第5話 完璧な修行と、ルナと、地下で起きたこと
(……火を灯すマッチの音。紫煙を吐き出す気配)
「……いいか。地下三階ってのは、単なる掃き溜めじゃねぇ。
そこにあるのは、かつての栄華が残した『毒』と、それを管理する俺たちの『日常』だ。
今日は、その日常に少しばかりの……そうだな、甘い不純物が混じった。
弟子のルナ……あいつの鼻は、時に俺の全知全能よりも正確だ。
だがな、正確すぎて困ることもある。
……胃薬をもう一錠、用意しておけ。
これから語るのは、修行という名の隠蔽工作、その一幕だ」
《フォルナ》の月の二十日。
この二週間で、地下三階には一定のリズムができていた。
朝の第二刻にルナが降りてくる。
大抵、何かを食べながら。
俺が在庫目録を確認する間、
ルナは棚を一通り嗅いで回る。
異変があれば報告する。
なければ「今日は全部いつもの匂いです」と言って、
椅子に座って俺を眺める。
午後は俺が管理業務をこなし、
ルナが棚の前でぼんやりしているか、
あるいは俺の在庫目録を覗き込んで「難しそうな字ですね」と言う。
至極つまらなそうに感想を漏らす。
本当に、食べ物や、きれいなもの、かわいいもの以外には、
とことん興味がない様子だ。
年頃のお嬢さんはこんなものだって?
そんなこと言って、俺を騙そうとしてないか?
そうか。ならいいのだが。
もし、嘘だったら......楽しいことが待ってるぞ。
期待していい。
夕刻になると、おなかがすいたので帰ります。といなくなる。う
それが日課となった。
そもそも、あいつはおなかがいっぱいになることがあるのか。
いや、考えても答えが出ない問題は、放置するに限る。
そうだろ?
これが「修行」と呼べるかどうかは、俺の胃の具合次第だ。
胃薬を飲めばそれなりにこなせるようになったので、
呼べる、ということにした。
* * *
この日は、朝から遺物の棚が落ち着かなかった。
俺の感知では、明確な異変はない。
ただ、全体的に、精神波がわずかに浮ついている感じがある。
嵐の前の空気のような——何かが起きる前の、静かな予兆のようなものだ。
長年この場所にいれば、そういう気配には敏感になる。
いつもの時間より早く、ルナが地階に降りてきた。
今日は手に何も持っていなかった。
子リスのように頬袋にいっぱい詰めてもいない。
あ、そもそも頬袋はないよね、ルナは。
なんだ、いつもの食いしん坊じゃないのか。
いや、別にがっかりなんて、してないんだからね!
いつもと違うと寂しいとか。そんなんじゃないんだからね。
勘違いしないでよね。
「おはようございます」
「来るのが早い」
「今日、なんか変な感じがして」
俺は顔を上げた。
「変な感じ、とは」
「地下から、なんかいつもと違う匂いがします。朝から。だからちょっと早めに来ました」
「……どこからだ」
ルナが目を閉じた。鼻をかすかに動かす。
棚と棚の間を、視線でなく意識で辿っている——そういう様子だ。
「一番奥です。棚の最奥のあたり。甘い匂いなんですけど、ちょっといつもの感じと違うというか......すごく変な感じで。なんか、正しくない甘さというか……」
「正しくない、か」
「食べ物の甘さじゃないです。なんか……精神波っぽい甘さです」
俺は立ち上がった。
経験上、この子の感覚は信じた方がいい気がする。
だって、隣町の屋台の匂いかげるんだぜ?
すごいじゃないか。
棚の最奥。
俺が確認したのは、「封印済み・要注意」の札がついた小箱だった。
縦横十センチほどの、古い木製の箱。
封印の紋様が表面に刻まれている。
中身は——甘い幻覚を放出し続ける精神汚染の遺物らしい。
らしいといったのは、見た覚えがなかったからだ。
管理台帳によれば、封印は三年前に施されたものだ。
本来なら五年は持つはずだった。
おいおい、ちゃんと仕事してくれよ。
これで事故でもおきたら、俺の責任になっちゃうじゃないか。
ルナがいてよかった。ほんとうに。
あとで、メロンパン買ってやる。
絶対だ。
好きなだけ買ってやる。
あ。でも少し遠慮はしろよ?
