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第一話 備える人

忘れ物が気になって家へ戻ったら、結果的に大切な誰かと出会えた。

何となく胸騒ぎがして確認したら、問題が起こる寸前だった。


それは偶然なのか。

勘が鋭いだけなのか。

それとも、人にはまだ説明のつかない何かがあるのか。


相沢恒一は、そんな「最悪の気配」を誰よりも早く感じてしまう。


最悪が来る前に立つために。

――『間に合う人』、はじまります。

「危ない!」


気づいたときには、もう叫んでいた。


昼休み前の渡り廊下は、雨上がりの湿気で鈍く光っていた。古い校舎特有の、軋む床板。湿った木の匂い。窓の外では、さっきまで降っていた雨がまだ細く残っている。


前を歩いていた男子生徒の足が、その濡れた床を踏んだ。


滑る。


そう思った瞬間には、体が勝手に動いていた。


肩にかけていた鞄がずり落ちる。靴底が床を鳴らす。伸ばした手が、傾いた制服の腕をつかむ。相手の体重が思ったより重くて、肩が痛んだ。それでも、階段の方へ流れかけた体を無理やり引き戻す。


二人分の足音が、廊下の端で乱暴に止まった。


「うわっ……!」


助けられた男子生徒が、目を見開いたまま固まる。あと一歩遅れていたら、そのまま階段を転げ落ちていたはずだ。


少し遅れて、後ろから声が上がる。


「え、今のやば……!」

「大丈夫!?」

「すげえ、間に合った」


ざわめきが一気に広がる。


 *


あの日から十年近く経った今も、相沢恒一の鞄は重い。


ノートパソコン。充電器。モバイルバッテリー。折りたたみ傘。常備薬。絆創膏。小型ライト。筆記具。紙の資料。USBメモリ。ビニール袋。ウェットティッシュ。携帯食。


普通の会社員の通勤鞄にしては、どう考えても詰め込みすぎだった。


けれど相沢にとっては、どれも削れない。

何かが起きる前に、間に合うための道具だからだ。


朝の通勤ラッシュを抜けてオフィスビルに入るころには、肩がじんわり痛くなる。だが、その重さがないと逆に落ち着かない。


エレベーターの鏡に映った自分は、今日もぱっとしなかった。


寝癖は一応直した。スーツも最低限は整っている。けれど、営業部みたいな華やかさはないし、特別目立つ顔でもない。総務部所属、二十五歳。社内での印象はたぶん、「真面目」「地味」「頼めば何でもやる人」あたりだろう。


