第32話 査定が終わった翌日と、石が七個になった話
《エルネ》の月の五日。
朝、目が覚めた。
地下三階は、いつも通りだった。
遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。松明の光。埃の匂い。静寂。机の端の石が、六個、並んでいた。
査定が終わった翌日の朝も、地下三階はいつも通りだった。当然だ。遺物は査定の結果を知らない。棚の配置は変わらない。石は増えていない。
俺は在庫目録を開いた。
昨日の「査定まで:○日」のページが、まだそのままだった。
今日の日付を、次のページに書いた。
* * *
朝、ルナが降りてきた。
「おはようございます、ししょー」
「来るのが早い」
「今日も早く目が覚めました」
「昨日も早かった」
「なんか、最近ずっと早く起きちゃって」
「季節の変わり目だ。《エルネ》の月は朝の光が変わる」
「ししょー、そういうの詳しいですよね」
「在庫目録に書いてある」
「そっか」 ルナが、棚にコートを掛けた。それから、ポケットをごそごそした。「ししょー、石持ってきました」
「何の石だ」
ルナが、手のひらに乗せたものを差し出した。
丸みのある、薄い橙色の石だ。表面が少し透けていて、光に当てると内側から光るような色をしている。
「城下町の石屋さんで買いました。査定が終わったら持ってこようと思って、昨日の帰りに」
「……何の石だ」
「お店の人に聞いたら、カーネリアンって言ってました。勇気の石、って言われてるらしくて」
「カーネリアンは酸化鉄を含む玉髄だ。橙色の発色は鉄の含有量による。『勇気の石』というのは後から付いた俗称だ」
「でも、なんかいいじゃないですか、勇気の石」
「石に勇気はない」
「でも、そう言われてる石が、査定の翌日に増えるのはいい感じがします」
俺は、少しの間、その石を見た。
「……机の端に置け」
「はい!」
ルナが、机の端に石を並べた。茶色が二個、白っぽいの一個、蛇紋岩一個、石英一個、頁岩一個——そして橙色のカーネリアン一個。
七個になった。
* * *
午前の訓練は、来歴読解の復習だった。
査定が終わったからといって、訓練を止める理由はない。次の査定まで、訓練は続く。
今日の課題は「昨日と同じ三点を、もう一度感知して比較する」だ。前回の感知と今回の感知を照合することで、感知の安定性を確認する。
「一点目、金属製小箱」
「はい」
ルナが、箱を手に取った。目を閉じた。
三分ほど経って、報告書を書いた。
俺は読んだ。
前回の報告書と比べた。
内容が、一致している。「残滓の濃淡から接触時期を推測する」という記述も、今回も同じ場所に出てきた。
「二点目」
「はい」
三点全部を終えて、俺は三回分の報告書を並べた。
昨日の三枚と、今日の三枚。
「どうでしたか」と聞いた。
「ほぼ同じだと思います」
「そうだ。感知が安定している」
「よかった。なんか、日によって変わったりしないか心配で」
「感知の質が安定しているということは、訓練として定着したということだ」
「そっか」 ルナが、少し考えた。「じゃあ、わたし、ちゃんとできるようになったんですね」
「そうだな」
「やった」
「やった」が出た。今日は、いつも通りの「やった」だった。
* * *
昼過ぎ、ルナが在庫目録の整理をしていた。
俺は、机の上に昨日の三枚と今日の三枚を並べたまま、しばらく見ていた。
六枚の報告書。
最終報告書の添付資料は、昨日提出した三枚だ。今日の三枚は提出しない。ただ、俺の手元に残る。
これは、「嘘のない嘘」の外にある。
査定のために書かせた報告書でも、フレーミングのための証拠でもない。ただ、ルナが今日、感知したものを書いた。それだけだ。
俺は、今日の三枚を在庫目録の新しいページに挟んだ。記録として残す。
「ししょー」とルナが言った。
「なんだ」
「今日の在庫目録、どこまで整理しますか」
「D列の補完が終わったら今日はいい」
「はい」
