第9話 胃薬と、猫パンチと、しょっぱい気持ち
地下倉庫。
厄介な遺物と、厄介な秘密を抱えた連中の巣だ。
胃痛持ちの師匠に、無邪気すぎる弟子。
そこへ監察局まで来たとなりゃ、嫌な予感しかしねぇ。
……ま、そういう日の話だ。
《オーレン》の月の十五日。
胃が痛い。
朝から、じくじくと痛い。
昨夜に飲み忘れた胃薬の分が、今朝に回ってきた感じがする。
正確な医学的根拠はないが、そういう感じがする。
俺は在庫目録を開きながら、薬入れの小箱を机の端に置いた。
地下三階の朝だ。
松明の光がいつも通りに揺れていて、
遺物の棚がいつも通りに静かに呼吸していて、
空気孔から冷たい秋の空気が差し込んでいる。
《オーレン》の月に入ってから、
その空気がひと刻ごとに冷たくなっている気がする。
螺旋階段を降りてくる音がした。
「おはようございます!」
「来るのが早いな」
「今日も気合い入れてきました!」
「昨日も気合いを入れていたが、午後に遺物の棚の前で居眠りしていたのは、誰だ」
「あれは......瞑想です!」
「目は閉じていたが、口からヨダレたれてたぞ」
「そういう瞑想なんです!」
こいつ、絶対夢の中でたらふく何か食べてたな。
瞑想どころか、食欲全開じゃないか。
俺は在庫目録のページを折った。
ルナが机の前に来て、俺の机の端を覗き込んだ。
「ししょー、それ何ですか?」
「胃薬だ」
「胃薬!」 ルナが、興味深そうに小箱を眺めた。「……それ、おいしいんですか?」
俺は、返答するのに三秒かかった。
こいつは!
いっそ、口にほうりこんでやろうか。
「……胃薬に味を求めるな」
「でも、なんか、いつも飲んでるじゃないですか。だから気になって」
「胃が痛いから飲んでいる」
「そうか〜……」 ルナが、少し考える顔をした。「……なんでいつも胃が痛いんですか?」
俺は、ルナを見た。
ルナが、純粋な目で俺を見ていた。「わかってて聞いているのか」と問いたいところだが——おそらくわかっていない。本当に、純粋に、疑問に思って聞いている。
「……お前のせいだよ」
俺は言った。
ルナが、きょとんとした顔をした。三秒間、フリーズした。
それから、ゆっくりと、表情が変わった。
「……わたしのせい、なんですか?」
「そうだ」
「……ごめんなさい」
ルナが、少し、目を伏せた。
俺はため息をついた。
この子が謝るのは、珍しい。大抵は「え〜」とか「でも!」とか言う。
今回のは、少し本気の謝り方だった。
俺は手を伸ばして、ルナの頭に置いた。
そのまま、わしゃわしゃと、髪を乱した。
「——っ、あ! ちょ、やめてください、髪が! ししょー、ひどい!!」
ルナが、両手で頭を押さえながら飛びのいた。銀髪が盛大に乱れていた。
「なんで!? 謝ったのに!!」
「謝らなくていい」と俺は言った。「お前が気にするような話じゃない」
「でも——」
「胃が痛いのは俺の体質だ。お前が悪いわけじゃない」
これは半分、本当のことだ。
半分は嘘だ。
どちらが半分かは、言わないことにした。
ルナが、ぷくっと頬を膨らませた。
「……ししょーが急に頭わしゃわしゃするから、びっくりしました」
「髪を整えろ」
「整えます! でも!」
ルナが、小さな拳を作って、俺の胸をぽかぽかと叩いた。
痛くなかった。
子猫がじゃれているような、力のない叩き方だった。
俺の胸に当たって、はねかえるような感じすらある。
「……効かねぇよ」
「効かせるつもりなんてないですっ!」
「なら何のためにやっているんだ」
「悔しいからです!!」
ルナが、もう二回、ぽかぽかと叩いた。
相変わらず、痛くない。まったく痛くない。しかし——
師弟リンクを通じて、何かが流れてきた。
「悔しい」というのは本当らしかった。
あと、「ちょっと心配している」というものも混じっていた。
「胃が痛いのは本当に大丈夫なんだろうか」という、小さな、
しかし確かな感情だ。
俺は、それを受け取って、何も言わなかった。
「……終わったか。気は済んだか」
「はい。いえ、済んでませんけど。終わりです!」
なんか、複雑な顔してるな、お前。
数秒おきに、ころころ表情が変わる。
飽きないな、こいつは。
「では訓練を始める」
「はい! あ、ししょー」
「なんだ」
「胃薬、ちゃんと飲んでください」
「わかっている」
「ほんとですか? 忘れそうなので言いましたけど......」