まあ、だいたい合っている。


ただ一つだけ、普通じゃないことがある。


相沢恒一は、ときどき最悪を先に想像してしまう。


しかもそれは、ただの妄想にしては妙に鮮明だった。


会議室の延長コードに誰かが足を引っかける。

給湯室でポットが倒れる。

コピー機の中で紙が焦げる。

エレベーターが止まる。

停電でオンライン会議が落ちる。


そんな最悪の場面が、映像みたいに頭に浮かぶ。


そして厄介なことに、備えないと本当に起きる。


少なくとも、相沢にはそう思えていた。


「相沢くん、おはよう」


受付前で声をかけてきたのは、総務部の先輩・三浦だった。面倒見がよくて、社内の細かいことを何でも把握している人だ。


「おはようございます」

「今日の十時からのオンライン商談、会議室Bでいいんだよね?」

「はい。機材も昨日のうちに確認してあります」

「助かるー。営業の人たち、そういうの全部相沢くん任せだから」


苦笑しながら三浦は去っていく。


十時からのオンライン商談。

取引先は地方の大手流通会社。今期の大型案件につながる重要な打ち合わせらしい。営業部にとってはかなり大事な場だ。


総務部の相沢は主役ではない。

だが、通信環境、資料投影、接続トラブル対応――そういう裏方仕事はだいたい回ってくる。


そして相沢は、その「裏方」の準備を昨日の時点で終えていた。


いや、終えていたどころか、やりすぎなくらい終えていた。


Wi-Fi接続確認。

有線LANアダプタの予備。

ノートパソコン二台。

資料データ入りUSBメモリ三本。

紙資料の簡易印刷。

モバイルルーター。

予備のHDMIケーブル。

延長コード。

停電時用のモバイルバッテリー。


ついでに、近隣の貸し会議室の空き状況まで調べてある。


そこまで必要かと言われれば、普通は必要ない。


でも今朝、駅のホームで頭に浮かんでしまったのだ。


会議室の照明が落ちる。

プロジェクターが消える。

通信が切れる。

営業部長の顔が引きつる。

先方の画面が止まる。

誰かが「停電らしい」と言う。

準備不足の空気が会議室を満たして、案件が流れる。


そこまで、嫌になるくらいはっきりと。


だから相沢は、出社してすぐにもう一度確認した。

モバイルルーターの充電残量。

ノートパソコンのバッテリー。

紙資料の部数。

会議室Bで一番電波が安定する位置。

非常灯の場所。

ビル管理会社の連絡先。


やりすぎだと、自分でも思う。


でも、やらずに何か起きる方がずっと怖い。


午前九時半。

営業部の面々が会議室Bに集まり始めた。


営業部長の高瀬は、いかにも仕事ができそうな鋭い顔つきの男で、相沢を見るなり言った。


「相沢くん、接続まわり頼むよ。今日は絶対落とせないから」

「はい。先方との接続テストも済んでいます」

「さすが。ほんと助かる」


助かる、という言葉に、相沢は曖昧に頭を下げた。


会議室の隅で機材を整えながら、胸の奥がざわつく。


まだ何も起きていない。

でも、起きるかもしれない。

いや、起きる前提で動け。


「相沢さん、これ追加の資料です」


後ろから声をかけてきたのは、総務部の同僚・篠宮澪だった。


肩口で切りそろえた黒髪。無駄のない所作。派手ではないのに、なぜか目を引く顔立ち。仕事も速くて、言うべきことははっきり言う。社内では「冷静で隙がない人」という印象が強い。


「ありがとう。机の端に置いておいて」

「紙資料まで用意したんですね」

「念のため」

「オンライン商談ですよ?」

「念のため」

「その言葉、便利ですね」


少しだけ呆れたように言われて、相沢は返事に詰まる。


澪は机の上に並んだ予備機材を見て、軽く眉を上げた。


「……相沢さんって、いつも備えすぎじゃないですか?」

「そうかな」

「そうです」


きっぱり言い切られた。


だが、否定はできない。


午前九時五十八分。

先方との接続が始まる。


画面に先方の会議室が映り、挨拶が交わされる。営業部長の高瀬が滑らかに話し始め、商談は順調に進み出した。相沢は壁際でノートパソコンを開き、通信状況を監視する。


回線速度、音声の遅延、バッテリー残量。

今のところ問題なし。


なのに、嫌な予感だけが消えない。


九時五十九分五十秒。

五十一秒。

五十二秒。


相沢は無意識に、机の下のモバイルルーターへ手を伸ばしていた。


次の瞬間、会議室の照明が落ちた。


「えっ」


誰かが短く声を漏らす。


――やっぱり。


胸の奥が、ひやりと冷える。

まただ。


プロジェクターが消える。空調の音が止まる。ビル全体の電源が落ちたのだと理解するまで、一秒もかからなかった。


だが、営業部の面々が固まるより早く、相沢は動いていた。


「停電です。慌てなくて大丈夫です」


言いながら、ノートパソコンをバッテリー駆動に切り替える。モバイルルーターの電源を入れ、有線接続を外し、オンライン会議の回線を即座に切り替える。紙資料を営業部長の手元に滑らせ、ブラインドを上げて採光を確保する。


