エピローグ
九月の朝は、少しだけ風が軽い。
出社した相沢が総務部のドアを開けると、もう澪が来ていた。
机の上には今日の来客予定表と、きれいに揃えられた付箋。
その横で三浦が、難しい顔をしながら掲示文を見比べている。
「おはようございます」
と三浦が顔を上げた。
「相沢さん、この文面、“ご注意ください”と“ご協力ください”どっちがやわらかいですか」
「後者かな」
「やっぱり」
「何の掲示?」
「給湯室の点検です」
「朝から総務してるね」
「最近ちょっとだけわかってきました」
「何が?」
「先に言っとくと、あとが楽ってことです」
相沢は少し笑った。
「それはかなり大事」
「ですよね」
「三浦さん」
と澪が言う。
「はい」
「その文面で大丈夫です」
「やった」
「ただし時刻が一か所違います」
「えっ」
「惜しいです」
「褒めてから落とすのやめてください!」
朝の総務部は、少しだけ騒がしくて、でも落ち着いていた。
相沢は鞄を机の横に置く。
前よりずっと薄い。
自分でももう、それが普通になっていた。
「相沢さん」
と澪が言う。
「なに」
「今日も軽いですね」
「何が」
「カバンです」
「また見てる」
「見ます」
「観察熱心だなあ」
「必要なので」
相沢は苦笑して、椅子に座った。
「でも、前よりいいでしょ」
「はい」
「おかしくない?」
「かなり普通になりました」
「かなりって何」
「前がかなりだったので」
「ひどいなあ」
「事実です」
三浦がその会話を聞いて首を傾げる。
「相沢さんのカバン、前そんなに変だったんですか?」
「少し」
と相沢が言う。
「少しではありませんでした」
と澪が言う。
「どっちなんですか」
「認識の差です」
「総務部、たまに会話が雑なんですよね……」
午前中は、特に何も起きなかった。
来客対応が一件。
備品の補充。
会議室の予約確認。
電話が少し多いくらいで、あとはいつもの仕事だ。
何も起きない。
そのことに、相沢はもう不安を覚えなかった。
昼前、コピー機の前で紙詰まりを直していた三浦が、
「取れました!」と小さくガッツポーズをした。
澪が「よかったですね」と言い、
相沢が「成長してる」と言うと、
三浦は少し照れたように笑った。
大きなことではない。
でも、そういう小さいことが、ちゃんと嬉しい日だった。
昼休み、相沢が給湯室でコーヒーを入れていると、澪が隣に来た。
「今日は静かですね」
と澪が言う。
「うん」
「いいことです」
「そうだね」
「少し前の相沢さんなら、落ち着かなかったかもしれません」
「そうかも」
「今は?」
相沢はマグカップを持って、少しだけ考えた。
「今は、まあ」
「はい」
「静かな日って、いいなって思う」
澪はその答えに、小さくうなずいた。
「私もです」
午後も、仕事は穏やかに進んだ。
三浦は一度だけメールの宛先を間違えかけて澪に止められ、
「危なかった……」と机に突っ伏していたが、
その十分後には何事もなかった顔で電話を取っていた。
定時を少し過ぎたころ、ようやく一段落する。
「終わりましたか」
と澪が聞く。
「うん」
「今日はちゃんと終わっていますか」
「その聞き方ひどくない?」
「確認です」
「終わってます」
「よかったです」
三浦が帰り支度をしながら言う。
「なんか最近、総務部ちょっといい感じですよね」
「ちょっと?」
と相沢が言う。
「かなり?」
「自信がないなら無理しなくていいよ」
「いや、かなりです」
「雑だなあ」
「でも前より、みんな落ち着いてる気がします」
その言葉に、相沢は少しだけ笑った。
「そうかもね」
「じゃあお先です!」
三浦はそう言って、元気よく帰っていった。
フロアに静けさが戻る。
相沢は鞄を持ち上げた。
軽い。
書類と財布と、細かいものが少し。
それから、いつもの。
「相沢さん」
と澪が言う。
「なに」
「絆創膏、入っていますか」
相沢は思わず笑った。
「確認するんだ」
「します」
「入ってるよ」
「よかったです」
「そんなに必要?」
「必要かもしれません」
「観察結果では、あまり転ばないんじゃなかった?」
「絶対ではないので」
「急に弱気だなあ」
「備えです」
「そっか」
二人でオフィスを出る。
廊下の照明はやわらかく、窓の外は少しだけ秋の色だった。
駅までの道を並んで歩く。
急ぐ理由はない。
話さない時間も、もう気まずくなかった。
「相沢さん」
「なに」
「今日、いい日でしたね」
「うん」
「何もなかったので」
「うん」
「でも、ちゃんとよかったです」
相沢は少しだけ笑った。
「それ、いい言い方だね」
「必要なので」
「便利だなあ」
「役立っているので」
改札前で、人の流れが少しだけ分かれる。
いつもの場所で、二人は少し足を止めた。
「じゃあ」
と相沢が言う。
「また明日」
「はい」
と澪が答える。
それから、相沢の肩の鞄を見て、ほんの少しだけ目をやわらげた。
「軽いですね」
「うん」
「いいことです」
「そうだね」
「でも」
「うん」
「絆創膏は持っていてください」
相沢は笑った。
「了解」
「使わない方がいいですけど」
「もちろん」
「でも、持っていてください」
「わかった」
電車の到着を告げる音が遠くで鳴る。
人の流れがまた少し動き出す。
相沢は改札へ向かいかけて、それから少しだけ振り向いた。
「澪」
「はい」
「明日もよろしく」
澪はほんの少しだけ笑った。
「はい」
「明日も」
その返事が、やけにうれしかった。
先のことは見えない。
でも、明日の約束がある。
それだけで、十分だった。
最後まで読んでくれてありがとうございました