だが。
箱に手を近づけた瞬間、俺の感知に引っかかるものがあった。
精神波の漏れだ。
微細だが、確実に外に出ている。
封印が内側から劣化している。
おそらく、遺物が「成長」している——
精神汚染の遺物は、
時として自ら封印を破ろうとする意志のようなものを持つ。
ルナが俺の後ろに来た。
「やっぱりここからですね。この甘さ」
不用意に近づこうとしたルナを慌てて制す。
「近づくな」
「え、でも——」
「近づくな、と言った」
少し、強い口調になった。
びくっとなって、ルナが黙って止まった。
ごめんな。
ほんとに危ないからさ。
ちょいとマイナスの干渉波を張って、
危険を少なくするまでは、危ないから、
近づかないでね。
俺は目いっぱい目の前にある箱を包み込むように内向きに力をかける。
目に見えない波動が、ゆっくりと箱から漏れ出る波動を押し返す。
手ごたえを感じて、ゆっくりと近づき箱の前にしゃがみ、
封印の状態を目視で詳しく確認した。
劣化の速度から見て、あと半日から一日で封印が完全に破れる。
そうなれば、中の遺物が精神波を全力で放出し始める。
甘い幻覚の精神波は、感知能力の高い者ほど影響を受けやすい——
つまり、俺よりルナの方が、はるかに危険だ。
「この箱に、絶対に触れるな」と俺はルナに言いきかせる。「いいか」
「はい……何ですか、それ」
「精神汚染の遺物だ。封印が劣化している」
「汚染……食べ物じゃないですよね」
「食べ物ではない。甘い匂いがするが、これは幻覚を引き起こす精神波だ。触れれば、数時間、正常な判断ができなくなる」
「わあ」 ルナが、真剣な顔で箱を見た。「……でも、なんか、すごくいい匂いがするんですよね」
「だから危険なんだ」
「そうか〜」
俺は封印の修復に取り掛かった。
これは、それなりに本気の術式が必要な作業だ。
内側から劣化した封印を、外側から補強する。
遺物の「意志」に抗いながら、精神波で紋様を塗り直す。
細かい作業で、集中を要する。
いやぁ、これでも王国ではそれなりに優秀できましたから。
俺にかかれば、余裕ですよ。
このくらい。
いや、なかなか、うん。
あれ、結構がんばりますね。
そう来ますか。そうですか。
覚えてろよ、コノヤロー。
そろそろ本気出すぞ。ホントだぞ。
あとで、謝ってもゆるさないからな。
俺が箱の再封印に手間取っているその間、
ルナには「そこを動くな」と言っておいた。
三分ほど作業していたとき、背後でルナが「あれ」と言った。
「どうした」
「なんか、匂いがどんどん強くなってる気がします。大丈夫ですか」
「修復中だ。少し漏れが増えるが——」
「なんか……すごくいい匂いで……」
「ルナ」
「……おいしそうで……」
俺は振り返った。
ルナが、箱の方向に一歩、踏み出しかけていた。
目は開いているが、焦点が少し定まっていない。
俺は片手で封印作業を続けながら、もう一方の手でルナの腕を掴んだ。
「動くな」
「でも——」
「動くな」
ぼーっとした顔が、今度は俺に焦点を合わせる。
でも、視線はどこかゆらゆらと彷徨っている。
そのまま、とととっと駆け寄ってきた刹那。
がしっと、両頬を手のひらでがしっと挟まれた。
お嬢さん、いきなりなになさっていらっしゃるんでしょうか。
俺は食べ物じゃないぞ。
かじっても、皮のカリカリ感も中身のふわふわ感も一切ないからな。
とにかく作業の邪魔だから振りほどこうとしたのに、なぜだ。
大の男が、しかも元・王国最強のマインドマスターが、
小娘ひとりの力に抗えないだと?
おい、これが『火事場の馬鹿力』ってやつか?
それともメロンパンへの執着が成せる業か?
怖ぇぇ!
ちょっと待て、ルナさん、おーい。
ストップ。すとーっぷ。
何する気だ、お前! 正気か!
いや、正気じゃないよな。精神汚染の真っ只中だもんな。何言ってんだ俺。
俺はメロンパンじゃないぞ。
いいか、よく見ろ。俺はただの、胃を痛めた、髭の剃り跡も眩しい、
くたびれたおっさんだ。
なんで目をつぶって、顔を寄せてくるんだお前は。
やめろ。おま、ちょいちょい。ちょーい。
ちかっ。
……おい、ルナさん。まつ毛が長いとか、肌が白いとか、今はどうでもいいんだ。
頼むから正気に戻ってくれ。ね? お願い。
あ、ほら、あっちに「究極のメロンパン」が落ちてるぞ! 限定販売のやつだ!