「高瀬部長、資料は紙で追えます。先方にはこちらから状況を伝えます」

「あ、ああ、頼む!」

「篠宮さん、窓側の席を少し詰めてもらえますか」

「わかりました」


澪もすぐに動いた。椅子の位置を調整し、営業部員たちに短く指示を飛ばす。


相沢は会議画面に向かって頭を下げる。


「申し訳ありません。こちら停電が発生しました。ただ、通信は代替回線に切り替え済みですので、このまま継続可能です。問題があればすぐ対応します」


先方の担当者が驚いた顔をしたあと、感心したようにうなずいた。


『対応が早いですね。こちらは問題ありません』


会議は止まらなかった。


暗い会議室の中、ノートパソコンの画面だけが白く光る。紙資料をめくる音が静かに重なり、営業部長もすぐに立て直す。


相沢はその様子を見ながら、ようやく浅く息を吐いた。


間に合った。


停電は七分ほどで復旧した。

だが、その七分が致命傷にならなかったのは、相沢が事前に備えていたからだ。


商談終了後、会議室の空気は一気に緩んだ。


「いやー、助かった!」

「相沢くん、神対応だったな」

「普通あそこまで準備してないって」

「停電まで読んでたの?」


冗談めかしたその一言に、相沢の肩がわずかに強張る。


読んでいたわけじゃない。

ただ、思い浮かんでしまっただけだ。


でも、その違いを説明できたことは一度もない。


「たまたまです」


そう言って、相沢は機材の片づけに手を伸ばした。


「たまたま、で済ませるには準備が良すぎません?」


背後から聞こえたのは、澪の声だった。


振り向くと、彼女は紙資料を揃えながらこちらを見ていた。冗談を言っている顔ではない。観察するような、静かな目だ。


「停電するって知ってたみたいでした」

「知らないよ」

「でも、切り替えの準備、全部できてましたよね」

「念のため」

「今日だけでその言葉、何回目だと思ってるんですか」


相沢は答えられなかった。


澪は少しだけ首をかしげる。


「……まあ、助かったのは事実ですけど」


それだけ言って、彼女は資料を抱えて会議室を出ていった。


午後、ビル管理会社から正式に「近隣設備のトラブルによる一時停電だった」と連絡が回ってきた。社内では「運が悪かったけど、対応が良かった」で話がまとまり、相沢は何人にも礼を言われた。


助かった。

頼りになる。

いてくれてよかった。


そのたびに、胸の奥に鈍い棘が刺さる。


もし自分が思い浮かべなければ、停電は起きなかったんじゃないか。


証拠なんてない。

ないのに、否定しきれない。


高校のあの日からずっと、相沢の中ではその疑いが消えなかった。


最悪を想像する。

最悪が起きる。

備える。

被害は出ない。

感謝される。

でも、原因は自分かもしれない。


その繰り返しだ。


定時を少し過ぎたころ、相沢は一人で会議室Bの片づけをしていた。使い終えたケーブルをまとめ、紙資料の残部を数え、モバイルルーターの電源を落とす。窓の外はもう薄暗く、ガラスに自分の顔がぼんやり映っている。


