第7話 黄昏の月と、新しい遺物と、灰皿のこと
王宮の地下三階、遺物守の男と食いしん坊な弟子の日常に、静かな秋が訪れます。
《オーレン》の月の始まりと共に届いた、詳細不明の木箱と懐かしい「匂い」。
それは、かつての記憶を揺り動かし、地下倉庫の平穏をわずかに乱す予兆でした。
《オーレン》の月の一日。
月が変わった。
《オーレン》——黄昏の神の月だ。
《フォルナ》の実りの季節が終わり、日が短くなる。
王宮の廊下の松明が、一刻ほど早く灯るようになった。
地下三階には関係のない話だが、
螺旋階段を降りてくるルナの格好が、
昨日より一枚厚くなっていた。
「おはようございます、ししょー」
「来るのが早いな」
「今日から新しい月なので、気合い入れてきました!」
俺は在庫目録から顔を上げた。
その場でくるんと器用に回って、衣装をみせてくれた。
うん、うん。よくわかんないけど。
ルナが、いつもより背筋を伸ばして立っていた。
手には何も持っていない——珍しいことだ。
いつもは何かを食べながら降りてくる。
おなかでも痛いのか?
いや、痛いのは俺か。ははは。
「気合いというのは、食べ物を持ってこないことで表明するものなのか」
「今日はまず修行を頑張ってから、パンを食べようと思って!」
ちょっとおじさん、涙でそうになっちゃったよ。
だめだぁ、年食ったら涙もろくなっちまう。
おじさんを、からかっては、いけない。
「……そうか」
「えらいですか?」
「まあな」
「やった!」
ルナが、ぱっと顔を輝かせた。
それだけのことで、
地下倉庫の空気が少し、
明るくなった気がした。
気のせいだ。そうだろ?
少し、遺物の精神波が揺れただけだ。
俺は在庫目録に目を戻した。
でも、その口元はちょっとだけ、ちょっだけだぞ。緩んでた。
* * *
《フォルナ》の月の終わりから、
地下三階には新しい遺物が三点搬入されていた。
どれも「要注意」指定の品だ。
一点目は、触れた者の時間感覚を狂わせる砂時計。
二点目は、見た者に強烈な郷愁を引き起こす油絵。
三点目は——
「ししょー、この箱、なんか変な匂いがします」
ルナが、棚の一角で立ち止まっていた。
俺は顔を上げた。「どの箱だ」
「これです」
ルナが指したのは、昨日搬入されたばかりの木箱だった。
「精神波・封印済み」の札はついているが、
中身についての詳細な記録がまだない。
前の管理室からの引き継ぎ書類が、届いていなかった。
こういうのほんと、杜撰なんだよね。
やになっちゃうよね。ほんと。
「どんな匂いだ」
「うーん……古い匂いです。でも食べ物じゃなくて。なんか、けむりっぽい感じ? でもけむりじゃなくて。なんかこう……昔のものの匂い、みたいな」
俺は立ち上がり、その箱の前に行った。
精神波を読む。封印は正常だ。漏れはない。
だが——確かに、何かが中にある。
俺の感知では「精神波の種類が特定できない」という、珍しい状態だ。
種類が特定できない遺物は、処理に慎重を要する。
これは、お嬢さんには一言、釘を刺しておこう。
前の時みたいに、なったら大変だろ?
