うけど」
「じゃあ聞き方を変えます。どうしてそんなに備えてるんですか」
その問いは、思ったより深く刺さった。
どうして。
そんなの、自分でもうまく説明できない。
怖いからだ。
間に合わないのが。
誰かが怪我をするのが。
そして何より、自分が思い浮かべた最悪が現実になるのが。
でも、それをそのまま言えるはずがない。
「心配性だから」
と相沢は言った。
「それだけ」
「それだけで、あのレベルになります?」
「なる人もいるかもしれない」
「相沢さんは“かもしれない”で済ませるには、鞄が重すぎます」
ぎくりとした。
「……見たの?」
「前から気になってました。今日、資料室で脚立に上るときも、やたら重そうだったし」
澪は相沢の足元に置かれた通勤鞄へ視線を落とす。
「開けてもいいですか」
「よくない」
「ですよね」
即答すると、澪は少しだけ口元をゆるめた。
だが次の瞬間、その表情はまた真面目なものに戻る。
「でも、見せてください」
「なんで」
「確認したいからです」
「何を」
「あなたがただの心配性なのか、それ以上なのか」
そんな確認の仕方があるか、と言い返したかった。
だが澪の目は本気だった。
相沢はしばらく迷った末、観念して鞄を机の上に置いた。
ファスナーを開ける。
中身を見た澪が、無言になる。
ノートパソコン。
充電器。
モバイルバッテリー二つ。
折りたたみ傘。
常備薬。
絆創膏。
包帯。
消毒シート。
小型ライト。
携帯食。
ビニール袋。
筆記具一式。
紙資料。
USBメモリ。
予備の名刺入れ。
簡易工具。
使い捨て手袋。
会社帰りの総務部員の鞄としては、明らかに異常だった。
「……多いですね」
「だから言っただろ」
「想像以上でした」
「見たかったんでしょ」
「見たかったですけど、ここまでとは思いませんでした」
澪は一つひとつを目で追う。
「救急箱ですか、これ」
「最低限」
「最低限の定義が違う」
「そうかも」
「モバイルバッテリー二つ?」
「一つ切れたとき用」
「USBメモリ三本?」
「一つ壊れたとき用」
「ビニール袋?」
「何か濡れたとき用」
「簡易工具?」
「何か外れたとき用」
「何か、何か、何かって……」
澪はそこで言葉を切った。
そして、静かに言う。
「相沢さんって、“何か起きる前提”で生きてるんですね」
否定できなかった。
備えすぎだと、自分でも思う。
でも、そうしないと落ち着かない。
何も起きなければ無駄で済む。
起きたときだけ、意味が出る。
その“起きたとき”が、相沢にはあまりにも近すぎた。
「……笑わないんだ」
と、相沢はぽつりと言った。
澪は顔を上げる。
「何をですか」
「こういうの。普通、引くでしょ」
「ちょっと引いてます」
「引いてるんじゃん」
「でも、笑いません」
きっぱり言われて、相沢は少しだけ目を伏せた。
澪は鞄の中身から視線を外さずに続ける。
「だって、今日だけで三回助かってますから」
「助かったっていうほどじゃ」
「言います。棚も、給湯室も、エレベーターも。全部、何もなかったことになってるだけで、たぶん普通に危なかった」
その通りだった。
何も起きなかったように見えるのは、起きる前に潰したからだ。
でもそれは、周囲から見れば“最初から何もなかった”のとほとんど同じだ。
相沢はそれに慣れていた。
慣れていたはずだった。
「……篠宮さん」
「はい」
「これ、誰にも言わないで」
「鞄の中身のことですか」
「それもだけど、今日のこと全部」
「どうして」
「面倒になるから」
半分は本当で、半分は嘘だった。
本当は怖いのだ。
誰かに深く踏み込まれるのが。
自分でも説明できないものを、他人に見つめられるのが。
澪は少し考えてから、うなずいた。
「わかりました。言いません」
「助かる」
「でも」
その一言に、相沢は顔を上げる。
「私は、偶然だとは思いません」
と澪は言った。
まっすぐな声だった。
「相沢さんが何を知ってるのか、何を考えてるのかはまだわかりません。でも、ただの偶然で片づけるつもりはないです」
「……」
「だって、そんな顔して偶然をやる人、見たことないので」
そんな顔。
たぶん、自分では気づいていない顔だ。
怯えているのか。
追い詰められているのか。
それとも、何かを必死に止めようとしている顔なのか。
澪は鞄のファスナーを閉じ、相沢の方へ押し戻した。
「この男はただの心配性じゃない」
「え?」
「今、そう思いました」
言い切ってから、澪は少しだけ目を細める。
「だから、しばらく見てます」
「怖いこと言わないで」
「安心してください。監視じゃなくて観察です」
「余計怖いよ」
初めて、澪が少しだけ笑った。
ほんのわずかだったが、その表情は思ったより柔らかかった。
備品室を出ると、オフィスにはもう夜の気配が落ちていた。退勤した社員の席は暗く、残っているのは数人だけだ。窓の外には、ビルの明かりが点々と浮かんでいる。
相沢は鞄を持ち直した。
やはり重い。
けれど、今日はその重さに別の意味が混ざっている気がした。
見られた。
気づかれた。
しかも、よりによって一番鋭い相手に。
面倒だ。
本当に面倒だ。
そう思うのに、胸の奥には奇妙な感覚が残っていた。
全部を笑い飛ばされなかったこと。
ただの変人扱いで終わらなかったこと。
それが少しだけ、救いのようにも思えてしまう。
「相沢さん」
廊下の先で、澪が振り返る。
「明日も何か起きそうですか」
「天気予報みたいに聞かないで」
「で、どうなんですか」
「……知らないよ」
「じゃあ、念のため気をつけます」
そう言って、彼女は先にエレベーターへ向かった。
相沢はその背中を見送りながら、小さく息を吐く。
偶然を信じない女。
たぶん、そういう人間なのだろう。
そして、そういう人間に見つかったのは、きっとあまり良くない。
良くないはずなのに。
明日また何か起きたとき、もし彼女が近くにいたら少しだけやりやすいかもしれない、と思ってしまった自分に気づいて、相沢は眉をひそめた。
それでも、やることは変わらない。
何も起きなければ、それでいい。
起きても、間に合えばいい。
そのために、今日も備える。
ただ一つ違うのは、
その異常さに気づいた人間が、もう隣にいるということだった。