そのとき、背後でドアが開いた。


「まだいたんですか」


澪だった。手には自販機の紙コップが二つある。


「片づけ、もう終わるから」

「そうじゃなくて。これ、余ったので」


差し出されたのは、ぬるめのカフェオレだった。


「ありがとう」

「どういたしまして」


澪は会議室の机に軽く腰を預ける。


「今日、すごかったですね」

「そうでもないよ」

「そうでもあります。営業部、かなり救われてました」

「……備えてただけだから」

「そこです」


澪は紙コップの縁を指でなぞりながら言った。


「相沢さんって、いつも“起きる前提”で動いてますよね」

「総務ってそういう仕事じゃない?」

「普通の総務は、停電用にモバイルルーターと紙資料と予備端末を全部そろえたりしません」


図星だった。


相沢は視線を落とす。紙コップの表面に浮いた水滴が、指先を冷やした。


「……心配性なんだよ」

「それだけですか」

「それだけ」


沈黙が落ちる。


会議室の外では、誰かの笑い声が遠く響いていた。もう業務の緊張は解けている時間だ。けれど相沢の中だけ、まだ何かが張りつめたままだった。


澪はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。


「昔からですか」

「え?」

「そういうの。起きる前に備えるの」


不意を突かれて、相沢は顔を上げた。


高校の渡り廊下。

雨上がりの床。

滑る足。

伸ばした手。

ざわめき。


一瞬だけ、あの日の光景が脳裏をよぎる。


「……まあ」

と、相沢は曖昧に答えた。

「昔から、ちょっと」


澪はそれ以上踏み込まなかった。ただ、小さくうなずくだけだった。


「じゃあ、その“ちょっと”で今日も助かったってことですね」

「助かったなら、いいけど」

「よくないんですか?」


その問いに、相沢はすぐ答えられなかった。


よくないわけじゃない。

誰も困らなかったのはいいことだ。

被害が出なかったのは、間違いなくいいことだ。


でも。


「……もし、俺が」

と言いかけて、口をつぐむ。


澪が首をかしげる。


「俺が?」

「いや、何でもない」


言えるわけがなかった。


自分が想像したから起きたのかもしれない、なんて。

そんなことを言えば、頭のおかしい人間だと思われるだけだ。


澪は少しだけ考えるような顔をしたあと、紙コップを空にしてゴミ箱へ捨てた。


「相沢さん」

「なに」

「あなた、助けるの上手いですね」


思いがけない言葉だった。


「助ける?」

「今日みたいなことです。何か起きても、すぐ被害が出ない形に持っていくの」

「そんな大げさな」

「大げさじゃないです。たぶん、簡単にできることじゃない」


相沢は返事に困って、曖昧に笑った。


助けるのが上手い。


そんなふうに言われたことは、たぶんなかった。


いつだって自分の中にあったのは、助けたという実感より、間に合ったという安堵と、起こしてしまったかもしれないという恐怖だけだったからだ。


澪はドアの前で立ち止まり、振り返る。


「また何かあったら、手伝います」

「え?」

「念のため、です」


ほんの少しだけ口元をゆるめて、彼女は会議室を出ていった。


一人残された相沢は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


窓の外は、いつの間にか雨が上がっていた。濡れた道路に街灯の光がにじんでいる。何も起きていない夜の景色。少なくとも今は。


相沢は机の上の荷物を鞄に戻していく。


充電器。

予備ケーブル。

紙資料。

モバイルルーター。

懐中電灯。

常備薬。


ひとつ入れるたびに、鞄は重くなる。


それでも、その重さが少しだけ違って感じられた。


助けるのが上手い。


その言葉が、胸のどこかに引っかかっている。


違う。

そんなきれいなものじゃない。

自分はただ、最悪を思い浮かべて、それが現実になるのが怖くて、先回りしているだけだ。


そう思うのに、完全には打ち消せなかった。


会議室の電気を消し、廊下に出る。夜のオフィスは昼間より静かで、足音だけがやけに響く。エレベーターを待つあいだ、相沢は無意識にスマートフォンの充電残量を確認し、非常階段の位置に目をやり、明日の天気予報を開いていた。


雨は夜半にまた降るらしい。


折りたたみ傘はある。

靴底も滑りにくいものに替えた。

モバイルバッテリーも満充電だ。

明日の会議資料も、念のため紙で一部持って帰るか。


考え始めると止まらない。


けれど、それでいい。

止めて、間に合わなくなるよりはずっといい。


エレベーターの扉が開く。


乗り込む直前、相沢はガラス窓に映る自分を見た。

地味で、冴えなくて、どこにでもいそうな会社員。

ただ鞄だけが不釣り合いに重い。


その重さごと、自分なのだと思う。


何も起きなければ、それでいい。

起きても、間に合えばいい。


相沢恒一は、今日も備える。


誰かを助けるためなのか。

自分の罪を減らすためなのか。

その答えは、まだわからないまま。


ただ、最悪が来る前に立つために。

彼は今日も、備える男だった。


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