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第12話 備える人たち

週が明けた月曜日、総務部の朝はいつもより少しだけ早く動いていた。


金曜日の六階西側通路での一件は、大きな事故にはならなかった。

怪我人も出なかったし、設備担当と業者の報告書もすでに上がっている。

表向きには「未然防止で済んだ事案」だ。

会社としては、それで正しい。


でも総務部にいる人間にとっては、それだけでは終わらない。


事故にならなかったからこそ、

次もそうである保証はない。


「おはようございます」

と三浦が入ってきて、机に鞄を置いた。

「なんか今日、空気が会議前っぽいですね」

「会議前です」

と澪が答える。

「やっぱり」

「九時から安全導線の見直し打ち合わせ」

「月曜朝から重いですねえ」

「金曜の件があるので」

「ですよね……」


三浦はそう言いながら、ちらりと相沢を見た。

「相沢さん、大丈夫ですか」

「何が」

「いや、いろいろです」

「便利な聞き方だなあ」

「最近うつりました」

「悪い影響だ」

「認めるんですね」

「少しは」


相沢はそう返して、手元の資料に目を落とした。


六階の件を受けて、設備担当、総務部、各フロア管理者で簡単な見直し会議をすることになっている。

防火扉の仮固定位置、点検時の通路確保、台車の待機場所、脚立使用時の周囲確認。

どれも地味な項目だ。

でも、こういう地味な項目の積み重ねが事故を防ぐ。


金曜日のあと、相沢は何度も自分の感覚を確かめた。


コピー機の前。

駅のホーム。

交差点。

社内の廊下。


何も見えなかった。


嫌なざわつきも、先の輪郭も、ふと重なる別の場面もない。

ただ、今あるものだけが見える。

それは静かで、少しだけ心細くて、でも前より息がしやすかった。


「相沢さん」

と澪が呼ぶ。

「はい」

「会議資料、追加あります」

「ありがとう」

「六階の見取り図も入れておきました」

「助かる」

「はい」


その“助かる”が、もう前ほど特別ではなくなっていることに、相沢はふと気づいた。

助けてもらうこと。

頼ること。

確認を任せること。

それが少しずつ、日常の中に馴染み始めている。


九時ちょうど、会議室Aで打ち合わせが始まった。


設備担当の主任、各フロアの庶務担当、総務部からは相沢と澪。

三浦は議事メモ係として同席している。


「では、金曜の六階通路の件を踏まえて」

と設備担当の主任が言う。

「再発防止の観点から、運用面の見直しをしたいと思います」


資料が配られる。

見取り図、写真、時系列、原因整理。


防火扉の仮固定器具の位置が不適切だったこと。

脚立の足元に小さな段差があったこと。

工具箱を載せた台車の待機位置が通路に近すぎたこと。

点検作業と通行動線が十分に分離されていなかったこと。


どれも一つだけなら、すぐ事故になるほどではない。

でも重なれば危ない。

金曜日は、その“重なり”が起きた。


「総務としては」

と相沢が口を開く。

会議室の視線が集まる。

少し前なら、その視線の先に何かを探していたかもしれない。

でも今は違う。

ただ、今言うべきことを考える。


「点検や搬入みたいに、一時的に通路の使い方が変わる場面で、現場判断に任せすぎていたと思います」

と相沢は言った。

「仮固定の位置、台車の待機場所、通行制限の出し方を、もう少し事前に決めておいた方がいいです」

主任がうなずく。

「具体案はありますか」

「あります」


相沢は資料の二枚目を開いた。


通路使用時の簡易ルール案。

脚立使用時の安全半径。

台車仮置き位置の明示。

防火扉周辺の固定禁止範囲。

点検時の一時掲示テンプレート。

搬入口と共用通路の優先順位整理。


「誰が見ても危なくない状態を先に作る方がいいと思います」

と相沢は言う。


澪がその横で、ほんの少しだけ目を細めた。

気づいたのだろう。

でも何も言わない。


会議は思ったより前向きに進んだ。

設備担当も各フロア担当も、金曜の件で危機感を持っていたらしい。

ルールを増やしすぎると現場が回らないという意見も出たが、澪が簡潔に整理した。


「全部を厳格化する必要はありません」

と澪は言う。

「ただ、“重なると危ない要素”だけは先に減らした方がいいです」

「重なると危ない要素?」

と主任が聞く。

