第31話 査定の日と、ルナが地下三階で待っていた話
《エルネ》の月の四日。
今日は、査定の日だ。
朝、目が覚めたとき、地下三階はいつも通りだった。
遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。松明の光。埃の匂い。静寂。机の端の石が、六個、並んでいた。
俺は椅子に座って、最終報告書を一度だけ読み直した。
六節。添付資料三点——ルナの及第点報告書、来歴読解の三枚、壁龕事案の記録。
全部、事実だ。
大事だからもう一度言う。全部、事実だ。
それだけ確認して、封筒に入れた。
* * *
ルナが降りてきた。
今日は、いつもより早かった。
「おはようございます、ししょー」
「来るのが早い」
「今日、査定ですよね」
「そうだ」
ルナが、机の前に来た。封筒を見た。
「これが報告書ですか」
「そうだ」
「分厚いですね」
「添付資料が入っている」
「わたしのも入ってますか」
「入っている」
ルナが、封筒を少しの間、見た。それから、俺を見た。
「ししょー、大丈夫ですか」
「何が」
「なんか、緊張してますか」
「していない」
「……ちょっとしてますよね」
「していない」
「わかりました」 ルナが、少し笑った。「わかりました、してないんですね」
「そうだ」
* * *
支度をしながら、ルナが言った。
「ししょー、わたしも行っていいですか」
「査定は本人と監察官だけだ。弟子は同席できない」
「そっか」
「ここで待て」
「はい」 ルナが、机の端に腰を掛けた。石を一個手に取った——蛇紋岩だ。「待ってます」
「在庫目録の整理をしながら待て。手を止めるな」
「はい」
「巡回もしろ。F列の奥の遺物の状態を確認しておけ」
「はい」
「棚に触るな」
「はい」
「何も——」
「ししょー」
「なんだ」
「大丈夫ですよ」
俺は、ルナを見た。
ルナが、蛇紋岩を机の端に戻した。「わたしが待ってるので」と言った。
「……行ってくる」と俺は言った。
「はい」
* * *
査定室は、城の五階にある。
俺は廊下を歩いた。封筒を手に持っていた。五階は普段立ち入らない。床の石畳が、下の階より少し白い。
査定室の前に、すでに数人の術師が並んでいた。俺は列の端に立った。
待つ間、特に何も考えなかった。
报告書の内容は頭に入っている。想定される質問への答えも準備してある。オルフェリアが同席するかどうかは——来てみなければわからない。
名前を呼ばれた。
* * *
査定室は、思ったより狭かった。
窓が一つ。机が二つ向かい合っている。査定官が二人——老齢の男と、四十代の女だ。オルフェリアは、窓際の椅子に座っていた。
俺は、封筒を机の上に置いた。
「クインシー主任、E・G。弟子、ルナ。来年の契約更新の審査について」
「はい」
査定官が封筒を開けた。六節の報告書を読み始めた。
俺は、窓の外を見た。《エルネ》の月の朝だ。空が高い。
「通過できるか」という問いを、頭に浮かべなかった。
通過する、と思っていたわけでもない。
ただ、やるべきことをやった。今から結果が出る。それだけだ。
査定官が報告書から顔を上げた。いくつかの質問があった。
言語化訓練の進捗。遺物感知の実務応用の詳細。来歴読解の現在値。屋外での感知制御。
俺は答えた。
全部、事実だ。
オルフェリアは一度だけ発言した。「私の監察記録とも一致しています」——それだけだった。目が合った一瞬、彼女の精神波が——何かを確認するように、静かだった。
査定官が、二人で少し話した。
「通過とします」
* * *
廊下に出た。
窓の外に、《エルネ》月の光があった。
通過した。
最終査定が、通過した。
六節の報告書。三つの添付資料。「精神干渉ゼロ」は最後まで、巧みに周縁に置かれた。嘘は一文字もなかった。
それでも嘘だった。
その嘘が——通過した。