「触るなよ」と俺はルナに言った。
「はい。……でも、なんか懐かしい感じがします」
「懐かしい?」
「うん。なんか、会ったことない人の、懐かしい感じ」
俺は少し、その言葉を反芻した。
郷愁を誘う遺物か。
厄介だな。
「会ったことない人の懐かしさ」——それは、精神汚染の遺物が引き起こす、
「擬似的な郷愁」に似ている。
だが油絵の方は別の棚に収めてある。
この箱は、別の何かだ。
箱の封印紐を確認した。
引き継ぎ書類が届いたら、詳細を調べる必要がある。
その前に、もう一度念入りに。
いや、マジで何か起こってからじゃ、アレなので。
ルナ先生にはもう一度、釘を刺しておこう。
「この箱には近づくな」と俺はルナに言った。「わかったか」
「はい。......ししょー、この箱、なんて入ってると思います?」
「わからない。だから慎重に対処する」
「そっか。......でも、なんか悲しい感じがします。この匂い」
ルナが、箱を少し、遠くから眺めた。
その横顔が、いつもより静かで落ち着いているようだった。
食べ物の匂いでない何かを感じているとき、ルナはこういう顔をする——
俺はこの一か月で、それを知った。
この娘は、できる子だって。
* * *
午後、俺は引き継ぎ書類の催促文を書きながら、
ルナの感知訓練を続けていた。
ルナが棚を一通り巡回し終えて、
折りたたみ椅子の横にしゃがんで、俺を見上げてた。
「ししょー」
「なんだ?」
「今日の修行、どうでしたか」
「悪くないな」
「ほんとですか!」
「棚の異変報告が三件、全部正確だった。一件は俺より先に察知した」
「やった!」ルナが膝を叩いた。「じゃあパン、買いに行っていいですか?」
「……昼飯はどうした」
「食べちゃいました!」
確か、10個くらいはふつうにあったぞ、あの紙袋の中身。
全部たべちゃったって、いいねぇ育ちざかりは。
おじさん、そんなことしたら、全部腹の肉にかわっちゃうんだぞ。
「そうか。では、買いに行くぞ」
「ししょーも来るんですか?」
「お前一人で城下町に行かせると、何をしでかすかわからない」
ぷくーっと、頬を膨らますルナ。
心外だと言わんばかりに、左手は腰にあて上半身をこちらに傾け、
右手はこちらを指し示しながら、抗議を口にする。
「ひどい! わたし、ちゃんとしてますよ!」
「先月、食品庫の搬入口まで一人で行ったのは誰だ」
「......あれは匂いが」
さきほどの勢いはどこへやら、起き上がって、
右手の指を、人差し指と親指でL字にした状態で、あごに添え、
視線を空中にふらふらと向けながら、答えてくる。
こいつめ、やらかしている自覚はあるじゃないか。
「行くぞ」
「あい......」
犯人確保―—! 俺はパン屋に連行した。
* * *
城下町への道すがら、ルナが「あっ」と声をあげる。
「何だ」
「路地の向こうに、なんか積み重なってる箱があります。遺物っぽい匂いがします」
あの静かに、落ち着いている顔だ。
間違いない。
俺は歩みを止めた。
ルナが指した方向を確認する——廃屋に近い古い建物の裏手に、
雑然と積まれた木箱が見えた。
遺物の管理外放置は、違法だ。
「どんな感じの匂いなんだ?」
「そんなに強くないです。でも、さっきの地下の箱と少し似てます。
古くて、懐かしい感じ」
俺は目を細めた。
「さっきの箱」と「路地の箱」が同じ匂いを持っているとすれば——
同じ出所か、同じ種類の遺物の可能性がある。
引き継ぎ書類が遅れている理由も、これに関係しているかもしれない。
「場所を覚えておけ」と俺はルナに言った。「帰ってから報告書を書く」
「はい。……ししょー」
「なんだ」
「やっぱりわたし、役に立ってますか?」
俺は少し、間を置いた。
そして、そっとルナの頭に手を置いて、告げた。
「立っているとも」と俺は言った。「今日の報告は、全部使える」
ルナが、ふふっと笑った。
いつもの「やった!」ではなく、もう少し静かな笑い方だった。
* * *
パン屋で、ルナはメロンパンを選んだ。
三秒で。
でも、焼き立てのやつ選んでた。
わかってるじゃないか。おいしいもんな。
今日は俺も、何か買うことにした。
別に、特に理由はない。
ただ、昼を食べ損ねていたことを思い出しただけだ。
ルナが俺の手元を覗き込んだ。「ししょー、それ何ですか?」
「塩パンだ」
「塩! 甘くないやつですか?」
「そうだ」
そんな汚物を見るような目でみるなよ。
しかめっ面してると皺が残るぞ。
まがりなりにも、これ食べ物だからね。
ちゃんとした。この食わず嫌いめ。
「なんで甘くないの選ぶんですか?」
「甘いものばかり食えるか」
「わたしは永遠にたべられますよー」
「知っている」
ルナが、自分のメロンパンを一口食べた。
例の顔になった。
師弟リンクを通じて、あの多幸感が流れてくる。
俺は塩パンを齧った。
美味い、美味すぎる。
しばらく、二人で路地を歩きながら食べた。
秋が深まっている。《オーレン》の月の空は、
《フォルナ》よりも色が濃い。
夕暮れに近い青だ。
「ししょー」
「なんだ」
「さっきの路地の箱、ほっといていいんですか?」
「良くない。帰ったら報告書を書く」
「じゃあわたしも何か書きますか?」
「書いてみるか?」
「書きます! 感知した内容を教えてください、ちゃんと書きます」
俺は塩パンを飲み込んだ。
おうおう、成長してるな、お嬢さん。
おじさん、今日は嬉しいよ。
「……帰ったら口頭で教えろ。俺が書く」
「えー、わたしが書きたいです!」
「お前の字は判読が難しい」
また、頬をぷくーと膨らます、ルナ。
「ひどい! 読めますよ!!」
「書類として提出できるかどうかの話だ」
「……うぐ」
You Lose!