「はい。段差、扉、台車、脚立、人の通行みたいに、単体では軽くても連鎖しやすいものです」

「なるほど」

「全部を管理するのではなく、連鎖しやすい組み合わせだけ潰す方が現実的です」


三浦が議事メモを取りながら、小さく「わかりやすい……」と呟いた。


会議が終わるころには、当面の改善案がまとまっていた。


- 点検時の通路使用ルールを簡易マニュアル化

- 防火扉周辺の仮固定禁止位置を明示

- 台車仮置き位置の床表示

- 搬入口と共用通路の一時掲示テンプレート作成

- 各フロア庶務担当への周知


派手ではない。

でも、確実に効く改善だった。


会議室を出たあと、三浦が資料を抱えながら言った。

「なんか、ちゃんと総務って感じでしたね」

「ちゃんと総務だよ」

と相沢が言う。

「いや、いつもちゃんとしてますけど、今日は特に」

「どういう意味?」

「なんていうか……仕組みで防ぐ感じが」

その言葉に、相沢は少しだけ笑った。

「そうだね」

「前からそうでしたっけ」

「前からそうあるべきだったんだと思う」

三浦は首を傾げたが、澪は何も言わなかった。


午前の残りは、会議内容の反映と周知文の作成で過ぎた。

澪が文面を整え、三浦が配布先を整理し、相沢が全体を確認する。

いつもの総務部の流れだ。

でも今日は、その“いつも”が少しだけ違って見えた。


昼休み、給湯室で相沢がマグカップを洗っていると、後ろから澪が入ってきた。


「会議、よかったですね」

と澪が言う。

「そうだね」

「ちゃんと形になりそうです」

「うん」

「相沢さんらしかったです」

「そう?」

「はい」

「どのへんが」

「見えなくても、放っておかないところです」

相沢は少しだけ手を止めた。


蛇口から流れる水の音が、静かにシンクへ落ちる。


「……見えないって、わかる?」

と相沢が聞く。

「はい」

「そんなにはっきり?」

「金曜から、何度か確認しているので」

「観察結果か」

「ええ」

「便利だなあ」

「役立っているので」


相沢はマグカップを置いて、少しだけ息をついた。


「正直さ」

「はい」

「少し、怖かった」

「……はい」

「見えないと、間に合わないかもしれないって思った」

「はい」

「でも今日会議してて、ちょっとだけわかった」

「何がですか」

「間に合うようにしておくのが、たぶん仕事なんだよね」

澪は静かにうなずいた。

「そうだと思います」

「見えてから動くんじゃなくて」

「見えなくても危なくないようにする」

「うん」

「はい。それが備えです」

相沢は少しだけ笑った。

「きれいに言うね」

「必要なので」

「便利だなあ」

「役立っているので」


午後、総務部は各フロアへの周知で慌ただしくなった。

掲示文の印刷、メール送信、設備担当との文言調整、床表示の確認。

三浦があちこち走り回りながら、「今日の私、すごく総務してます!」とよくわからない宣言をして、少しだけ空気を軽くする。


「三浦さん」

と澪が言う。

「はい!」

「その掲示、五階にもお願いします」

「了解です!」

「あと、文面の“注意してください”を“ご協力ください”に変えてください」

「え、なんでですか」

「その方が角が立ちにくいので」

「なるほど……言い方って大事ですね」

「大事です」

「総務、奥深い……」

相沢はそのやり取りを聞きながら、思わず笑った。


夕方前、設備担当から連絡が入り、六階西側通路の床表示が仮設置されたという。

相沢は確認のため、澪と一緒に六階へ向かった。


金曜日と同じ通路。

白い壁。

窓の少ない廊下。

防火扉。

非常灯。

あの日と同じ場所。


でも今日は、床に黄色い仮表示が貼られていた。

脚立使用時の立ち入り目安線。

台車仮置き禁止の位置。

防火扉周辺の注意表示。


たったそれだけで、通路の見え方が少し変わる。


「わかりやすいですね」

と澪が言う。

「うん」

「これなら、初めて来た業者の方でも迷いにくいです」

「そうだね」

「いいと思います」


相沢は通路の先を見た。


何も見えない。

先の事故も、嫌な輪郭も、重なる場面もない。

ただ、今の通路があるだけだ。


「相沢さん」

「なに」

「静かですか」

「……うん」

「怖いですか」

相沢は少し考えてから答えた。

「前よりは、平気」

「そうですか」

「たぶん、見えないからじゃなくて」

「はい」

「見えなくてもやれることがあるって、今日わかったから」