ルナが、在庫目録に向き直った。
俺は、机の上を片付けた。羽根ペンを洗った。インク壺の蓋を閉めた。在庫目録を棚に戻した。
いつも通りの午後だった。
* * *
夕刻近く、ルナが在庫目録を棚に戻した。
「ししょー、今日のD列、終わりました」
「そうか」
「これで、《アルデン》月からの補完、全部終わりました」
「よくやった」
「えへ」
ルナが、帰り支度をした。コートを取って、鞄を持った。
机の端の石を、七個、順番に見た。
「石、七個になりましたね」
「そうだな」
「なんか、いい感じがします」
「そうか」
「ししょー、七個の石、どんな感じですか」
「どんな感じとは」
「なんか、増えてきたじゃないですか。最初の頃は三個だったのに。今は七個で——なんか、ぎゅっとしてる感じがします」
「ぎゅっとしている、というのは」
「なんか、詰まってる感じ。中身が濃い感じ。上手く言えないですけど」
俺は、石を七個、見た。
茶色が二個。最初からあった。白っぽいの、蛇紋岩、石英、頁岩——ルナが一個ずつ持ってきた。カーネリアン、今日。
一個ずつ、来るたびに増えた。
「……そうだな」と俺は言った。
* * *
「ししょー、来週も来ていいですか」
「当然だ」
「再来週も?」
「そうだ」
「ずっと?」
「もちろん」
ルナが、少し笑った。
「はいっ!」
螺旋階段の方へ向かいかけて、一段目に足をかけた。振り返った。
「ししょー」
「なんだ?」
「今日、ありがとうございました」
「何に対する礼を言ってるんだ? お前は」
「いつも通りの一日で、ありがとうございました」
俺は、それを聞いた。
「いつも通りの一日」——ルナはそれに礼を言った。
「……ああ」と俺は言った。
ルナが、螺旋階段を上がっていった。
途中で一段踏み外した音がした。
いつも通りだった。
* * *
地下三階に、静寂が戻った。
遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。机の端の石が、七個、並んでいた。今日のカーネリアンが一番端にある。橙色が、松明の光を受けて、少し光っていた。
俺は椅子に座った。
在庫目録を取った。
今日のページを開いた。羽根ペンを手に取った。
書き始めた。
《エルネ》の月、五日。査定翌日。
・来歴読解の復習——三点、安定。
「感知が安定している」「ちゃんとできるようになったんですね」——そうだな。
・D列の補完、完了。カーネリアンが増えた。石が七個になった。
「勇気の石」らしい。石に勇気はない。
しかし、査定の翌日に橙色の石が増えた。
「いつも通りの一日で、ありがとうございました」——ルナが言った。
羽根ペンが、紙の上で歩みを止めた。
「まあ、いい」と書こうとした。
《ヴェスタ》の月の終わりごろから、何度も書いてきた言葉だ。「来るなと言えば来ないか」と聞いたとき。「合理的な人って毎日パン代払いませんよね」と言われたとき。「変わる理由がないです」と言われたとき。何かを受け取って、しかし全部は言えなくて、「まあ、いい」で閉じてきた。
今夜も書こうとした。
手が、止まった。
「まあ、いい」——今夜は、その言葉が来なかった。
何かが違う。何が違うのか、言葉にならない。しかし「まあ、いい」では——今夜の地下三階に、合わない。
俺は、羽根ペンを置いた。
机の端の石を、七個、見た。
カーネリアンが、橙色に光っていた。
在庫目録を、また開いた。
続きを書いた。
・机の端の石:七個。
・次の査定まで:まだまだ先は長い。
それだけ書いた。
ページを閉じた。
「まあ、いい」は書かなかった。
書かなかったことが、何かを意味するのかどうか——わからない。
ただ、今夜は、書かなかった。
それだけだ。
遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。松明の炎が、小さく揺れた。カーネリアンが、橙色に光っていた。
地下三階は、静かだった。