ルナが、悔しそうに残りのメロンパンを一口で食べた。
* * *
地下三階に戻り、俺は報告書の作成にかかった。
ルナが感知した路地の木箱について、場所と状況を記録する。
遺物の管理外放置は組織への通報義務がある。
その作業をしながら、俺は棚の一角を横目で確認した。
引き継ぎ書類がまだ届いていない木箱。
「悲しい感じ」とルナが言った箱。
俺にはその「悲しさ」は感知できない。
精神波の種類の特定ができない、というだけだ。
ルナの食感知は、俺の精神干渉とは別の回路で動いている——
その回路が、俺には見えないものを見ている可能性がある。
これは、まだ把握しきれていないことだ。
把握しきれていないことは、記録しておく。
《オーレン》一日。
・月初。新規搬入遺物・三点の確認を行った。
・うち一点、引き継ぎ書類未着のため詳細不明。
・ルナが「懐かしい感じ」と表現。路地にて管理外遺物を発見、通報書類を作成。
・ルナの感知精度:本日も高水準。塩パンは悪くなかった。
・胃痛:本日は軽度。
ペンを置こうとしたところで、俺は止まった。
机の引き出しの奥に、何かがある気配がした。
引き出しを開けた。
奥に、古い布に包まれた細長いものがあった。
開けた瞬間に、俺は何かを感じた。精神波ではない。
もっと単純な、物理的な感覚——
かつて自分の手が何度も触れたものの、感触だ。
布を解いた。
中から出てきたのは、
タバコが三本と、古いライターだった。
いつのものか、覚えていない。
赴任してすぐの頃にここへ置いたものか、あるいはもっと前か。
俺が地下三階へ来る前から、ここにあったものか。
三本。
俺は、それをしばらく眺めた。
ルナは今、棚の前で遺物のラベルを読んでいた。
読めているかどうかは怪しいが、真剣な顔をしている。
俺は引き出しを静かに閉めた。
いや。
もう一度、開けた。
タバコを一本だけ取り出した。ライターも。
「ちょっと外に出る」とルナに言った。
「はい! どこですか?」
ルナがついてきそうだったので、軽く手で制した。
「すぐ戻る」
* * *
地下三階の裏手に、
空気孔から繋がる小さな通路がある。
王宮の外壁に沿った、人が通るには狭すぎる場所だ。
俺が五年間、たまに使っていた場所だ——ひとりになりたいときに。
通路に出た。
秋の冷たい空気が来た。《オーレン》の月の空気だ。
日が落ちかけていて、石壁が暗い色をしていた。
タバコを口に咥えた。
ライターを弾いた。
カチッ。
カチッ。
カチッ。
火はつかなかった。
ライターを傾けて、もう一度弾いた。
カチッ。カチッ。何も起きない。
オイルが切れていた。あるいは最初からなかったのかもしれない——
何年も放置していたのだから。
俺は、石壁にもたれた。
タバコを口から外した。
タバコを眺めた。
細くて、白くて、古い。
端が少し茶ばんでいる。
こんなものが、今の世界でどれだけの価値を持つか——
売れば、それなりの額になるだろう。
遺物商に持ち込めば、なおさら。
俺は、それを指でゆっくりと、つぶした。
紙の中身が、細かく崩れた。《オーレン》の月の冷たい風が、
それを少し散らした。
俺は通路の隅のごみ箱に、つぶれたタバコとライターを一緒に放り込んだ。
「……成仏しな」
石壁の冷たさが、背中から伝わってきた。
しばらく、そこにいた。
地下倉庫の扉の向こうから、かすかに物音がした。
ルナが棚を確認している音だ。あるいは何かを食べている音かもしれない。
俺は通路を出て、扉を開けた。
「ししょー、おかえりなさい!」
「ああ」
「どこ行ってたんですか?」
「換気の確認だ」
「ふーん。あ、ししょー、棚の奥に何かあります」
「何だ」
「なんか、さっきの引き継ぎ書類がないやつと同じ匂いがする箱が、もう一個あります。ずっと奥の方に」
俺は眉間に皺を寄せた。
「どこだ」
「こっちです!」
ルナが、棚の奥へと案内した。
その背中を見ながら、俺は在庫目録を手に取った。
今夜は、少し忙しくなりそうだ。
*(付記)タバコ:処分。禁煙フェーズ:継続。理由は記録しない。*
思い出の詰まった古いタバコを指で潰し、男は過去を一つ、ゴミ箱へと捨てました。
遺物という名の「過去」を管理する彼らにとって、執着は毒でしかないから。
弟子の呼び声に導かれ、男は再び目録を手に取り、深まる秋の任務へと戻ります。