澪はそこで、ほんの少しだけ表情をやわらげた。

「それならよかったです」

「うん」

「金曜のこと」

「うん」

「最後に見えたのが私で、よかったです」

相沢は一瞬だけ言葉に詰まった。

「……そういうこと、さらっと言うね」

「事実なので」

「強いなあ」

「必要なので」

「便利だなあ」

「役立っているので」


二人で通路を戻る。

防火扉の前を通る。

金曜日にはあんなに大きく見えた場所が、今日はただの設備の一部に戻っていた。


総務部へ戻る途中、相沢はふと思って口を開いた。


「澪」

呼んでから、自分で少しだけ止まる。

前より自然に出た。

でも、まだ少しだけ照れがある。


澪も足を止めて振り向いた。

「はい」

「……いや、呼んだだけ」

「そうですか」

「確認」

「何のですか」

「普通に呼べるかどうか」

澪は一瞬だけ黙って、それから言った。

「呼べています」

「観察結果?」

「ええ」

「便利だなあ」

「役立っているので」

「それ、万能だね」

「かなり」


そのやり取りがあまりにいつも通りで、相沢は少しだけ安心した。


定時後、周知作業が一段落すると、フロアにはまた静けさが戻った。

三浦は「今日は働いた気がします!」と言い残して先に帰っていった。


相沢は自席で、最後のメール送信履歴を確認する。

送信漏れなし。

添付漏れなし。

文面も問題ない。


「終わりましたか」

と澪が聞く。

「うん、たぶん」

「“たぶん”ですか」

「確認する?」

「します」

「お願いします」


澪が相沢の画面を覗き込み、送信先と件名を一つずつ確認する。

その距離が近い。

でももう、前ほど意識しすぎない。

少しはするけれど。


「大丈夫です」

と澪が言う。

「ありがとう」

「はい」

「助かった」

「知ってます」

「最近それ多いね」

「便利なので」

「そっちも万能だなあ」


帰り支度をして、二人でオフィスを出る。

廊下の照明は安定していて、足音が静かに響く。


エレベーターを待っていると、澪がふと相沢の肩を見た。


「相沢さん」

「なに」

「カバン、薄いですね」


相沢は自分の肩にかかった鞄を見下ろした。

言われてみれば、前よりずいぶん軽い。

書類も減ったし、使うかわからないものを詰め込むこともなくなった。


「そう?」

「はい」

「前はおかしかったです」

「言い方」

「こんなカバンの中身はおかしい、と思っていました」

「思ってたんだ」

「かなり」

「ひどいなあ」

「事実です」


相沢は少し笑って、鞄の持ち手を握り直した。


「まあ」

と相沢は言う。

「みんなで備えるなら、薄くなるでしょ」


澪は一瞬だけ目を見開いて、それから静かにうなずいた。


「はい」


ちょうどそのとき、エレベーターの扉が開いた。

二人で乗り込む。

閉まる直前、白い廊下が細く見えて、それもすぐに消えた。


「でも」

と澪が言う。

「何も入っていないわけではないですよね」

「まあね」

「何が入っているんですか」

相沢は少しだけ視線を逸らした。

「絆創膏」

「……絆創膏は入っているんですね」

「一応」

「何に使うんですか」

「澪が転んで擦りむいたとき用にね」


澪は一瞬、何も言わなかった。

それから、ほんの少しだけ目を見開く。


「私、そんなに転びそうですか」

「そこじゃないでしょ」

「では、どこですか」

「……備え」

「私に対する?」

「そう」

「必要ですか」

「必要かもしれない」

「観察結果では、私はあまり転びません」

「じゃあ使わないで済むね」

「そうですね」


一階に着くまでの短い沈黙は、不思議と気まずくなかった。


扉が開いて、二人で外へ出る。

駅までの道は、月曜のわりに静かだった。

人の流れも急ぎすぎていなくて、風もぬるい。


改札前で、澪が言った。


「でも」

「うん」

「持っていてください」


相沢は少しだけ笑った。

「了解」


電車の到着を告げる音が遠くで鳴る。

人の流れが少しだけ速くなる。


「相沢さん」

「なに」

澪はほんの少しだけやわらかい声で言った。

「明日も、一緒に備えましょう」

相沢はその言葉に、少しだけ目を細めた。


「うん」

「一緒に」


先は見えない。

でも、それで困る気はもうしなかった。


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