俺は廊下を少し歩いて、止まった。
窓の外の光が、白かった。《エルネ》の月は秋の神の月だ。夏が終わり、年の後半が始まる。空気が少しずつ変わっていく月だ。
ルナが地下三階で待っている。
在庫目録の整理をしながら、F列の巡回をしながら、待っている。
俺は、窓の外を三十秒ほど見た。
それから、螺旋階段の方へ歩いた。
* * *
地下三階に降りた。
ルナが、F列の棚の前に立っていた。遺物の状態を確認していた。俺の足音で振り返った。
「おかえりなさい、ししょー」
「ああ」
「どうでしたか」
「通過だ」
ルナが、少しの間、それを受け取った。
それから、「よかった!」と言った。
いつものルナの声だった。いつもの「やった」と同じ声だった。
しかし、それだけではなかった。
ルナが、俺の顔を見た。三秒。五秒。
「……ししょー」
「なんだ」
「お疲れ様でした」
俺は、何も言わなかった。
「わたし、何が通過したのか、全部はわかってないですけど——ししょーが、すごく大事なことをやり遂げた感じがします」
「感知か」
「感知というか——なんか、ししょーの精神波が、さっきと違う感じがして。重かったのが、少し軽くなった感じ」
俺は、コートを椅子に掛けた。
「訓練の成果だ」と俺は言った。
「何の訓練のですか」
「お前が、人の精神波の変化を読めるようになった」
「……それが訓練の成果なんですか」
「そうだ」
ルナが、少し考えた。
「……でも、ししょーが頑張ったのは、訓練のせいじゃないですよね」
俺は、椅子に座った。
「そうだな」と言った。
* * *
しばらく、互いに静かにしていた。
ルナが、机の端に腰を掛けた。石を一個手に取って、また戻した。
「ししょー」
「なんだ」
「来年も、ここに来ていいですか」
「来い」
「査定、また来年もあるんですよね」
「そうだ」
「じゃあ、また一緒に通りましょう」
俺は、ルナを見た。
「一緒に通る」——ルナはそう言った。自分とギルが同じ側に立っていると、迷いなく思っている。
俺たちは、同じ側に立っているのか。
立っている。
嘘の上に立っていても——同じ方向を向いて、立っている。
「……そうだな」と俺は言った。
* * *
夕刻、ルナが帰り支度をした。
「ししょー、今日、わたし何もしてないですけど——来てよかったですか」
「そうだな」
「ほんとですか」
「本当だ」
「よかった」 ルナが、コートの前を合わせた。「ししょー、今夜はちゃんと寝てください」
「寝ている」
「ちゃんと寝てないですよね、最近」
「……どうわかった」
「なんか、目の下が疲れてる感じがして」
「感知か」
「目で見ました」
「……そうか」
「今夜は寝てください。大事なことは終わりましたから」
「わかった」
「絶対ですよ」
「わかった」
ルナが、螺旋階段を上がっていった。
途中で一段踏み外した音がした。
いつも通りだった。
* * *
地下三階に、静寂が戻った。
遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。机の端の石が、六個、並んでいた。
俺は在庫目録を開いた。
《エルネ》の月、四日。
・最終査定:通過。嘘は一文字もなかった。それでも嘘だった。
その嘘が通過した。ルナが「お疲れ様でした」と言った。
「ししょーが、すごく大事なことをやり遂げた感じがします」
——感知している。全部は知らない。
しかし、何かは知っている。
「また一緒に通りましょう」——一緒に。そうだな。
・机の端の石:六個。
・査定まで:○日。
「査定まで」の欄に、数字を書こうとして、躊躇った。
次の査定は、まだ先だ。今日の日付から数えれば、また長い日数になる。
俺は、「査定まで:○日」のまま、ページを閉じた。
今夜は、この○で十分だった。
――そして、終わらない修行の日々はつづく。