ちっ、見もしねーな。本能が「目の前の獲物(俺)」にロックオンしてやがる。
って、うわ。ちょ、待――。
あと、数センチで緊急事態宣言しなければならない距離で、
突然、ルナが止まった。
俺は急ぎ、ルナの向こう側に転がっている箱に向かって、
再封印の作業を続けた。
封印の紋様を補強する術式を、片手で制御しながら、
もう片方の手でルナを引き留めているが、
もうさきほどの力はない様子で、体勢が悪いながらも持ちこたえた。
集中力が分散するが仕方ない。
それから二分間、かなり本気で術式を使った。
なんとか封印が、修復された。
精神波の漏れが、止まった。
このやろう、ルナを使って封印させないよう邪魔しやがって。
あとで覚えてろよ。
一番厳重な封印を、五重にかけてやる。
あと百年は拝めないようにな。
俺を敵に回すと怖いと、思い知らせてやる。くくくっ。
ルナが、はっと顔を上げた。
「……あれ?」
「気がついたか」
「なんか……ぼーっとしてました。すみません」
「精神波の影響だ。特に感知能力が高い者は、引き寄せられやすい」
「そうか〜……あ、でも箱に近づこうとしてた気がします。危なかったですね」
「そうだ」
「ししょーが止めてくれたんですか?」
「……作業の邪魔だったからだ」
「ありがとうございます」
キスしそうになったことは、墓までもっていこう。
巻き込んでごめんな、ルナ。
すきなだけ、あとでメロンパン買ってやる。
ルナが、きちんとお辞儀をした。
俺は木箱を棚の奥に戻し、追加の封印紐を巻いた。
予定どおり、五重にして縛ってやったぜ。
ざまぁみろ。
その夕方、
上役から「地下三階で精神波の揺れを感知したが異常はないか」
という問い合わせが来た。俺は報告書を書いた。
弟子・ルナが棚の異変を早期に感知し、報告。
速やかに対処した。
弟子の遺物感知能力が本格稼働した事例として記録する。
今後も継続して活用する予定。
嘘は一文字もなかった。
ルナが早期に感知したのは本当だ。
速やかに対処したのも本当だ。俺だけど。
ギルが本気の術式を使ったという事実は——
書いていないが、聞かれていないので、答えていないだけだ。
嘘じゃないだろ? ほら。問題ない。
夕刻、ルナが帰り支度をしながら言った。
「あの匂い、まだちょっとします」
「気のせいだ」と俺は言った。「封印は修復した」
いつもより多めに、だけど。
「でも甘い感じがちょっと……」
「残留精神波だ。明日には消える」
「そうですか。……あの甘さ、なんか食べ物に似てたんですよね。でも食べ物じゃないんですよね」
「そうだ」
「ししょーは、甘いものは好きですか?」
俺は在庫目録を閉じた。
「別に」
「そうですか」 ルナが、少し考える顔をした。「なんか、さっきから、ししょーからしょっぱい気持ちが流れてくる気がします」
「……何の話だ」
「師弟リンクで。なんか、しょっぱくて、でもちょっと温かい感じの気持ちが」
「気のせいだ」
「そうですか」
「まあ。そのなんだ。今日はありがとうな。おかげで被害がでなくてすんだ。明日、ご褒美に好きなだけ、メロンパンでも、お菓子でも買ってやるぞ」
それを聞いたルナは、
今日一番の全開の笑顔で飛びついてこようとしたので、
先ほどの記憶もあって、頭をがしっとつかんで押さえつけてしまった。
「ししょー、ひどいよ。ただ感謝の気持ちを伝えたいだけなのに......」
「悪い、気持ちだけ、気持ちだけな。もらっとくわ」
「ちぇっ」と大げさに、不満そうに頬を膨らますルナを宥め、
今日の仕事はお開きになった。
ほんとね。おじさん、ドキドキしちゃうから、やめてね。ほんとに。
ルナが、「おやすみなさい」と言って、螺旋階段を上がっていった。
俺は一人、地下三階に残った。
遺物の棚が、静かに呼吸している。封印の修復した木箱は、今は大人しくしている。
俺は在庫目録を開いた。
《フォルナ》二十日。
・遺物感知事例 一件目。
・弟子の実績:確認、報告済み。
・術式の使用:本日は相応に消費した。
・胃痛:本日比較的少ない。
・理由:不明。
ペンを置いて、すっかりぬるくなった茶を飲んだ。
しょっぱい気持ちが何かは、俺には判断できない。
ただ——まあ、いい。
それでいい。
(……重厚な椅子のきしみ。ぬるくなった茶を啜る音)
「……やれやれ。
『緊急事態宣言』を出す一歩手前だった。
精神汚染ってのは恐ろしいもんだ。特に、脳内がメロンパンで埋まっている奴が相手だと、俺の術式も形無しだ。
あいつが言った『しょっぱい気持ち』か。
……ふん。そんなもんは、この地下の湿気と、俺の飲み過ぎた胃薬の味だろうさ。
次は……そうだな。
この平和な窓際部署に、また一つ余計な『騒がしい火種』が飛んでくる予感がする。
ま、俺が適当に化かし通してやるさ。
……おい、そこ。
最後まで読んだなら、星の一つでも置いていきな。
それが、この地下で足掻くおっさんへの、せめてもの『餞別』ってやつだ」