「わかっている」
ルナが、ようやく乱れた髪を直し始めた。
その作業が一段落したところで、棚の巡回へと向かった。
俺は薬入れを開けて、胃薬を取り出した。
* * *
午後。
ルナの訓練を見ながら、俺は書類仕事をしていた。
今日のルナは調子がいい。
棚の異変報告が五件、うち二件は俺より先の察知だった。
記憶の残滓の木箱については「今日は少し穏やかな感じがします」と報告した。
封印が安定したためだろう。
ひと息ついたルナが、棚の前にしゃがんで、棚の下の隙間を覗き込んだ。
「ししょー」
「なんだ」
「棚の下に、また丸い石があります」
「放っておけ」
「きれいな石ですよ。茶色くて、ちょっと光ってます」
「石英だ。この地下には多い」
「へえ〜」 ルナが、石を拾い上げた。「これ、持っていっていいですか?」
「好きにしろ」
「やった!」
ルナが、石を手のひらで転がしながら、俺の方へ来た。
机の前に立って、石を見せた。
「きれいですよね」
「そうだな」
「ししょー、石とか集めますか?」
「集めてはないな」
「わたしも集めてないです。でもなんか、きれいなのを見るとほしくなります」
「まあそういうものだろう」
「ししょーは、集めてるものありますか?」
俺は書類から顔を上げた。
「ない」
「ほんとですか?」
「ない」
「在庫目録は?」
「あれは業務書類だ」
「胃薬は?」
「……薬だ」
「そうか〜」 ルナが、石をもう一度眺めた。「ししょーって、自分のものって少ないんですね」
俺は何も言わなかった。
ルナが言っていることは、正確だ。
五年間この地下三階にいて、
俺の「自分のもの」は折りたたみ椅子と茶器と在庫目録と、
あとは机の引き出しの中身くらいだ。
そのうちタバコは処分した。
「ししょーの自分のもの、ここに置いておいてもいいですか?」
ルナが、石を机の端に、そっと置いた。
「……何のためにだ」
「なんか、ここにあった方がいい感じがして」
「……好きにしろ」
「やった!」
ルナが、満足そうに笑った。
机の端に、茶色い小石が置かれた。
石英だ。
丸く、つるつるとしている。
別に、どうということはない。
ただの石だ。
俺は書類に目を戻した。
* * *
夕刻、ルナが帰る直前に、もう一度、胃薬を飲んだ。
「ちゃんと飲んでますね!」とルナが言った。「えらいです」
「お前に言われなくてもわかっている」
「でも今日、朝に飲んでから昼に一回忘れてましたよ。わたし見てましたよ」
「……見ていたのか」
「はい。だから三時ごろにさりげなく『ししょー、胃薬ありますよ』って棚の上に出しておきました」
俺は、今日の午後、棚の上に胃薬が置いてあったことを思い出した。
在庫目録の整理をしながら、何も考えずに飲んでいた。
ルナが置いていたとは、思っていなかった。
「……そうか」
「気づいてなかったですか?」
「……気づいていた」
「ほんとですか?」
顔を横に傾けて、ニヤニヤしてのぞき込んでくる。
こいつ、わかってて聞いてるな。
「……帰れ」
「はーい! じゃあおやすみなさい!」
ルナが、螺旋階段を上がっていった。
途中で「あ、明日のパン決めてないや」と言う声が聞こえた。
それからしばらく、一人で考えているような足音がして、
それから「クリームパンにしよう」という声がして、足音が遠くなった。
地下三階が静かになった。
俺は、机の端の小石を見た。
茶色い、丸い、石英だ。
在庫目録を開いた。
《オーレン》十五日。
・胃薬:飲んだ(ルナが昼に棚に出していたことを、後で知った)。
・訓練:本日良好、感知五件・うち二件先行察知。
・スキンシップ:髪わしゃわしゃ一回。猫パンチ:三回(有効打ゼロ)。
・リンク感知:弟子が心配していた。机の端に石が一個増えた。
・胃痛:軽度。理由:不明。
俺は、最後の一行をしばらく眺めた。
それから、ページの隅に小さく書き足した。
(付記)しょっぱい気持ちとは何か、まだわかっていない。
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隠し事ってのは、隠し通せるうちは日常になる。
だが、勘のいい奴が一人いるだけで、空気は変わる。
クインシーの胃は、たぶんもう限界だろうな。
それでも弟子を守ろうとするあたり、不器用で嫌いじゃない。
さて——黄昏の月は、まだ始まったばかりだ。




